柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

「名物里謡」

大津絵(おおつえ)節(ぶし) として柏崎の寺々を編み込んで歌ったものが一時流行したそうだ。


  柏崎の寺々を上から下迄申そうなら、何と云うても浄興寺、敗れたれ共香積寺

  何年たっても一念寺、嘘をついても本妙寺、損をすれども福泉寺、柳の中の真光寺

  夜桜を眺めて帰る西光寺、地獄の中にも極楽寺、近くみせても洞雲寺


(註1)浄興寺: 初め真宗大谷派の別格寺院であったが、昭和27年、真宗浄興寺派として独立、越後・信濃・出羽に亘って、約90時の末寺を持つ。柏崎の浄興
寺は、別院、他に柏崎市内には、同派の末寺が二ヵ寺あるとのこと。西本三丁目。

(註2)香積寺: 謡曲『柏崎』の舞台となった寺。西本三丁目。

(註3)一念寺: 香積寺に隣接する時宗の寺。西本三丁目。

(註4)本妙寺: 日蓮宗の寺。西本三丁目。

(註5)福泉寺: 日蓮聖人の高弟・日朗上人が開山した。また、枇杷島城主・宇佐美家の祈願寺であったそうだ。柏崎市新橋。

(註6)真光寺: 別に、西山に同名の寺があるが、文脈から浄土宗の寺と思われる。西本一丁目。

(註7)西光寺: 同名の寺が三ヵ寺あるが、夜桜から推測し、大久保の浄土宗西光寺と思われる。

(註8)極楽寺: 同様に、同名の寺が三ヵ寺あるが、地域から推測して、若葉の浄土宗極楽寺と思われる。

(註9)洞雲寺: 同様に、地域の関係から、常盤台の曹洞宗洞雲寺と思われる。余談だが、六日の雲洞庵と関わりのある寺号ではないか。

 夕ぐれ の歌に因んだ鏡沖の風景。

  夕暮れにながめ見渡す米山や月かげうつる鏡沖、青田に胸が晴れるぞへ、アレ

  蛙(かわず)なく雨蛙(あまかわず)あすは雨ではないかいな――

(註)鏡沖: 現在の「鏡が沖中学校」の辺りか。この辺りには幕末「鏡里村」があったようだ。余談だが、幕末の漢学者・「詠帰堂」星野鏡里は、其号をここからとっ
たようだ。

楼名都々逸(ろうめいどどいつ) 某粋士の作、仲々妙趣がある。


  君は今頃山口あたり、かすむ姿を日のはらす、

  すだれ下して流るゝまゝに、ふたり河内の涼(すずみ)船(ぶね)

  小島高徳まごゝろこめて、君をまつみの筆のあと、

  関を越路の源氏の武将、静のおたまきくりかえす、

  雨に遠音(とおね)の品川千鳥、港泊りの旅枕、

  露になりたや千草の原で、今宵一夜を月見草(ぐさ)、

  いろは、桜に香(にお)いは梅に、松はみどりの節(みさお)だて、

  としま見がくれ若松林、水に番いの都鳥、

  浮名高はし人目をしのび、小石川原の蛍狩り


(註)小島高徳: 児島高徳の事と思われる。南北朝時代、後醍醐天皇隠岐配流を阻止、天皇奪還を図るが失敗。桜の木を削り、「天勾践を空しうすること莫れ、時に范
蠡の無きにしも非ず」という、呉王夫差と越王勾践の逸話を著した詩を記した事で有名。父などは、『日本外史』のこの件を称揚して涙したものである。

三階(さんがい)節(ぶし) 柏崎の名物の一つであって、全国に喧伝されて居る歌で、各地方より入り来る珍客は、先ず其杯盤の間に此節と踊とを望んで止まないので
ある。尤も此歌の中には聞き苦しい節もあるが、兎に角踊は綺麗であって、多数の紅裙が輪を作って遣る時は、恰も胡蝶のヒラヒラと飛び廻って居る様である。今此
歌の草創を尋ねて見るに、承応年中下專福寺に法話に最も妙を得た僧侶があって、此説教を聴聞する善男男女の中で、僧が雄弁にして且法話の妙なるに嘆賞して、

  出家さ出家さと恋にするー、出家さアー、出家さの御勧化(ごかんげ)山坂越えても参りたや、

と歌ったのが、始めとなったとの事である。其後新作続々出でて其数実に幾何(いくなん)なるかを知る事が出来ない、今其二三を左に紹介せば、


  下宿(しもじゅく)番神堂は、よく出来たー、御祓(ごはい)、御祓の仕掛は新宗吉大手柄―。

  根埋(ねうま)り地蔵や立地蔵―佛、佛に似合わぬ魚の売買(うりかい)なされますー。

  蝶々(ちょうちょう)蜻蛉(とんぼ)やきりぎりすー、山でー、お山で囀(さえず)る松虫鈴虫轡(くつわ)虫(むし)―。

  米山(よねやま)ながむればー、煙か霞か白雲(しらくも)棚引(たなび)く面白さー。

  谷(たん)根(ね)河内(かわち)や青海(おうみ)川(がわ)―、米山参りや、吾身を清める拂(はらい)川(がわ)―。


(註1)御勧化(ごかんげ): 仏の教えを説き、信心を勧める事。

(註2)新宗吉: 明治の生んだ名棟梁で、四代目篠田宗吉の事。明治10年、消失した番神堂を再建している。


米山(よねやま)甚句(じんく) 全国に知れ渡ってる名歌であるが、其始めを探るに、昔刈羽郡荒浜村から、登(とう)龍山(りゅうざん)(後、米山)及び荒(あ
ら)砂(すな)(幕下三段)と云う力士を出した事がある。其米山と云う力士が、江戸で始めて此歌を唄ったのが、今日迄伝わって居るとの事である。当時の文句の一
二を記せば、


  行こうか参(まえ)らんすか米山薬師、一つや身の為め、サ、主(ぬし)の為めー。

  つげる横(よこ)櫛(ぐし)、伊達(だて)には差さぬ、びんのほつれを、サ、とめにさすー。


 この他新作が続々ある。

おけさ節 の起源は種々(いろいろ)あって、一は其口碑(こうひ)に佐藤嗣(つぐ)信(のぶ)同忠信(ただのぶ)の母音羽の前の一族が其子供の戦捷(せんしょ
う)を聞(き)えて、尼僧達が袈裟衣の儘(まま)、鼻謠(はなうた)唱えて、踊躍(ようやく)せしより始まったとあるが、此節の全国に起ったのは、寛治年中の頃と
の事である。又越後の婦人誌上に、


 文政十二年浪花で、東都の白頭子柳魚と云う人が著わせし、総援僭語の中に、

  雁八は一個だめ声高やかに此の国の流行唄、桶佐節とか云へる夷歌を唄うを聞けば、

    桶佐正直次傍眼。桶佐猫兒姓乎好戯。

   おけさ正直なら、傍にも寝しょうが、おけさ猫の姓でヤアレじゃれたがるー


と見えた。又最も人口に膾炙して居る所の、

   おけさ見るとてよしで眼を突いたョ、兎角おけさはヤアレ眼の毒じゃー。


と云う歌に因ると、おけさとは業平にも譬う可き美男子か、又は娟妍(せんけん)窈窕(ようちょう)たる佳(か)婦人であったか、其は不明であるが、兎に角慶元以
降の事であろうと思われる。

 尚お一説に昔し江戸の深川に某氏と云う豪家があって、其家に一匹の猫を飼って置いたが是をみけと云うた。間もなく一家破滅して老母一人となりたれば、みけにも食
物を能(あた)える事が出来ず、遂にみけに其因果の憂目(うきめ)を苦(く)説(ど)き聞かせしに、其後此みけ一人の美女に化けて老母の処に来り、自分を新潟の遊
女屋へ売って呉れと云うから、老母は直ちに女衒(じょげん)に依頼して新潟の遊女屋に身を売って遣ったが、此みけ頗る美人との事であって又猫の化けたる事なれば声
色非常に宜く新に一曲の短歌を作り出した、其がおけさ節であって今にも越後全体に伝わって居ると云う事である。

 兎に角吾が柏崎に於ても、盂蘭盆(うらぼん)其他杯盤(はいばん)の間に此歌を唄うて居る。其最も盛んに且つ土地の里謡として唄うて居る処は出雲崎である
が、仲々元気のよい歌で越後名物の一として各国に喧伝して居る。その二三を記して見れば左の通りである。

   竹の小口にスコタンコタンとなみなみたつぶりたまりし水は、

歌「すまず濁らずヤアレ出ずいらずー」

   京都じゃ三十三間堂、佛の数が三万三千三百三十体迄ござる、下(しも)へさがって

   下宿(しもじゅく)番神、柏崎閻魔さん、荒浜諏訪さん、宮川天神、椎谷(しいや)の観音、石地(いしぢ)の羅石、

   アイヤ所のぢさんばさん、友達誘うて、青竹杖突き握飯(にぎりめし)かたねて、

歌「あれが佛さんだとヤアーレいうてーまいるー」

鉢崎(はっさき)柿崎柏崎、下(しも)にさがりし出雲崎、新潟の下(しも)の松ヶ崎松前にいしん、

佐渡わかめ、いからしほしこは、すなだらけ、

おけさ踊と、磯うつ波はヨ、いつも心がヤーレいそいそとー。

胸に千(せん)把(ば)の、かやたくとてもヨ、煙り上げねばヤーレ人知らぬー。

こいというたとて、往(ゆ)かりよか佐渡へヨ、佐渡は四十五里ヤーレ、波の道―。


尚お此他無数である。


(註1)佐藤嗣信・忠信: 源義経の四天王、義経挙兵の折、藤原秀衡の命で義経に従い、兄嗣信は屋島の戦いで討ち死に、弟忠信は、義経都落ちの同道するが、宇
治で離別、今日に潜伏するが、密告により襲われて、奮戦の中討ち死にする。

(註2)白頭子柳魚: 後記『総援僭語』の作者であるようだが、それに関する記載はなく、『半月夜話』編者として名がある。この作家は、浜村輔(浜が名
字)、画を岳亭丘山が書いている。関心のある方は、早稲田大学図書館に所蔵されているので閲覧は可能なようだ。また、近代デジタルライブラリーで、それぞれをキー
ワードで検索したがヒットしなかった。

(註3)総援僭語: 市立図書館で検索したが、この書はなかった。

(註4)娟妍(せんけん):るびは「せんけん」になっているが、これは、嬋娟の誤りではないだろうか。

(註5)慶元: 慶応・元治の頃ということであろうか。因みに、慶元という年号は存在しない。

甚句(じんく) は種々あって、長岡甚句、米山甚句其他土地々々に甚句がある様である。柏崎ではあまり甚句と云うものは流行せぬが、附近の村落では盂蘭盆抔に盛ん
に歌って踊って居る。此甚句の起因は昔石地浦に甚九という男があって、大阪へ出て商業をして大に利を得て、俄大尽になったが、其頃一目千両という遊女のおりん
と云うものを三度続けて招(よ)んだので、大阪人は舌を捲いて驚き、越後の大尽と呼んで居た。甚九遂に本国に帰らんとする時に、おりんを落籍(みうけ)して来た
が、其時おりんが歌を作った。

  甚九は越後の甚九越後の甚九は世界の花じゃ、四十四十だと今朝迄思うた三十九じゃもの花じゃもの、 是を甚句と云う歌にして、今は種々(いろいろ)な文句に換えられたのである。

 踊り歌 今を去る十有余年前柴田屋という踊りの師匠があって、柏崎名及び景色を編み込んで踊りの手を付けた歌がある。

  花見月空も長閑(のどけ)き八坂(やさか)たの、今日のさらいの賑ひに、日傘をさすは長(ながまち)の、

  歩む姿は小(こまち)姫、今日の大(おおまち)楽しみに、二人が仲(なかまち)むつまじく、祝ひの客は限りなく、

  浮いた世界の扇(おおぎまち)、花に荒(あら)(まち)剣の山、せめて一もと、いけてやうれし仇(あだ)桜(ざくら)、

  写す柏の花盛り、そとにもなびく塔(とう)の原(はら)、

あさくとも節 左に記す二首の歌は一時全県下に唄われたもので、今尚お下越地方で盛んに歌って居るそうであるが、是は吾が柏崎の漢詩人山田箱筠翁の作であると
の事である。

  金銀の為めでお主に王て飛車、桂馬のてくだにかけられて、今日此頃は角の様、二ふをするのも是非がない、

  人は武士、花は吉野の山桜、旭に香(にお)う勇ましさ、散るも開くも国の為め、名誉の花ではないかいな。

(註)漢詩人山田箱筠翁: 手の届く範囲で調べて見たが、不詳。尚、内山智也先生の著作に『柏崎漢詩人書軸解説』と云う本が市立図書館に所蔵されている。因み
に、内山先生は、筑波大学退官後、湯島聖堂の理事長をされたと聞いているが、何しろ、確か先生の米寿の祝いに同席させて頂いて以来、藍沢南城研究会とも疎遠になっ
ており、御近況を知らない。

 今回は長くなった。出来るだけ調べて見たが、おけさや甚句など情報の多いものもある反面、今の所、見出せない事項も多く、気が付くことがあれば、追って掲載した
い。

Best regards
梶谷恭巨

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