柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 

 その前に、前回の『東鑑』あるいは『吾妻鏡』に関連して。『くぢらなみ』に出てくるのは、「治承四年十月二十三日」の所だが、次に続く文脈が、果たして『吾妻鏡』からの引用かどうか調べて見た。幸い、『吾妻鏡』は、「国立国文学研究史料館」に収録されており、「吾妻鏡データベース」が存在する。また原本には返り点等の読み下し記号があり、『くぢらなみ』の白文をより正確に読下すことが出来る。

 

 前後するが(本文の後に書いている)、取りあえず、件の個所を読み終えて、先の『くぢらなみ』の読下し文に間違いがある事が判った。ご容赦。長年、英語の翻訳をしてきたが、矢張り外国語である。それに反して、漢文も外国語と言えばその通りなのだが、矢張り子供もの頃から慣れ親しんできた所為か、長い空白があったにしても、取りあえず「返り点、レ」や「一、二、三」あるいは「上中下」の訓読記号がある分、余程読み易いと感じた。

 

 それで思うのでは無いが、最近は高校で、漢文はおろか古文さえ受験科目ではないと云うので、全く授業の無い学校もあるとか。明治維新前後、日本人が外国の文献を読み解いた背景には、漢学者のみならず広く洋学を志す者、医学を志す者や技術を目指す者が、予想以上に西欧の学問や技術を理解することが出来たのは、彼ら総てが、先ず基本としての漢文を学んでいた事のに在るのではないかと、は、私だけの考えだろうか。以前紹介した書道家の石川九楊氏が、その著書『書と文字は面白い』の中でも書いていたように、漢文、漢字の情報伝達量は、他に超越していると思うのである。要するに、文字の成り立ちを知れば、自ずから字義を推測することが出来るのだ。どうも、こうした基礎教育の欠落が、今の社会に反映されて居る様に思えて仕方がない。余談だが、ヨーロッパでも、昔は、ギリシャ語とラテン語は、学問の基礎に在った。(余談だが、昔、米国の大学の受験科目として、ギリシャ語・ラテン語・ヘブライ語の内の一教科が必須科目だった。)漢文と同じで、こうした古語の学習が、国際語になり、ルネッサンス以降のヨーロッパ世界、言い換えれば、文化や芸術の伝搬と発展に寄与したと思うのである。

 

 取りとめのない事を書いてしまった。ご容赦。さて、今回だが、後の加筆する事になるかも知れないが、取りあえず読下し文を紹介する事にする。丁度、『平家物語』(宮尾版を読みながら原本と比較していた)を読んでいたので、その辺りについても、比較したい。また、こうする事で、関甲子次郎など当時の柏崎の文化人の背景や原点を知ることが出来るのではないかと思うのだが。

 

尚、読下し文、◎付は、『くぢらなみ』に記載の名前。また、句読点や読みは、『吾妻鏡』の本文に従った。

 

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(1)「治承四年十月二十三日」の段に、→ 第一冊94頁7行目

 

 廿三日 壬寅(みずのえとら) 著于相模国府給、始行勲功賞、北条殿及

 (二十三日(みずのえ)(とら)、相模の国府に着き(たま)う、勲功の賞行われる。北條殿及び)

 信義(武田)

◎義定(安田、信義の弟)

 常胤(千葉)

 義澄(三浦)

 広常(平あるいは上総)

 義盛(和田)

 実平(土肥)

 盛長(安達)

 宗遠(土屋)

 義実(岡崎)

 親光(工藤)

 定経(吉田経房の子)

 経高(佐々木盛綱の次兄)

 盛経(稲沢)

 高経(足利)

 影光(加藤影員の子?)

 遠影(天野)

 影義(加藤影員の次男)

 祐茂(宇佐美、曽我兄弟の仇討で有名な工藤祐経の弟)

 行房(市河)

 影員入道(加藤)

 実政(宇佐美)

 実秀(大見)

 家義(飯田)

 

 以下或安堵本領。或令浴新恩、亦義澄為三浦介。

 (以下、或いは本領に安堵(あんど)、或いは新恩(しんおん)せしむ)

 

(註1)北条殿以下、25名の名が揚げられており、()内は、その姓を加筆した。いずれも、頼朝旗揚げの時の功臣で、特に石橋山の戦いに功績があったようだ。但し、調べて見ると史実かどうかは不詳とある。

(註2)『くぢらなみ』には、義定、盛綱とあるが、上記原文の通り、「盛綱」の名前はない。しかし、佐々木盛綱は、佐々木氏の当主であるので、

 

(2)「寿永三年二月二十七日」の段に、→ 第二冊107頁2行目

 

  廿七日 丙戌(ひのえいぬ) 近江国住人佐々木三郎成経(なりつね)参上。

 (二十七日(ひのえ)(いぬ) 近江の国の住人、佐々木三郎(なり)(つね)、参上す。)

子息俊経一谷合戦之時、討取越前三位、通盛、訖、

(子息(とし)(つね)、一ノ谷の合戦の時、越前三位(さん)通盛(みちもり)>を討ち取りおわんめ)

可預賞之由申之、於勲功者、尤所感也。

(賞に預かるべきの(よし)、これを申す、勲功に於いては、もっとも感ずる所なり。

但日來属平氏、殊奉蔑如(ないがしろ)源家之處、平氏零落都之後、

(ただし日頃(ひごろ)平氏に属し、殊に源家を(ないがし)にし処に、平氏都を零落(れいらく)するの後、)

始参上。頗非眞實志之由、被仰、云々。

 (始めて参上す、(すこぶ)る真実の志にあらざるの由、()せられ、うんぬん。)

 

 無料のブログを使用しているので、文字数制限があり、全文をアップロードすることが出来なかった。よって、続き(3)以降を分割して掲載する。

Best regards


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