柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前

徳川(幕臣): 筒井紀伊守(政憲)、羽倉外記(簡堂)、岩瀬伊賀守(忠震・タダナリ)、鳥居甲斐守(忠耀、耀蔵)、男谷下総守(信友)、川路左衛門尉(聖謨・トシアキラ)、成島図書頭(司直・モトナオ)、堀織部正(利忠)、江川太郎左衛門(英敏)、水野痴雲(筑後守忠徳)、松平内記、大久保一翁、山岡鉄太郎(鉄舟)、中条金之助、松岡萬(ヨロズ)
 
江川太郎左衛門(英敏): 天保10年(1836、生年月日不詳)-文久2年12月16日(1863/2/4)、伊豆・韮山代官・太郎左衛門英龍(坦庵)の長男として生まれた。 安政2年1月16日、父・英龍の死去により家督を継ぎ、第37代当主となる。 父の遺業・農兵育成や反射炉の完成、爆裂弾の作成など精力的に推進するが、家督相続後、7年にして死去。 弟・英武が家督を相続する。 江川生年月日が不明なのは、丁度この年の1月9日に、英龍が鳥居耀蔵と共に、備場巡見(外国船防備の為の砲台用地の調査と測量)に出かけ、同年3月14日に帰府するが、外国事情に関する建白書の草案を渡辺崋山に依頼しするなど、多忙を極めていた所為ではないだろうか。 但し、憶測の域を出ない。
 英龍の死後、英敏を後見したのが、老中(備後福山藩主)阿部正弘の側近・松平近直だった。 近直は、目付から勘定奉行勝手方に抜擢され、13年間、阿部正弘と一心同体の如く、ペリー来航後の財政を運営した。 その当時、川路聖謨が江川英龍を推挙するが、近直が拒む。 しかし、実際にあってみると、英龍の人柄・学識に驚き、以後、英龍の崇拝者となり、一族の子弟や家臣を英龍に入門させた。 英龍の死後、16歳で家督を継いだ英武を、先ず代官見習、矢継ぎ早に、内海台場御用・家督相続・代官就任・鉄砲方・大砲鋳造御用などの役職に就け、相続前に将軍に謁見までさせている。 因みに、浅草本法寺で行われた英龍の争議には、2800人余りが参列したそうだ。 英龍の遺業・遺徳が、如何に大きかったかの査証だろう。 こうした事情を考えると、海舟がリストに上げたのは、もしかすると英龍かもしれない。
 英龍は、何しろ多芸・多才な人で、交友関係も多彩だ。 絵画も良くし、谷文晁とも親しく、剣術は、岡田十松門下で、当時は未だ練兵館を開く前の斉藤弥九郎に指導を受け、四天王と云われるまでの剣客である。 尚歯会にも参加、渡辺崋山とは盟友の関係、砲術の高島秋帆に師事し、伊豆に砲術塾を開設、蘭学・洋学にも通じ、反射炉の建設も行うなど、幕末のレオナルド・ダヴィンチのような人物だ。 余談だが、斉藤弥九郎と甲府近隣の直轄領を商人に変装し、実態調査(大塩平八郎の乱の影響など)したエピソードなど小説にでも書けば大受けするのではないだろうか。 また、ジョン万次郎(中浜)は、英龍の要請で、鉄砲方付手付となり、水戸斉昭の反対で現場には出なかったが、実質的には、日米交渉の通訳・翻訳に当たった。
 付け加えると、韮山代官の職は、幕府天領の中でも特異な存在で、代々江川家が世襲した。 確か、小田原攻めの時、家康がお万の方を見初め、江川家の養女として、入室させたのがことの始まりとか。 お万の方の子が水戸藩の開祖。 これが為か、江川家は、伊豆・相模・武蔵の天領10万石の代官になるのである。 (一時期、失脚する。)
 子息・英敏のことより、英龍のことが長くなったが、もしかしたら、海舟がリストに上げたのは、父・英龍ではないかと言う所以である。
 
水野痴雲(筑後守忠徳): 文化7年(1810)-慶応4年7月9日(1868/8/26)、尚、生年には異説がある。 旗本・諏訪頼篤の子として生まれ、五百石の旗本・水野忠長の養嗣子となる。 天保15年(1844)、老中・阿部正弘に抜擢され、西丸目付・使番・御先手組火付盗賊改方加役・浦賀奉行・長崎奉行・軍艦奉行・京都町奉行・勘定奉行・田安家(御三卿)家老・外国奉行・神奈川奉行(兼任)を歴任。 外国奉行の時、日英修好通商条約、日仏修好通商条約の全権委員として調印した。 『アーネスト・サトウ日記抄』に、交渉の経緯、人物評などが書かれている。
 
松平内記: 色々と調べてみたが、よく判らない。 インターネット検索すると、勝小吉の『夢酔独言』を解説するサイトがあった。 「鶯谷庵独言」と云う。 以下、それを引用させて頂く。
松平内記は、この時代の前後に3人確認出来る。
・割下水の200坪に住む松平内記(右図、夢酔の借宅から約800m)。1855年頃は小普請、詳細不詳。
・浅草の新堀端で3千石、2千坪強の松平内記勝敬(上図)、寄合。 豊後・国東の杵築藩主(能見)松平
 親明(チカアキラ)の側室の子で分家を継いだ。虎之助(島田)の後援者でもあったので、夢酔が記す内記の可能性が高い。
・下谷七軒町(上右図の松平次郎)で5千石、3千坪強の松平内記。次郎信幹の父・勘助信意が当時の
 主であるが、内記か否かは不明。信意の祖父は内記。
 
大久保一翁: 文化14年11月29日(1818/1/5)-明治21年(1888)7月31日、幼名は三市郎、名は忠寛(タダヒロ)、隠居後の号を一翁。 小姓組番頭格・西丸留守居を歴任した五百石の旗本・大久保忠尚の子に生まれ、十一代将軍家斉の小姓を務めたが、老中・阿部正弘に抜擢され、目付・海防掛・軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取、駿河奉行・京都町奉行を歴任した。 また、勝海舟・山岡鉄舟と共に江戸城無血開城に尽力し、「幕府の三柱」と称された。 明治になって、徳川家が駿府に移封されると、幕臣の救済の為に山岡鉄舟などと図り、牧之原の開拓や平沼兵学校の設立に尽力した。 余談だが、牧之原辺りの農家(幕臣の末裔)は、今でも、戦時を想定した堀や土盛が残っているそうだ。 静岡藩では、家老・中老・幹事役が廃された後、権大参事に就いている。 因みに、当時の大参事は平岡丹波、権大参事は一翁のほか、浅野二郎八・山岡鉄舟らが、小参事には向山黄村・津田真一郎らが、権小参事には小林庄次郎・宮重丹下らが就任した。 廃藩置県後、初代静岡県参事、明治5年に第五代・東京府知事、明治9年に教部少輔、明治10年に元老院議官、明治20年に子爵を叙爵した。 余談だが、、勝海舟は、当初、権大参事筆頭に推挙されたが受けなかった。 
山岡鉄太郎: 天保7年6月20日(1836/7/23)-明治21年(1888)7月19日、名は高歩(タカユキ)、通称は鉄太郎、号を鉄舟。六百石の旗本、父・小野朝右衛門高福(タカトミ)が、蔵奉行の時、三人目の妻・いそ(磯)との間に四男として生まれる。 朝右衛門は、清涼旺盛な人で、生涯、九男三女をもうけ、内最後の二人は70歳を過ぎてからの子供。 母・磯は、鹿島の神官・塚原秀平(石見)の次女。 塚原の先祖は剣豪・塚原朴伝。 小野家の知行地が鹿島に在り、父秀平は、その知行地の管理を任されていたが、計数に明るいことから、請われ用人として在府していた。 お磯が25歳の時、朝右衛門に請われ、後妻に入るのだが、何しろ年の差が33あるいは34歳、秀平は、娘の将来を案じ、念書を入れさせたと云う。 しかし、お磯は才気煥発で、親子ほど違う朝右衛門をコントロールした。 所謂「かかあ天下」だったようだ。 その後、朝右衛門が、飛騨郡代として飛騨高山に赴任。 鉄舟(鉄太郎)は、父が亡くなるまで高山で育った。 幼少時、高山の臨済宗・宗猷寺の住職・俊山和尚について勉学、これが後に、「剣禅一如」の心境地を開く遠因だろう。 山岡鉄舟については、小説や伝記など多数あるので、中略するが、例えば、小説では、南条範夫著『山岡鉄舟』、津本陽著『春風無刀流』、北方謙三著『草莽枯れ行く』・『黒龍の柩』等があり、他に、手塚治虫の『陽だまり樹』などがある。)
 剣は、9歳から直心影流を学び、高山時代、父の招いた剣客・井上清虎から北辰一刀流を学ぶが、江戸に出てからは、講武所に入り千葉周作らに指示した。 また、書は、弘法大師流を岩佐一亭に学んだ。 山岡家を継ぐ契機となったのは、学んでいた槍術・忍心流の師・山岡静山が急死した為、静山の弟・謙三郎に請われ、妹・栄子(フサコ)と結婚し、家督を相続したことによる。 因みに、勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の三人を「三舟」と云い、三人の書を揃えたもは、三舟の三幅」と云い、珍重された。 真筆を大叔父の家で見たことがあるが、三人の内、鉄舟の書の勢いには圧倒されたものだ。 何しろ、身長が六尺二寸(188cm)、体重が二十八貫(105kg)と云うから、書は体を現すのだろう。
 山岡鉄舟の家(高橋泥舟の隣)は、様々な若者の集いの場となっていた。 例えば、清河八郎(虎尾の会を共に結成)などもよく出入りしていたようだ。 因みに、清河八郎は、出羽(山形県)の上山藩士。 浪士隊や新撰組で有名だから省略するが、上山藩の飛び領が、現在の新潟県長岡市小国町で、藩校の分校があり、名前を失念したが、清河八郎の盟友が塾頭をしていたと、何処かで読んだ記憶がある。 (後で確認する。) 
 徳川家静岡移封後は、権大参事。 先にも書いたが、大久保一翁等と共に、幕臣の救済策に尽力した。 また、移封当時、農民一揆が起こるが、この仲裁役を務めたのが鉄舟だ。 農民も、鉄舟の勢いに圧倒されたのであろう。 似たようなエピソードが、茨城県参事、伊万里権令の時にもある。 井上馨は、県や地方に、他の人間では解決できない問題が起こると、「山岡君にお願いする」と、わざわざ自宅まで訪問して要請したそうだ。 しかし、当の本人は、官職に就くことを余り望んでいなかったようだ。 既に、「剣禅一如」の境地にあった故かもしれない。
 明治天皇の侍従になることを要請されたときにも一悶着あり、自分の流儀でよいかと聞き、その流儀を通したそうだ。 侍従時代にも多くの逸話があるが、長くなるので現時点では省略する。
 明治維新の歴史では、脇役的存在を見られがちだが、その果たした役割は、大きい。
 
中条金之助: 文政10年(1827)6月19日-明治29年(1896)1月19日、旗本・中条氏右衛門の長男として生まれる。 名は影昭。 心形刀流、北辰一刀流を学び、34歳で、幕府講武所の剣術教授を務める。 「虎尾の会」に参加、浪士隊の結成にも参加した。 維新後、静岡の牧之原開拓を実質的に指導、2000人余の幕臣を率いて、3000町歩の茶園の基礎を築いた。 静岡茶の元祖的存在。 また、鉄舟の無刀流の道場を開き、1000人余を教え、静岡県の剣道の基礎を作った。 因みに、葬儀委員長は勝海舟が務めている。
 
松岡萬: 天保9年(1838)-明治24年(1891)3月17日、名「萬」は、「ツモル」あるいは「ムツミ」とも読む。 号を古道。 代々旗本・鷹匠組頭の家に生まれる。 講武所で、中村敬宇に師事。 幕臣には珍しく、熱烈な勤皇家で、頼三樹三郎が、安政の大獄で処刑された時、小塚原の刑場から片腕を盗み、神棚に祀ったというエピソードがある。 山岡鉄舟らと「虎尾の会」を結成、清河八郎により浪士隊取締役に抜擢された。 また、新撰組の隊員を集めたのも松岡萬である。
 維新後は、中条金之助らと共に牧之原開拓に尽力し、また、新門辰五郎の協力得て、製塩事業にも力を注いだ。 現在、磐田市に松岡神社があるくらいだから、その功績の大きさが判る。
 清水次郎長との関係も深く、次郎長が、禁止されたいた官軍の戦死者の埋葬を行った時、黙認したと戸言うエピソードがある。 また、次郎長との逸話は多くあるようだ。
 
 以上、何とか幕臣についてまとめてみた。 ただ、人によっては、略歴程度、また、詳しい資料が探せない人物もあり、満足のいくものではない。 ブログ版では、訂正があれば訂正し、新たに判ったことや加筆すべきことがあれば、随時加筆する予定である。
 
 ところで、こうして海舟の人物リストを見ていくと、異例の出世をした能吏や剣客が多いことに気づく。 幕末維新の人物関係史を追っていくと、矢張り、三つの関係、すなわち、学問・武術・姻戚関係が、重要なファクターである考えるのだ。 コンピュータは、こうしたネットワーク解析には最適だ。 日本にも似たサイトはあるのだが、欧米の系図学(あるいは系譜学、Genealogy)のネットワークと比べると比較にならない。 
 
 実は、こうした問題点のネットワーク化は、様々な問題の解決の手段として、ビジネスの世界では日常茶飯事に使われている。 例えば、スコープ・プランニングとか、あるいはブレイン・ストーミング時の概念のまとめ、あるいはPERT/CPMなど、開発された手法は当に多様多彩である。 私は、システム工学を講義した時も、またビジネスとしてシステムを構築した時も、先ず、システム(広義のシステムを含めて)の分析に、常に、それぞれの関係図を作り、且つ、それを多層化した視点で見る為に、良く使ったものである。 習慣なのか、今も、何か考える時は、無意識の内に図式を描いている。
 
 それ故、言うのではないが、歴史をネットワークとして考えて行くと、別な姿が浮かんでくるものなのだ。 過去の事実である故、事実関係が比較的明確だから、ネットワーク理論の勉強には最適の教材だと思うのだが、さて如何なものであろう。 
 
Best regards
梶谷恭巨
 日本人のナショナル・アイデンティティの形成過程をを知ることは、現代の日本人のアイデンティティが何かと云うことより、むしろ、社会のみならずビジネスにおいても、将来の日本を予測する上で、重要なファクターになると確信している。 それ故、現代人が忘れかけている歴史上の人物の生き様あるいは人間関係を探ることを念頭に、文献や資料に残る人物評、特に、激変する歴史の渦中に居て、尚且つ、一歩引いた視点から、あるいは時には傍観者として、変動する社会の中に生きた人々の人物評を残した勝海舟、あるいは、福沢諭吉、外国人の日記や書簡を読むことは重要だと考える。 とまあ、そんな訳で、諸子の参考になればと、以下、あちこちから参照し書く次第である。
 
徳川(幕臣): 筒井紀伊守(政憲)、羽倉外記(簡堂)、岩瀬伊賀守(忠震・タダナリ)、鳥居甲斐守(忠耀、耀蔵)、男谷下総守(信友)、川路左衛門尉(聖謨・トシアキラ)、成島図書頭(司直・モトナオ)、堀織部正(利忠)、江川太郎左衛門(英敏)、水野痴雲(筑後守忠徳)、松平内記、大久保一翁、山岡鉄太郎(鉄舟)、中条金之助、松岡萬(ヨロズ)
 
筒井紀伊守(政憲): 安永6年5月21日(1778/6/15)-安政6年6月8日(1859/7/7)、通称は右馬助、佐次右衛門、目付、長崎奉行、南町奉行を歴任。 特に、南町奉行は、20年勤めている。 寛政の三博士の一人、昌平坂学問所で柴野栗山に師事する。 因みに、「寛政の三博士」とは、柴野栗山・古賀精里 · 尾藤二洲を云う。 業績としては、河内山宗春事件を裁き、シーボルト事件では伊能忠敬の日本地図をシーボルトに渡した高橋影保を捕縛・尋問し、出石藩・仙台藩のお家騒動に関与、町奉行を罷免された。 名奉行として誉れ高く、小説や映画にも脇役として何度となく登場している。
 
羽倉外記(簡堂): 寛政2年11月1日 (1790/12/6)-文久2年7月3日 (1862/7/29)、名は用九、字は士乾、通称は外記、号を簡堂。 大阪で生まれ、日田で育つ。 古賀精里に師事し、後に、父の後を継ぎ、各地の代官を務める。 渡辺崋山らの尚歯会に参加、伊豆七島の見聞録『南汎録』を著した。 尚歯会に参加していたとことから「蛮社の獄」では、目付時代の鳥居耀蔵に告発されたが、難を逃れた。 水野忠邦に抜擢され、「天保の改革」で活躍するが、忠邦の失脚により、家督を弟に譲った。 「尚歯会」については、渡辺崋山の項に注釈を記す。
 
岩瀬伊賀守(忠震): 文政元年11月21日(1818/12/18)-文久元年7月11日(1861/8/16)、旗本・設楽貞丈の三男、岩瀬忠正の養子。 母は、林大学頭・述斎の娘。 (鳥居耀蔵との関係については、その項で。) 老中・阿部正弘に抜擢され、目付、外国奉行、作事奉行を歴任。 日米修好通商条約では、タウンゼント・ハリスと交渉し、井上清直と共に条約に署名した。 将軍継嗣問題で、一橋(徳川慶喜)派に属したため、井伊直弼によって左遷、作事奉行になった。 因みに、福地源一郎(桜痴)は、『幕末の三傑』の中で、岩瀬忠震のほか、水野筑後守忠徳と小栗上野介忠順を上げている。 また、川崎三郎紫山は、『幕末の三俊』として、岩瀬のほか、矢部駿河守定謙(サダノリ)を上げているが、その両方者に上げられたのが岩瀬忠震一人である。 尚、余談だが、東海日日新聞が、『越後長岡と東三河』というシリーズで、岩瀬忠震について、詳しく掲載している。 参考までに。
 
鳥居甲斐守(忠耀、耀蔵): 寛政8年11月24日(1796/12/22)-明治6年(1873/10/3)、名を忠耀(タダテル)、通称を耀蔵、号を胖庵(ハンアン)。 実父は、林大学頭・述斎で、岩瀬忠震は甥。 父方(林)の祖父は、美濃・岩村藩三代藩主・松平乗薀(ノリモリ)で、林述斎の三男(側室の子)として生まれ、旗本・鳥居成純(2500石)の養子となり家督を継いだ。 中奥番、徒頭、西の丸付目付、目付・勝手掛、南町奉行、勘定奉行・勝手方を歴任。 特に、南町奉行時代は、家紋から「蝮の耀蔵」とか、名前と官位、耀蔵・甲斐守から「妖怪」とあだ名され、恐れられた。 特に、洋学を忌み嫌ったところか、「蛮社の獄」の元凶と目された。 当時の北町奉行は、水野忠邦の「天保の改革」批判的で開明的な遠山金四郎で、何かにつけて対立。 小説や劇画、映画などで、採り上げられ、広く一般にも知られるようになった。 特に、小池一夫の劇画『御用牙』は、私が学生時代、ベストセラーだった。 晩年は、四国丸亀藩に永のお預けとなったが、明治の恩赦で駿府(静岡)に移り、平穏な日々を送った。 晩年の詩は、解釈にも依るが、実に興味深い。 何だか、今の日本を予感した感がある。
 
男谷下総守(信友): 寛政10年1月1日(1798/2/4)-元治元年7月16日(1864/8/17)、通称は精一郎、号静斎、蘭斎、幼名新太郎。 幕臣にして剣客、直心影流男谷派を開き、島田虎之助や明治時代最後の剣客と言われた榊原健吉などを育てた。 男谷精一郎は、柏崎と縁が深い。 男谷精一郎は、男谷忠之丞の次男にに生まれ、従弟・彦四郎思孝(ヒロタカ)の次女・鶴と養子縁組し、家禄100表の男谷彦四郎家と継ぐ。 彦四郎は、男谷平蔵の長男で、夢酔(勝小吉)の兄、すなわち勝海舟の伯父に当たり、精一郎の従兄になる。 履歴を見ると、表祐筆、信濃・中之条代官、越後・水原代官、西の丸裏御門番頭、小十人組頭を歴任している。 中之条代官所は、石黒忠悳(況翁)との関係があり、何らかの関係が推測されるのだが、現時点では未調査。 また、水原の代官に就任していることも興味深い。 和算の山口和との関係があれば面白いのだが、これまた、初めて知った事実で、未調査。 
 横道に逸れたが、彦四郎は、男谷検校(米山検校)の孫に当たる。 男谷検校は、越後・三島郡長鳥(現、柏崎市)に生まれ、確か12歳の冬、三国峠を越えて江戸に出るが、奥医師・石坂宗哲の門前で行き倒れと成なり助けられる。 宗哲が使ってみると、盲目だが物覚えが速く、暗算を瞬時にして行う。 それを見込んで、鍼灸按摩の術を教え、独立に際して、若干の金(1両2分)を渡した。 それを元手に金貸しを始め、江戸府内17ヶ所の地主になり、検校株を買った。 その後、末子・平蔵の為に御家人株を買い与えた。 ここから、男谷検校流、男谷家、勝家が始まる。 余談だが、地元・柏崎より、確か足立区の方が、盛んに勝海舟の家系を調査されているようで、区の教育委員会に問い合わせたくらいだ。 その後、進展しているのかどうか知らないが、当時、勝海舟記念館の設立か、江戸博物館に海舟の展示コーナーの設置が計画されていたと聞いた記憶がある。
 
川路左衛門尉(聖謨): 享和元年4月24日(1801/6/6)-慶応4年3月15日(1863/4/7)、幼名は弥吉、名を萬福、後に聖謨(トシアキラ)、号は敬斎。 日田代官の属吏の長男に生まれ、12歳の時、小普請組・川路三左衛門光房の養子となる。 幕府の要職を歴任、当代随一の出世頭と言われた。 山岡鉄舟の伝記を読むと、父に連れられて川路家を訪問した時のことが書かれている。 名刺を出し、玄関先の廊下に並び、聖謨の出仕を待つのだが、訪問客が門前市を成すといった具合で、廊下にも多数の客が居並び、聖謨から声の掛かるのを待っていたようだ。 目的は皆、聖謨にあやかろうと、より良い職を求めてのことだったようだ。 鉄舟の父も、息子の将来を考えて、お目通りに訪問した。 確か、帰り道、上野の東照宮により、門前で拝礼、鉄舟が「どうして、神前に詣でないのか」と聞くと、「お目見え以下は、門内に入ることが許されない。 お前は、川路様を見習って、父を越えるように」と言った場面が思い出される。 幕末に活躍する幕臣に、代官所の役人が多いのも、この辺りの事情があるのかもしれない。
 川路聖謨も、尚歯会に参加している。 因みに、「尚歯会」とは、「尚歯」とは、「年上を敬う」と云う意味。
 
成島図書頭(司直): 安永7年2月15日(1778/3/13)-文久2年8月13日(1862/9/6)、名を司直(モトナオ)、通称は豊之助あるいは邦之助、号を東岳。 幕府の奥儒者、歌人。 林述斎の下、『徳川実記』の編纂に参画、この編纂は、後に、孫、明治の文人・成島流北に引き継がれる。
 
堀織部正(利忠): 『アーネスト・サトウ日記抄』などで目付・外国奉行であったことは確認できるのだが、詳細が不明。 今、渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』などで調べている。
 
 何とも長くなってしまった。 これでは読む人も居ないだろう。 ただ、勝海舟の人物リストを軸に調べていくと、矢張り、姻戚関係と尚歯会のような学問の関係が気になる。 それと、山岡鉄舟が後に、幕臣の連絡役的存在になる背景背景が気になるところだ。 このリストには、気になる人物が羅列的に記載されているだけだが、何かしら朧気ながらも、評価の基準がイメージできる。 もっとも、未だ幕臣の半ばまで記載しただけなのだが。
 
 続きは、また次回に。
 
Best regards
梶谷恭巨
 
 萩原延壽著『遠い崖‐アーネスト・サトウ日記抄』は、幕末明治を知る上で、バイブル的存在だと認識している。 その第7巻、『江戸開城』に、『海舟日記』からの引用として、人物評が載せてある。 説明によると、慶応四年(1868)8月18日(陰暦7月1日)に、サトウが海舟を訪問した際、数年前に作成したという人物評のリストを見せられ、それを写し取ったもののようだ。 実に、興味深い。 そこで、少々長くなるが、紹介しよう。 以下、転記。 (赤は、私の注釈。 また、ルビの無い難字の名前はカタカナを加えた。)
 
徳川(幕臣): 筒井紀伊守(政憲)、羽倉外記(簡堂)、岩瀬伊賀守(忠震・タダナリ)、鳥居甲斐守(忠耀、耀蔵)、男谷下総守(信友)、川路左衛門尉(聖謨・トシアキラ)、成島図書頭(司直・モトナオ)、堀織部正(利忠)、江川太郎左衛門(英敏)、水野痴雲(筑後守忠徳)、松平内記、大久保一翁、山岡鉄太郎(鉄舟)、中条金之助、松岡萬(ヨロズ)
 
真田(松代): 佐久間修理(象山)
三宅(田原): 渡辺登(崋山)、高野長英(水沢藩伊達家の家臣の子として生まれ、渡辺崋山の推挙で、田原藩のお雇い蘭学者になるので、ここに記載か
水戸: 藤田虎之助(東湖)、戸田銀次郎(孝甫)、会沢恒蔵(正志斎)、武田耕雲斎、大場一真斎
 
蘭学: 坪井信道、箕作阮甫、宇田川ヨウサイ(榕庵か)、杉田成卿
儒学: 佐藤一斎、朝川善菴、安積艮斎(アサカゴンザイ)、古賀弥助(精里)、塩谷甲蔵(宕陰・トウイン)、斎藤拙堂、藤森恭助(弘庵)、大橋順蔵(訥菴)、野田笛浦(コホ)、大槻平次(磐渓)
 
土佐: 後藤象二郎、福岡藤次(孝弟)、坂本龍馬(才谷梅太郎)、武市半平太、清岡岱作(公張・タカモト)
肥後: 横井平四郎(小楠)、溝口孤雲、津田山三郎、住江甚兵衛、宮川小源太、浅井新九郎、竹添進一郎
越前: 中根雪江、酒井十之丞(帰耕)、村田巳三郎(氏寿)、青山小三郎(貞)、三岡八郎(由利公正)、本多修理(敬義)
会津: 梶原平馬、手代木直右衛門(勝任・テシロギカツトウ)、神保修理、広沢冨次郎(安任)
紀州: 堀内六郎兵衛、津田監物(正臣)、服部五十二
尾張: 田宮弥太郎(如雲)、丹羽淳太郎(賢・マサル)、田中国之輔(不二麿)
 
郷士: 浜口儀兵衛(梧陵)、菊池渓琴(海荘)
 
芸州: 辻将曹(維岳)、イシイ・ショウゲン(石井修理か)
肥前: 副島二郎(種臣)、本島藤大夫、江藤新平
宇和島: ザコウジ某、林玖十郎(得能亜斯登・トクノウアスト)
仙台: 伊達将監、但木土佐(タダキ)、イシダ・タクミ、坂英力、富田鉄之助、大童信大夫(オオワラベ)
阿波: 井上平馬(高格・タカノリ)、中島永吉(錫胤・マスタネ)、高鋭一、三守孝次、モリ・ユウスケ
 
薩摩: 西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、小松帯刀、岩下佐次右衛門、海江田武次(信義)、吉井幸輔(友実)、松木弘安(寺島宗則)
長州: 長井雅樂(ウタ)、周布政之助、林良輔、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(博文)、広沢兵助(真臣)、大村益次郎(村田蔵六)、志道聞太(井上馨)、国司トクジロウ、高杉晋作、来島又兵衛、村田ジロクロウ、小田村素太郎(楫取素彦・カトリ)、久坂義助(玄瑞)、寺島忠三郎、山田宇右衛門、松原ヒョウゾウ、玉木文之進、木梨精一郎
 
彦根: ヒビキ・リョウタロウ(平木良太郎か)、横川源蔵
宇都宮: 県勇記(アガタ、信緝・モブツグ)
 
 入力にだいぶ時間が掛かった。 次回は、リストの人物について、個々に検証する。
 
Best regards
梶谷恭巨
 
 先ず、約三ヶ月の休刊状態をお詫びしたい。 と言うのが、服用する薬の所為か、今年になってから視力が急速に低下した。 主治医に相談し、入院中も眼科の診察を受けていたのだが、先にも書いたように、今年になって悪化するばかりなのだ。 先日、主治医から白内障を検査を受けるように指示され、改めて診察を受けたのだが、白内障の疑いは無く、また眼圧や視力とも、検査的には正常との事。 ただ、結膜炎があるとの診断だった。 これは、原因が明確だ。 薬の副作用で、涙目になり、気象時には、それが乾燥して、時には眼が開けられない事があるのだ。 結局、原因不明。 物は二重に見えるし、かすんで見える。 読書も、侭ならない状況だ。 今も、キーボードを打ちながら、誤字は無いかと眼を凝らしている。 言い訳がましいのだが、そんな訳で、休刊状態が続いた次第だ。
 
 ただ、配信版の『柏崎通信』は、現在、783号まで続けている。 以前にも書いたが、こちらは、事実関係を確認する前の覚書として、読者諸氏には迷惑かと思うのだが、ご指摘など検討するための草稿とし、配信している次第だ。
 
 さて、現在の課題は、アイデンティティの問題を歴史的見地から考えようとしている。 連載としては、7回まで書いているのだが、試行錯誤の状態で、公開に耐えない。 いずれ、まとめて公開する予定である。
 
 ところで、眼の話に戻るが、人間慣れるものだと、人の生理機能の不思議を感じている。 よくは見えないのだが、一種の推測機能あるいは勘が働くのか、読むにしろ、書くにしろ、以前ほど不自由を感じない。 ただ、眼精疲労を免れることはできない。 特に、読む方はひどい。 数ページ読むと、涙が止まらなくなる。 何度も、顔を荒い、眼を洗浄する有様だ。
 
 以上、休刊状態のお詫びと、近況報告まで。
 
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梶谷恭巨

 昨日、息子の入学式があった。 式典には出席したが、体調が悪く、その後のオリエンテーションは、女房殿に任せ、久しぶりにソフィアセンター(市立図書館)を訪ねた。 そこで、柏崎高校の『回顧百年』を読む。

 『回顧六十年』は、既に読んでいたので、調べている範囲では、特に注目する事もないと思っていたが、意外に新事実などが加筆されていた。 ただ、大きな間違いもあったのだが。

 さて、羽石重雄であるが、前にはなかった「葉隠校長」という記載があった。 この事実は、非常に興味深い。 何故なら、前任地である岩国中学では、むしろ、ハイカラである事が排斥の理由でもあったからだ。 そこで、大正4年(校長就任)の12月刊『親友会雑誌』第19号から、その部分を引用してみよう。 (『回顧百年』の又引き、また文中の難字にはカタカナをふった。)

 「剛気勇健の葉隠校長」(『回顧百年』)
 大正42月、元田龍佐校長は長岡中学校長に栄転、第四代校長居は、山口県岩国中学から羽石重雄が着任した。 <中略> 同年12月刊、第19号『親友会雑誌』に <中略> 「会員諸子の猛省を促す」の初論説が載った。 「学生の最も尚ぶべきは剛健の気風である」と主張し、”葉隠校長”の側面をのぞかせた。

 「本校としては、遺憾ながら未だ健全なる校風が成立って居ると認められぬ。 又此の土地は、以前、藩の置かれてあらざりし関係から、一般的に武士的精神が乏しい感がある。 随って学生の風も決して剛健とは云えぬ」と断じ、「今日世間の中学生に往々見るが如き、或は料亭に出入し、或は女学生と慇懃を通ずるが如き懦弱(ダジャク)の輩は、将来到底国家有用の人物となることは出来ない。 若し之れ有りたる場合には、全校共同の敵として擯斥(ヒンセキ)するようでなくてはならぬ。 然るに学校によりては、学生の意気乏しきためか、己には何等関係なきものとし、全然看過する風あるのは、甚だ宜しくない」と強い訓戒である。

(注)元田龍佐: 大分県出身、明治4384日付けで長岡中学校長、大正元年1011日付けで柏崎中学校長、大正4227日付けで、再び長岡中学校長に転任した。 詳細については調査中。

 とま、こういった具合である。 これは、羽石重雄の脩猷館時代、あるいは第五高等学校時代の文集などから予想できる事なのだが、それでは、何故、岩国中学で排斥運動が起こったのだろう。 しばらく、壁に当たって、取材を中断していたのだが、改めて、岩国から柏崎へ移る二年近い空白の期間に興味が湧く。

 また、文中で、当時の柏崎の中学生に触れているが、確かに今も長岡などの城下町と住民自体の気風に違いがあると感じる。 これは、他所から来た者の感覚なのであろうか。 いずれにしても、柏崎の当時の状況を物語る事実である。 繰り返すが、柏崎には、独特の雰囲気がある。 どうも、今も過去の歴史の影響があるのではないかと。 例えば、戊辰戦争における商人達の動向である。 官軍を支援した星野藤兵衛は、明治維新後、結果的には没落している。 明治10年の行幸の折、子息と弟が前後二回に亘り、窮状を訴え、千円の下賜金と従四位を追贈されていることからも、その事が分かる。 これに反し、桑名藩に殉じた豪商や豪農もあり、むしろ、こちらの方が、その後発展した気配があるのだ。 まあ、この辺りの事は、今回のテーマに外れるので、次の機会に。

 さて、羽石重雄だが、松本中学時代の羽石について、「はいし、はいしどうどう」と揶揄というよりは、愛着に近い感情で、同窓生が書いている。 なかなか資料が集まらず、ご好意で送られてきた断片的なコピーからでは、全体像を把握する事が難しい。 しかし、羽石重雄の足跡には、時代を物語る何かがあると確信するのである。 そのためには、もっと資料を集めなければならないのだが。

 余談だが、柏崎中学の歴代校長の出身地を調べると、次のようになる。

(1)渡辺文敏: 山形県、次任地・新発田中学
(2)高宮乾一: 京都府、前任地・新発田中学、次任地・福岡明善中学
(3)元田龍佐: 大分県、前任地・長岡中学、次任地・長岡中学
(4)羽石重雄: 福岡県、前任地・岩国中学、次任地・長岡中学
(5)林栄太郎: 島根県、前任地・長岡中学、次任地・退職
(6)佐々木哲郎: 岩手県、前任地・愛知県第五中学教諭、次任地・新発田中学
(7)高橋林吉: 広島県、前任地・新津高等女学校、次任地・新発田中学
(8)柿沼彦吉: 群馬県、小千谷中学、次任地・新発田中学
(9)伏木弘照: 新潟県、新津高等女学校、次任地・新潟商業学校
(10)坂斎武之助: 埼玉県、岩手県立黒沢尻中学、次任地・新潟県視学官
(11)益田瞬之助: 東京府、前任地・千葉県視学官、次任地・新潟高等女学校
(12)村瀬秀二: 熊本県、前任地・鹿児島県社会主事、新発田中学
(13)広田輝雄: 島根県、前任地・糸魚川女学校、次任地・島根県立師範学校教授
(14)小和田毅夫: 新潟県、前任地・巻中学、次任地・高田中学 (ここから新制中学・高校に変わる)

 参考までに掲載したが、こうして見る中々面白いものだ。 大正時代辺りまで、関係校長の足跡を追い掛けているが、出身地、出身校、任地のマップや比較年表を作ると面白いと思っている。 漸次作成の予定だ。

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梶谷恭巨



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