柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
前回に続いて、今回は、ウィリアム・エドワード・エアトンについて。 前回と同じで、Wikipediaなどから訳出した。 エアトン(W. E. Ayrton):
英、工部大学校教師、五百円(明治六年)。 1847/09/14-1908/11/08、ユダヤ系英国人物理学者・電気工学者。
○初期
ロンドンで生まれ、ユニバーシティ・カレッジ・スクール(UCS)およびユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで学び、後に、グラスゴー大学のケルヴィン卿(初代ケルヴィン男爵、ウィリアム・トムソン、物理学者・電気工学者)の下で研究した。
○インド時代
1868年、エアトンは、ベンガルのインド総督府電信局に奉職、そこで、電信線の不具合を発見する方法を発明した。 これは、陸上電信網の保守に多大な貢献をした。
○日本時代
1873年、エアトンは、明治政府の招きに応じ、新設された東京の工部大学校の自然科学および電信の主任教授に就任した。 また、1878年の電気アーク燈の紹介に貢献した。
○ロンドン時代
帰国後、市および組合立ロンドン工科大学フィンスブリー校(The Finsbury College of the City and Guilds of London Technical Institute)の応用物理学教授に就任。 1884年、サウス・ケンジントンの中央工科大学の電気工学教授に転任。 この間、単独あるいは共著で、物理学、特に電気に関する論文など発表すると共に、電流計や電力計を含む、伝記計測系の機器を多く発明した。 また、最初の三相交流の動力計などを製作し、鉄道の電化に貢献したほか、サーチライトの研究でも知られ、1901年、王立協会から勲章を授与されている。 1908年、エアトンは、ロンドンのブロンプトン墓地に葬られた。
○妻・ヘルザ(Hertha Ayrton)のこと
1885年5月6日に結婚したエアトンの妻・ヘルザ・マークス・エアトンは、夫の研究を助けたが、後に、自身も電気アークなどの科学的研究でも知られるようになった。 1899年、彼女は、電気工学学会初の女性会員選出され、1906年には、王立協会から勲章を授与された。 因みに、ヘルザは、ケンブリッジのガートン校で数学を学び卒業証書は授与されたが、学位は授与されなかった。 しかし、1881年、ロンドン大学の学外試験に合格し、BScの学位を授与されている。 尚、夫であるエアトンは、フィンスバリー校時代の教師の一人だった。
また、前妻で従妹のマチルダ・チャプリン(1846-1883)は、エディンバラ大学医学部の「エディンバラ・セヴン」闘争、医学の女性への解放運動に参加した。
余談だが、「エディンバラ・セヴン」は、BBCのTVドラマ、「若き日のコナン・ドイル」シリーズでも採り上げられた。 確か、設定は、ドイルがエディンバラ大学の医学部の学生で、同じクラスに女学生がいて、解剖学の講義の受講を大学に拒否されたのが発端で、「エディンバラ・セヴン」のキャンペインが始まるというものだた。 若きドイルは、彼女達に同情的で、その内の一人と恋仲になるのだが、クライマックスで、その彼女が事件に巻き込まれて殺害されるという悲劇だった。
幕末・明治という時代が、英国では、女性解放運動が始まった頃にあたることに、また、市民運動の時代であったことに興味が湧く。 付け加えると、当時の西欧では、医者も含め技術者の社会的な地位が低かったこともにも着目したい。 日本の場合はどうだろうか。 幕末、学問の主流が儒学から実学へ変化した。 例えば、陽明学にしても然りである。 実学への変化は、先ず「折衷学」から始まったと考えられるが、これは明らかに陽明学の影響がある。 その陽明学の「知行合一」の精神は、蘭学や洋学を受け入れる土壌であった。 明治になって、「和魂洋才」という言葉が流行した。 言い換えると、日本でも、「方外の人」とわれた医師や芸術家らの地位は、階級社会の外にあったが、彼等が脚光を浴びるのは幕末である。 実務者の社会的地位が、明治になると急上昇する。 こうした側面から、例えば、「文明開化」や「廃仏毀釈」、あるいはその後の歴史を捉えることはできないだろうか。 課題である。
Best Regards 梶谷恭巨
先回上げた「お雇い外国人」の内、英国人(スコットランドおよびアイルランドを含む)について紹介したい。 今回は、日本の技術教育に貢献し、また帰国後、スコットランドの教育界の重鎮となった「ヘンリー・ダイアー」について、紹介する。 尚、下記の文は、Wikipediaの英国版などから訳出したものである。
ダイアー(あるいは、ダイヤー、Henry Dyer):
○来日以前
北ラナークシャー(North Lanarkshire、西スコットランド)のボズウェル(Bothwell)教区ミュアマドキン(Muirmadkin、現Bellshill)に生まれ、1865年頃、家族と共にグラスゴーに転居、クランストンヒル(Cranstonhill)のジェームス・アトキン社に就職、トーマス・ケネディとA. C. カークの下で見習徒弟として 務めると共に、アンダーソン・カレッジ(後のストラスクライド大学、Strathclyde)で学んだ。 同学には、伊藤博文、井上馨らと留学生した山尾庸三が居た。 その後(1868)、より高度の実務や理論を学ぶため、ダイアーは、グラスゴー大学に進学し、ウィットワース奨学金を受けた最初のスコットランド人になった。 1873年、工学部からBScの学位を授与された。 近代工学の先駆者である。
○日本時代(1873-1882)
ダイアーは、1872年、弱冠25歳で、指導教官・ウィリアム・ジョン・ランキン(William John Rankine)教授のにより、当時、英国に滞在して遣欧岩倉使節団の伊藤博文に推薦され、工部大学校(ICE、Inperial College of Engineering)の教頭(実質的校長)および教授に就任した。
1882年、離日に際し、名誉校長の称号および勲三等旭日賞を授与された。
○スコットランド時代(1882-1918)
帰国後(1886)、グラスゴー&ウェスト・オフスコットランド技術大学および農業大学(旧アンダーソン・カレッジ、現ストラスクライド大学)の終身学長に就任。 1891年、グラスゴー・スコットランド教育委員会の委員に、1914年から没年まで、その委員長を務めた。
また、ダイアーは、スコットランドに親日ロビーの代表として、日本学生や技術者らを援助し、日本政府の非公式の連絡役として働き、1901年には、日本人のグラスゴー大学への入学が許可された。 また、同じ年、東京大学の桜井および飯島教授は、グラスゴー大学の名誉学位を授与された。
現在、ストラスクライド大学に、ヘンリー・ダイアー館があり、海軍の建設部および海兵隊のエンジニアリング部の本部として使用されている。
長州から密航し、英国で学んだ所謂「長州五傑」、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、それに山尾庸三らは、皆、ロンドンで学んだと思っていたが、山尾庸三が、スコットランドで学んでいたのは意外だった。
記憶が定かではないが、以前、NHKの「我が心の旅」という番組で、さだまさしが、初めて親に買ってもらったバイオリンが、どういう訳か、グラスゴーの造船所の技術者の製作したもので、その人物を探すためスコットランド一円、特にグラスゴーを訪ね、最後に、その人物の意外な足跡を知るというのがあった。 また、草創期の八幡製鉄に来日していた英国人も実際には、スコットランドのグラスゴーの出身者だったとか、逆に、八幡製鉄から研修に行った先がグラスゴーだったという似たような番組を見たことがある。 そういえば、グラバーも、またスコットランドの出身だ。 それに、シャーロック・ホームズのモデルといわれるベル教授も、エディンバラ大学医学部の教授だった。
意識しているわけでもないのに、スコットランドとかアイルランドなどのゲールあるいはケルト民族に親しみを感じるのはなぜだろう。 明治時代、ケルトのことが、どれほど日本に伝えられていたか不明だが、意外に早い時期に、伝わっていたのかもしれない。 例えば、ケルトの代表的な叙事詩『オシアン』は、日本的無常観と相通じるものがあると云われる。 丁度、『平家物語』のような。
話を元に戻すと、タイアーのように、帰国後、イングランドに比べ後進地であった故郷スコットランドの発展に寄与すると共に、青春時代をすごした日本に、変わることのない情感を抱き、日英関係の向上に努めたお雇い外国人が居た事に、何かしら救いを感じるのである。
Best regards
梶谷恭巨
萩原延壽著『遠い崖』に、ウィリスが、大病院(東大医学部の前身)の指導の為に出向した時の俸給に関する記述がある。 矢張り、著者も当時の外国人の俸給が、当時の日本事情を語る上で、一つの指標になると考えられたのかもしれない。 先ずは、その部分を引用してみよう。 (『遠い崖』第8巻「帰郷」)
「明治新政府がウィリスに支払った給料は、月額八百ドル(年俸九千六百ドル)である(1869年6月28日付のウィリスの受領書より推定)」とあり、更に続いて「この給料がいかに高額なものであったかは、のちにふれるが、ウィリスの前職の東京副領事の年俸が六百ポンド(二千六百四十ドル)、月額にして五十ポンド(二百二十ドル)であったことを考えると、ウィリスの収入は、いっっきょに約三・六倍にはね上がったわけである(一ポンドを四・四ドルとして計算する)」とある。
(注)先回は、ポンド-ドル換金率を、ウィリスの計算から「1ポンド-4.5ドル」とした。
先回、ウィリスの俸給について書いたが、著者は、当時の公使館員の給与に付いても触れてあるので、その部分も引用する。
「当時のイギリス公使館員と領事館員の主要な年俸を紹介しておくと、公使パークスが四千ポンド(一万七千六百ドル)、横浜と神戸の領事が六千ポンド(四千四百ドル)、長崎領事が九百ポンド(三千九百六十ドル)、公使館書記官と、函館と新潟の領事が八百ポンド(三千五百二十ドル)、日本語書記官サトウが七百ポンド(三千八十ドル)である(『イギリス外務省年鑑』1869年版)」とある。
ここに上げられた当時の英国外交官の俸給とドルとの交換率は、明治政府の官吏の俸給を知る上で非常に参考になる。
萩原延壽氏は、『遠い崖』の中で、明治十年代中葉までのお雇い外国人の俸給も調べている。 敬服。 その部分を紹介しよう。
「キンダー(William Kinder)、英国、造幣寮支配人、千四十五円(明治三年)。 ダイアー(Henry Dyer)、英、工部大学校教頭、六百六十円(明治六年)。 フルベッキ(ヴァーベック)、米、大学南校教頭、六百円(明治二年)。 ジブスケ(A. C. du Bousquet)、仏、左院雇、六百円(明治四年)。 マレー(David Murray)、米、文部省顧問、六百円(明治六年)。 レスラー(Hermann Roesler)、独、外務省顧問、六百円(明治十一年)。 エアトン(W. E. Ayrton)、英、工部大学校教師、五百円(明治六年)。 シャンド(A. A. Shand)、英、紙幣寮雇、四百五十円(明治五年)。 デニソン(H. W. Denison)、米、外務省顧問、四百五十円(明治十三年)。 ダグラス(A. L. Douglas)、英、海軍兵学寮教頭、四百円(明治六年)。 コンドル(コンダー、J. J. Conder)、英、工部美術学校教頭、三百五十円(明治十年)。 モース(E. S. Morse)、米、東京大学教師、三百五十円(明治十年)。 フェノロサ(E. F. Fenollosa)、米、東京大学教師、三百円(明治十一年)。
ウィリスの後任としてドイツから招かれ、明治四年(1871)に来日する二人のドイツ人医師、ミューラー(L. B. C. Muller)とホフマン(T. E. Hoffmann)の月給は、それぞれ六百円と三百円である。 ・・・中略・・・・
太政大臣(三条実美)、八百円。 右大臣(岩倉具視)、六百円。 参議(大久保利通など)、卿、長官、大将、議長、五百円。 公使、中将、副議長、四百円。」 (1ドルは一円の計算との事。)
これを見ても、お雇い外国人第一号のウィリスの俸給が如何に高いかが判る。 取り敢えず、このことは置くとして、注目を引くのは、英国人と米国人が多いことだ。 要するに英語圏の人々なのである。
英国系の医学が日本に定着しなかった背景には、ウィリス自身も語っているように、公使館の医官として来日したウィリスは、自分の最新医学に対する知識が不足していたことと、臨床医としては優れていたが、医学者あるいは医学の教師として実力に不安を感じている。 この事が、蘭方系の多い日本の医師に受け入れなかったのも事実だろう。 (公使館医官は、社会的地位としては低かったようだ。 ウィリスは、医官でありながら公使館の事務も担当し、後には、医師の道をあきらめ、領事になることを目標としたくらいだ。 因みに、ウィリスは、仕送りをしなければならないという家庭の事情や勤務先の病院のナースに子供を生ませことなどから、彼の後任であるシドルもまた、勤務先のナースとの関係がこじれ英国に居られなくなったという事情で、当時としては僻地勤務の日本公使館の医官に応募したようだ。)
しかし、先の俸給リストからも判るように、英国の、あるいは英米の明治政府に対する影響力は大きい。 幕末、蘭学を学んだ人々も、これからは洋学と英語に鞍替えしている。 こうした背景を考えると、英国が、その影響力を使って、最新の英国系医学の人材を紹介することも可能だったはずだ。 しかも、ウィリスの一番弟子ともいえる石神良策がいるのである。 石神良策の妻は、シーボルトの娘・楠本イネ(オランダおイネ)である。 この点からも、ウィリスに心酔する石神良策の存在は大きい。
こうした事情から推測すれば、英国系医学が日本の主流になった可能性は大きいのだ。 しかし、これは単に医学の問題だけではないように思える。 明治維新で、医学を志した、あるいは医学塾で学んだ人々の影響は大きい。 例えば、陸軍における大村益次郎にして然りである。 言い換えると、明治という時代、医師の影響力が想像以上に大きかったのではないないだろうか。
実は、石黒忠悳を追いかけたのも、彼が単に陸軍軍医総監としてだけではなく、何かしら陸軍そのものにも影響力を持っていたのではないかと推測したからだ。 例えば、石黒は、第二代社長かもしれないが、日本赤十字の実質的設立者の一人でもあるのだ。 また、文化面においても、出版王といわれた博文館の大橋佐平を援助し、言論の世界にも一石を投じている。 日本における本格的な図書館・大橋図書館(現三康図書館)の初代館長になるのは、必然的結果なのだ。 また、森林太郎(鴎外)の上司として(石黒は、森鴎外を松本良純から続く学統の後継者と考えていたきらいがある)、小金井良精の妹を後妻に入れたのも、同郷(長岡)の縁からだろう。
後に起こる「脚気論争」は、ウィリスと石神良策の弟子である高木兼寛と石黒忠悳・森林太郎、すなわち海軍と陸軍の論争であり、英国医学系とドイツ系医学の拮抗ではなかったか。いずれにしても、この辺りから歴史を追って行けば、その後の歴史が何かしら明らかになるのではないかと、蟷螂の斧を振り上げる次第である。 Best regards
梶谷恭巨
先回のウィリスの俸給に関連して、海舟の日記から。
『海舟日記』、文久三年(1863)十一月二十七日の記事に、横浜を訪ねた時の様子が書かれている。 前日、英国商人・キングトンと交渉し、14万5000ドルに値引きさせて、揚子江船を買い上げ、この日、試運転を試みている。 その後、暇ができたのか、横浜遊歩とある。 先ず、その部分を引用してみよう。
「横浜遊歩。 此処の外国居家、皆広大、一家大抵五千両に下らず。 聞く、今此処にて一ドルの価、我が三十五匁二、三分、外国のコンシェル並びに諸役、軍〔艦〕乗組みの士官等、運上所にて我が貨幣と引き替ゆる時は、旧約によって三歩宛なり。 この故に、彼の官吏等、この引替えにて、一ドル一歩方銀の利益あり。 大抵上官など、ただ銀幣引替えにて一ヶ年得る処の利、二、三万ドルに至る。爰(コレ)を以って、その居家の如き、この利益にて足る。 我が政府、此の如きの事を改正する能(アタ)わず、区々として私利を得らる。 嘆息すべし。」
(横浜を廻って歩いたが、そこで見た外国人の家は皆広大で、大体、5000両より安い家はない。 聞くと、最近、1ドルが、銀貨だが、35.2から3匁で、外国の公使や外交官、軍艦の士官らは、運上所(税関)で、ドルを交換する時、条約によって、1ドル=銀三分で交換している。 このため、外交官らは、この交換で1ドルにつき銀一分の利益を得ている。 大抵の高級外交官らの利益は、銀貨を交換するだけで、年に2・3万ドルにもなる。 これによって、広大な邸宅のように、利益を得ているのだ。 政府(幕府)は、こうした問題を解決することが出来ない。 嘆かわしいことだ。) 現代語にすると、以上のような意味になるだろう。
(注1)揚子江船: 幕名・翔鶴丸、仮装軍艦、鋼鉄船、蒸気外輪船(二本煙突、二本マスト)、砲四門、全長60.4m、全幅7.3m、排水量350t、出力350馬力
1857年米国ニューヨークで建造、上記の通り購入。 将軍・家茂の二度目の上洛時の座乗艦、第二次長州征伐に参加した。
(注2)三十五匁二、三分: 日銀HPの図の交換率から計算すると、一両=金四分=銀4分=60匁(五匁銀X12)であるから、1ドル=約0.59両、銀貨にすると、おおよそ銀1.5分ということになる。 これは、国内の交換率という事だろう。 文中、1ドルに付銀一分の利益とあるが、上記の計算だと、銀1.5分の儲けになる。
(注3)大抵上官: 因みに、条約締結時の米国公使・ハリスの年俸は、5千ドルだった。
特にコメントはないが、軍艦の購入価格については、幕府・薩長あるいは他藩との間に、格差があるように思える。 先の大河ドラマでの交渉金額は、どういう根拠があったのだろう。 場面では、カタログを見てスクリュー船に決めたと記憶するが、これは、内輪船のことではないのだろうか。 確かに、スクリュー船は既に発明されていたが、当時、日本の購入あるいは建造した艦船で、スクリュー船の記録を未だ見つけていない。 因みに、日本におけるスクリュー船は、実用ではなかったようだが、村上水軍が考案した記録はあるようだ。
Best regards
梶谷恭巨
以前にも書いたが、ウィリスは、北アイルランドの貧困家庭で育ち、苦学して医者になった。 その所為もあるのか、金銭的なことには至って細かい。 先ず、ウィリスと薩摩藩との契約に付いて紹介しよう。 以下、ヒュー・コータッツィ著・中須賀哲朗訳『ある英人医師の幕末維新-W・ウィリスの生涯』から。
1869年12月1日、イギリス側が通訳官のアストン、薩摩側が東京在中の公用人・内田仲之介と田中清之進の立会いで、契約が交わされた。 この時、ウィリスは、今後は薩摩藩士と考えると契約締結後の挨拶で答えたと云う。
さて、契約の内容だが、雇用期間は4年間、給料はメキシコ・ドルで1ヶ月900ドル、補足として、1年目に特に理由もなく解雇された場合、補償金2万ドル、2年目は1万5千ドル、3年目は1万ドル、4年目は5千ドルとし、契約調印の日に、3か月分の給料2千700ドル、鹿児島までの旅費として、4000分(1千両)を受け取っている。 一方、ウィリスが理由もなく辞職した場合は、罰金として、1年目に5千ドル、2年目に4千ドル、3年目に3千ドル、4年目に2千ドルを支払うとした。 もしかすると、日本における西欧的雇用契約としては最初のものだったかもしれない。 因みに、ウィリスの外交官としての年俸は、確か、500ポンドだったか、あるいはもっと低かったと記憶する。
ウィリスは、外交官時代の俸給と比較する為か、年俸をポンドに換算して、2千ポンドと計算している。 すなわち、900X12=10800(Mドル)=2000(ポンド)、1(ポンド)=5.4(Mドル)で、幕末の換金レートの基準として使えそうだ。 そこで、当時のメキシコ・ドルの換算レートを調べると、これがまたややこしい。
1メキシコドル=銀三分=4分の3両が、日米修好通商条約で決められたレートなのだが、日本側が提示したのは、1メキシコドル=銀一分だった。 ただ、日本側の提示には根拠がある。 日本は、三貨制(金・銀・銅貨)で、金一分=銀一分なのだ。 日本側は、幕府の威光で、「銀一分は金一分と等価で流通する」のだから、1メキシコドル=銀一分だと主張したが、ハリスは拒否した。 交渉が拙かったのか、貨幣流通に認識がなかったのか、いずれにしても、ハリスの主張に押し切られ、結果的には、純金の含有量を三分の一減らした万延小判の鋳造・流通まで、金貨の流出を招くことになる。
ウィリスの計算が、何を基準にしているのか不明だが、既に明治であることから、後者のレートで計算すると、10800Mドル=32400分であるから、1両=4分なので、32400/4=8100両ということなる。 因みに、万延の両を明治の円に換算すると、8100両x1.0864≒8800円ということになる。 そこで、明治初年の著名人の俸給を調べてみると、次のようになる。 (しらかわ・ただひこ氏の「コインの散歩道」から) 岩倉具視: 議政官・議定、月俸700両(年俸8400両)、後に、勅任官一等・右大臣(月俸600円)
伊藤博文: 外国官・判事、月俸500両(年俸6000両)、後に、勅任官一等・参議(月俸500円)
このウィリスの年俸をどう考えればよいのだろう。 そこで、鹿児島医学校の日本人医師の俸給についてのウィリスの計算を紹介しよう。
産科担当の医師兼教授だった鮫島喭斎(ゲンサイ)の給料は、年俸で9石、ウィリスの計算によれば、これは、28両になり、月額2両半で、日割りにすると、1分にしかならない。 因みに、学頭の坂本恒彦でも、13石だったそうだ。 この情況に義憤を感じ、県当局や明治政府の書簡を出し、改善を求めている。
ウィリスの計算の根拠が不明だが、もし、日銀のHPにある天保年間の換算表から計算すると、1石=09両なので、8.1両にしかならない。 これは、米相場に影響されるので(幕末の混乱期、米の価格は急騰している)、明治の初年の換算レートとは相当に違うのだろうが、それにしても、医師の年俸が低いと云う印象はぬぐえない。 というより、先に上げた両に換算したウィリスの年俸8100両と比較したら、もうあっけに取られてしまうのである。
また、明治時代の旧貨幣と円との換算レートを調べてみると、明治政府は、明治7年に交換レートを定め、一般での旧貨幣の通用を禁止し、新貨との交換を開始し、明治21年12月で交換を打ち切っている。
これによると、1両=1.0864から10.0642円と、金の含有量や金銀貨あるいは種類によって、交換レートが様々であり、もうこうなると、何が基準なのか、現代人にはさっぱり理解できない。 因みに、各藩では、藩札を発行している。 薩摩藩も同様で、明治の交換レートでは、金札1両=32.3銭であり、銀札100匁=33.2銭だ。
明治維新は、こうしてみると、「明治経済維新(革命)」と云った方がよいのかもしれない。
歴史に関する本や資料を読むときは、その当時の情況のイメージを作ることにしているのだが、どうも思わぬ落とし穴に落ちたようなもので、こと経済に関する限り、まったくイメージが湧いてこない。 頭の中は混乱するばかりだ。
先週の大河ドラマでは、長州藩が14万両を用意し、内4万両だったかで、軍艦を買い、3万両でミニー銃を買う交渉の場面が放送されたが、上記の事を考えると、さて皆さんは、どう思われるだろうか。
Best regards
梶谷恭巨
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1947/05/18
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