柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
調べて居たら『吾妻鏡』の読下し文のサイトがあった。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~ ただ、『吾妻鏡』が今回の本題ではないので、なるべく早く『
今回は、兎に角時間が掛った。中世史は得意ではないが、
ところで、「佐々木氏」は、近江国佐々木庄に住した所から「
さて次回だが、これがまた中世史に関わってくる。「里見氏」 『くぢらなみ』(9)の続き。 (3)「元暦元年十二月廿六日」の段に、→ 第二冊169頁5行目
廿六日 辛巳(かのとみ) 佐々木三郎盛綱、自馬渡備前国兒嶋、 (二十六日辛巳(かのとみ) 佐々木の三郎盛綱、馬より備前の国児島(こじま)を渡し、) 追伐左馬頭平行盛朝臣事。 (佐(さ)馬(ま)の頭(かみ)平の行盛の朝臣(あそん)を追伐 今日以御書蒙御感之仰。其詞曰、 (今日、御書(ごしょ)をもって御感(ぎょかん)の仰(おお)せ 自昔雖有渡河水之類、未聞以馬凌海浪之例、 (昔より、河水(かすい)を渡すの類(たぐい)有りといえども、 盛綱振舞、希代勝事也、云々。 (盛綱が振る舞い、希代(きだい)の勝事(しょうじ)なっり、
(4)「元暦二年六月廿五日」の段に、→ 第三冊80頁6行目
廿五日 丙子(ひのえね) 佐々木三郎盛経者、平家在世之程者、 (二十五日丙子(ひのえね) 佐々木三郎盛(もり)経(つね)は、平家在世(ざいせ)の程(ほ 奉背源家、於事現不忠、而彼氏族城外之後、 (源家(げんけ)に背(そむ)き奉(たてまつ)り、事に於(お) 奉追従、遂去年一谷戦、子息俊経討取越前三位通盛、訖。 (追従(ついじゅう)奉(たてまつ)り、去年(きょねん)一ノ谷 仍雖望其賞、令悪先非給之間、敢無御許容之處、 (よって、その賞を望むといえども先非(せんぴ)をにくましめ給 属侍従公佐朝臣、頻依愁申之、募子息之功、 (侍従(じじゅう)公佐(きんさ)の朝臣(あそん)に属(ぞく) 本知行所者可被沙汰付之申、有御契約、云々。 (本知行所(ちぎょうしょ)は、沙汰(さた)に付けらるべきの由
今回は、ここまで。
Best regards 承前。
その前に、前回の『東鑑』あるいは『吾妻鏡』に関連して。『
前後するが(本文の後に書いている)、取りあえず、
それで思うのでは無いが、最近は高校で、
取りとめのない事を書いてしまった。ご容赦。さて、今回だが、
尚、読下し文、◎付は、『くぢらなみ』に記載の名前。また、
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(1)「治承四年十月二十三日」の段に、→ 第一冊94頁7行目
廿三日 壬寅(みずのえとら) 著于相模国府給、始行勲功賞、北条殿及 (二十三日壬(みずのえ)寅(とら)、相模の国府に着き給(たま 信義(武田) ◎義定(安田、信義の弟) 常胤(千葉) 義澄(三浦) 広常(平あるいは上総) 義盛(和田) 実平(土肥) 盛長(安達) 宗遠(土屋) 義実(岡崎) 親光(工藤) 定経(吉田経房の子) 経高(佐々木盛綱の次兄) 盛経(稲沢) 高経(足利) 影光(加藤影員の子?) 遠影(天野) 影義(加藤影員の次男) 祐茂(宇佐美、曽我兄弟の仇討で有名な工藤祐経の弟) 行房(市河) 影員入道(加藤) 実政(宇佐美) 実秀(大見) 家義(飯田)
以下或安堵本領。或令浴新恩、亦義澄為三浦介。 (以下、或いは本領に安堵(あんど)、或いは新恩(しんおん)浴
(註1)北条殿以下、25名の名が揚げられており、()内は、 (註2)『くぢらなみ』には、義定、盛綱とあるが、
(2)「寿永三年二月二十七日」の段に、→ 第二冊107頁2行目
廿七日 丙戌(ひのえいぬ) 近江国住人佐々木三郎成経(なりつね)参上。 (二十七日丙(ひのえ)戌(いぬ) 近江の国の住人、佐々木三郎成(なり)経(つね)、参上す。) 子息俊経一谷合戦之時、討取越前三位、通盛、訖、 (子息俊(とし)経(つね)、一ノ谷の合戦の時、越前三位(さん 可預賞之由申之、於勲功者、尤所感也。 (賞に預かるべきの由(よし)、これを申す、勲功に於いては、 但日來属平氏、殊奉蔑如(ないがしろ)源家之處、 (ただし日頃(ひごろ)平氏に属し、殊に源家を蔑(ないがし)ろ 始参上。頗非眞實志之由、被仰、云々。 (始めて参上す、頗(すこぶ)る真実の志にあらざるの由、仰(お
無料のブログを使用しているので、文字数制限があり、全文をアップロードすることが出来なかった。よって、続き(3)以降を分割して掲載する。 Best regards 承前。 今回は、大意と若干の注釈を加えたが、未だ不足の部分が多く、
▲領主 (一)佐々木氏鎌倉幕府の頃、佐々木盛綱越後を領す、
待居たる人の心もすはやりの わりなく見ゆる心ざしかな
大意: 佐々木氏が鎌倉幕府に仕えて居た頃、佐々木盛綱(もりつな)が越
待ちいたる人の心もすはしりの (待って居る人の心も走り出すように) 割なく見ゆるこころざしかな (盛綱の志が理屈抜きで見えるようだ)
(註1)篤實(あつざね)親王: 宇多天皇第八皇子・敦実親王の事。 (註2)東鑑: 鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻(あずま)鏡(かがみ)』の事。 (註3)義定(よしさだ): 甲斐源氏の祖とされる源義光の孫・安田義定の事か。 (註4)越前三位通盛(えちぜんさんみみちもり): 平通盛の事。清盛の弟・教盛の嫡男。一ノ谷合戦での妻・小宰相( (註5)餘目(あまるめ)氏の記録: 『奥州餘目氏記録』がある。驚いたのは、検索して出てきたのが、 (註6)越後のうかい: 不詳。 (註7)澤御所: 不詳。 (註8)隠くれこばやし: 不詳。 (註9)朱: 辰砂、硫化水銀。 (註10)志賀理斎の三省録: 葛飾北斎の門人・柳川重信の父で、志賀忍(しのぶ)、字(あざな (註11)菊川: 静岡県の菊川市の事か。 (註12)楚割(すはやり): 「すわやり」、魚を短冊状に乾した干物。 (註13)和卓(おしき): 折敷(おしき)の事か。(足の無い、有るのは善)
Best regards 試行錯誤の連続だが、今回から先ず「大意」を述べ、
ところで余談だが、昨日、ブログ版『柏崎通信』 しかし、『北海道立志編』もそうなのだが、
まあそんなことで、今回の『くぢらなみ』も書く積りである。
承前。
▲驛傳 往古五里駅伝の一なり、即ち柿崎・鯨波・椎谷等なり、
大意: 昔、(律令制によって定められた)五里駅伝の一つである。
(註1)五里駅伝: 律令の「駅制」と「伝馬制」から成る「駅伝制」の事と思われる。 (註2)漢文の個所: 大意にて省略。 (註3)五駅便覧: 『五駅便覧』は江戸期、幕府道中奉行所で正徳年間(1711- (註4)慶長九年・・: この年、徳川家康は、伏見から江戸に帰った。 (註5)慶長五年五月六日上杉遺民乱、・・・: 一般的には「上杉遺民一揆」と云う。石田光成と呼応して、 (註6)慶長16年駅路改正: 調べたが駅路改正については不明。ただこの年10月28日( (註7)6月領主松平・・・・: 出典不詳。大久保石見守は、大久保長安の事。 (註8)下條家の由緒書: 詳細不詳。 (註9)廿四輩記: 大意の中でも書いたように、『二十四輩順拝記』あるいは『 (註10)陸路の記: 近藤芳樹の著。明治11年の明治天皇北陸行幸の際、
以下、注釈を付けたいところだが、
Best regards |
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