柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

「雑事」(8)

遊郭に就いての発刊物 明治十三年の頃、新板花案(シンバンヒョウバンキ)と云う
ものが出たが、是は当時の芸娼妓を評したもので、又番附になって居た。

 同十四年九月 酔花情史と云う者、新情譜と云うものを出した、矢張芸娼妓を批
評したものである。

 同十四年四月 妓楼の軒数及び芸娼妓数を調査せるもの、

   貸座敷二十軒、娼妓七十九人、芸妓十二人

 同十七年 新情譜第二輯出ず、同じく芸娼妓を評したもので、又当時豪遊をなせ
る者は宮川勘太郎、松村寛十郎と見える。

 同年又々芸娼妓の番附表が出た。時の大関芸妓では緑屋の小春、娼妓では千種屋み
よとあって、一々評が附してあったが他は略して置く。

 同十八年一月下旬 巷の花一覧表というものが出た。是には楼名及び芸娼妓名を録
したものである。

(註1)酔花情史: 不詳。

(註2)新情譜: 不詳。ただ調べて見ると、成島柳北が、『新柳情譜』と云うの
を書いている。しかし稀覯本で現物は、一時、「日本の古本屋」に出品されていたよ
うだが、現在は入手不能。近代デジタルライブラリーで探してみると、原本はない
が、昭和八年(1933)に高梨光司著の『読書の興味』という本の中に、「成島柳北の
新柳情譜」と謂う一節があり、それを紹介している。本文中紹介の『新情譜』は、
柏崎の事を書いたものであろうが、柳北の『新柳情譜』を擬して書かれたものではな
いだろうか。ところで、この本(『新情譜』を含め)の概要が判るので、また面白
いので少々長くなるが紹介しよう。また、『読書の興味』自体、興味深いことを付け
加える。

『読書の興味』高梨光司、私家本、1933年刊

「成島柳北の新柳情譜」

  宮武外骨翁から贈られた「公私月報」第二十八号を見ると、成島柳北の「新柳情
譜」のことが載っている。柳北の戯著では「柳橋新誌」二巻(三巻もあるにはある
が、発売禁止となったため、本が極めて稀だ)と、「京猫一斑」などが、世に聞えて
いるが、「新柳情譜」とは、初耳である。この書は流石の外骨翁もマダ知らなかった
と見え、客冬東京浅倉屋の目録に出るが早いか、性急な翁は自動車で駆けつけたとの
ことだ。

  勿論、「新柳情譜」は未刊の写本で、明治二十二年五月、二十四番の話信に擬し
て、新橋芸妓十二名、柳橋芸妓十二名の評価を、柳北一流の奇警犀利(奇抜で並み外
れて、才知が鋭く物を見る目が正確)の漢文で記し、それに各一首の漢詩を附したも
ので、巻頭に信夫恕軒の序文があり、第二篇には更に同数の芸妓を挙げ、当時の遊び
友達であった末広鐡膓(テツジョウ)田邊蓮舟、服部撫松等の関係筋まで併記してあ
るそうだが、そのう内容の一端として、外骨翁の挙げられたものに依ると、

  園性善嗔善罵(園、性善にして、善のののしるをしかる)、嬌舌如刃(頬舌、刃
の如く)、雖豪士論客(豪士論客といえども)、亦無不辟易(また辟易せざる無
し)、園毎罵余曰糸瓜翁(園、罵るごとに、余曰く糸瓜翁)以余面長絲瓜翁(余の面
長を以て糸瓜翁と)、其罵人之妙概如是。(その罵る人の妙概かくの如し)
の類で、此れは柳橋の芸妓阿園を評した一齣(シュツ)である。顔が人並み外れて面
長で馬面先生の綽名のあった柳北が、逢う毎に此妓から「ヘチマオヤヂ」と罵られた
など、頗る面白い。(後略)
 今回は刊行物と言う事であったが、柏崎市立図書館(ソフィアセンター)で検索し
たところ、一件もヒットしなかった。柏崎は、戦火にも遭わなかったと聞いている
が、『新柳情譜』の第三巻が発禁処分になったように、風紀上宜しくないとして、収
蔵しなかったのであろうか。そこで、近代デジタルライブラリーで「新潟県」+「芸
妓」でクロス検索したところ、二件のヒットがった。一つは、『新潟市案内』、何と
これを発刊したのは、新潟市政記者クラブ(大正7年)なのだ。興味深い。また、も
う一件は、『にいがた』著者は山川松南、出版者は新潟市料理店業連盟会(大正15
年)である。柏崎と比較する上でも参考になると思われるので、追って紹介したい。
因みに、他の市村、例えば長岡についても検索してみたが、ヒットしなかった。長
岡や高田の場合、戦災に遭っているので、その所為かもしれない。

Best regards
梶谷恭巨

承前。

 

「雑事」(7)

 

白浪庵滔天 一度は支那革命党の首領と迄称えれれた、白浪庵滔天は、僅かに其身を浪花節界に投じ、諸国に興行をして居ったが、四十二年八月の頃、柏崎にも来て、の尽力を以て盛んなる興行を遣った。当時阿部楼に於て某有に招かれた事を雑誌『日本及び日本人』のよもや日記に書して置いた。曰く、

  「老妓豊松、宴席に侍る、曰う此間東京から俳諧のの先生の来られた時、当地の歌を所望されて教えて上げたが、貴君(アナタ)には其時教えなかったのを教えましょうと、得意の美声を張上げて歌う、歌に曰く、

    今のさアー、若衆はヤレー、

     焼山わらじの衆だとさアー、

      いつも目元がさア、かぎとヤレ、かぎとヤレー

  右は柏崎俗謡の一つ也、左の二節は、広大寺と称し、頼山陽の画の師なる如雲和尚の放埓を罵倒したるものなりと。

    新保さアエー、広大寺がヤレ、めくりこいてヤレー、まけたとさアー、

袈裟も衣も質にヤレ、おいたとさアー、

    お袈裟さアー、踊るならヤレ、板の間でヤレー、踊れよさアー、

     板の間響きでヤレ、三味やいらぬさアー、

 めくりこいてとは賭博を意味すと、淡如たる罵倒寧ろ愛す可し、而(シカ)して歌の調の平坦にして余韻ある、言うにいわれぬ妙味あり。

 

(註1)白浪庵滔天: 宮崎滔天の事。滔天に関しては、膨大な史料があるあるが、今の所、手が出せないのが実情である。

(註2)よもや日記: 『よもや日記』は、宮崎滔天全集第四巻に収録されている。しかし、しかし、柏崎市立図書館の蔵書になく、また古本についても調べて見た結果、全集揃いはあった。しかし残念ながら、全集はプレミア付、とても手の出せる価格ではない。そこで、バラ本を調べたが、第四巻だけが見つからなかった。この第四巻には、史料的価値のある日記等が収録されているようだ。また、滔天の自伝と云える『三十年の夢』には、浪曲師時代の事が詳しく書かれていない。しかし、柏崎との関わりに付いては、何とか調べたいと考えている。

(註3)広大寺: 「新保広大寺」という新潟県で広く歌われた踊歌であるようだ。インターネットで調べると、中魚沼郡下条村新保(現在の十日市)の禅寺広大寺の和尚が、門前で豆腐屋の若後家お市との馴れ初めが評判となり、流行歌として江戸中期頃には、江戸市中でも歌われていた、と云う。しかし、頼山陽との拘わりについては、今の所掴んでいない。ただ、幕末、頼三樹三郎が柏崎を訪れているので、その事が印象に残っていたのではないだろうか。

(註4)頼山陽: 膨大な史料があるので、省略する。ただ私事だが、最初に読んだ歴史書が『日本外史』であり、漢詩としては『泊天草洋』だった。

(註5)如雲和尚: 不詳。頼山陽に関わる事なので、追って調べたい。余談だが、私の祖父・湯浅唯一は、戦前、広島の頼山陽塾の塾長をしていた。しかし、私が生まれる前年、白寿を迎えて間もなく死去しているので、直接当時の事を聞くことは出来なかった。

 

 今回は、調べると事がなく、この程度で取りあえず終えることにしたい。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前。

 

「雑事」(6)

 

俳星碧梧桐 四十二年六月の頃、我が北越の各地を行脚し、柏崎にも立ち寄られたが、当時雑誌『日本及び日本人』続一日一に書して曰く、

  越後は言う迄もなく美人国である。其の中にも新潟、岩室、寺泊、地蔵堂等を美人の産地とする。それらの地方は、地図上越後の腹部、丁度臍の辺に当るのも奇だと言えば奇だ、殊に新潟を始め寺泊、地蔵堂など水の悪さは驚くべきで、炊ぎ水は多く買ってをるような有様である。京美人に鴨川を連想する例からいうと、大きに勝手が違う。是も一奇とす可きである。

  上越では高田、柏崎、下越では新潟、新発田を中心にして、俳句は到処に確信されつつある。之を一昨年の冬に比すると、長岡を除外にして殆ど別人の観がある。越後は美人国と云う外、今や俳諧国を建設しつつある。

  三階節と米山甚句は柏崎が本場で、オケサは出雲崎が本場で、甚句と追分は新潟が本場で、ヤラシャーレは直江津があるそうな。外に新潟甚句、岩室拳等も特殊のものである。越後はやがてまた歌謡国である。

  概して言えば信濃人には油断のならぬ所がある、越後の人には心安だて過ぎる処がある。彼と対するのは主客的で、是に接するのは家族的である。地勢上からいうても、前者は山の如く、後者は川に似てをる。固より多くの除外例はあるが、僅に一国境を越えた許(バカ)りで、其差は著しく身に訴える。

  柏崎辺には、今頃とれる牡蠣がある。身も大きく味も美である。此の辺では冬季に牡蠣という感じはない。夏に限るという。思うに、冬は波浪の洗い為め、採取することが出来ぬ。漁業の習慣上、夏を主とするようになったので、夏牡蠣の外、河豚も亦た此頃に限るという。

  きのう、きょう、あすは閻魔市というて、柏崎の一年中最も雑鬧(ザットウ)する日であるという。金魚、植木、木綿売りなどが、大道に店を張ってをる様子は、東京の縁日と大差はない。東京で毎夜約十箇所もある縁日の賑いが、柏崎では一年一度しかない、とすると、柏崎は東京の三千六百五十分の一に当るなどと思う。

 

(註1)俳星碧梧桐: 河東碧梧桐、本名は秉五郎。 明治6年(1873)2月26日~昭和12年(193721日、松山藩士・藩校「明教館」教授・河東坤(静渓)の五男として生まれた。正岡子規の6歳下、秋山真之の5歳下で、松山での様子は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しい。後、高浜虚子を誘って、正岡子規の門下となり、「子規の門下の双璧」と云われるが、従来の伝統を守る高浜虚子と対立し、自由律俳句の指導者的存在となる。

(註2)日本及び日本人: 『日本及び日本人』は、明治40年(1907)1月1日~昭和20年(1945)2月まで出版された言論誌。主宰は三宅雪嶺。詳細は省略。

(註3)続一日一信: 「一日一信」は、当初、新聞『日本』に掲載されたが、三宅雪嶺が、雑誌『日本人』と新聞『日本』の伝統を継承するとして、『日本人』を『日本及び日本人』と改名した後、同誌に「続一日一信」として継続掲載した。これは、河東碧梧桐が、芭蕉の『奥の細道』を擬し、明治39年8月6日に東京の自宅を出発、全国行脚の旅に出た時の日記であり、後に『三千里』と題して、昭和12年に出版した。しかし、長岡滞在中に、母親が脳溢血で倒れたととの報せがあり、「十四年前父の病床に侍することの出来なかった身は、せめて母の為めに薬餌の労をとりたいと思うのである」と、旅程を断念、12月12日、長岡で昼は、詫状等書き、夜送別の宴が張られ、翌13日、帰宅している。

(註4)引用文について: 『三千里』には、同一文章の掲載がない。ただ、12月4日の記事に、「越後の歌には甚句があり、オケサがある」とある。しかし、美人に付いての記載は、11月22日、佐渡の小木で、「小木は美人の産地だけに淫風は殊に荒んでをる。云々」がある外、通読した限り見当たらない。また、同様に、柏崎に関する記載は、先の甚句云々のみだ。よって、この件に関しては、再度調べるとして、「続1日一信」に掲載されたが、『三千里』では省略されたのかもしれない。ただ、『三千里』は、当に旅日記であり、かなり細々したことも書かれているので、判断に苦しむ所である。因みに、『三千里』全二巻は、昭和12年三月、東京の春陽堂書店より発刊されたものである。

 

 以上、河東碧梧桐に関する項目だが、先の様な事情で検討する必要がある。そこで、『三千里』に関しては、新潟入り後の日程を追って、別に紹介したい。と言うのも、一読する限り、実に興味深い、あるいは当時の事情を知る上で、史料的に重要と考えるからである。

 

 余談だが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んで、当時の状況にそれなりのイメージを持ったのだが、河東碧梧桐に関して調べ、また別に読んだ史料などと相まって、何かしらイメージが鮮やかになった感がある。視点の位置が変わると、平面的に見えた風景が、鳥瞰図の如く立体感を以て展開するのを実感した次第だ。

話は変わるが、昨日、辻邦生の『フーシェ革命暦』の第一部を読み終わった。フーシェの回想録の形をとって描かれたフランス大革命も、先と同じような感覚で見えてくる。何しろ、第一部だけで二段500ページを越える大作。示唆する処の多い作品だった。これについても、後日、感想など書きたいと思っている。

 

Best regards

梶谷恭巨

 本来は、「余話」として書いたのだが、ブログでは22号として。

 「瓢宅」について、面白い記載を見つけた。明治
45年(1912)刊『商工名鑑』(名古屋商工社)の刈羽郡柏崎の欄に何軒かの高校が掲載されている。この中に「瓢宅」がある。それによると、この「瓢宅」は、和洋小間物商とあり、住所は「長」、電話「六八番」とある。また、主人の名前として、「高桑平八」とあった。

 

 又「岩戸屋」だが、今まで駅前にあったのが本館と思っていたが、意外に手広く、明治35年の『越後の婦人』の広告には、柏崎停車場前「岩戸屋支店」柏崎中央「岩戸屋本店」、更に、明治45年の『商工名鑑』(明治45年、名古屋商工社刊)によれば、住所が「枇杷島村字塩込」とある。地図を調べて見ると、驚いたのは、枇杷島は、現在の枇杷島小学校辺りのみかと思っていたら、鵜川の西岸に飛び地として、今の剣野辺りも、これも驚いたのだが、下方の村社である若宮神社も枇杷島に含まれているのだ。そこで、「塩込」を探したところ、字として「塩込」があるのは、現在の駅前一丁目字塩込と幸字塩込の二ヵ所がある。

 この塩込の「岩戸屋」が本館で、駅前の現在のグリーンホテルの所が別館だったようだ。また、大正三年の『商工名鑑』新潟の部(名古屋商工社刊)によると、東京神田区平永五番地にも進出していたようだ。今のところ、それ以降の史料がないが、もしかすると、関東大震災(大正12)で、東京の旅館は撤退したのかもしれない。

 尚、当時(明治45年)の岩戸屋主人は、中野平右衛門と云う。

 

 今日は、一日、史料探しをしていた。そこで判ったことは、柏崎と云うが、現在とは全く異なる様相であったという事だろう。何しろ、近代デジタルライブラリーで、「新潟県」と「刈羽郡」の検索結果は、78件に及ぶのである。因みに、これを「新潟県」のみで検索すると、1000件を越えるのである。勿論、キーワードにもよるのだが、時として思わぬところに、今まで探していたのに見つからなかった文献が見つかることがある。例えば、今回収穫だったのは、『館林郷土叢書』だ。以前は、館林市立図書館などに問い合わせをしていたのだが、第一輯を除き第六輯迄、ダウンロードする事が可能なのだ。その第二輯に「生田萬」が纏められている。以前、館林市立図書館で、「生田萬」に関しては、館林に残る全資料が、ここに集められていると聞いていたので、まあ大収穫であった訳だ。

 

 その外にも、時代毎の比較検討をすると、意外な事実に出くわす。例えば、巻の出身である江戸後期の大書道家・幕末の三筆と云われた「巻菱湖」が愛用した筆を作っていたのが、柏崎枇杷島の筆屋「宝雅堂」なのだ。広告文(『越後の婦人』)によると、「宝雅堂は享和三年の創業にて明治三十五年を以て満一百年記念筆を製造発売せり」とある。筆は、「文人墨客」と云われるほど文人には不可欠な道具である。菱湖流の名が残るほど、あるいは逸話の多い巻菱湖が愛用したという事実は、意外な背景を予感する。

 

 いずれにしても、柏崎の時代に伴う歴史は、今の柏崎人が知らぬ底の深い広がりを持つものと感じるのである。それにしても、先に揚げた館林の様に、柏崎も、歴史叢書くらい編纂できるのではないだろうか。館林市の人口は、およそ8万人弱、歴史・観光資源は、館林以上のものがある。傍目から見ても、何処か納得のいかないものがある。

 

 余談だが、館林藩は越後との関係も深く、詳しくは調べていないが、越後杜氏の発祥にも関わりがあると聞いている。また余談だが、我が女房殿の父上は、長年、館林の分福酒造で杜氏を務めた。因みに、「分福」は、茂林寺の「分福茶釜」に由来する。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前。

 「雑事」(4) 

一九先生 文政天保の頃、十返舎一九が北越漫遊に来たが、其道程(ミチノリ)は高田より柏崎、長岡、出雲崎、新発田等を経て会津に出て帰国された。当時吾が柏崎の遊女が如何にして其嫖客(ヒョウカク)に接して居たかを見るに、一九が著した「金の草鞋」に左の如く書いてある。 

  夫より柏崎に至り、金子九兵衛(旅館屋)という方に泊る、此の処至って繁昌の処にて、遊女もあるし相宿の人々と打連れて、瓢宅(娼館)という茶屋に至りて、大騒ぎに楽しみける

  三階節うら「ちょいと御意見申そうなら、髪をー島田にいうより、心を島田にしやんとても、

 コリャしゃんともて、しゃんともて

  客「こいつは縮一反踊りなくした。仕方がない、もう一反踊りなくしてやろう有興(うま)い有興い、有興いから皆なが笑って呉れねへければ始まらねいや、なすびのねへァかねのねへァだ、俺(オラ)が国の鰌(ドジョウ)屋は。皆乃公(オレ)が弟子だ、

女郎「ヤトセヤトセ、こうして踊って居るが、何よりかおもしろい、どうぞ此踊をいいたてに、誰れぞ抱へて呉れぬか、給金は要らぬ、其代(カワリ)酒を一日に五升づつ呑ませて呉れると、夫れで何にも希望(ノゾミ)はないが、同じならば給金もたんと欲しい。

 三階節うた「○○すりゃ孕むと覚悟せよ、蕎麦屋ァ蕎麦屋の爺(オヤジ)が辛(カラミ)にするとて卸させる、やとせやとせ。

 こうも余程踊は下手の横好だぜ、踊は木印さまが一番手に入れたものだのし。 

と見えた、尚お此時一九先生は、狂歌をニ首作って、瓢宅の主人に示した。 

  おもしろや将棋の駒の瓢宅に

       なりこむとはや金の勢ひ

  其頃は五月(サツキ)ならねど餅の名の

       柏崎にて夜を更(フカ)したり 

 瓢宅の主人又文藻に富んで居たとの事であるが即座に左の如き返歌を送った。 

  将棋ばん駒に撰(エラ)みはなけれども

       ふのなりきんはありがたくもなし 

下図は、『金草鞋』第十四編、柏崎の図


序に、鯨波の図も付け加える。

 

 内容については、特に注釈をしないので、読者諸氏にお任せする。ただ、少々付け加えると、『金草鞋』第十四編は、本文とは逆回りで、冒頭が会津若松で、高田で終わっている。 

 十返舎一九の『金の草鞋』については、以前何度か紹介したが、何しろ読解に一苦労。かなの崩し文字一覧表と見比べながらの解読だが、これが又一筋縄ではいかない。内容は、十返舎一九らしい諧謔があり、実に面白いなのだが、何とも歯が立たないのが事実である。これらは、近代デジタルライブラリーに所蔵されているので、興味ある方は、挑戦してみてはいかがだろう。


線香代を定めたる人 明治七年貸座敷業の許可となるや、時の有力家西巻永一郎氏と云うが、娼妓の玉代を三十銭、芸妓揚代を一夜四十銭と定めたそうであるが、是れ柏崎に於て、娼妓よりも芸妓の線香代の高くなった初めである。尤も此時芸妓は、線香一本(凡一時間)十銭と云う時間制をも決定し始めたのである。 

(註1)西巻永一郎: 明治11年8月の郡区村編成法により、同年8月二十日、新潟県第五大区副長・第五小区及び第六小区長に任命されている。因みに、この時の大区長は、山田八十八郎、『柏崎刈羽物語』の著者として知られる当時の代表的文化人でもあった。

 

柏崎の蜀山人 を以て任じて居た、勝田の老人は仲々の豪遊家であったそうであるが、当時の名妓を読み込んで作られた狂歌がある。

 

  若葉かし文字文字せずとはや小稲

      いくら云うてもきかぬやつはし

 

(註2)蜀山人: 大田 南畝の事。寛延二年三月三日(1749419日)~文政六年四月六日(1823516日)、御家人、江戸中期(天明の頃)を代表する文人。

(註3)勝田の老人: 勝田は、現柏崎市高柳門出字勝田の事か。大正3年版『新潟県刈羽郡地価持一覧』(1914年刊)を調べると、門出の豪家は、村田家(分家と思われる家も多い)と中村家だが、詳細は不明。余談だが、高柳には「旦那」が多かったそうだ。例えば、高柳岡野の村山家の庭園「貞観園」は有名。

(註4)「文字」「小稲」「やつはし」: 名妓と言われた娼妓。この中で、「文字」は、後段「柏崎の名妓」の「扇蝶」に、幕末の豪商、勤皇家で、近藤芳樹と親交を持ち、北越戦争では私財を傾けて官軍を支援した星野藤兵衛が、「扇蝶」を落籍し、中山道から京阪に観光した件があるが、そこに「文字太夫」という名妓と、四谷の渡辺金八、料理人の森山文蔵を従者として伴ったとある。文中にも「名妓」とあるから「文字」は、この「文字太夫」のことであろう。また、関甲子次郎(甲子楼主人)著『越後の婦人』(明治355月刊)の名妓に関する記事を調べて見たが、三組かの名妓の写真の中に、先の三名妓は掲載されていなかった。余談だが、この書に掲載された名妓は、「柏崎柳巷の美」に、千種屋つる子、月見亭とよ子、越路屋歌吉、都楼おきみ・えん子、「越路の雪」に、高田大黒屋大吉、同和田屋亀子、三條大塚楼千代松、新潟小川屋安子、三條玉屋たづ子、「柏陽遊里の艶」に、河内楼ちよ子、千種屋みね吉、都屋うめ子、品川楼たけ子・ちえ子、「趙痩楊肥」に、直江津塩谷楼萬歳、出雲崎金秀楼小いし、長岡小村屋きん子、糸魚川佐々楼なみ子の写真が掲載さえれている。

尚、「趙痩楊肥」とは、「痩せ型の趙飛燕と豊満型の楊貴妃を比べた」言葉。写真が、と言うよりも本その物の経年により、劣化してよく見えないが、恐らく、当時の越後における「美人」の典型であったのだろう。また、名前を挙げたのは、社会の裏面に生きた女性たちの存在に敬意を払っての事である。

 

 今回は、二項目を紹介した。また、関甲子次郎の『越後の婦人』を紹介したが、今後も、史料を探し、注釈に順次紹介し、比較検討を行っていきたい。

 

Best regards

梶谷恭巨



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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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