今回も『柏崎百年』からの話である。『柏崎百年』には、「教育の門を開く」に次いで「文筆開化」という節が設けられている。確かに教育と切り離せない一節だ。
ところで、以下紹介する前に、『柏崎百年』を読み進める中に、この本の事を何故今まで知らなかったのかと、残念な気持ちが膨らんでくる。即ち、『柏崎華街志』の著者・編者である「小田金平」の事である。小田金平は、明治30年11月に創刊された『柏崎商報』の編集発行人なのである。柏崎に於けるジャーナリズムの草創期の人物だった訳だ。因みに、この『柏崎商報』は一部7厘であったそうだ。
また、付け加えると、この本の「郷土の夜明け」に登場する人物が、幕末から明治にかけてのミッシング・リングと考えていた人たちなのだ。昭和44年に発刊された当時は、これらの人物は周知の人達だったのかも知れない。しかし、これらの人物の事が、その後三十数年の内に、埋没してしまったのか、柏崎人ではない自分がとやかく云う事ではないかも知れないが、実に残念である。いずれ書こうと思うのだが、図書館の書庫の中に埋没した多くの先人の文献を、世に顕し、先ずは、これらの文献資料をデジタル化する事が、先人への顕彰ではないだろうか。余談。
前回紹介したように、日本最初の雑誌と云われる『明六雑誌』に先んじて、荻原嘉平と内山友吉による『随聞雑誌』が明治5年に発刊された。その辺りを引用すると、
「明治五年というと、二月に『東京日日新聞』が創刊され、九月に新橋横浜間に鉄道が開設されたという年で、新式郵便も前の年の一月に東海道に開かれたばかり。そういう文物草創の時に、越後の片すみから「雑誌」が飛びだしたというわけ、忘庵さんの話によると、雑誌の先駆は明治六年に東京ででた『明六雑誌』ということになっているから、柏崎の『随聞雑誌』はそれより一年早い。日本で初めての雑誌が柏崎で出現したことになる。」
(註1)明六雑誌: 調べて見ると、『明六雑誌』は、明六社の機関誌として明治七年(1874)4月2日創刊で、翌明治8年11月14日に諦観になっている。因みに、「明六社」は、森有礼(薩摩藩島津家)が西村茂樹(佐倉藩堀田家)と語らい、福沢諭吉(中津藩奥平家)、西周(津和野藩亀井家)、中村正直(幕臣)、加藤弘之(出石藩仙石家)らと、明治六年に結成された結社で、「社を設立するの主旨は、我国の教育を進めんあがために有志の徒会同して、その手段を将棋するにあり、また、同志集会して異見を公刊し、知を広め識を明にするにあり。」とある。(Wikipediaより引用)尚、明六社の有志構成が、藩際的であるので書き加えた。
因みに、森有礼(ありのり)(1847-1889)は、米国留学の帰国後、「明六社」を設立、同会長、初代文部大臣の外、日本学士院初代会員、一橋大学の創設者でもある。また、西村茂樹(1828-1902)は、文学博士、文部官僚、日本学士院会員。
(註2)忘庵: 勝田嘉一、忘庵は号。桑山直二郎が『月刊越山』を発刊した時の編集・校正者。明治28年創刊。因みに、この時、桑山直二郎25歳、勝田嘉一は20歳であった。笹川氏は、『柏崎百年』執筆の際、健在だった勝田忘庵に昔の事を取材したようだ。
一つ一つ関係を追って行くと、1ページを進めるのに思わぬ時間がかかり、遅々として進まない。今回は、この辺りに止めたい。
Best regards