柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
『第五高等学校一覧』によると、羽石重雄は、明治25年10月31日調べに、本科一部第一年級に在学とあり、明治24年9月に入学したと思われる。明治27年(1894)7月(第三回卒業生)、第五高等中学校本科第一部(文科)を卒業。同級生は8名で、全員が東京大学文科大学に進学した。これら8名を記載順に揚げると、次の通り。 隈本繁吉(福岡平民)、白河次郎(福岡士族)、受楽院養春(熊本平民)、 羽石重雄(福岡士族)、廣田直三郎(福岡平民)、和木貞(宮崎士族)、 三根圓次郎(長崎士族)、千住武次郎(佐賀士族) (註)受楽院養春については、「養」の字が判読できず、取りあえず「養春」とした。 この内、福岡出身者で、修猷館を卒業したのは、修猷館卒業者名簿によると羽石重雄のみであるが、原武哲(代表)・石田忠彦・海老井英次著『夏目漱石周辺人物事典』、「隈本繁吉」の項では、「久留米の中学明善校に入学、福岡の修猷館に転じて」とある。 また、受楽院養春に関しては、『東京大学一覧』の文科大学在学生あるいは卒業生を調べたが、「受楽院」の記載がなかった。これにつては、後に述べる。 今回は、これ等、五校時代の同級生の足跡を個々に追って行きたい。しかし、その前提として、修猷館、明治24年(第三回卒業生)の同級生の動向を記す。明治24年の卒業生は44名、中、第五高等中学校他、進学者で現時点で判明しているのは、次の11名である。 〇蒲池佐三太 → 医科(明治28年卒) → 陸軍三等軍医 〇権藤寿三郎 → 医科(同 ) → 福岡病院 〇白壁傑次郎 → 理科 → 理科大学化学(明治30年卒) 〇鈴木安次郎 → 法科 〇富田太郎 → 予科一部甲 〇羽石重雄 → 文科 → 文科大学国史科(明治30年) 〇水月哲英 → 文科 → 文科大学漢学科(明治31年) 〇安河内麻吉 → 法科 〇安河内健次 → 理科 → 理科大学物理科(明治30年卒) 〇山内確三郎 → 第一高等中学校大学予科(法律) 〇山路魁太郎 → 工科(理科から転科) 次回からは個別に足跡を追いたい。 Best regards
仙田楽三郎は、越後長岡藩牧野家の藩士の子として生まれた事は判っている。しかし、現時点では、その詳細が不明だ。
そこで先ず、長岡藩に仙田家があったかと言う事から取材を始めた。その結果、長岡藩には、「仙田家」が二家在る事が判明した。 〇仙田所左衛門家: 牧野頼母組、180石 〇仙田弥一郎家 : 牧野頼母組、180石 (註)ただし、弥一郎家に関しては、別に「弥市郎」の名前があり、同家なのか不明である。 また、戊辰戦争に従軍した事は明らかだと思われるところから、今泉鐸次郎著『河井継之助傳』の「長岡藩の戦死者」を調べた処、「仙田隼人」の名前がある。それによると、「七月廿九日、二度落城の際城下」とある。慶応4年(1868)7月25日(新暦9月11日)の長岡城奪回後、7月29日に官軍に依り再度落城した当日、戦死したものと思われる。 そこで、仙田楽三郎は、いずれの仙田家の出身であるか確たる史料はないが、名前から推測して、「仙田弥一郎家」の三男として生まれた事が推測される。また、仙田楽三郎の「楽三郎」であるが、御子孫に取材した所、「がくさぶろう」と読んだと云う事だが、これについても資料がない。 楽三郎が、文献として登場するのは、明治二年(1869)の事だ。戊辰戦後の教育復興の為、長岡市四郎丸の昌福寺(宗派:曹洞宗、寺号:万融山)に、小林虎三郎が「国漢学校」を開校した年に当る。この国漢学校の生徒として、仙田楽三郎の名前がある。第一回の生徒の一人と云う事だろう。また明治5年~6年には、「句読師」として名前が揚げられ、既にその才能を表していた事が推測される。 (追記)国漢学校開校当初の事を、教員の一人として加わった西郷葆(つつむ、1833年~不詳、後に表町小学校初代校長)は、 「戊辰兵燹(へいせん、兵火の意)の後、長岡藩士の疲弊は其絶頂に達し、住むに家家なく喰らうに食(し)なき悲惨な境遇に陥った。乍去(さりながら)斯る場合に於ても子弟の教育亦た忽諸(こつしょ、軽んじ疎かにする)に附すべからざるを自覚し、小林虎三郎、三島億二郎氏等先輩の唱導に依り、明治二年五月に四郎丸昌福寺に士族の子弟を集め学問を教ゆることになった。教員は田中春回氏を筆頭として、私に大瀬虎治、田中登、大原蔵太、稲垣てい吉(?、金に虎)、伊地知涵(ひたし)、伊地知元造の八名で、生徒の内には渡辺廉吉、柳澤銀蔵、鬼頭悌二郎、波多野伝三郎、根岸錬次郎、仙田楽三郎氏もあった。能く記憶せぬが生徒の数は四五十名位で、教員の給料は多額の人が年給十二両、最低は十両位で、教授は毎日午前限りである。教員は藩庁の習慣にて名義は日勤であったけれども其実隔日出勤教授していた様だ。」 と語ったとある。(信州大学『教育研究』2008年第一巻9~36Pからの復引き)、出典は、北越新報社編『長岡教育史料』。(20141020) 更に長岡洋学校の卒業との記載がある。長岡洋学校の開校は、明治5年11月23日(西暦1872年12月23日)に開校しているとされるので、国漢学校との重複期間があるのではないだろうか。因みに、明治4年頃には、「国漢学校」は、旧市役所の位置にあったようだ。その後、明治4年8月、廃藩置県により、柏崎県の管轄下に移行し、分黌(分校)長岡小学校と改称された。(柏崎町の学校を本黌(本校)としたので、他の学校は、分校と称された。) しかし、その後の履歴がよく判らない。ただ、次に書くように東京大学予備門理科理科を卒業している。しかし、「東京大学予備門」は、明治10年(1877)4月12日、東京開成学校専門科と東京医学校が合併して東京大学が新設された際、各学部(法理文)に入学する生徒に予備教育を行う学校として開設された学校である。すなわち、東京開成学校は、専門科三年・普通科三年の構成であり、予備門は、この普通科を中心に、「官立東京英語学校」が合併し、修業年限4年に再編成された新設された訳であるから、仙田楽三郎は、東京開成学校普通科に入学したと考えられる。 そこで、東京開成学校普通科について見ると、普通科の入学規則が明文化されたのが、明治8年1月えあり、その規則第二条に、「身体壮健行状端正且年齢十五歳以上二十以下ニシテ試験ノ上ヘ上第ノモノハ入学ヲ許スベシ」とあるので、楽三郎は、十五歳以上二十歳以下ということになる。また、翌9年に規則が改定され、第一条に「普通科ニ入学志願ノ者ハ次に記載スル科目の 試験を経及第セサレバ入学ヲ許サズ」とあり、試験科目としては、国書文章、英語作文、地理図誌及地政、万国歴史大綱、算術及代数一次方程式、とあり、年齢は第四条に依って、十六歳以上に改定された。 以上、東京大学百年史編集室・新谷恭明氏の『東京予備門成立過程の研究』を参照したが、また次の様なことも書かれている。すなわち、この明治9年の合格者は、総数89名中、東京英語学校が37名を主として、関係すると思われる新潟に関しては、新潟英語学校4名があるが、この年の『東京開成学校一覧』は無く、8年の一覧(この年の一覧しか存在しないようだ)には、新潟県出身者6名が数えられるが、仙田楽三郎の名前はない。 明治12年(1879)7月、東京大学予備門理科卒業。 因みに、同年、理科の卒業の新潟県出身者は、後に秋田県尋常中学第12代校長となる 杉谷佐五郎がいる。 次に卒業後の事だが、一覧には「進学」とあり、東京大学理科大学に進学したと考えられるのだが、実際には、「東京大学一覧」の在校生及び卒業生の名簿に名前がない。また、内閣府監修の『職員録』についても調べて見たが、明治19年(1886)に、 「長崎尋常中学校、(元)校長、(元)一等教諭、月俸65円」、 の記載があるまで見つけることは出来なかった。しかし、この(元)の意味は不明である。 (追記)旧制長崎県立長崎中学校(ウィキペディア)の記載を見ると、初代校長とあり、在任期間は、明治17年(1884)6月1日~明治20年(1887)10月18日(次代校長が、同年10月19日である事から)とある。但し出典は未確認。 また、『長崎医学百年史』第五章第十七節「 教員の増聘と長崎医学校の整備」に、明治18年8月15日と翌16日に開催された「長崎県有志教育会」が、長崎県立中学校体操教場で行われ、創立委員総代として「仙田楽三郎」の名前がある。またこの会で、幹事・委員に指名された。この会場で、仙田楽三郎は科学実験のデモンストレーションを行った」とあり、東大予備門理科出身として面目躍如の場面だっただろう。(20141020) 以下同『職員録』を年次ごとに辿ると、 明治21年(1888)、長崎尋常中学、教諭(月俸65円) 明治23年 福岡県中学修猷館、教諭兼教頭(月俸75円) 明治25年まで、同上、現在の福岡県立修猷館高等学校(福岡市) 明治26年(1893)、新潟県古志郡立長岡尋常中学校、校長 尚、長岡中学(現在の新潟県立長岡高等学校)では、第12代校長と記録されている。 また、この記載は明治28年まで『職員録』なく、長岡高等学校の記録に依った。 明治30年(1897)、新潟県古志郡立長岡尋常中学校、校長兼教諭(年俸960円、奏任待遇) 明治31年、 同上 明治32年(1899)、福岡県尋常中学伝習館、館長(年俸1000円、奏任待遇) 明治33年 年俸1200円に昇給 明治35年(1902)、同、正七位に叙せらる。 同年、12月、在職のまま病歿す。 以上が、現在までに、文献等より判明した略年譜だが、その後の取材で、御子孫が、新潟県在住である事が判った。 尚、仙田楽三郎に関しては、長崎県に於いて理化学教育に功績があるなど、まだまだ取材を続けなければならない事柄もあり、加筆修正する予定である事を了承されたい。 Best regards 梶谷恭巨 承前。
「越後の花柳界」 「新潟市遊郭」
新潟市は、新潟県の首都であって、日本五港の一である。 売女の起原は遠く元和以前に始まったのであるが、当時は公娼に( )あらざるが故に、
旧横七番町一丁目より同四丁目西受地町角に至る北側以北 東堀通十三番町 四ツ谷町一丁目日和山道東側以東 西受地町栄町一丁目西側以西 戸数無定限 但(ただし)古町通六番町現在五戸、同八番町現在二戸、
Best regards
承前。
「名物里謡」 大津絵(おおつえ)節(ぶし) として柏崎の寺々を編み込んで歌ったものが一時流行したそうだ。 柏崎の寺々を上から下迄申そうなら、何と云うても浄興寺、 何年たっても一念寺、嘘をついても本妙寺、損をすれども福泉寺、 夜桜を眺めて帰る西光寺、地獄の中にも極楽寺、 (註1)浄興寺: 初め真宗大谷派の別格寺院であったが、昭和27年、 寺は、別院、他に柏崎市内には、 (註2)香積寺: 謡曲『柏崎』の舞台となった寺。西本町三丁目。 (註3)一念寺: 香積寺に隣接する時宗の寺。西本町三丁目。 (註4)本妙寺: 日蓮宗の寺。西本町三丁目。 (註5)福泉寺: 日蓮聖人の高弟・日朗上人が開山した。また、枇杷島城主・ (註6)真光寺: 別に、西山に同名の寺があるが、文脈から浄土宗の寺と思われる。 (註7)西光寺: 同名の寺が三ヵ寺あるが、夜桜から推測し、 (註8)極楽寺: 同様に、同名の寺が三ヵ寺あるが、地域から推測して、 (註9)洞雲寺: 同様に、地域の関係から、常盤台の曹洞宗洞雲寺と思われる。 夕ぐれ の歌に因んだ鏡沖の風景。 夕暮れにながめ見渡す米山や月かげうつる鏡沖、 蛙(かわず)なく雨蛙(あまかわず)あすは雨ではないかいな―― (註)鏡沖: 現在の「鏡が沖中学校」の辺りか。この辺りには幕末「鏡里村」 たようだ。 楼名都々逸(ろうめいどどいつ) 某粋士の作、仲々妙趣がある。 君は今頃山口あたり、かすむ姿を日のはらす、 すだれ下して流るゝまゝに、ふたり河内の涼(すずみ)船(ぶね) 小島高徳まごゝろこめて、君をまつみの筆のあと、 関を越路の源氏の武将、静のおたまきくりかえす、 雨に遠音(とおね)の品川千鳥、港泊りの旅枕、 露になりたや千草の原で、今宵一夜を月見草(ぐさ)、 いろは、桜に香(にお)いは梅に、松はみどりの節(みさお) としま見がくれ若松林、水に番いの都鳥、 浮名高はし人目をしのび、小石川原の蛍狩り (註)小島高徳: 児島高徳の事と思われる。南北朝時代、 蠡の無きにしも非ず」という、 三階(さんがい)節(ぶし) 柏崎の名物の一つであって、全国に喧伝されて居る歌で、 ある。尤も此歌の中には聞き苦しい節もあるが、 歌の草創を尋ねて見るに、 出家さ出家さと恋にするー、出家さアー、出家さの御勧化( と歌ったのが、始めとなったとの事である。 下宿(しもじゅく)番神堂は、よく出来たー、御祓(ごはい)、 根埋(ねうま)り地蔵や立地蔵―佛、佛に似合わぬ魚の売買( 蝶々(ちょうちょう)蜻蛉(とんぼ)やきりぎりすー、山でー、 米山(よねやま)ながむればー、煙か霞か白雲(しらくも)棚引( 谷(たん)根(ね)河内(かわち)や青海(おうみ)川(がわ)― (註1)御勧化(ごかんげ): 仏の教えを説き、信心を勧める事。 (註2)新町宗吉: 明治の生んだ名棟梁で、四代目篠田宗吉の事。明治10年、 米山(よねやま)甚句(じんく) 全国に知れ渡ってる名歌であるが、其始めを探るに、 ら)砂(すな)(幕下三段)と云う力士を出した事がある。 二を記せば、 行こうか参(まえ)らんすか米山薬師、一つや身の為め、サ、主( つげる横(よこ)櫛(ぐし)、伊達(だて)には差さぬ、 この他新作が続々ある。 おけさ節 の起源は種々(いろいろ)あって、一は其口碑(こうひ) う)を聞(き)えて、尼僧達が袈裟衣の儘(まま)、鼻謠( の事である。又越後の婦人誌上に、 文政十二年浪花で、東都の白頭子柳魚と云う人が著わせし、 雁八は一個だめ声高やかに此の国の流行唄、 桶佐正直次傍眼。桶佐猫兒姓乎好戯。 おけさ正直なら、傍にも寝しょうが、 と見えた。又最も人口に膾炙して居る所の、 おけさ見るとてよしで眼を突いたョ、 と云う歌に因ると、おけさとは業平にも譬う可き美男子か、 降の事であろうと思われる。 尚お一説に昔し江戸の深川に某氏と云う豪家があって、 物を能(あた)える事が出来ず、遂にみけに其因果の憂目( 女屋へ売って呉れと云うから、老母は直ちに女衒(じょげん) 色非常に宜く新に一曲の短歌を作り出した、 兎に角吾が柏崎に於ても、盂蘭盆(うらぼん)其他杯盤( が、仲々元気のよい歌で越後名物の一として各国に喧伝して居る。 竹の小口にスコタンコタンとなみなみたつぶりたまりし水は、 歌「すまず濁らずヤアレ出ずいらずー」 京都じゃ三十三間堂、佛の数が三万三千三百三十体迄ござる、下( 下宿(しもじゅく)番神、柏崎閻魔さん、荒浜諏訪さん、 アイヤ所のぢさんばさん、友達誘うて、青竹杖突き握飯( 歌「あれが佛さんだとヤアーレいうてーまいるー」 鉢崎(はっさき)柿崎柏崎、下(しも)にさがりし出雲崎、 佐渡わかめ、いからしほしこは、すなだらけ、 おけさ踊と、磯うつ波はヨ、いつも心がヤーレいそいそとー。 胸に千(せん)把(ば)の、かやたくとてもヨ、 こいというたとて、往(ゆ)かりよか佐渡へヨ、 尚お此他無数である。 (註1)佐藤嗣信・忠信: 源義経の四天王、義経挙兵の折、藤原秀衡の命で義経に従い、 治で離別、今日に潜伏するが、密告により襲われて、 (註2)白頭子柳魚: 後記『総援僭語』の作者であるようだが、 字)、画を岳亭丘山が書いている。関心のある方は、 ワードで検索したがヒットしなかった。 (註3)総援僭語: 市立図書館で検索したが、この書はなかった。 (註4)娟妍(せんけん):るびは「せんけん」になっているが、 (註5)慶元: 慶応・元治の頃ということであろうか。因みに、 甚句(じんく) は種々あって、長岡甚句、 に歌って踊って居る。 と云うものを三度続けて招(よ)んだので、 が、其時おりんが歌を作った。 甚九は越後の甚九越後の甚九は世界の花じゃ、 踊り歌 今を去る十有余年前柴田屋という踊りの師匠があって、 花見月空も長閑(のどけ)き八坂(やさか)たの、 歩む姿は小町(こまち)姫、今日の大町(おおまち)楽しみに、 浮いた世界の扇町(おおぎまち)、花に荒(あら)町(まち) 写す柏の花盛り、そとにもなびく塔(とう)の原(はら)、 あさくとも節 左に記す二首の歌は一時全県下に唄われたもので、 の事である。 金銀の為めでお主に王て飛車、桂馬のてくだにかけられて、 人は武士、花は吉野の山桜、旭に香(にお)う勇ましさ、 (註)漢詩人山田箱筠翁: 手の届く範囲で調べて見たが、不詳。尚、内山智也先生の著作に『 に、内山先生は、筑波大学退官後、 ており、御近況を知らない。 今回は長くなった。出来るだけ調べて見たが、 い。 Best regards 梶谷恭巨
承前。
「柏崎の名妓」 古来吾が柏崎にも名妓が多くあった。明治初年の頃、 氏名を扇吉、扇蝶、扇山と云うて、 粋士越中山人と云う者、戯れに一詩を作った。 扇吉扇蝶又扇山。三扇之中山為關。此婦従来名声遠。 (扇吉扇蝶また扇山、三扇の中、山関を為す、 の第一の顔。) 扇(せん)蝶(ちょう) は本名をたせと云うて、長岡草生津(くそうづ)の生れで、十 二歳の時に扇屋に身を沈め、十五歳の時迄遊芸万般を見習い、 全盛を極めた者であるが、 落籍(ひか)せて其妾(しょう)とし、 行ったが、其時の費用は二千有余円を要したとのことである。 金八、料理人の森山文蔵、 扇(せん)吉(きち) は岡の町の豆腐屋の娘で、母親は彼の六歳の時扇屋へ三両で身 を売ったそうである、長じて歌舞妓となったが、 は、香積寺の弁財天に祈誓を籠め、 使銭なども無き頃なれば無論賽銭抔ある筈なく、 し風雨を厭わず、参詣せし甲斐あって、 為めには城を傾け国を亡ぼしたものもある位で、 て、彼の歓心を買ったとの事である。之が為め扇吉は座(い) なし、錦の波の寄せるが如く、何不足なき身となり、箪笥が七本、 裳髪道具縮緬の夜具が五通り、紬縞が二通、 抔と云う時は十数日も掛った位で、 (くわ)えて支払をしたそうで、 斯くの如き全盛を極めた彼も寄る年波には勝ち難く明治十七年春廿 て、世帯を持ったとの事だが、今は早や地下に其昔の俤( ろう。当時の俗謡に はやる新町扇屋の前へ 扇吉居るかと通うて来る と以て彼の如何に全盛を極めたかが察せられる。 は、弁財天の御利益であるとて、 扇山(せんざん) は長岡生れのものであって始め新潟に至り、後ち柏崎に来たとの 事でくぁる。 小若(こわか) は元士族の愛娘(むすめ)であったが、明治十年の頃、 の身となった。容貌美しく、歌道に通じて、歌人遊女と囃(はや) 會(たまた)ま西南の変報を聞いて国風ニ首を詠じた。 御軍(みいくさ)の事の起りは知らねども 勝つも負けるも同じ国人(くにびと) 浦安のゆたけき国もつくし潟 国のはてには波の音(ね)ぞする 小薩摩(こさつま) 元禄の頃の遊女で、歌俳諧を能(よ)くしたものだとの事であ る。 白露の菖蒲は軽し洗ひ髪 浅尾(あさお) 是も元禄の頃の遊女である。 八月十五夜たのめける人のとはざりければ もろともにみてこそ月も月ならめ 空たのめにもふけゆくはなし 刈(かり)藻(も) 同じく元禄の頃ならん。 河竹のよそにながれの名を立てヽ 枕さだめぬうきねにぞ泣く 道(みち)柴(しば) 是れ又何時の頃か知らざれど、風雅に富みたる遊女であったよ うだ。其残れる一句を記せば 梅が香(か)に無垢(むく)恥かしき化粧水(けしょうみず) 小(こ)〆(しめ) 桜屋の芸妓で、美妓として其名を知られて居たが、明治二十六年 の早春、殊勝にも緑なす髪を切って仏門に帰依し、 た。其原因を探れば、 の心に責められて、遂に斯くの次第になったのである。 小花(こはな) は十数年前の名妓で、片桐某の寵厚く、宴席に侍って歌うときは、 其声調の美妙なるに聞くもの嘆美せざるはなかったが、就中( て居た。嘗(かつ)て江戸錦絵に画かれて坊間に伝えられた。 きみ 緑屋の遊女で、都々逸(どどいつ)を作って曰く。 けんさあとでも疑い深い お前御医者にして見たい 小よし 千種屋の抱え遊女で、同じく都々逸を物して曰く つもちつもりし口舌の種も とけてうれしい春の雪 尚お此外八ッ橋、小稲、綾衣、仲吉、一羽、一声、この浦、玉浦、 千代吉、おしま、おたけ、小芳、音羽、小青、八重、小蔦、 あったが、 明治卅八年柏崎新聞社(今の日報)で、 の投票を遣ったが、技芸の部に於て、 一等 河内屋 みす 二等 山口屋 金助 三等 河内屋 千代 の三名当選した。又容貌の部では、 一等 河内屋 小咲 二等 千種屋 みち 三等 千種屋 とみ の三名であった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 夕ぐれ 夕ぐれに眺め見あかね極楽寺、月に風情を稲の露、 水底に草(?)が見ゆるぞい、アレ蟲の声、蟲の名に松蟲 鈴蟲轡蟲 特に注釈もない。 ただ、最後の所、活字がつぶれて判読できない。 それにしても、星野藤兵衛の豪遊ぶり、また扇吉の全盛の様子、 巷は、変わらぬものなのだろうか。 Best regards 梶谷恭巨 |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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