承前。
「雑事」(1)
東郷・上村二将軍来柏 両将軍は明治三十九年七月の廿二日来柏されたが、其時郡内各町村の重立は蒼海ホテルにて両将軍の歓迎会を開かれた。当時柏崎の芸妓(口絵写真挿入)五十有余名は、揃いの扮装(イデタチ)で、庭園に於て、当地名物の三階節を観覧に供したが、大将一行は殊の外興を催うされた。やがて数番の踊を観覧に供した後、当地有志の作にかかる
東郷上村二将軍、ヱチゴ、越後の柏崎、将軍迎えるうれしさや、ヱチゴ、越後の柏崎、将軍迎えるうれしさやー、
といえるを歌い且つ踊りたるに、両将軍は互いに、相顧みて破顔微笑されたとの事である。尚お此三階節の文句が、東郷大将の故郷の俚謡に似て居る処があると言われたそうであるが、是は多分越後の縮布(チヂミ)商人が行商の際輸入して来たものであろうと思われる
(註1)東郷・上村二将軍来柏: この両将軍の来柏は、明治39年に始まった「東郷提督新潟招待運動」に因るものだろう。同年2月14日付の『新潟新聞』には、次のような記事がある。
「状況中なる阿部本県知事は、3月中旬ころまでに東郷大将及び舞鶴の艦隊を当港に迎え、大いに歓迎の意を表せんとて、目下海軍当局と交渉中なり。但しその成否は未定なり」と。
因みに、その日程を揚げると、7月19日、新潟到着、同日午後10時、両将軍の歓迎の夜会、翌20日、市内の歓迎行事に出席、21日朝、長岡に向け出発、沿線は歓迎の大群衆で埋まった、10時13分、加茂駅到着、歓迎行事に出席、午後5時10分、、長岡到着後、玉蔵院町の歓迎式場に向かった。会場は大変な騒ぎで、秋庭長岡市長、牧野子爵は歓迎の辞を述べ、園遊会場、長岡館に移る。宿泊は、東郷大将が宝田石油、上村中将が渡辺藤吉邸だった。翌22日朝7時、長岡中学第一運動場に、長岡中学、長岡女子師範、長岡高女、産婆学校、私立女学校、小千谷中学、三条中学、長岡市内小学校生が整列、両将軍の講和を聞く。同日8時10分発の列車で柏崎に向かう。
柏崎到着後は、本文の通りである。(以上、中島欣也著『明治熱血教師伝』参照。)
尚、余談だが、当時の長岡中学校長は、坂牧善辰である。彼は、夏目漱石と同窓、帝大では漱石が英文科、善辰が哲学科だった。漱石の小説『野分』のモデルと言われる。坂牧善辰は、当時、長岡中学事件として知られる生徒・父兄との対立で、辞任に追い込まれようとしていた。推測だが、東郷提督との出会いが、坂牧をして同年設立された鹿児島県立第2中学校初代校長赴任の原因ではなかったか。
実は、私が「ある旧制中学校長の足跡」を書いた背景の一つに、この坂牧善辰の事がある。坂牧の後任として長岡中学校長になったのは、橋本捨次郎だが、彼は、山口県岩国中学からの転任である。その橋本は、「ある旧制中学校長の足跡」で中心的に追った羽石重雄を招致した人物と思われるのだ。すなわち、羽石重雄は、岩国中学校長から柏崎中学校長、長岡中学校長を歴任し、最後に長野県の松本中学校長を務めるのだ。更に言えば、「ある旧制中学校長の足跡」にも書いたように、薩長と佐幕の敵対関係にあった柏崎(桑名藩松平家)長岡(牧野家)の不思議な縁を生むのである。
(註3)上村将軍: 上村彦之丞中将。日本海海戦当時、第2艦隊司令長官。
(註2)蒼海ホテル: 現柏崎市東の輪(トウノワ)の蒼海ホテルのことであろう。
(註3)縮布商人: 伝承では、江戸に行商に行った柏崎の縮商が、江戸の町で行商をするが、既に問屋制度が確立していて、一向に売ることが出来ない。その挙句、とある大名屋敷の門前で行き倒れとなり、介抱され、素性を話したところ、奥女中が越後縮緬の素晴らしさを見て驚き、その噂が家中に、更に大名家へと広まり、一つのブランドとしての「越後縮緬」あるいは「越後の縮緬問屋」の名前が全国に広がったのだと云う。『柏崎華街志』(本文)に、「3階節の文句が、東郷大将の故郷の俚謡に似て居る」と書いているが、恐らく、先の様な背景があったからではないだろうか。ただ、薩摩は鎖国の国であり、商人の国内通行が自由ではない事もあり、もしかすると、北前貿易の関係もあるのではないかと推測する。
今回から「雑事」に段に入った。この段、何項かエピソードがあるので、何回かに分けて紹介する。
Best regards