柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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今回で、「第一章イーストレーキ」の入力は終了するが、取りあえず注釈を付けず、入力作業を続けることにしたい。

 

(渡航免状表、裏)

 

(右:メッサー、フルベッキ、ブラウン)(右:シモンズ)

  この在支時代に夫人はフランクを伴って、1863年秋、一度帰米し、母堂のもとで1864年(元治元年)一月二十一日に次男を挙げ、その年、香港へ帰航している。

  明治元年(1868年)、十歳になったフランクの教育の為め、夫人は二児を伴って米国に帰ることになったので、その後、単身イーストレーキは日本に来航、初め長崎に、次で横浜に来て業を開いた。この横浜開業時代に長谷川保兵衛が入門したのである。横浜の廃業は明治二年末、引上げることになり官許を得て、長谷川保兵衛を伴い支那に渡り上海、香港へ航し、明治三~四年頃、帰米、一家を挙げて更に渡独した。これ十三歳になった愛息フランクの教育の為めである。この独逸時代は主として伯林(ベルリン)で生活し、主としてkoniggratzer Str.104(ケーニッヒグラッツァー・シュトラッセ104)に居住したもののようである。この在独逸時代の、即ち明治六年(1873年)三月十四日、北米合衆国のオハイオ大学で、D.D.S.の名誉学位を得ている。(第十三図参照)

 

(図12:オーストレーキの名刺)(図13:イーストレーキ D.D.S.免状)

  イーストレーキの一代を通じて最も華々しい時代は、この在独時代だといわれる程、ベルリンの生活には大きな足跡が残されている。イーストレーキは、ベルリンに於て米国歯科医会のセクレタリーをつとめ、1875年五月三日にハンブルグでイーストレーキが講演した事が、デンタルコスモス(The Dental Cosmos Vol.17, No.10 October 1875)に掲載されている。論文は、“Suggestions”と題するものである(『W. C. Eastlake先生伝』、49ページ~54ページ参照)。

  またイーストレーキは、独逸政界の重鎮と交わり、鉄血宰相ビスマルクとも親交を重ねたと伝えられ、また米国の貴官が渡独の折には、しばしばイーストレーキを訪問するもの多く、その米独親善につくしたところが頗る多かった。

  我国の駐独代理公使であった品川弥次郎も在独時代、ベルリンでイーストレーキの診察を受け、当時イーストレーキの助手であった長谷川保兵衛を見出し、すすめて同伴帰国したことは、我国の歯科史上、特筆される事実である。明治元年以来、八ヶ年間イーストレーキの助手であった保兵衛は、かくして品川弥次郎と共に明治八年(1875年)末、決別退独し、また渡独の唯一の目的であった愛息の教育も一段落となり、ベルリン大学所定の学業を卒えて。プロシャの奇兵隊に入営した。加うるに和平親善の使命を帯び、世界漫遊の途に出でた前北米合衆国大統領ユリシーズ・シンプソン・グラント将軍も既に予定の日程を経て独逸を去り、東洋への遍路に向わんとするに際し、意を決して、イーストレーキ夫妻は、明治十二年(1879年)春、次男のW・デラノ・イーストレーキを同伴、急遽ベルリンを去り、再び香港に来航した。香港に於けるイーストレーキの治療所は居留地にあったが、住居はアルバニーロード十四番にあって、所定の時間に治療所に行って診療に従事して居た。この香港時代の助手は、米国人某ドクトルの外に前記長谷川保兵衛門下の安藤二蔵(その頃の香港領事・安藤太郎の弟)の二人であった。安藤は長谷川の命に従い、香港にイーストレーキを迎え、その助手として医業を援助したのであった。イーストレーキは香港を根拠地として、上海、北京、広東、マカオ、等に出張し、更にマニラにも渡航して歯科医業を伝えた。殊にシャム国王チュラロンコーン王(King Chulalongkon1868-1910)の親任を受け、Personal Dentistとして、国王の歯科治療を担当したという記録があるが、これは独逸より香港に再来の途次、バンコックに寄港した時か或は1860~1878年の在支時代であろうが、その年代は不詳である。

   

  イーストレーキは、自分等の最終の生活地を日本に求める事を決心し、明治十四年(1881年)六月十七日、安藤二蔵を伴って、マニラの出張から寄港するや、香港引上の準備を整え、八月二十九日にはアルバニーロードの住居で不要家具類の投売をなし、その年の秋、夫人ならびに次男及び安藤二蔵その他雇人を同伴、横浜に入港、ここに居を卜して居留地の百六十番館で再び歯科を開業した。

  この横浜での開業には、支那以来の安藤二蔵が助手をつとめたが、後には、同じく長谷川の高弟佐藤重が入門して助手をつとめた。長男のフランク・ワーリントン・イーストレーキの来邦(明治十七年)と共に、明治十八年頃、福沢諭吉の保証のもとに麹町一番町十二番地に住居を構えたことがあったが、後、明治二十年二月二十六日、愛息FW・イーストレーキの築地事務所内で五十三歳を以て病没した。この時、夫人は北米留学中の次男の結婚の為め、渡米中不在であったので、専ら長男に見守られながら長逝したのである。翌二十七日、嶺南坂教会で告別式を行い、青山墓地南甲種イ二の側七及び八号に埋葬した。

  ローズ夫人は、WC・イーストレーキの死後、寂しく日本へ帰って来たが、愛息フランクの企図した英語教育を助け、愛孫の教育によって旅愁を僅かに慰め、盛んにペンを取って、母国の新聞雑誌へ東洋事情を寄稿し、或は詩を寄せて日本の紹介に貢献した点が多い。夫君没後九年、即ち明治二十九年一月三日夜、東京市本郷区根津西須賀町一番地の仮寓で肺炎に侵され薬石効なく六十二歳を以て永眠した。夫人もまた青山墓地に葬る。長男FW・イーストレーキは、博言博士として知られ、本邦の明治文化に残した業績には歿すべからざるものがある。このフランクも、明治三十八年二月十八日、東京で病没している。次男WD・イーストレーキは、本邦に於て東大医科に在学中、事情があって渡米、米国で医学士となったが、晩年本邦に来り、年余にして東京で病没した。

  WC・イーストレーキは、本邦に来航した外人歯科医の嚆矢であって、その功績は歿すべからざるものがあるのみならず、東洋の生物標本の採集には一家をなしていた。万延元年、初めて東洋へ来航以来、熱心に貝類、昆虫類の採集をなし、欧米学界に標本を移送して、東洋の生物の紹介に尽した点が多い。再度の東洋来航以後の採集標本は、その代表的なものを、長男が、Mr. H. F. Moore来朝の折、託して北米合衆国ワシントン市の国立博物館The Smithsonian Institutionに寄贈している。この標本は南アジアに限った範囲のもののみではあるが、昆虫二百種、貝類五百種類に達している。

 またイーストレーキは、音楽の才に秀で、アマチュア楽団を組織し、在留外人の慰安と親善につとめ、しばしば公開演芸会を催して、支那の飢饉地救済資金等に当てた。イーストレーキは、自身東洋の歯科開拓に貢献したvばかりでなく、夫人、愛息等一家を挙げて、日本文化の各方面に尽すところ多く、在留外人中、出色なものというべきである。ここに泰西歯科学輸入七十五年を記念せんとして、昭和十年、社会歯科医学会は、記念碑建設を企て、全国に同志の出資を得て、昭和十一年二月二十二日、あたかもWC・イーストレーキ没後五十年に青山墓地内で建碑除幕式を行ったのである。

  

  以上、「第一章イーストレーキ」を終える。


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