柏崎市立図書館(ソフィアセンター)で、どうしても目を通したい文庫がある。関甲子次郎の『柏崎文庫』と中村藤八の『中村文庫』だ。何れも一部分だけ読んだ事があるのだが、これがなかなか膨大である。強いて言えば、聞き書きも多く、三田村鳶魚の『鳶魚江戸文庫』を髣髴させるものだ。
仲々街に出る機会がないので、どうしてもデジタルライブラリーを探すのだが、柏崎にはなく、一部が新潟県立図書館デジタルライブラリーに収録されているのみ。これがまた、デジタルライブラリーと云うより、単にデジカメで撮影した代物。活字の時代に育った我々の世代以降で、御家流で書かれた資料を読むのは至難の業だ。
例えば、中村藤八の聞き書きが、その一例、何しろ所々を拾い読みできる程度で、達筆の聞き書きに取り付く島もないのが実情だ。内容は、大体、地蔵堂とか貞心尼等に関する事らしいのだが、どうにも歯が立たない。
例えば、下記のサイトをご覧いただきたい。デジタルライブらろーの題を見ると、「智譲尼聞取諸①」「明治四拾四年五月二十日 釈迦堂へ・・・」、「智譲尼聞取諸②」「盗人入リテ・・・」とある。
http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/dcv/IndexServlet?mode=2&id=5416&r=0&x=0&y=0&uniq=1384156065491
http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/dcv/IndexServlet?mode=2&id=5417&r=0&x=0&y=0&uniq=1384155677852
因みに、『柏崎百年』から御両所を紹介すると、次のように書かれている。以下原文から。
二十七年(明治)以降の出版活動も大正までに、二十氏二十九種目、三十五冊の図書に及ぶ。ここにも若い柏崎の誕生があった。
特筆すべきは、関甲子次郎と中村藤八の人間味溢れる事績であろう。
前者は著書出版もさることながら、フィールドワークを重ね、足で書いた史料豊富な「柏崎文庫」を今日に伝えている。
後者は新進業界人として活躍しながら、街の新学徒に温かい庇護の手をさしのべ、郷土資料の集大成をはかり、保存に力を入れ、驚くばかりの量の、しかも貴重な「中村文庫」をわれわれのために残されている。
とまあ、こんな具合に称賛している。しかし、惜しむらくはデジタル化されていないことだ。今は印刷のデジタルの時代だ。活字にするのなら、その前にデジタル化されているはず。それが、先の様にデジタル化とは名ばかりで、恐らく人口の大半を占める活字時代の人間には、その内容を知る事は難しい。これでは猫に小判である。しかも、この写真複写でさえ141件に過ぎないのだ。この県の文化行政はどういう事なのだろう。これでは、図書館の自己満足にしか過ぎない。市でも「古文書教室」なるものを行って居るが、それならそこで教材として、これら柏崎の至宝ともいえる文献のデジタル化をしては如何なものか。勉強にもなり実利にも通じる。どうも、文化行政は二の次の感がある。
余談だが、体育協会の武道の部ではないが、問い合わせたところ、その歴史に関心を持つ人は皆無に等しいとの事だ。久しぶりにキルケゴール的に言えば、当に「必然性を忘れ、可能性ばかりに目を向ける、死に至る病」ではないのかと、残念で仕方がない。愚痴ご容赦。
尚、参考の為に、二人に就いて、下は柏崎市のサイトからの転写した。
■関(せき) 甲子次郎(きねじろう)
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郷土の歴史や民俗を考える際、必ず目を通しておきたい基本文献があります。関の大著『柏崎文庫』です。郷土に関するおびただしい事項を、博覧強記の文献渉猟と豊富な実地調査による知見で解説した「郷土史の戸籍簿」だからです。
関は元治元年(1864)、国学者であった関守雄の子、虎八の次男として新助町(現在の東本町)に生まれます。小学校中退後、家業の傍ら和学や漢学、温古学を独学、20歳から57歳までの37年間を費やし、毛筆で約5,000ページ全20巻、スクラップブック13輯の『柏崎文庫』を完成させます。まさにライフワークそのものでした。このほかにも『越後の婦人』『刈羽郡案内』『生田の旗風』など郷土史上の名著を数多く残し、大正15年に63歳で死去。菩提寺の妙行寺には、彼の偉業を称える筆塚が残っています。
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(文:博物館 渡辺三四一さん)
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●中村藤八●
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嘉永6年8月、旧高田村上方(柏崎市上方)の中村藤左衛門の長男としてうまれる。35歳の時、農業から商業へと「処世変更」をとげ、柏崎物産会社を創業する。その後海運業、倉庫業、石油販売などの経営にあたるかたわら、政党・選挙活動、鉄道敷設運動にも東奔西走する。また、文化的事業としては、生田萬の埋骨場の整備、後に中村文庫と称される郷土史料の蒐集に熱意を燃やす。
藤八翁の「公益優先」の精神は大正7年12月、刈羽郡に「中村文庫」を寄贈したことにもよく表れている。このことを当時の山中新潟県立図書館長は「柏崎図書館蔵書分類目録」(大正10年3月刊)の序文に次のように書いている。
『中村文庫の内容は翁が前後五十年間地方のため、自分の力に依って完全なる保存を図ってやりたいという侠気と周到なる用意と而して不断の努力とによって蒐集せられたものであって、その苦心は曾つて斯道に経験ある人達以外には創造だもなし能わざる程度のものであったことは明らかなる事である。
しかも蒐集家の多数は所謂珍蔵して自家の愛玩とし或は以て友に誇るの料とするのが常であるにもかかわらず、之を一括して図書館に提供し衆庶の研究材料とせられた翁の義侠と意気は実に敬服に値するものであると思う』
しかし、藤八翁はこの序文を目にすることなく、寄付から2年後の大正9年3月に63歳で亡くなっている。
『中村藤八は高田村上方の産。明治初年改進党の組織せららるるや逸早く之に参加し、党を支持すること熱烈。有力者の後援を得、柏崎に移りて物産売捌所を開き図にあたる。今の駅前石油業中村商店はその後身。晩年山田八十八郎、松本徳聚等を顧問とし郷土史料を蒐集し、一括して柏崎に寄付す。図書館内中村文庫は即ち是れ。性闊達「此の藤八は死ぬまで活きている」の言で有名。政党の重鎮でありながら、県会、国会議員とならざりし所に味あり。大正9年没、68歳。』(「柏崎人物誌」より勝田加一著)
『この中村藤氏の蔵書寄付については、早くから識者の間に問題となっていたが、当時、この蔵書類の寄付を受けてもこれを収納するための建物を必要とするということで郡会に異論があったのである。そしてこの情勢を察知した中村藤八氏は、蔵書類の寄付とともに建物の必要なことを感じ、飯塚弥一郎、西川藤助氏ら各方面の協力を得て大正7年文庫を建築し、刈羽郡へ寄付したのである。』(「柏崎市立図書館六十年史」より)
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中村藤八肖像
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●中村文庫●
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大正7年12月、中村藤八氏から刈羽郡に一括寄贈された文庫。現在は当館3階の中村文庫室に保管されている。
約3,000点の図書、古文書、軸、器物などからなる。内容は各分野に及び、郷土研究に欠かせぬ貴重な資料を数多く含む。寄贈された当時は長岡市の互尊文庫と並び称せられたという。中でも貞心尼の関係資料は良寛研究者に早くから注目され、藤八翁の慧眼は高く評価されている。
また、藤八翁は出版物にとどまらず、自身の聞き書き、写し書き、新聞スクラップ、土器片、古文書なども蒐集の対称としている。その内容も実に多岐にわたり、総体として中村文庫は地域研究の礎となっている。
なお、中村文庫土蔵は昭和40年代、旧図書館の新築時に取り壊されたがその看板は現在も当館の3階中村文庫室の前に掲げられている。日本石油創始者内藤久寛の揮毫により欅の1枚板に彫り込んだものである。数十年の風雪に耐え往時の姿を今に伝えている。
◆貞心尼関係資料
図書館所蔵の貞心尼直筆資料10点のうち、2点を除きすべて中村文庫のものである。中でも「蓮の露」は市の文化財に指定され、大切に保管されている。
また、貞心尼の弟子智穣尼から中村藤八が直接聞き取り、書き留めた書類や貞心尼のよき理解者山田静里翁等の書画なども残されており、良寛・貞心尼研究の貴重な資料となっている。
◆ 山田八十八郎関係資料
『とくに注目すべきこととして、柏崎の郷土史家山田八十八郎氏の著作が全部保存されてあることである』(「柏崎市立図書館六十年史」)とあるように、刈羽郡長をつとめ中村藤八の資料収集を助けた山田八十八郎の著作、使用した机、落款等を多数保存する。
◆ 生田萬関係資料
江戸末期の飢饉に貧した柏崎で、陣屋に切り込んだ生田萬。中村文庫には萬書の神代文字の額、萬と妻鎬の和歌短冊など、萬の関係資料も数点であるが含まれている。短冊は市立博物館で見ることができる。
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寄付当時の中村文庫と群会議員
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現在の中村文庫室内部
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Best regards