柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 

「雑事」(3)

 

緑楼主人 今は已(スデ)に故人となったが、若年の折、高田の太田八十吉三館一郎等と江戸に遊びし当時、天下を騒がせし国事犯人赤井景輝等の連累者と疑われ事があったが、後年其景輝が辞世の

 

 武夫(モノノフ)の心の奥は久方の

       神より外に知るものなし

 

主人之を作り更(カ)えて

 もののふの心の奥は待合の

       女将(カミ)より外に知るものなし

 

以上。

 

(註1)緑楼主人: 本書にも登場した「緑屋」の流れをくむものと考えられるが、不詳。、

(註2)太田八十吉: 不詳。

(註3)三舘一郎: 不詳。ただし、下記のような文章があった。この文章は、関谷雄輔さんという方のサイトなのだが、氏はアップルを使用されているようで、サイトの一部が化けて表示されるので、前後の流れが判らない。取りあえず、紹介する。

 1906(明治39年)5月、新潟県赤倉を気に入って温泉付きの土地を購入し、8月には山荘を完成させている。この際の事情については松本清張著「岡倉天心その内なる敵」の中で妙高高原史編集者の談がある。それによると、・・・天心は越後高田へ家族旅行した。市内にかって伊能忠敬も測量の際に泊まった三国屋という旅籠があり、その屋の主人三舘一郎次と意気投合し、所有する赤倉の地を案内された。中国旅行の際に印象に残った風景とにているので天心は気に入り、即購入した。現地には三舘氏所有の料理屋「富貴楼」の建物があり、これの解体建材を利用して別荘「赤倉山荘」を建築した。・・・

 最初購入した面積は約六千坪であったが、その後買い足したのか、数字の記録がないが地元では岡倉山と呼ばれたほどの面積を所有した。後に陸軍演習地として大部分が買収されたがなお六千坪が残ったという。

それほどの広大な土地を確保しようとした理由については、天心が美術院の拠点を東京から五浦よりむしろ赤倉に移すことを考えていた節もある。斉藤隆三著岡倉天心に以下のような記述がある。・・・その月に大観と春草を招き寄せ、赤倉の絶景を強調した。二人は部屋に戻ってから、「先生は相当赤倉に入れ込んでいる。明日の朝になればきっと美術院の赤倉移転を言い出すに違いない。そうなれば否応なしだ、逃げるにしかず。」と翌早朝、夫人には東京に急用が出来たと言い訳して、山を下り帰京した。・・・

 だが、翌月の615日、天心は五浦に大観等4家族の住居建築を始めている。美術院の五浦移転をこと無く進めるために、赤倉移転を匂わしたかのしれない。

 

 この岡倉天心の話は知っている。しかし、何処で見たのかが不明。恐らく、岡倉天心に付いて書いたことがあるので、その時に読んだのかもしれない。

尚、この文中にある「三国屋」は、確かに伊能忠敬が、第三次測量の時、享和2年(1802)10月4日、5日と宿泊し恒星測定を行っている。資料によると、「三国屋」は高田本陣で、主人の名前は、八郎左衛門である。また、文中に「三舘一郎次」とあるので、恐らく、本文中の「三舘一郎」に所縁の人物か、あるいは本人かも知れない。

 

(註4)赤井景輝: 不詳。

 

 今回は、様々な角度で調べて見たが、何との歯が立たなかった。特に、「赤井景輝」と云う人物については、「天下を騒がせた国事犯」とあるところか、容易に見つけることができると思ったのだが、国立公文書館にも、もしやと考え、『江戸幕府日記』の慶応年間を調べて見たが、これは見当はずれで、内容が全く異なるものだった。

 

 また、緑楼主人についても、やはり、花街の事だから、個人に係る事は、詳細を書くのに遠慮があったのだろう。

 

 余談だが、先週、「SAYURI」という映画を見た。外国人(アーサー・ゴールデン)の書いた花街だが、意外に真実を捉えてると感じた。一段落したら原文「Memories of a Geisha」を読んでみよう。ところで、同時多発というのではないが、今朝は、NHKアーカイヴで「Forbidden Kyoto」というシリーズの「舞妓誕生」というのを放送していた。外国人の見た京都、この場合は、英国のファッション写真家が、普通では見ることのできない舞妓から芸妓誕生までを取材したものだった。今までにも、こうした偶然がよくあった。まあ、「シンクロニシティ(共時性)」を感じた次第だ。

 

 ところで、今回は、「DELL」を使っている。このDELLは、i32GHOSUltimateなのだが、通常使用する「ThinkCentre」は、i73GHOSProしかもメモリーは4G積んでいるにも拘らず、DELLの方が早いのである。という次第で、現在、ThinkCentreは調整中なのだ。今のところ、エックスペリエンスは、最低のモジュールが4.5まで上げたのだが、それ以上にならない。因みに、DELLの場合は、3.3。何方かよい方法をご存じならご教授願いたい。

 

Best regards
梶谷恭巨

 承前。

 

 尚、前回「越後の縮緬問屋」について書いたが、一つ付け加えると、第11代東京帝国大学総長・小野塚喜平次(柏崎県長岡)の門下四天王と云われた政治学者・蝋山政道氏は、一般には高崎出身と云われるが、祖父の代まで、大久保陣屋に近い大洲村中浜の六代続く縮緬問屋で、行商人40名を数える老舗だったと聞く。氏の親の代、縮緬に見切りをつけ、高崎の酒造の株を買って、祖父母を残し、一家して高崎に移住したそうだ。しかし、子供たちには故郷柏崎で教育をという方針で、四兄弟の内上の三人までが大洲小学校を卒業した。因みに、高崎近辺には、越後出身の酒造家が多い。長くなるので省略するが、越後杜氏との関係が深い。余談だが、我が女房殿の父上も、館林で出かけた越後杜氏だったのである。

 

「雑事」(2)

 

白石正利氏 此人は未だ郡長と云うものの置かれぬ時代に柏崎の取締と云うを勤めれ居られたが、仲々凡(スベ)ての事に熱心で吾が柏崎に於ても氏の為めで、大に土地の隆盛を得たのである。最も長岡に取締として五六年も居られた事もあるが、就中(ナカンズク)貸座敷の為めには大に尽瘁(ジンスイ)されたもので、女郎屋禁止後、再興の時抔の助力は実に大なるものであった。是が為めに吾が北越の同業者は近年迄、氏の為めに追善を遣って居たが、今も尚お継続して行って居る処もある。最も氏は官金費消の罪を以て鉄窓に繋がれた事もあるが、間もなく許されて、小笠原頭司になられ、後ち病痾の為めに没せられたそうである。

 

 以上。

 

(註1)白石正利: 生没年不詳。しかし、『太政類典』(太政官、第二編明治4年~10年・第35巻・官規9・賞典恩典7)及び『公文録明治十年』に次の様な記載がある。概略を記すと、明治9年10月29日に起った士族反乱未遂事件「思案橋事件」の共同従犯(主犯は、長岡久茂)松本正直外二名が新潟県下に逃走、新潟県三等警部白石正利は、羊頭巡査畠山忠次郎、同中村義久を指揮して、三名を捕縛逮捕した。その功績で、白石正利に賞金15円、外二名に8円が下賜されたとある(『太政類典』)。『公文録』の「警部巡査賞典之儀伺」は、右大臣岩倉具視宛、署名は内務卿大久保利通代理・内務少輔前島密(明治10年2月21日)とある。尚、この「伺」は、三人の警官が先ず県令(永山盛輝)へ、県令が、内務卿大久保利通へ伺うという構成で収録されている。

 また、新潟県の公式ホームページ(建設・まちづくり)に次の様な一文がある。その中の一節を紹介する。

「長岡と対岸の本大島(現西長岡地区)柏崎との交流には信濃川が障害となっていた。このように渡船は不便であり危険で、しかも時代が進むにつれて輻輳する物資・人員を円滑にさばかれず、そこで大胆にもこの大河に橋を架けようと長岡警察の白石正利警部・大区長三島億次郎や大森佐太郎・田中二四郎・赤沼寿水等が立案をした。がしかし、当時としてはあまりにも破天荒な計画であり実現できなかった。しかもその頃、長大橋の架橋技術は一子相伝の技術であり、棟梁・人足手頭の技量がすべてを左右する時代であった。このような事から、しばらく渡船に頼らざるを得なかったが、その芽は一人の庄屋によって培われていた。その人は三島郡岡村古新田(現長岡市緑3丁目)の庄屋廣江椿在門である。」

 しかし、『長岡歴史事典』その他で、事績等探してみたが、インターネットでヒットしたのは、先の新潟県公式ホームページ以外に見つけることはできなかった。

(註2)郡長: 新潟県に郡制が施行されたのは、明治30年1月1日だった。この事から推測すると、白石正利が貸座敷問題に尽力するとあるのは、明治13年の県令の事だろうか。

(註3)頭司: これは、「島司」の誤りと思われる。すなわち、明治31年7月14日付の「南鳥島ヲ東京府所属小笠原島司ノ所管ト為ス」とい内務省通達がある。

 

 余談だが、長岡の長生橋の工事を落札したのが、「植木組」である。植木組は、その工事の為に、現在の柏崎工業高校を採砂場として購入したが、市民一丸となった「工業学校誘致運動」の為、その用地を原価で提供した。因みに、建設費用はおよそ40万円、誘致に名乗り出たのは、村上と高田だったが、柏崎は、「県の援助は一切いらない」と募金運動を展開した。 日本石油と理研が、それぞれ10万円を寄付したと云われる。結果、県下2番目の工業高校が柏崎に誕生した。

 

Best regards

梶谷恭巨

 承前。

 

「雑事」(1)

 

 東郷・上村二将軍来柏 両将軍は明治三十九年七月の廿二日来柏されたが、其時郡内各村の重立は蒼海ホテルにて両将軍の歓迎会を開かれた。当時柏崎の芸妓(口絵写真挿入)五十有余名は、揃いの扮装(イデタチ)で、庭園に於て、当地名物の三階節を観覧に供したが、大将一行は殊の外興を催うされた。やがて数番の踊を観覧に供した後、当地有の作にかかる

 

 東郷上村二将軍、ヱチゴ、越後の柏崎、将軍迎えるうれしさや、ヱチゴ、越後の柏崎、将軍迎えるうれしさやー、

 

といえるを歌い且つ踊りたるに、両将軍は互いに、相顧みて破顔微笑されたとの事である。尚お此三階節の文句が、東郷大将の故郷の俚謡に似て居る処があると言われたそうであるが、是は多分越後の縮布(チヂミ)商人が行商の際輸入して来たものであろうと思われる

 

(註1)東郷・上村二将軍来柏: この両将軍の来柏は、明治39年に始まった「東郷提督新潟招待運動」に因るものだろう。同年2月14日付の『新潟新聞』には、次のような記事がある。

 「状況中なる阿部本県知事は、3月中旬ころまでに東郷大将及び舞鶴の艦隊を当港に迎え、大いに歓迎の意を表せんとて、目下海軍当局と交渉中なり。但しその成否は未定なり」と。

 因みに、その日程を揚げると、7月19日、新潟到着、同日午後10時、両将軍の歓迎の夜会、翌20日、市内の歓迎行事に出席、21日朝、長岡に向け出発、沿線は歓迎の大群衆で埋まった、10時13分、加茂駅到着、歓迎行事に出席、午後5時10分、、長岡到着後、玉蔵院の歓迎式場に向かった。会場は大変な騒ぎで、秋庭長岡市長、牧野子爵は歓迎の辞を述べ、園遊会場、長岡館に移る。宿泊は、東郷大将が宝田石油、上村中将が渡辺藤吉邸だった。翌22日朝7時、長岡中学第一運動場に、長岡中学、長岡女子師範、長岡高女、産婆学校、私立女学校、小千谷中学、三条中学、長岡市内小学校生が整列、両将軍の講和を聞く。同日8時10分発の列車で柏崎に向かう。

 柏崎到着後は、本文の通りである。(以上、中島欣也著『明治熱血教師伝』参照。)

 尚、余談だが、当時の長岡中学校長は、坂牧善辰である。彼は、夏目漱石と同窓、帝大では漱石が英文科、善辰が哲学科だった。漱石の小説『野分』のモデルと言われる。坂牧善辰は、当時、長岡中学事件として知られる生徒・父兄との対立で、辞任に追い込まれようとしていた。推測だが、東郷提督との出会いが、坂牧をして同年設立された鹿児島県立第2中学校初代校長赴任の原因ではなかったか。

 実は、私が「ある旧制中学校長の足跡」を書いた背景の一つに、この坂牧善辰の事がある。坂牧の後任として長岡中学校長になったのは、橋本捨次郎だが、彼は、山口県岩国中学からの転任である。その橋本は、「ある旧制中学校長の足跡」で中心的に追った羽石重雄を招致した人物と思われるのだ。すなわち、羽石重雄は、岩国中学校長から柏崎中学校長、長岡中学校長を歴任し、最後に長野県の松本中学校長を務めるのだ。更に言えば、「ある旧制中学校長の足跡」にも書いたように、薩長と佐幕の敵対関係にあった柏崎(桑名藩松平家)長岡(牧野家)の不思議な縁を生むのである。

(註3)上村将軍: 上村彦之丞中将。日本海海戦当時、第2艦隊司令長官。

(註2)蒼海ホテル: 現柏崎市東の輪(トウノワ)の蒼海ホテルのことであろう。

(註3)縮布商人: 伝承では、江戸に行商に行った柏崎の縮商が、江戸ので行商をするが、既に問屋制度が確立していて、一向に売ることが出来ない。その挙句、とある大名屋敷の門前で行き倒れとなり、介抱され、素性を話したところ、奥女中が越後縮緬の素晴らしさを見て驚き、その噂が家中に、更に大名家へと広まり、一つのブランドとしての「越後縮緬」あるいは「越後の縮緬問屋」の名前が全国に広がったのだと云う。『柏崎』(本文)に、「3階節の文句が、東郷大将の故郷の俚謡に似て居る」と書いているが、恐らく、先の様な背景があったからではないだろうか。ただ、薩摩は鎖国の国であり、商人の国内通行が自由ではない事もあり、もしかすると、北前貿易の関係もあるのではないかと推測する。

 

 今回から「雑事」に段に入った。この段、何項かエピソードがあるので、何回かに分けて紹介する。

 

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梶谷恭巨

 承前。

 

「芸妓の事」

 

開業 芸妓営業鑑札下附願は、戸籍謄本に親の承諾書及び契約証の写しを添えて所轄警察署に申請すれば事由なきものは直ちに許可される。同時に郡長に宛て届出して相互の村長宛に寄留届をするのである

廃業 娼妓に略(ホボ)似たるを以て省く。

半玉 線香代が芸妓の半額だから半玉と云うので、又お酌とも言う、東都辺では「アラヨゴザイ」「チビ」抔と綽名して居るそうだが、柏崎でも数年前迄は矢張り此半玉と云うのが多かったが、其後半玉の名称は廃止されて、一般芸妓として鑑札を下附される様になった。

芸妓及見番 芸者は、とら、すみ、房吉抔が嚆矢(ハジメ)で、明治七八年の頃迄あったけれども、盛況に至らずして廃業してしまった。後ち明治十七八年の頃、各料理店側で見番を置へて貸座敷と競争した事もあった。同二十年頃より相互不利益の結果、協議して、料理店では一切芸妓を置かぬ事に決定したのである。

弾初(キキソメ) 弾き初めと言うのは、琴、三絃、胡弓其他種々の鳴り物を以て業(ワザ)とする者又は嗜好(タシナミ)に因って弄ぶ者が、元旦早々弾き初めて其技を試むる事を云うので、俳句抔の題ともなって居るが、都鄙とも遊郭(クルワ)芸者屋等の弾き初めは非常に盛んの様である。吾が柏崎の遊郭にても古来より正月二日を以て弾き初めの日として置く、尤も当日は各楼の芸妓連中共、午前一時頃より起き出でて、笛太鼓三味線等を以て自家は更なり、各料理店を押し廻り御祝いの踊をなすこととなって居るけれ共、近年に至りては大に衰微した。併し兎に角も略式丈け行(ヤ)って居る様である。(弾き初めは芸妓に関係して居るものであるから特に此処に揚ぐ)

寄宿宿 芸妓は娼妓と共に出稼鑑札なれど、娼妓と違い枕席に持せざるを以て楼内に寝泊りする事を禁ぜられ、為めに寄宿宿を定め引け後(十二時過ぎ)此処に宿泊する事になって居る。

芸妓揚代 始め一夜四十銭と云う事もあったが、其後揚切り六本の六十銭となり、続いて一本十二銭五厘となり、十五銭となった、目下の揚切りは、昼、夜とも二円即ち線香十本の定めにて一本代がニ十銭である。尤も昼間は午前より夕刻迄、夜間は点灯後より十二時迄である。

芸妓及娼妓税金 妓女の税金を分ちて、歌舞遊女(今は無し)一ヶ月一円五十銭、娼妓が五十銭、芸妓が一円の事もあったが、其後他少の増額をなし、目下娼妓が一円五十銭、芸妓が五円ニ十銭である。

 

 以上。

 

 何しろ比較すべき知識がない。そこで、私事だが、随分昔の事、未だ学生の頃の事だが、初体験の料亭の事を思い出して見よう。父の友人に後に九州電気工事の社長になられた武藤さんという方が居られた。三島由紀夫事件の頃の事だ。当時の寄宿先は経堂の頃の灘尾宅で、先生は確か文部大臣だったと記憶する。私は自室で本でも読んでいたと思う。何かしら家の中が慌ただしいとは思ったのだが、その時には既に三島の事がTV中継されていたようだ。書生が「先生がお呼びです」と云うのだが、何のことやら判らない。書斎に行くと、「お前、三島と関わりはないだろうな」と言われる。実は、当時、三島文学に傾倒して、事ある毎に「三島、三島」と言っていたのだ。TVを見て驚いたのは、寧ろ私の方だ。ただ予感はあった。四部作あるいは『鏡子の家』を読んで、何か事が起こるのではないかと思っていたのだ。その日の事だと思うのだが、武藤さんから電話があった。

 

 武藤さんには、東京支社長時代から、何くれなくお世話になって居たのだ。最初の受験の時、何しろ学生運動が大変な時で、受験がまともに行われない状況下、早稲田の受験が受けられず、宿泊先の第一ホテルに意気消沈して帰っていた。心配された武藤さんが、その私を訪ねてくれた。「こういう時代だ。くよくよ悩むな。気分転換に出かけよう」と、連れて行かれたのが寄席だった。演者は立川談縁遠い私も名前だけは知っていた。その後も、何かにつけてお声が掛り、自分の知らない世界を垣間見ることが出来た。

 

 その武藤さんに案内されたのが、新橋の料亭「末げん」だった。三島が最後の晩餐をしたという「末げん」のその部屋だ。「君がよく三島の事を話していたから、今日は、その時と同じ料理も用意させた。聞きたいことがあれば、女将にでも仲居にでも聞いてみるとよい」と言われた。ところが、舞い上がっていたのか、ほとんど記憶がないのである。

 

 以上余談である。いずれにしても青二才、未だ制服を着ていた頃のことだ。「粋」という事など理解できる道理がない。今に至るも同様だ。遊ばなかったと言えば嘘になる。しかし、どうも「遊び」に対する感覚が狂っているのか、今もって「粋人」とは程遠い。斯いう私が、『柏崎』に注釈を付けようというのだから、推して知るべし、ご容赦されたい。

 

Best regards

梶谷恭巨

 承前。

「娼妓の事」(2)

駆黴院 市通りを離れて、塵埃少く高燥閑静の地に位置して、其家屋は東南に面
し、北は一眸千里の日本海であるから、随って気温の差は少なく、加うるに其眺望が
病者を壮爽ならしむるに適して居るから、病院としては頗る佳良なのである。

 院長は齋藤邦一郎、篠田脩斎、吉岡仁一郎、乾玄治、入澤親影の諸氏を経て現今は
花柳病、婦人科、外科を以て刀圭界に重きをなす今井多三氏で、朝夕よく院内を見
廻って整理をされるので、本県での成蹟は二三位にあるそうである。

 其上に芸娼妓裁縫学校が、棟を隣して居るから、自然に薫化せられて退院後、進ん
で教を受ける様になる。

検黴方法 永山県令の明治十四年十月発布された処によれば「歌舞遊女ノモノ梅毒ニ
感染スルトキハ駆梅院ノ治療受ケ自宅ニ於テ療養スベシ」とあったが、平素健康の時
には駆梅院で附与する検査札を携帯して居って、一週一回の検査に有毒のものがあれ
ば、此札を引揚げて、同時に駆梅院からは、黒塗り板に胡粉で書いた(横曲尺三寸ノ
竪一尺ノ札ニ何月何日ヨリ梅毒治療中氏名)という書式で標札を渡し其戸外に揚げし
めて、全癒すると之を駆梅院に返納したものである。

 入院治療は院費で支出し、食料寝具日用品は自弁であったけれども、貧困のものは
其事実を詳記し元締(モトシマリ)連印、戸長の保証書を以て願出ずれば、時宜に
よっては、院費で支給された、其後漸次(ダンダン)改められて、現今は進んで一週
間二回の検黴となり病気の者は猶予なく入院治療をさせるので自宅治療と云うものは
殆どない様になった。加えて寝具は備附けられて、洗濯や消毒に怠らぬ。食事は楼主
側で日毎に運んで居るから、いつとなく競争の姿に移ったので充分の給養である。

 全治退院するときには被服等は蒸汽消毒に附し、食器などは煮沸消毒を行うから非
常に安全なものになったのである。

玉代と数 幾つ玉とか線香何本とかいう事は、妓楼から定めたのではない。是れは明
治二三年頃から、客の方から競り上げた結果、今日のように幾つ花と定むる便利が生
じたのである。最も通(カヨイ)で仕切った事もあるそうである。今其玉代の大要を
示せば、始め六百二十五文であって、次がニ朱と百(十三銭五厘)、夫れから付け立
てと云うて、飲食を加えてニ朱と二百五十となったが、漸々(ダンダン)値上げして
二十五銭となり三十銭となった。現今は昼夜を五期(一期二時間の定め)に分けてあ
る、其一回の玉代は五十銭、一夜中なれば揚げ切りと云うて三回、即ち一円五十銭で
ある。昼間は二回で、尚お外にちらしと云うて一玉の半額でお目見えする事が出来る
のである。

年期金 女郎の年季に就ては、種々な定め方がないでもなかったが、維新前まで一般
に行われたのは、六七歳の頃から手に附けるのであって、年期金、売買値段は極々僅
少なる端金にすぎなかった。

 二三の例を挙ぐれば、彼の名妓扇吉は扇屋へ十年の年期で二両で売られ、又小石川
の松浦と云う名妓は、最も美人であった為めに高価とのことであったが、其額は僅か
に四両であったとやら、今から見ると一寸信じられぬことである。

身受金の相場 三浦屋高尾のように、黄金を山に積んでも承知せぬのは別として、
那身受けならば、百両から三百両の間、先ず二百両が上等の部であったそうである。

初客の所望 遊客の所望により、廓内より顔見世に出る場合には、一席に数十人が居
並ぶことがあるが、新女郎屋の抱え婦(オンナ)は必ず閾(シキイ)を隔てて下座し
なければならなかったそうである。

 以上。

 この項は、これで終わるが、何とも複雑な心境である。ところで、こうして読み解
く内に、どうも明治の文明開化と云うものが大いに関係しているのではないかと云う
思いに駆られる。以前にも紹介した渡辺京二の『逝きし世の面影』が、浮かんでくる
のだ。文明文化が急変する時代、安定した社会で培われた価値観あるいは倫理観は急
変する。安定した社会には、その安定の要因である伝統や文化、更に言えば、格式や
掟が人々の行動規範となっていたはずである。そこで、三田村鳶魚の『江戸の花街
を参照してみると、彼の視点が窺える文章がある。

 「成り立たぬ人身売買」以降の数節に、それが見られる。簡単に説明すると、大阪
落城の翌年、元和二年十月には、既に人身売買を禁止する「法度」が発布されてい
る。要約すると、売買した者は、共に売り損買い損の上、売られた者は自由、更に、
この売買が「拘引(カドワカシ)」の場合は、売り主は成敗(死罪)とされている。
また、元和五年十二月の「法度」では、更に詳細で厳格なものになり、「人之売買口
入人の事」として、「かどわかしは売り候時の口入は、死罪たるべし」と明確化して
いる。

 また「年季制限」も、社会状況により変化するが、元和二年十月の法度では、「年
季三年に限る」、寛永三年四月には「男女抱置年季之事」として、十ヵ年に制限し、
十ヵ年を過ぎれば曲事(法律違反)としている。しかし、この延長には、先のように
社会状況があったようだ。すなわち、飢饉があり、大量の人々が江戸に流入し、「三
年の年期」では、寧ろ奉公人あるいは雇人が困窮したという理由がるようだ。その後
も、十五年に延びるのだが、それとは別に、年季奉公の上限、女は25歳、男は30
歳を上限とする慣例が出来たようだ。その例が示されている。これは、明治の池田新
太郎少将と云う人の岡山の郡中法度というもので、以下の様に書かれている。

「今より譜代とて取候者なりとも、男は三十、女は二十五を切て、主人とえい有付、
或は暇を出し候様に申付べく候、今迄取違い候者は、十五より内から取候者は十五
年、十五より上から取候者は十年にて、出し申すべく候、他国へ売遣し候者は、法を
背き、過銭首代に請返し、親類方へ多く返し遣すべく候」とあるようだ。興味深いの
は、「過銭首代に請け返し」と云うところである。

 こうした例から見ると、先にも書いたように、江戸期における政治が単に「上意下
達」のみではなかったことが窺えるのだ。これは余談だが、NHKで「タイムスクー
プ」とか云う一種SF、タイムトラベル的歴史考察の番組を放送したが、その中で、
「落武者狩り」あるいは「かどわかし」を取材した内容のものがあった。戦国時代、
男は首を取られ敵陣に売られ、女はかどわかされて売られたと云うのだ。勿論、衣類
や甲冑などの武具は、余得と云う事である。この落武者狩りは農民の副業だったのだ
から、驚きでもあるが、強いて言えば戦国時代の農民の知恵、生きる手段でもあった
のだ。

 どうも単純に読み解けないようだ。未だ読み込みが不十分で、読者の誤解を招く事
を危惧するのだが、兎に角、史料として紹介することを、ご了承頂きたい。

Best regards
梶谷恭巨


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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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