柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
確か、理化学研究所は、今年で百周年を迎える。そこで、昨年から、柏崎と所縁の深い、大河内正敏博士の趣味の世界の著作など、デジタル化しようと考えていた。と言っても、小生が参照できるのは、国立国会図書館デジタルライブラリーだ。ただ、このライブラリー、単に撮影したものが紹介されるのみで、果たしてデジタルと言えるのか、と云う疑問がある。そこで、遅々として進まないのだが、『柏崎華街志』など入力し、出来る限り注釈など加え紹介して来た。 今回は、先のような事情もあり、未だ中途なのだが、大河内博士の随筆の中、『味覺(味覚)』を順次紹介したい。尚、今回は、容量の都合から表紙~まえがき迄を掲載する。また、ルビに関しては、カタカナは原文通り、平仮名については、便宜上、加筆した。 『 味覺』 友情社板 はしがき 大凡のものには標準があるが味覺には標準がない。實に旨いと云ふものも人によっては大嫌いだと云ふ。鰻屋に行って蒲燒の出る前に、吸物や刺身が出ると不快に客もあれば、喜ぶ人もある。鮭は好きだがあんまり良い悪いは判らないと云ふ人もあるかと思へば、一滴も呑まないで味の鑑定に堪能な人もゐる。いや呑めない方が鑑定には良い。一品だけ好きなものを喰べたいとは食道樂の云ふことだ、何品でもなる可く品数も量も多い方が好いとは大食家の云ふことだ。 標準のない味覺は一人一人によってみんな違ってゐるが、舊い文化(北)の國程發達してゐることだけは慥かだ。さうして喰べ馴れると云ふことが、好き嫌ひの大きな分れ途である。だから戰亂に見舞はれて食料が不足する度に、今迄利用されなかった、さうして榮養のあるものも、調理法によっては實に旨い料理が發見されて來るのである。味覺随筆と云った處で魚、鳥、肉の味覺だけだから結局は一人よがりの漫談に過ぎないが、巢鴨の獨房で喰ひ物にあこがれの餘り、書き留めたものをまとめたものが本書である。無論中には昭和の初め頃に書いたものを、少し書き直して列べて置いたものも交ってゐる。 昭和二十一年秋 目次 はしがき(著者) 料理通と榮養料理 一 御狩塲燒 三五 天ぷら 四一 鮪のとろ 五一 釣船の朝飯 五九 江戸前の魚の味 六五 魚の養殖 七五 秋雜感 八三 大鷭・小鷭 九一 中金の豚鍋 九七 銀の塔 一〇五 巴里の虫料理 一一一 正陽樓の成吉斯干料理 一一七 甘味 一二五 羊の肋骨肉と愛蘭シチュウ 一三一 ウィーナーシュニッツェルとアイスバイン 一三七 すき燒と火鍋子 一四七 日本酒と合成酒 一六一 鰻とすっぽん 一七一 佛蘭西の魚料理と牡蠣の養殖 一七七 臓物料理 一八九 味覺随筆 二〇九 鹽物干物 二二一
少々方針を変えようと思う。先ず、「宇佐美氏」の段をその儘に(
この儘行くと、何だか考証学の様なことになり、
と云うのが、既に三十年以上も昔の事だが、
今回、『くぢらなみ』を読んで(この段)、
斯く次第で、関心がある分、中々先に進めない。しかし、本来、
ただ付け加えると、キケロは、「本の無い家は、
因みに、キケロの引用だが、次の様な記事がある。
A room without books is like a body without a soul. This is best known from refrigerator magnets long distributed by Amazon.com, but also appears in other media. As with the above quotation, no specific source is ever given, and dates are inconsistent. Here the origin appears to be very lose paraphrase rather than pure fiction .
関心がる方は、探してみるのも一興かと。
承前。
(三)宇佐美氏 上杉家の頃は枇杷島城主宇佐美氏の采地(さいち)たり、
右於鯨波観音堂邊、伏關東出陣之軍勢、四壁竹木剪採與云々、 永禄六年十二月 豊前守(華押)
(右、鯨波観音堂辺りにおいて、関東を伏するの出陣の軍勢、
此河田もと今川義元の兄花倉の良眞法印の小姓にて河田八雲といへ
Best regards 梶谷恭巨 今回は、「里見氏」の関わりであったが、調べて見ると、『
著者である関甲子次郎も、その辺りの事があり、
いずれにしても、今回の『くぢらなみ』、
少々心残りだが、次回は、「宇佐美氏」に移る。ざっと見ても、
承前。
(二)里見(さとみ)氏 南北朝の頃、新田家の一族里見氏の領下たり、文化中の書上帳に新
(註1)里見氏: 里見氏は、新田義(よし)重(しげ)の長男・ 江戸後期、天保の頃、発刊された有名な滝沢(曲亭(きょくてい) (註2)新田家: 新田氏は、河内源氏の源義(よし)国(くに)が、上野国足利庄( (註3)文化中の書上帳: 「書上帳」は、領主に対して提出された上申書の類。 (註4)里見烏山: ここは「里見流烏山氏」と解釈すべきだろう。そこで、「烏山氏」 (註5)水上村志: 柏崎市立図書館に蔵書はなく、『水上村志』については不詳。「 しかし、国立歴史民俗博物館の「れきはくデータベース」で、
Best regards 梶谷恭巨
承前
(註20)建保三年十月: 1213年(丁酉(ひのととり)) 『吾妻鏡』に、 十日 乙未 越後国撿斷事、守護人相共、可致沙汰之旨、西念承畢。 (十日 乙未(きのとひつじ) 越後国(えちごのこく)検断(けんだん)の事、守護人(しゅごに (盛綱)「号加地三郎兵衛尉、佐々木三郎」「本名秀綱、 どうもこれ以外には、「西念」の記載は見当たらないようだ。 (註22)正應六年: 1293年(庚巳(かのえみ))、この年、8月5日改元して、 http://guntabi.web.fc2.com/ ただ、『本願寺史料研究所報』(1995年6月刊、第12号) 以上の事から推測すると、柏崎の光圓寺は、親鸞配流の折、 (註26)和漢三才圖繪(わかんさんさいずえ): 『和漢三才図絵』(105巻81冊)は、 (註27)法(ほう)善(ぜん): 佐々木盛綱の別、法名。註25の史料によれば、先ず法名を「 (註28)俊(とし)綱(つな): 佐々木俊綱。現在の大阪府茨木(いばらき)市目垣にある浄土真宗 因みに、この時の「囲碁の会」の相手である工藤祐経は、「 (註29)太郎兵衛(ひょうえ)信實(ぼぶざね): 文脈から言えば、「盛綱」の孫に当る訳だが、他の史料によると、 (註30)越後及び備前兒島(こじま): 越後国加地庄(現在の新発田市東宮内) (註31)承久(じょうきゅう)の役: 「承久の乱」、承久三年(1221)、 (註32)河匂(かわわ)八郎家賢(いえかた): 『吾妻鏡』の承久三年5月29日(第14冊15頁1行目に、 廿九日 壬子(みずのえね) 雨降、佐々木兵衛太郎信實、兵衛盛綱法師等、相従北陸道大将軍、 (二十九日 辛子(かのとね) 雨降る、佐々木兵衛尉(ひょうえのじょう)信實(のぶざね)、兵 とある。また調べて見ると、「河匂氏」は、 (註32)北条越後守朝時: 第二代執権・北條義時の二男。母は、比企(ひき)朝宗(ともむね (註33)薩摩の乃木大将: こらは明らかに、作者の誤解である。日露戦争、 (註34)頼朝の石塔: 新発田市岡田の法音寺大日堂五輪塔の事。現在、 http://blogs.yahoo.co.jp/ Best regards 梶谷恭巨 承前。以下、本文。 建久五年秋、盛綱越後に故六條判官為義の末子護念上人の在る事を (註1)建久五年: 1194年(甲寅(きのえとら)) 『吾妻鏡』に、 廿六日 辛酉(かのととり) 京都飛脚三着申伝、去十日、叡岳堂衆等、以金子山為城郭、 依被攻之衆等退散、云々。葛西四郎重元、豊嶋太郎朝経、 (二十六日 辛酉 京都の飛脚三着して申し伝う、去る十日に、叡岳の堂衆等、金子山 とあるが、これに続く二十六日の記載に盛綱の記載はない。
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プロフィール
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77
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男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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