柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第三章 セント・ヂョーヂ・エリオット

  セント・ヂョーヂ・エリオット(St. J. Eilliot D.D.S.が日本に来航したのは明治三年(1870年)である(註)(明治二年と記するものもある。

エリオットは天保九年(1838年)十月紐育に生れ、父は眼科医であった。初め兵士となりて南北戦争に従軍し累進して聯隊司令官附将校となったが不詳の為め除隊し、戦争の終期に至り再び軍医官として陸軍に入り戦争終焉後は独立開業した。エリオットは東洋からの屡々の便りにより東洋に医術を開業するの有望なるを知り、遂に東洋に来る決心をした。然るに更に歯科医術を有するならば一層都合よき旨忠告するものがあって、意を決して、フィラデルヒアの歯科医学校に入り、所定の課程を卒えたのは明治三年(1870年)である。此、歯科の修業を終った年、急遽横浜へ来航したもののようである。按ずるに、エリオットは意を決して横浜に寄港して宣教師のブラウン博士(Rev. Samuel R. Brown)や、ヘボン博士(F. C. Hepburn, M.D.)の令名にしたい。博士等の東洋伝道の精神に絶大な共鳴と諒解を以て来たことは想像に難くない。殊に支那に於ける伝道に多くの経験を有する両博士の意見を聞き、引とめられ、意を決して横浜での開業を決心したことも想像される。エリオットも初めは上海に行くつもりで米国を出たのであったが、横浜に来てから前記の如くして方針を変えて茲で開業したのだる。

 (註)セント・ヂョーヂ・エリオット: 本文中の表記は誤り。W. St. George Elliott, M.D., D.D.s.の事と思われる。尚、Wは「William」であるようだ。当時の歯科学会誌『The Dental Cosmos』に4件の記載が有る。詳細は、翻訳を含め別に記載するが、第14巻に「Yokohama, Japan」、第31巻に「London, England」、第44巻に「New York, August 5, 1902」、第47巻に「New York City, N.Y.」とある。

 また、軍歴に就いては、米国の南北戦争公式記録『The War of the Rebellion』にニューヨーク第79歩兵連隊(義勇軍)の記録に、陸軍中尉の記載がある。この聯隊は、ニューヨーク在住の裕福なスコットランド系米国人によって組織され、その為、「ハイランダーズ」等と称された。当初の主要任務は、十砲兵隊訓練とパレードに在ったようだが、後に、シャーマン旗下に在って、サムター要塞戦等に於て軍功が有った様で、エリオットは、軍功報告の22名中7位に列している。これが為か、ニューヨーク州立軍事博物館の『79th Infantry Regiment, Civil War – Seventy-Ninth Militia; Highlanders; Cameron Rifle Highlanders; Highland Guard; Bannockburn Battalion』に、編成1861529日~解散1865714日等の記載が有り、それによると、『The Union Army』(1908年刊)第二巻に、少佐としてエリオットの記載がある。

 以上のように、エリオットに関しては、実に妙味深い背景がある。この『歯科医事衛生沿革史』編纂当時は、後に記載がある様に米国における調査が不調であったようだが、その後の状況から、更なる記録の存在が認められる。その一つとして、下記URL等、系図学系サイトに何件かの記載がある。しかし、詳細については、有料であり、自分の範疇を越えるので、機関研究者に更なる調査を期待したい。

 http://www.rootsweb.ancestry.com/

 尚、南北戦争アーカイヴに関しては、例えば、下記オハイオ州立大学のものが利用できる。

 http://ehistory.osu.edu/books/official-records/006/0044

(註)フィラデルヒアの歯科医学校: Maurice H. Kornberg School of Dentistryが、1863年、「Philadelphia Dental College」として開港されている。現在のテンプル大学歯学部。米国では二番目に設立された歯科医学校。因みに、最初の歯科医学校は、1840年創立のBaltimore College of Dental Surgery(メリーランド大学歯学部)である。

  エリオットが横浜に来たときは前記W・C・イーストレーキも既に支那に向って帰って行った翌年だし、殊に前記S・R・ブラウン博士の甥であるところのドクトル・ヘンリー・ウィンも毎年別章記載の如く慶応以来香港より横浜に来港若干期日出張開業を続行していた頃だから、横浜の外人がエリオットの固定開業を熱望したことは無理もないと思う。エリオットが横浜に来た時には二名の外国人が歯科を開業していた。・其一人は仏人で、他の一人は米人だった。何れも極めて低級の開業で、エリオットが開業するや数週で仏人は内地に入りて仏語教師となり、米人は帰国したという程で、いかにエリオットに人気があったかが想像される(註)(此二人の外国人歯科医の事は全く調査の史料を欠く)。このエリオットの人気のあった所以は医師であって更に歯科医D.D.S.の資格を持ち、尚ヘンリー・ウィンの勢力範囲を譲受けて開業したのだから期せずして歓迎を受けたわけである。斯くしてエリオットは横浜山手に住居を構え、又海岸の五十七番館を借受け之を改造して治療所としたわけである。エリオットの住居はどこにあったかというに、ブラウン博士の西隣であった。即ブラウン博士は千二百十一番でエリオットの宅は二百十ぬ番であった。ブラウン博士宅の南隣地は(二百十番)今の共立女学校の所在地に相当する。

 (註)共立女学校: 1871年 ジェームス・ハミルトン・バラの働きかけにより、超教派の米国婦人一致外国伝道協会から日本に派遣された3人の婦人宣教師メアリー・プライン、ジュリア・クロスビー、ルイーズ・ピアソンによって山手48番地に設立された。日本最古のプロテスタントキリスト教による女子教育機関のひとつ。当初は「アメリカン・ミッション・ホーム」という名称だった。(ウィキペディア)

  エリオットは極めて忠実なクリスチャンであって、合同教会(明治五年三月十日、日本で初めて出来た教会である)の役員をしていた。無論夫妻で来ていたが、子供の事は詳でない。

 (註)合同教会: 英語: United and uniting churches)とは、キリスト教の二つ以上のプロテスタント教派の合同によって設立される教会。(ウィキペディア)

  エリオットは合同教会の役員をして伝道にも熱心であったが更に左記の如く、邦訳最古の聖書『馬古福音書』の刊行に其出版費二百弗を寄贈し、この難事業を完成せしめた事は特筆すべきである。

 (註)馬古福音書: 『馬可福音書』、すなわち『マルコ福音書』の事か?

  山本秀煌著「ぜー・シー・ヘボン博士(James Curtis Hepburn)」159頁に左の記載がある。

  「ヘボン博士はブラウン博士と協力して新約聖書中『馬古福音書』を訳し、尋で『約翰福音書』の翻訳に着手した。

 『馬古福音書』の初めて刊行されたのは明治五年頃で、当時聖書の出版は日本に於て厳禁せられた。切支丹宗の経文なれば誰一人として手を着ける者なく、止むを得ずヘボン博士の日本語教師たりし奥野昌綱自らが其版下を書いたが、出版に至っては全く行憐み引受人が無かったが辛じて「如何なる事起るも決して迷惑を掛けぬ」という証文を入れて稲葉某と云う版木屋を説得し、横浜在住の歯科医ドクトル・エリオットが二百弗を寄附して一千部を刊行した。」

 (註)約翰福音書: ヨハネ福音書の事。

(註)奥野昌綱: 文政644日(1823514日) - 明治43年(1910年)1212日)は日本の牧師、横浜バンドの中心的メンバーの一人。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。(ウィキペディア)

  エリオットの患者は殆ど外国人に限られていたかの観がある。この事は後、小幡英之助の入門が容易でなかったことにも関係がある。日本人へ復員を分つという伝道の立前から、ドクトル・シモンズの切なる勧告により邦人の患者をも取扱うこととなったが、エリオットの自記によれば木戸孝允も其患者の一人なりという。『明治事物起源』(石井研堂著)によれば、「エリオットが治療を施せし邦人は米国より帰朝したる翌日来りし新島襄と通弁を同道して来た西郷従道の外は絶てなかりき」と記す程に邦人患者は少かったようである。其手術料につき歯科沿革史調査資料はエリオットの言のして次を引用している。

 (註)『明治事物起源』: 近代デジタルライブラリーに収蔵。また、筑摩学術文庫からも復刻出版されている。

(註)石井研堂: 本名:民司(たみじ)、1865814日(慶応元年623日)- 1943126日)は、日本の編集者、著作家。明治文化研究会の設立に関わり、錦絵の研究など、民間の文化史家として知られた。(ウィキペディア)

(註)新島襄: 大河ドラマ『八重の桜』でご存知の通り。

(註)西郷従道: 西郷隆盛の弟。

  「エリオット曰く、全の手術料は最初十弗を最低としたり。即ち以前日本に来りて施術せしドクトル・アートラック氏が最低十五弗と定めしよりも少しく廉なり、而して当時の状態より見るに余の手術料は最も適当なりしが如く、何等の反対をも受くることなかりき。」

 (註)ドクトル・アートラック: 現時点、不詳。

  斯くしてエリオットは明治八年(1875年)まで横浜にありて治を施したが、其間、門に入りて教を受けた日本人では小幡英之助及び佐治職(つかさ)の二人である。松岡萬蔵なるもの同家にあったが、之は技工師だった。又英国人のボートもエリオットの門に入ったが後紐育(ニューヨーク)及費府(フィラデルフィア)に於て業を了え、香港倫敦等で開業した。之等門下に対するエリオットの態度に就てはエリオットの手記に次の記載がある。

 (註)小幡英之助: 本著第二篇第一章第二節「エリオット門下」に詳細。

(註)佐治職: 同上。

(註)松岡萬蔵: 我が国における歯科技工士の嚆矢とされている。他、不詳。

  「学生に対しては喜んで指導し援助するを常とせり。希望者さえあれば尚多数の者を養成し得たらん。これ等の学生に対しては、或る機会に於て米国に赴き歯科医学を研究するよう勧め何等の報酬を求めるような事は無かった。」(『歯科沿革史調査資料』)

  エリオットは明治七年(1874年)日本を出発し支那へ向った。此時小幡英之助は随従して上海に赴き半年位滞在したが、更にエリオットは上海よりシンガポールに向ったので小幡英之助は分れて帰朝した。シンガポールで開業したエリオットは後錫蘭(セイロン、今のスリランカ)印度及欧州の諸地を経て明治十二年(1879年)倫敦(ロンドン)で、ドクトル・フィールドの跡を譲受けブロック・ストリートに開業したが、アメリカン・デンチストとして朝野の歓迎を受け非常な成功を収めたのである。この倫敦時代に黒田虎太郎が師事し指導を受けたことがある。

 (註)ドクトル・フィールド: Dr. George W. Field(London, England)の事か?『The Dental Cosmos』(Editorial, The Webb Testimonial)に1件、第25巻に名前がある。

  其後エリオットは年月不詳なれども倫敦国立歯科医学校の教授となり、歯科手術学を担当すること五年に及んだという。後紐育に帰り歯科医業を開いたが明治四十四年四月長子に医院を譲り引退した。時に七十二歳である。ニュージャージー州サウスオレンジ市に悠々自適したが大正四五年頃他界したとのことである。長子某も大正十三年(1924年)逝去し今は遺族に尋ぬべきものもない。

 (註)エリオットの事に関し調査したいと思い、調査条項を書いて、紐育の光星美磨次氏に奥村理事長から調査方を依頼したのであったが、何しろ年代が経過していた為めに遺族が見当らず判明するに至らなかった。茲に光星氏の通信を揚げて置く。

 (前文略)御尋のドクトル・エリオットの件は残念ながら駄目でした。同氏は千九百二十四年18 E, 41stに開業中亡くなって手がかりがありません。当市歯科医師会及びサウスオレンジのエリオットと名のつく人等片はしから電話で探しましたが駄目、S. S. White会社と生前取引が有った様ですから同社のFuck氏(当時八十幾歳)とかの御老人をわずらわして会社の方から調査して貰いましたが矢張り何の手掛りもなく誠に残念の至りですが仕方がありませんから御報告申して置きます。

 倫敦のフィールド会社のフューク氏等は此のフィールド氏が時々米国に帰って来てホワイト会社に出入した事を今も覚えて居ると申して居ります。(後略)

   一月十五日         光星美磨次                                                                                       

(註)光星美磨次: 『大日本歯科医学会誌』(37号)に、「ポーセリンジヤケツトクラウン」及ビ陶材用途ノ二三 / 光星美磨次 / p818、の記載がある。但し、詳細については目下不明。

(註)フィールド会社: 捜したが不明。

(註)S. S. White会社: この会社は現存して居り、下記URLにその沿革がある。

 http://www.sswt.com/history.htm

  以上、第三章終了。

 Best regards

梶谷恭巨


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