柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
毛利家第二世代 〇親廣 左近將監 遠江守 民部少輔 武蔵守 蔵人 正五位下 承久の乱: 鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。 【補注】『中鯖石村誌』には、親廣の後、佐房→佐泰(上田)と続くのだが、出典が不詳。ただ、藤原(洞院)公定による通称『尊卑分脈』、正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(また『諸家大系図』あるいは単に『大系図』とも呼ばれる)によれば、 〇時廣 蔵人 左衛門尉 從五位上 長井入道と號す。 今の永井信濃守直方が家祖、右近大夫直勝東照宮の仰せにより、平氏長田の流をあらため、時廣が流の氏を冒し、家號も永井を称す。その世系は下に見えたり。 〇正廣 初、宗光 宗元 判官代 掃部助 〇女子 高(高階)刑部惟長が妻。 ●季光 四郎 左近將監 蔵人大夫 安藝介 從五位下 〇女子 飛鳥井(藤原)宰相雅經が室。 〇女子 (中原)大外記師業が妻。 〇忠成 蔵人 左近將監 刑部少輔 從四位下 號海東判官 〇尊俊 大僧都 〇重清 右兵衛尉 伊賀守 水谷を稱す。 〇女子 寛永系圖に、贈内大臣義朝が室とせり。今の呈譜に重清が妹ありといへども、義朝が室たること詳ならずといふ。 〇女子 (藤原)大納言公國(寛永系圖、実國)が室。 ここで、『毛利家文書』における関係文書を紹介する。ここに謂う『毛利家文書』とは、東京帝国大学文学部飼料研鑽掛(現在の東京大学史料編纂所)が編纂した『大日本古文書』に収録されたものである。尚、冒頭の漢数字は、同書に付けられた文書番号である。 【註】沙彌は、「沙弥(シャミ)」、出家して十戒は受けたが、まだ具足戒は受けていない男子の僧。出家したばかりで修行の未熟な僧の意味。 【補注】 毛利経光は、蔵人、右近将監、從五位下、入道して、寂仏という。 時親当地ヲ去ルト雖モ尚一族ノモノ止マレルナラン 〔時親、当地を去ると雖も、尚、一族のもの止まれるならん〕 《時親は、当地・南庄を去ったが、一族は、尚、止まっていた様である》 【註】元徳二年は、西暦1330年、この年、後醍醐天皇、花園上皇、将軍は金沢貞顕、執権は北条守時。翌元徳三年には、南北朝に分れ、北朝は光厳(コウゴン)天皇になり、南朝は、後醍醐天皇、元号は元弘となる。 【補注】毛利孫太郎親茂は、初め「親茂」改めて「親衡(ちかひら)」、孫太郎、備中守、陸奥守、從五位下、入道して、宝乗と云う。 南條村東方ノ八石山余派ナル丘山ニ城の内ト称スル家アリ之レ其地ハ古城蹟ナルヲ以テ称ス其傍ニ一社アリ明治ノ初年其屋敷ヲ拡メントシテ一頭骨ヲ発掘ス藍澤南城先生ハ此古城址ヲ毛利経光公ノ築キシモノトノ説ヲ立テラレタルヲ以テ城の家ニテハ毛利玄蕃允経光毛利修理亮時親ト記セル位牌ヲ佛殿ニ安置シ以テ今ニ追弔スト 〔南條村、東方の八石山余派なる丘山に城ノ内と称する家あり。これ、その地は古城跡なるをもって称す。その傍らに一社あり。明治の初年、その屋敷を拡めんとして、一頭骨を発掘す。藍澤南城先生は、この古城址を毛利経光公の築きしものとの説を立てられたるをもって、城ノ家にては、毛利玄蕃允経光、修理亮時親と記せる位牌を仏殿に安置し、もって今に追弔すと〕 《南條村の東方にある八石山に連なる丘の上に、「城ノ内」と云う家がある。これは、この地域が古城跡であった事に由来する。その傍に神社がある。明治時代の始め頃、この境内を拡張しようとした所、ひとつの頭骨が発掘された。藍沢南城先生は、この古城址を毛利経光公が築いたという仮説を立てられので、「城の家」では、毛利玄蕃允経光・毛利修理亮時親と 銘記した位牌を作り、仏壇に安置し、今も追弔しているとの事である》 又口碑ニ毛利公ハ当地ヲ御立退キナサレタリトモイヘリ 〔また口碑に毛利公は当地を御立退きなされたりといえり〕 《また伝承によれば、毛利公は佐橋の庄を立ち退いたと伝えられている》 抑々毛利経光ノ在城年月不詳ナリト雖モ三浦泰時ノ北条氏ニ殺セラレ三浦氏ノ滅亡ハ寶治元年ナレバ経光ノ南荘ニ来レルモ其頃ト大差ナキヲ知ル殊ニ石川中村嘉平治氏ノ系譜ニ弘安五年三島郡鯖石庄善根館主毛利家云々ト寶治ト弘安トハ僅カ三十年ノ差ノミ以テ毛利ノ存スルナリ口碑傳説等多少ナキアラザレドモ口碑傳説ニハ年代ヲ缺キ前後ヲ混淆シ甚ダ不確実ナルノミナラズ奇怪ノ説ヲナシテ信ズルニ足ラザルモノ多シサレバコヽニ毛利氏ノ家譜(日本外史)ト関甲子次郎氏ノ編纂ニ関スルモノヨリ抜抄ス之レ又多少ノ疑惑ナキアタハズ然レド郷土史完成期日モ切迫シ余日ナケレバ其ハ他日ニ譲ラン殊ニ毛利氏ハ南朝ノ忠臣ナレバ其事跡ヲ明ニスルハ當村教育ノ為メニ切望スルトコロナリ 〔そもそも毛利経光の在城年月不詳なりといえども、三浦泰時の北条氏に殺せされ、三浦氏の滅亡は宝治元年なれば、経光の南荘に来れるも、その頃と大差なきを知る。殊に石川中村嘉平治氏の系譜に、弘安五年、三島郡鯖石庄善根館主・毛利家云々と。宝治と弘安とは、僅か三十年の差のみ。もって毛利の存するなり。口碑伝説等、多少なきあらざれども、口碑伝説には年代を欠き、前後を混淆(コンコウ)し、甚だ不確実なるのみならず、奇怪の説をなして信じるに足らざるもの多し、されば、ここに毛利氏の系譜(日本外史)と関甲子次郎氏の編纂に関するものより抜抄す。これまた多少の疑惑なきあたわず。然れども郷土史完成期日も切迫し、余白なければ、それは他日に譲らん。殊に毛利氏は南朝の忠臣なれば、その事跡を明らかにするは、当村教育の為に切望するところなり。〕 《もともと毛利経光が南條に居た時期は確かではないのだが、三浦泰村が北条氏によって殺されて三浦氏が滅びたのが宝治元年(1247)の事なので、経光が南荘(南條)に居住したのも、大体同じ頃だとは思われるが、注目すべきは、石川の中村嘉平治氏方に伝わる家系図に拠れば、弘安五年(1282)に三島郡鯖石庄善根の館の主である毛利家などとあり、宝治と弘安は、およそ30年位の差がある程度だから、恐らくこの時代に在住したのではないだろうか。伝承や伝説は多少あるのだが、これらには年代が明記されておらず、前後の関係が不明瞭で、とても精確な物とは言えず、怪しげな説も多く、信じがたいものが多い。そこで、ここでは頼山陽の『日本外史』による毛利氏の系譜と関甲子次郎氏の編纂した史料(『柏崎文庫』か)から抜粋したものを紹介する。ただ、多少の疑問もある。しかし、この郷土史(『中鯖石村誌』)の完成時期も迫っており、記載できる余白が少ないので、詳細については、またの機会に譲りたい。また、毛利氏は南朝の忠臣であるから、その事跡を明らかにする事は、当村の教育上も有益であり、出来る事なら、詳細にわたる村誌の調査研究と出版を望んでやまない。》 毛利氏ノ系譜 【補注】著者は、頼山陽の『日本外史』と関甲子次郎氏の、恐らく『柏崎文庫』を参照していると思われるが、系譜として集大成された堀田正敦の『寛政重修諸家譜』を参照したい。 〇大江廣元(以下、『寛永重修諸系譜』による。〇は兄弟姉妹。) 縫殿允: 律令制における中務省管下の女官人事・裁縫監督機関の官吏。大允(ダイジョウ)は従七位上、少允(ジョウジョウ)は従七位下。 少外記: 外記は、朝廷組織の最高機関・太政官に属した官吏。少外記(ショウゲキ)は、正七位上。權少外記は、その少外記の次官。 天文博士: 陰陽寮に設置された教官で天文道のことを 担当する。正七位下相当。 明法博士: 大学寮に属した官職の 一つ。令外官(律令に無い官職)。定員2名で、当初は正七位下相当。当時は、中原氏の世襲官職になって居た為、官位が正五位下だったと思はれる。 左衛門大尉: 左衛門府の判官であり、左衛門大尉(さえもんのタイジョウ)は、本来、従六位下の官位だが、平安時代末期、既に官位の序列も乱れていた。 検非違使: 京都の治安維持と民政を所管したが、平安時代末期には、北面の武士の職種の様になった。 兵庫頭: 武器管理庫の長官。 掃部頭: 宮中の儀式の設営や清掃を所管する掃部寮の長官。 大膳大夫: 朝廷において臣下に対する饗膳を供する大膳職の長官。 国の守: 従来、安芸守、因幡守は、従五位下(權介は、次官の補佐官)、陸奥守は、従五位上の官位だった。
仁安三年十二月十三日、縫殿允(寛永系図、縫殿頭)となり、嘉應二年十二月五日、權少外記に任じ、承安元年正月十八日、博士、少外記となり、三年正月五日、從四位下に叙し、二十一日、安藝權介に任ず。治承四年、頼朝將軍の招きにより關東に下向し、後、相模國愛甲郡毛利庄を宛行はる。壽永二年四月九日、從五位下に叙し、元暦元年九月十一日、因幡守に轉じ、十月六日、あらたに公文所を置れしとき別當職に補せられ、着坐して政事を沙汰す。文治元年四月三日、正五位下に昇り、二年二月七日、肥後國山本庄をたまふ。是より先、行家、義經等を追捕すべきの命ありといへども、容易にこれを捕へ得ず。頼朝ふかくこれをうれふ。廣元議していはく、世、旣に澆季にをよび、姦宄の徒、日々に多し。東海道は、幕府鎮撫したまへば、靜にして不慮のことなし。その他は道遠く坐りながらにして防禦しがたし。亂賊しばしば起りて、これを征せむには、毎兵勞して民弊ゆべきなり。國衙庄園に地頭を置れ、所にしたがひて追捕せしめむにはしかじとなり。頼朝大によろこび、則、奏してその議のごとく行はる。これよりしてをのづから兵馬の權みな幕府に歸せしかば、其功を賞せられて加恩の地をたまふ所なり。建久二年正月十五日、公文所をあらためて政所と稱し、はじめて吉書始め行はれしとき、廣元、猶別當職たり。二年(寛永系圖、四年とす。)四月朔日、明法博士ならびに左衛門大尉に任じ、使の宣旨をかうぶり、十一月五日、博士、検非違使を辞す。十二月十七日、後白河法皇より銀劔をたまふ。七年正月二十八日、兵庫頭に補せられ、正治元年十二月二十二日、大膳大夫直講師を辭し、かさねて掃部頭に任じ、又、大膳大夫に任ず。二年十一月十九日、從四位上に叙し、建保二年正月五日、正四位下に昇り、四年正月二十七日、陸奥守に任ず。六月十一日、廣元、狀を捧げて、廣元、掃部頭・廣季がもとにやしなはれしより、このかた中原氏を冒すといえへども、式部少輔・維光とかつて父子の義あるときは、をのづから継嗣の理にかなふ。その姓、大江に復し、たえたるをつがんとこふ。七月朔日、勅許あり。これより子孫相継て氏となす。(寛永系圖に關東にをいて頼朝兄弟の義に准じて源と號す。しかれども、氏、廣元一代なり。大官令と號すといふ。呈議に、廣元、鎌倉執務のとき、平氏の役をつとむる事あり。しばらく平氏を稱すといふ。いまだ親が是なることを詳にせず。よりて重記す。)五年十一月十日、出家して覺阿と號す。嘉禄元年六月十日(寛永系圖に十八日)、卒す。年七十八(寛永系圖に八十三)。法名、覺阿。 《仁安三年(1169)12月13日、縫殿允(寛永系圖では、縫殿頭)とあり、嘉応二年(1170)12月5日、権少外記に任じられ、承安元年(1171)正月18日、天文博士、少外記となり、同三年(1173)正月5日、従四位下に叙せられ、同21日、安芸権介に任じられた。治承4年(1180)将軍・源頼朝の招かれて関東に下向し、その後、相模国愛甲郡毛利庄を与えられた。寿永2年(1183)4月9日、従五位下に叙せられ、元暦元年(1184)9月11日、因幡守に転任し、同10月6日、新しく公文所が設置されると、その別当職に任命され、政事を所管し、裁決を下した。文治元年(1186)4月3日、正五位下に昇格し、同2年(1187)2月7日、肥後国山本庄(〈熊本県〉山本郡山本郷、東西山本庄がある)これより先、行家や義経等を追捕せよとの命令あったが、容易に捕縛する事が出来ず、頼朝は深く憂えていたが、廣元が評定の席で、「世の中は、既に澆季(ギョウキ、道義が廃れ乱れた世の中)になっていて、姦宄(カンキ、内外の乱れ、正義や道義に反する)の徒、すなわち悪人が日ごとに多くなたが、東海道は幕府によって鎮撫され、静かになって事故も起こらない。その他の地域は、遠方なので動かなければ、防ぐ事ができない。反乱がしばしば起きるが、これを制圧するには、その度に、兵は疲労し、民は疲弊する。そこで、国衙(国の役所)や庄園に地頭を配置して、その場所付近で、追掛けて捕まえるしかない。」と提言した。頼朝は大変喜び、直ぐに奏上して、評定の提言の通りに実行に移した。こうした事から、兵馬の権(軍隊を統帥する権力)は、みな幕府に集中したので、その功績を賞されて、更に領地を加俸される事になった。建久2年(1191)正月15日、公文所を改革して政所と謂う名称に変え、改名してはじめて「吉書始め(初めて出す政務上の文書を奏上する)」の際にも、広元は、依然として別当職だった。同2年(寛永系図は4年)4月1日、明法博士と共に左衛門大尉(さえもんのたいじょう)に就任し、勅使の宣旨によって、同11月5日、博士と検非違使の職を辞した。同12月17日、後白河法皇より銀製の剣が下賜された。同7年(1197)正月28日、兵庫頭に任じられ、正治元年(1199)12月22日、大膳大夫・直講師(じきこうじ?、天皇の侍講の事か?)は辞任したが、更に掃部頭に就任され、また大膳大夫に任命された。同2年(1200)11月19日、従四以上に叙され、建保2年(1214)正月5日、正四位下に昇り、同4年(1216)正月27日、陸奥守に任命された。同6月11日、広元は状を捧げて上奏し、「過って広元は掃部頭・広季に養育された時から今日までは中原姓を名乗って来たけれども、実父である式部少輔・維光とは、自ずから維光の跡継ぎとしての義理があるので、大江姓に戻って、絶えた実父の家を継ぎたい」と請願した。同7月1日、これに対して勅許が下り、この時から子孫は大江姓を継承して氏とした。(寛永系図には、関東では、頼朝兄弟の手前、源姓を名乗った事もあるが、源姓を名乗ったのは広元一代限りの事で、大官令と称していた。広元が鎌倉幕府の執務をしていた時、平氏の役職に就いた事があり、この時はしばしば平氏を名のった事があったが、親族がこの点を明らかにしていないので、そのまま記載する。)同5年(1217)11月10日、出家して覚阿と号した。嘉禄元年(1225)6月10日(寛永系図では18日)に没した。享年78歳(寛永系図には83歳)。法名は覚阿である。》 〇秀嚴 阿闍梨 僧都 左女牛若宮の別當たり 【補注】左女牛(さめうし)若宮は、京都の若宮八幡宮の事。昔、左女牛小路に在った事から「左女牛八幡宮」とも云われた。因みに、阿闍梨・僧都である秀厳が、頼朝によって若宮神社の別當職に任じられたのは、本地垂迹説(神仏混淆)によるもの。 〇女子 田村伊賀守仲敎が女。 【補注】『尊卑分脈』に、伊賀守仲教(なかのり)の祖父・藤原影頼(島田二郎・近藤武者・武者所、後、貞成)は大友・武藤氏の開祖、父・能成(武者所・左近将監、近藤太と称す)は、近藤氏の開祖。伊賀守仲教については余り記述が無いが、子・仲能(亀谷・評定衆・刑部大輔)とあり、孫の代で、二男・重輔(しげすけ、淡路守)が水谷を称した。 〇女子 〇女子 大蔵大輔・重保が女。 佐橋庄下司職毛利経光ハ大江廣元ノ孫ニシテ佐橋庄南荘ニ住セルコトヲ日本外史第十二巻毛利氏ノ記ニ 〔佐橋庄下司職・毛利経光は、大江廣元の孫にして佐橋庄南荘に住せることを、『日本外史』第十二巻・毛利氏のきに、〕 《佐橋庄の下司職(地頭)の毛利経光は、大江広元の孫に当たり、佐橋庄南荘に住んでいたことが、頼山陽の『日本外史』第十二巻・毛利氏の條に、次の様に書かれている。》 廣元、有五子、長子親廣、承久之役、属官軍、不知所終、第三子曰季光、為左近将監、食相模毛利荘、因氏焉、娶三浦氏、死其難、季光子経光出鎌倉、居越後南荘、経光子時親、復起為六波羅評定衆、足利尊氏滅六波羅、加賜時親、以安藝吉田及河内利田 〔(毛利氏は、大江廣元より出ず、…中略)、廣元(…源頼朝を関東に佐け、…中略)、五子有り。長子・廣親、承久の役、官軍に属して、終る所を知らず。第三子を季光(すえみつ)という。左近将監たり、相模の毛利庄を食(は)む。因って、これを氏とす。三浦氏を娶(めと)り、その難に死す。季光の子・経光、鎌倉を出で越後南荘に居る。経光の子・時親(ときちか)、復、起ちて六波羅(ろくはら)の評定衆となる。足利尊氏、六波羅を滅ぼし、時親に加賜するに、安芸の吉田及び河内の利田(かがた)を以てす。(…後略)〕 《広元には五人の子があった。長男・親広は「承久の乱(役)」(承久三年、北条義時が京都を攻めた戦。1221年)の時、官軍に所属して、止まる所を知らない程に奮戦した。三男を季光といい、左近将監(サコンのショウゲン)に叙せられ、相模国毛利荘(神奈川県愛甲郡、厚木市周辺)を領有した。それにより、氏を毛利とした。三浦氏の娘を娶ったが、「宝治合戦あるいは三浦氏の乱」(執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。)の時、三浦氏に連座して滅ぼされた。その時、季光の子の経光だけは、越後国南荘に居て難を免れた。経光の子の時親は、後に毛利氏を再興し、六波羅探題の評定衆になった。足利尊氏が、「元弘の乱」(元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。)で、六波羅探題を攻略した時、尊氏に属して功績のあった時親は、安芸国吉田莊と河内国利田(加賀田郷、現・大阪府長野市加賀田)を加増された。》 【註】左近将監:左近衛将監、左近衛府の三等官。従六位上相当。定員四名。 毛利経光ハ越後佐橋庄下司職ナルコト萬壽寺ノ記ニ見エ南庄ノ同義假借レモ見ルベキ南條村ノ現今ニ後レルヨリ推シテ南庄ハ佐橋庄ノ南部一帯ノ地名ナルコト疑ナシ殊ニ善根八石城主ノ毛利氏ナルコト当村古記録ニモ散見スルトコロナリ而シテ子時親復起為六波羅評定衆ヨリ経光ノ一族南庄ニ住セルコトヲ知ラル 〔毛利経光は越後佐橋庄の下司職なること萬壽寺の記に見ゆ。南荘の同義仮に借れも見るべき。南條村の現今に後れるより推して、南庄は佐橋庄の南部一帯の地名なること疑いなし。殊に善根八石城主の毛利氏なること、当村の古記録にも散見するところなり。しかして子・時親また起り六波羅の評定衆になるより、経光の一族、南庄に住せることを知らる。〕 《毛利経光は越後国佐橋庄の下司職になった事が、萬壽寺の記録『萬壽禅寺記』に記載されている。佐橋庄は南荘と同義と考えることができるだろう。今の南條村の現状から推測して、南庄は佐橋庄の南部附近の地名と考えて間違いない。特に、善根の八石城主である毛利氏だった事は、この村の舊い記録にも見られる。そこで、経光の子である時親が六波羅探題の評定衆になった事からも、経光の一族が南庄に居住したと推測される。》 【補注】「毛利経光は越後国佐橋庄の下司職になった事が、萬壽寺の記録(『萬壽禅寺記』)に記載されている」とあるが、『萬壽禅寺記』にそれらしき記載が無い。よって、この部分に関しては、保留とする。尚、『萬壽禅寺記』の全文の入力が終ったので、以下、改めて若干の注釈を加えて掲載する。 京城萬壽禪寺記(旧本真書躰)
寛正五年龍集(リュウシュウ、一年)甲申佛歓喜日 住持天佑梵嘏(テンユウボンカ、室町時代の僧。臨済宗、京都天竜寺の雪心周安の法をつぎ、万寿寺住持となる。寛正(かんしょう)五年(1464)同寺の寺誌「京城万寿禅寺記」をあらわした。語録に「万寿語録」がある。)謹記 右萬壽禪寺記依無類本不能挍合(コウゴウ、比べ合わせる) 【註】味岡荘: 『荘園志料』(上巻)第三編「近国二」の尾張国春部郡に「味岡本荘」と「味岡新荘」の記載がある。先ず、その本文を引用する。 【補注】上杉礼部: 『史料綜覧』(第八巻)後花園天皇、将軍・足利義政、康正二年(1456)十二月の條に、「上杉朝廣、味岡荘ヲ横奪シ、軍資ヲ徴セントシテ果サズ」(『京城萬壽禅寺記』、『諸家系図纂』)とある。また『系図綜覧』(国書刊行会編・大正4年)下巻「関東管領・上椙(すぎ)山内・扇谷(おおぎがやつ)両家及庶流伝」の系図に拠れば、高藤8代後の頼重の次男・重顯の傍系だが、後に関東管領と為る憲顯の父・顯定の養子になっている事から、憲顯との関係に疑問が残るが、今のところ不祥である。 経光ノ一族南庄ニ住セルコトヲ知ラル 〔経光の一族、南庄に住せることを知らる〕 《経光の一族が、南庄に住んだ事が知られる》 第二項 鯖石庄(佐橋庄)
東鑑文治二年注進状ニ越後国荘園廿三ノ内三島郡ニ属スルモノ佐橋庄六条院領比角庄穀倉院領宮川庄前斉(斎)院領大神庄仝上ノ四トス 〔東鑑文治二年、注進状に越後国荘園二十三の内、三島郡に属するもの佐橋庄(六条院領)比角庄(穀倉院領)宮川庄(前斎院領)大神庄(同上)の四とす。〕
【註】東鑑: 『吾妻鏡』、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。(ウィキペディア參照) 『越佐史料』第一巻、文治二年丙午 紀元千八百四十六年(1186年) 『吉川本・吾妻鏡』六 文治二年三月十二日、庚寅(コウイン、かのえとら)、〈(第五巻に記載)小中太光家為使節上洛、是左典厩賢息、二品御外姪、依可令加首題服給、被献御馬三疋長持被納砂金絹等、二棹之故也、又〉関東御知行国々内、乃貢米未済荘々、召下家司等、注文被下之可加催促給之由云々、今日到来。
佐橋庄タルヤ其区域明ナラズト雖モ六条院ノ領地タルコト左古記録ニヨリ一層明確ナリ 〔佐橋庄たるやその区域、明らかならずといえども、六条院の領地たること、左古記録により、一層明確ナリ。〕 《佐橋庄は、その場所がはっきりと判っているとは言えないが、六条院の領地であった事だけは、前掲の史料からも、更に明確になった。》
東鑑文治二年ノ条ニ六条院領佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々トアリ又萬壽寺記ニモ佐橋庄ハ其寺領タリト 〔東鑑、文治二年の条に六条院佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々とあり、また萬壽寺記にも佐橋庄はその寺領たりと。〕 《『東鑑(吾妻鏡)』の文治二年の条に「一條院女房右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね)沙汰」と云う記載があり、また『萬壽寺記』にも佐橋庄は萬壽寺の寺領であるとある。》
【註】萬壽寺記: 『萬壽禪寺記』あるいは『京城萬壽禪寺記』
承保二年白河天皇京都六条ニ造営シテ移御皇后ト為シ禅位ノ後仍仙洞タリト拾芥抄ニ見エ又百練抄中左記ニ永長元年皇女郁芳門院媞子薨ず上皇落飾宮ヲ棄テテ佛宇ト為ス萬壽寺之ナリ永享六年回禄シテ廃ス院ハ上皇ノ御在所ノ称ナリ又転ジテ上皇御身ヲ申シ奉ル語ニモ用イラレ以テ白河上皇ノ御領地タルヲ知シル然ルニ六条内裡(裏)ハ転ジテ寺トナルニ及ビ寺領トナレルナリ 〔承保二年(1075)、白河天皇、京都六条に造営して移御(イギョ、天皇・上皇・皇后などが他所へ移ること)し皇居と為し、禅位の後、よって仙洞(上皇の御所)たりと、『拾芥抄(シュウカイショウ)』に見え、また『百練抄(百錬抄)』中、左記に永長元年、皇女郁芳門院媞子(イクホウモンイン・テイシ)薨ず、上皇落飾、宮を棄てて仏宇となす。萬壽寺、これなり。永享六年、回禄(カイロク、火災)して廃す。院は上皇の御在所の称なり。また転じて上皇御身を申し奉る語にも用いられ、もって佐橋は、白河上皇の御領地たるを知る。然るに六条内裏は転じて寺となるに及び寺領となれるなり。〕 《承保2年(1075)、白河天皇は、京都六条に新に御所を建てて皇居(六條内裏)としたが、応徳3年(1086)、堀河天皇に位を譲り上皇になったので、ここが上皇の御所である仙洞(六條院)となったと、『拾芥抄』に記載がある。また『百練抄』の「永長元年」の項、左記(同年の詳細が左記)に、皇女である郁芳門院媞子の逝去に伴い、上皇は出家して、御所を廃し、改めて萬壽禅寺とした記載があり、永享六年には、上皇の御所が火災で焼失、上皇の御所を意味するとともに、上皇自身を表すのが「院」である事から、佐橋庄が、白河上皇の領地である事が判り、更に六條内裏が焼失して萬壽禅寺になった事から、寺領となったものである。》
【註】『拾芥抄』: 中世日本にて出された類書(百科事典)。城中下全3巻。元は『拾芥略要抄』とも呼ばれ、『略要抄』とも略されていた。
鯖石川ノ称ハ鵜川(右川)左川と対称セラレタルニ起リタル由ナルガ當地方ニ魚類ノ化石ヲ産シ方俗鯖石ト呼ビタルヨリ其音類スルニヨリ遂ニ左川ヲ鯖石川ニ転称シタルモノカ萬壽寺記ニ寺領越後国佐橋荘下司職毛利経光地出化石俗称鯖石ト而シテ鯖石ヲ産セルハ經光ノ時代ニアラズシテ古キ昔日ノコトナラン吉田博士佐橋ヲ一ニ鯖石ト作リ鯖石川ヨリ来レルヲ述ベタリ或ハさばいしノい略サレさばしト為リ遂ニ佐橋ト當字シタルモノナラン佐橋庄ハ北條南條ヲカケテ当地ヲ併セ称セルコトハ石川中村氏ノ家譜ニ三島郡鯖石庄善根八石云々弘安五年ト明記セラレタルヨリ北條専称寺及安田ニ遺レル古記録ニ照ラシ明確ナリ而シテ北條鹿島神社棟札ニ米山東刈羽郡佐橋庄北條郷云々天正十三年トアリ戦国時代ニ入ルモ猶庄名ヲ附称シタルノミナラズ文化年間ニ於ケル加納村ノ書上状ニモ刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村ト添ヘ加ヘタリ之俗称ト雖モ以テ当地方ハ昔ノ佐橋庄園地タルヲ証スルニ足ル 〔鯖石川の称は、鵜川(右川)、左川と対称せられたるに起りたる由なるが、当地方に魚類の化石を産し、方俗、鯖石と呼びたるより、その音、類するにより、遂に左川を鯖石川に転称したるものか、萬壽寺記に寺領・越後国佐橋莊、下司職(ゲシシキ、平安末期から中世にかけて荘園の現地で荘務をつかさどる地位)毛利経光、地出化石、俗称鯖石と、而して鯖石を産せるは、経光の時代にあらずして、古き昔日のことならん。吉田博士、佐橋を一に鯖石と作り、鯖石川より来れるを述べたり。あるいは「さばいし」の「い」略され「さばし」と為り、遂に佐橋と当て字したるものならん。佐橋庄は北條・南條をかけて当地を併せ称せることは、石川・中村氏の家譜に、三島郡鯖石庄善根八石云々、弘安五年と明記せられたるより、北條・専称寺及び安田に遺れる古記録に照らし明確なり。而して北條・鹿島神社棟札に米山東、刈羽郡佐橋庄北條郷云々、天正十三年とあり、戦国時代に入るも、猶、庄名を附称したるのみならず、文化年間における加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村と添え加えたり。これ俗称といえども以て当地方は昔の佐橋庄園地たるを証するに足る。〕 《鯖石川の呼称は、鵜川すなわち右川と対して左川と呼んだ事に起因していると云われるが、この地方では、魚類の化石が出土し、この辺りでは「鯖石」と呼ぶ事もあり、その発音が「左川」とよく似ている事から、次第に転化して、左川を鯖石川と呼ぶようになったと思はれる。『萬壽寺記(萬壽禅寺記)』(前記參照)に寺領、越後国佐橋莊とあり、後代の地頭である下司職だった毛利経光が、出土した化石、すなわち俗稱である鯖石を地名に用いたと云うが、化石である「鯖石」が出土したのは、経光の時代の時代ではなく、それよりも随分と昔であったようだ。吉田東伍博士は、佐橋を先ず「鯖石」とし、「鯖石川」に由来すると述べているが(【註】參照)、これは「さばいし」の「い」が省略され「さばし」となり、更に転化して「佐橋」と当て字したものだと思われる。佐橋庄は、北條から南條を合せて呼ばれている事は、北條の専称寺や安田に残る古文書などからも明らかであり、またこの事は、北條の鹿島神社の棟札にも、米山の東、刈羽郡佐橋庄北條郷など、天正十三年と書かれており、戦国時代に入ってからも、庄名を付けて呼んでいるばかりか、江戸中期にあたる文化年間の加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村との添え書きが見える。この事は、俗称とは言え、この地域が佐橋庄園であった事を証明しているという事が出来るだろう。》
【註】吉田博士、云々: 吉田博士、すなわち吉田東伍博士の事。続く文章は、『大日本地名辞書』中巻「越後国・刈羽郡」の「佐橋(サバシ)」の項(中巻・2025頁中段)を参照したと思はれる。以下、原文。 旧庄名にて、又鯖石に作る。北條・南條などを本とし、近地を籠めたる私田の号なりしを知る。水名に起ると雖(いえども)、本来此辺に出る魚類化石を方俗鯖石と呼ぶに因る。東鑑、文治二年の條に「六條院領佐橋庄、一條院女房右衛門佐局沙汰」とあり、又萬壽寺記(群書類従本)にも佐橋庄は其寺領たりしこと見ゆ。其下司職は大江廣元の孫毛利経光の家へ伝え、謂ゆる毛利氏、北條氏、石田氏、安田氏など皆其佐橋庄地頭の裔孫に出ず。当国にて名高き旧家とす。 【補注】『荘園志料』(清水正健編・昭和8年・帝都出版社刊)は、上下二巻、全国の荘園を網羅した上下2300頁を越える大著であり、荘園研究の重要な資料である。当然のことながら、この大著が参照された訳ではないが、参考の為に、当該部分を紹介する。出典部分は、下巻・第十七篇「遠国三」越後国(1916P)三島郡の佐橋荘(1919P)。以下、引用。 佐橋庄下司職 第三節 中鯖石村 中鯖石村ハ明治三十四年町村大分合ヲ施行セラレタル時善根加納秋津ノ三村併合シタル新称ナリ延喜式ノ三島郷ニ含マレ封建時代ハ佐橋庄ノ一部タリ今荘園地ノ起因ニ筆ヲ起シ佐橋ノ庄ヨリ逐次各字沿革ヲ記セントス 〔中鯖石村は、明治34年、町村大分合を施行せられたる時、善根・加納・秋津の山村併合したる新称なり。延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部たり。今、荘園地の起因に筆を起し、佐橋の庄より逐次各字沿革を記せんとす。〕 《中鯖石村は、明治34年の町村大分合が施行された時、善根・加納・秋津の三か村が合併してできた新しい名称である。昔は、延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部だった。今回は、その時代の荘園の成立理由から始め、佐橋の庄の由来より、順次、それぞれの字の沿革について述べて行きたい。》 第一項 荘園(庄園) 神武天皇倭国ヲ平定シ給フニ臨ミ國家ヲ統一センガ為メ地方ヲ区画シテ国トス国ニ大小ノ名アリ又県邑村(アガタムラフレ)等ノ称謂アリ県ハ小国ニ比スベク邑村ノ大ナルオノハ小国県ニ仝シ而シテ国造県主ヲ国及ビ県ニ邑村ニハ邑君村長ヲ置カレタリト雖モ必ズシモ相統属セルモノニアラズ是レ公民公田ナリ然ルニ是ニ反シ臣連ヨリ以下品部伴緒(ホムツベトモノヲ)ヲ分チテ朝廷ニ奉事セシム所謂戸(姓氏)是ニシテ此ノ氏姓ハ各占住ノ地アリテ一国造邑君等ノ領有ト交錯セルモノナリ之柳々私田ノ始メニシテ遂ニハ王公諸臣等多ク山沢ヲ占メ民ト利ヲ争フ因テ孝徳天皇改新ノ詔ヲ下シ法度ヲ拡張シテ始メテ海内ヲ混一シテ諸郡ヲ建テ郡邑ノ大小ヲ分チテ国司郡領ヲ置キ国郡ノ制コヽニ見ルベキアリ然レドモ公田ハ六年ニシテ官遷シ野山ヲ新ニ開墾シタルモ年限ヲ定メ官ニ納ムルノ制ナレバ開墾ニ力ヲ尽スモノナリ戸口漸ク其食乏シキヲツグ故ニ聖武天皇ノ天平十五年詔シテ田土ノ開墾ヲ奨メ私有ヲ聴サル大化以来ノ政治流弊連ニ至リ国郡統一ノ旧制度将ニ破レントス 〔神武天皇、倭国を平定し給うに臨み、国家を統一せんが為め、地方を区画して国とす。国二大小の名称あり、又県邑村(あがた・むら・ふれ)等の称謂(呼び名)あり。県は小国に比すべく、邑村の大なるものは小国、県に同じ。しかして国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)を国及び県に、邑村には邑君(むらぎみ)、村長(むらおさ)を置かれたりといえども、必ずしも相統属(トウゾク)せるものにあらず、これ公民公田なり。然るにこれに反し、臣連(おみ・むらじ)より以下、品部伴緒(ほむつべ・とものを)を分ちて朝廷に奉事せしむ、所謂(いわゆる)戸(姓氏)これにしてこの氏姓は各占住の地ありて、一国造・邑君等の領有と交錯せるものなり。これ柳々(?)私田の始めにして遂には王公諸臣等、多く山沢を占め、民と利を争う。因て、孝徳天皇改新の詔を下し、法度を拡張し、始めて海内を混一して、諸郡を建て、郡邑の大小を分ちて、国司・郡領(郡司の内、大領・小領の総称)を置き、国郡の制、ここに見るべきあり。然れども公田は六年にして官遷し野山を新に開墾したるも、年限を定め官に納むるの制なれば、開墾に力を尽くすものなり。戸口漸く多く、その食乏しきをつぐ。故に聖武天皇の天平十五年、詔して田土の開墾を奨め、私有を聴さる。大化以来の政治流弊連に至り国郡統一の旧制度将(まさ)に破れんとす。〕 《神武天皇は、倭国を平定した際に、国家を統一する為、地方を区画に分け国と定めた。その国には大小の名称があり、また県(あがた)・邑(むら)・村(ふれ)等の呼称があり、県は小国に相当し、邑や村の大きなものは小国や県と同じである。そこで、国には国造、県には県主、邑村には邑君・村長を配置されたけれど、必ずしも、それぞれに所属するのではなく、全て国に属す公地公民である(私有を認めない)。しかしながら、臣連より下位の品部(、しなべ)伴緒(とものお)などの部の人々の一部を朝廷の労務に当てさせた。いわゆる「戸」は、・・・・(以下略)》 ◎この部分に関しては、文脈から先にも挙げた栗田寛著『荘園考』(大八洲学会刊・明治21年(1888))からの引用、あるいは抄訳の感がある。しかし、現在の読者には難解な部分も多く、また一般論の記述であり、よって、当時の考察に近いものとして、昭和10年(1935)前後に出版された岩波書店の『岩波講座日本歴史』第10巻(蘆田伊人著「本邦地図の発達」第5節「荘園図」)によくまとめられた文章があるので、該当する箇所を抄訳引用し、訳注に換えたい。以下、引用。但し、抄訳現代文。 「三 田図」 「四 国郡図」 「五 荘園図」 【註】品部: 大化前代の品部は古訓に〈しなしなのとものを〉とあることから〈しなべ〉を学術用語として採用。また〈とものみやつこ〉という古訓もあることから〈ともべ〉ともいう。この品部については次の二つの考え方がある。(1)部の総称。複数の部に対する呼称。(2)大和朝廷に仕える伴造(とものみやつこ)の管理下におかれた職業部(馬飼部、鍛冶部(かぬちべ)など)と名代(なしろ)を合わせたもの。物資を貢納したり、朝廷に上番して労役に従事した。 荘園ハカク開墾セル其地ヲ賜ハリタル田ヲ別業トセルニ起リ賜田ヨリ来ルアリ功田ヲ朝ニ返シ奉ラズシテ私有シタルアリ神社仏寺ニ寄附田アリ荒地ヲ賜ハリ開墾シタルヨリ権門勢力家恣ニ公民ヲ駆役シ開拓ヲツトメ愈々其私ヲ営ムママ私墾田日ニ多ク此ノ庄田ハ国衛ノ治ニアラザレバ賦税モ軽ク調庸ノ務モナケレバ百姓之ヲ利トシテ課役ヲ遁ルヽ為メニ勢力家ノ民トナリテ公田ヲ営マズ専ラ庄園ヲ耕スコヽニ新立ノ庄園益々多ク延喜以後ニ及ビ頽勢已ニ支ヘ難ク私田私民大ニ興リ国家ハ遂ニ土地人民ヲ失フニ至ル 〔荘園は、かく開墾せる、その地を賜りたる田を別業(なりどころ、別荘)とせるに起り、賜田より来るあり、功田を朝廷に返し奉らずして私有したるあり、神社仏寺に寄附田あり、荒地を賜わり開墾したるより、権門勢力家、恣(ほしいまま)に公民を駆役し開拓をつとめ、愈々(いよいよ)その私を営むまま、私墾田、日に多く、この庄田は国衙(コクガ)の治にあらざれば、賦税も軽く、調庸の務もなければ、百姓これを利として、課役を遁るるために、勢力家の民となりて、公田を営まず、専(もっぱ)ら庄園を耕す。ここに新立の庄園、ますます多く、延喜以後に及び、頽勢すでに支え難く、私田・私民、大いに興(おこ)り、国家は遂に土地人民を失うに至る。〕 庄ヲ領スルモノヲ領家マタハ領主本所ナドト云フ当地方ハ京都萬壽寺領佐橋庄タルコト古記録ニ照ラシテ明ナリ 〔庄を領するものを領家または領主・本所などと云う。当地方は京都・萬壽寺領佐橋庄たること古記録に照らして明かなり。〕 |
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