承前。
「越後の花柳界」
「新潟市遊郭」
新潟市は、新潟県の首都であって、日本五港の一である。其位置は信濃川口の左岸砂丘を隔てゝ日本海に面し、川を隔てゝ沼垂(ぬったり)に対して居る。川口水浅く大船は港外に停泊すれど小船舶の出入は頗(すこぶ)る頻繁である。産物は漆器、畳表等で又米穀をも輸出する。維新以前は幕府の直領(ちょくりょう)で奉行所を置いて出入の船舶其他土地に関する事を管理したものである。明治初年置県後大に隆盛に赴(おもむ)き遂に今日に至ったのである。
売女の起原は遠く元和以前に始まったのであるが、当時は公娼に( )あらざるが故に、随意其居所を定めて隠密に情を売って居たのである。後ち古町通神明(しんめい)町(ちょう)の内中道(今古町通三四番地)と称する所が最も殷賑(いんしん)を極め頓(とみ)て中道七軒と云う俚語さえ伝うる迄に宛然(えんぜん)遊郭の形をづくらるゝものあるを見るに至ったのである。是は宝暦(ほうれき)以前の事で、降って寛政(かんせい)年度に及び是より先き碇屋小路に潜(ひそ)みて淫を鬻(ひさ)ぎしものゝあったが為に、脱奔(だつほん)小路と言う名高い異名をさえ貽(のこ)すに至ったのである。其売女が後ち法音寺(ほうおんじ)小路(こうじ)に移り然して又其当時寺町二ノ町(今の西堀前通五番町)及び五六の町(今の同通八九番町)に安(あん)廉(れん)な花代で春を売る女(もの)が現われて、中道のものと入会稼ぎを為す事と為ったが、以来売女の数は年々増加して、天保の末年には就中(なかんずく)盛地であった中道及び法音寺小路(ほうおんじこうじ)のものが漸次衰退を来すに至った、是に反し寺町二の町(今の西堀前通五番町)及び古町通二三町の町(今の五六番町)が代って繁盛の巷(ちまた)となるに及んで、官は売女に対して、其居住すべき地域を指定したが売女は即ち此達示に基いて毘沙門(びしゃもん)島(じま)(今の毘沙門町)熊谷(くまがい)小路(こうじ)(今の横七番町)及び碇屋小路より移れる所謂脱奔(だつほん)小路(こうじ)なる寺町二の町(今の西堀前通五番町(にしぼりまえどおりごばんちょう))並に古町通二三の町(今の五六の町)を始め五六の町(今の八九の町)寺町(今の西堀通八九番町)へ掛け坂内(ばんない)小路(こうじ)の南北を区域として移り来り、茲(ここ)に四個の遊郭を形成するに至ったのである。斯(か)くして明治に入るや其の五年十月楠本県令は新に娼妓の名簿を調製して、且つ更(あらた)めて前記の旧廓を区域と定め、是を朱引地内(しゅひきちない)と称して、妓の此域外に居住する事を禁じられた、十八年四月に至って篠崎(しのざき)知(ち)県(けん)は新に貸座敷娼妓取締規則を設けて娼妓稼を貸座敷内に限定し、尚お当業者が他の商家と楯(ぬき)を連ねて居るは、大に風紀を紊(みだ)すものとして、前期の旧廓のうち古町通、西堀前通及び毘沙門町を駆(か)って熊谷小路即ち横七番町以北の一隅に移らしめんとの意を抱いて居られたが、偶々(たまたま)二十一年三月七日古町通四番町より( )出火し、同町及び東掘通(ひがしほりとおり)四五番(しごばん)町(ちょう)の外、妓廓の一なる古町通五番町の人家百四戸、西堀前通五番町の人家四十五戸を焼いて此両坊の妓楼悉く類焼してしまった。知事は同月九日貸座敷娼妓家業区域を更定(こうてい)して、茲に古町通五番町と西堀前通五番町とを免許区域に於ける貸座敷業者の戸数を限定された。次いで二十三年四月三日住吉町より発火して南毘沙門町(みなみびしゃもんちょう)の類焼するに至って、千田知事は前知事の遺志を紹(つ)えで同月十一日南毘沙門町を刪除(さくじょ)する旨を令達し、此一廓を免許地域の中より除斥(じょせき)されて終った。又二十六年八月十四日西堀前通八番町( )より出火して、同通九番町を始め古町通八九番町、東掘前通八九番町の人家を焼いて又其各町に居住せる貸座敷業者も悉皆(しっかい)類焼の難に遭遇するに至った。茲(ここ)に籠手田(こてだ)知事は同月二十三日附を以て免許区域を左の如く改正する事を公達(こうたつ)されたのである。
旧横七番町一丁目より同四丁目西受地町角に至る北側以北
東堀通十三番町
四ツ谷町一丁目日和山道東側以東
西受地町栄町一丁目西側以西
戸数無定限
但(ただし)古町通六番町現在五戸、同八番町現在二戸、本町通十三番町現在八戸、旧横七番町三丁目南側現在二戸の貸座敷は本令発布の日より五ヶ年を限り現在の家屋に於て営業する事を得。
Best regards
梶谷恭巨