柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
承前。 「雑事」(12) 昔の花街風俗 江戸の吉原では、昔、花魁の髪飾りは、花簪の外、 の鼈甲(ベッコウ)と、櫛二枚用いたけれど、直江津の中島では、 にして差支なきも、前髪には、琴柱形六本の外は用いしめず、 あったとやら。柏崎の新街にては旧女郎屋に限り、 には耳付の鼈甲さえ禁じ「しのぎ」 し鼈甲外のものは自由であったそうである。 直轄外の揚屋、又は遊行茶屋の後継者には、 で今尚お当時の髪飾の道具を保存して居る楼がある。 世栄誉を表する為めに涅歯(カネ、デッシ)を附けた事があった。 (註1)琴柱形六本: 「コトジ」と読む。琴柱簪(カンザシ)六本。 http://www.jj-craft.com/ m/collection/japan02/s/s_122. (註2)耳付の鼈甲: 耳付鼈甲簪の事。 https://encrypted-tbn1. T41WdHD2_D0GWLAHYQ6LUIxiaj-S (註3)しのぎ: 鎬(シノギ)形笄(コウガイ)の事。 http://www.jj-craft.com/ (註4)涅歯: 鉄漿(カネ)、お歯黒(貴族の用語) (註5)遊行茶屋: ルビは、「ユウギョウチャヤ」となっているが、広辞苑では、 「遊行」を「ユウギョウ」とは読んでいない。推測するに、 は、所謂「待合茶屋」の事ではないだろうか。 髷と髪結 髷は一般に島田と定まって居ったが、其中に種々(イロイロ) あって、形入、前割り、なげ島田等各自の好む儘に結って居った。 事は当時の妓女の一の勤めであったので、 三條から女髪結が来たが前記の次第で、 ず、空しく立ち去った事もある。 (註1)形入: 「カタイレ」とルビ。入れ髪とか「かもじ(添え髪)」とかを使っ て、大きく膨らませる髪形の事か。 (註2)前割り: 「われしのぶ」、京の舞妓の髪形だが、この髪形か。 (註3)なげ島田: 「下げ島田」とも云うようである。 上記三種類の髪形は、 分からない。 この手の話には疎い。インターネットで調べて見たのだが、 の呼び名があったのだろうか、「なげ島田」以外は、 髷・髪形の世界は、奥の深いことが判る。 張り、美容に関するサイトが詳しいようだ。特に揚げるとすると、 所-ポーラ化粧文化情報センター」の「美のココロ」 ある。因みに、URLは下記の通り。 http://www.po-holdings.co.jp/ Best regards 梶谷恭巨 承前。
「雑事」(11)
外人の登楼 明治七八年の頃、米人某、吾が柏崎に泊せし時、
(註1)翠帳紅閨: 貴婦人の寝室 (註2)青楼: 高貴な人の住む家、遊女屋・妓楼、江戸では、
さて、この米国人だが、明治7、8年と云う事になると、
それでは逆に、明治7、8年当時、
この問題は、今後も追い掛けて行く積りだが、先の様に、
Best regards 梶谷恭巨 承前。
今回は、先に紹介した「剣の山観月会」
ところで、今回は、
Best regards 梶谷恭巨
承前。
「雑事」(10) 剣の山の鑑別会 文久元年八月廿六日、書画の展覧会を妙行寺に於て開かれた。当時 県下中の風流雅人が集まって来たが、 星野藤兵衛の邸宅剣野山に於て、観月会の催しがあったが、 八ッ橋などと云う妓が絃鼓を弄して杯盤の間を賑わしたそうである う人が兼て用意の絖地(ヌイヂ) に山色月光草樹を添えた。 最も此嵐渓と云う画家は三條の人で、 書いた事があるそうで、 (註1)妙行寺: 「旅ナビ柏崎」というサイトに、次の様な紹介文がある。 文永11年(1374)の創立で、慶長2年(1597) 岸山大乗寺」を合併して「海岸山妙行寺」 た。創立となった文永11年、 暴風にあい番神の地へ着岸しました。 真言宗大乗寺の住職慈福法師は、日蓮宗に改宗し、 応4年(1868)の戊辰戦争では、本堂が官軍の本陣となり、 士の「らく書き」が残っています。 多少コメントを付け加えると、日蓮宗の人々は、 聞いたことがある。特に、創価学会では、 柏崎市荒浜の出身であることから、「牧口記念館」 三郎は、札幌農学校出身で、新渡戸稲造の門下であり、民俗学者・ 「郷土会」を設立した創始者のひとりである。 学』がある。この『人生地理学』が、新渡戸稲造などに、 から上京。八王子の小学校校長の傍ら、困窮する農民の為、「 し、その子弟の教育に尽力した。宗教的問題から、 事は、残念である。 (註2)石黒男爵: 石黒忠悳の事。石黒忠悳に関しては、『柏崎通信』に何度か書 いたの省略するが(ブログにも掲載)、管見すれば、 長谷川泰と共に、幕末・ えるのだ。また、子息・忠篤は、先に書いた「郷土会」 「農政の神様」と称された近代農業の改革者のひとりである。 が、芹沢光治良の『人間の運命』の黒田課長のモデルである。 (註3)星野藤兵衛の邸宅剣野山: 現在の剣野小学校とその裏山にあった星野藤兵 衛の別邸。通称、「御殿山」と云う。星野藤兵衛については、 ので省略する。ただ付け加えると、星野藤兵衛の墓所は、 る。 (註4)間斎坊: 不詳。 (註5)絖地: (ヌメヂ)、日本画に使われる絹布。 (註6)嵐渓: 長谷川嵐渓の事。文化11年、三條の会津屋吉右衛門の長男として 生まれ、16歳の時、大槻盤渓に師事、20歳で江戸に出て、 び、天保4年には、仙台の菅井梅関に師事したが、36歳の時、 帰郷して五十嵐川畔に居を構え、嵐渓釣徒と号した。門下に、 どを輩出した。慶応元年没、墓所は、 (註7)松之山の田邊家: 現十日町市松之山の浦田口の田邊家の事だろう。知らな かったのだが、 には松之山石油株式会社が設立されている。明治38年、 温泉が自噴した。これが松之山温泉の初めであろう。 あるようで面白い。大正9年、松之山水力電気(株) 源及び土地等の総てを売却した」という記事があるが、 いない。余談だが、松之山には能舞台があり、 村万作・萬斎師親子の舞台を見に行ったことがある。 今回は、最も関心のある事項だった。もっと調べて見たいのだが、 かりそうである。 Best regards 梶谷恭巨 承前。
「雑事」(9)
番附と値段附 天保以前に出来たものであって『諸国遊所見立角力( 新潟遊郭は前頭の第一番で、値段は二分より段々とあった。 直江津(今町)は二段目前頭の三番目で、値段は十匁。 柏崎は二段目の終尾で値段は七匁五分であった。 以上は東の方で、西の方には、 出雲崎が二段目の終尾で、値段は七匁七分 とあって、此外に越後の遊郭は出て居なかった。
(註1)『諸国遊所見立角力並に値段附』: 幾つか現存しており、国会図書館の蔵書目録に在るようだが、 古文書番号: サカイ01569000 家名 : 酒井家文書 旧蔵地名 : 美馬郡つるぎ町(半田町) 標題 : 諸国遊所見立角力並ニ値段附 作者名 : 浪花わた正(筆) 宛者名 : (空白) 年代 : 天保8酉ノ年 形態 : 枚 材質 : 紙 寸法 : (縦)471mm(横)351mm 種類 : その他 備考 : (空白)
因みに、この古書は、今年の3月2日、
どうも無粋な人間としては、コメントのしようがない項である。
Best regards 梶谷恭巨 |
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プロフィール
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男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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