柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 生年時の社会状況、言い換えると、成長期における環境は、人物のプロファイリングを行う上で重要である。 そこで、今回は、幕末に活躍した人々の生年月日をリストしてみよう。 尚、現在、編集中のサトウ・ウィリス比較年表に、加筆している。 この比較年表、どうも膨大になりそうだ。
 
勝海舟: 文政6年1月30日(1823年3月12日)
河井継之助: 文政10年1月1日(1827年1月27日)
 因みに、師である山田方谷は、文化2年2月21日(1805年3月21日)誕生であるから、約23歳の年の差があった訳だ。 また、生月日は不詳だが、この年、芹沢鴨が生まれている。
メルメ・カション: 1828年9月10日(スイスとの国境付近、フランス)
西郷隆盛: 文政11年12月7日(1828年1月23日
大久保利通: 文政13年8月27日(1830年9月26日
桂小五郎: 天保4年6月26日(1833年8月11日)
 因みに、この年から天保の大飢饉が始まる。
近藤勇: 天保5年10月9日(1834年11月9日)
土方歳三: 天保6年5月5日(1835年5月31日)
坂本龍馬: 天保6年11月15日(1835年1月3日)
 因みに、生月日不詳だが、伊藤甲子太郎が同年に生まれている。
山岡鉄舟: 天保7年6月10日(1836年7月23日)
徳川慶喜: 天保8年9月29日(1837年10月29日)
 
 
 因みに、この年、大阪では大塩平八郎の乱、柏崎では生田萬の乱が起こっている。
 
中岡慎太郎: 天保9年4月13日(1838年5月6日)
ウィリアム・ウィリス: 1837年5月1日(エニスキレン、北アイルランド)
アーネスト・サトウ: 1843年6月30日(ロンドン、イングランド)
 
 単なる生年月日の羅列だが、実に興味深い。 最初の海舟と最後にあげたアーネスト・サトウの年の差は、約20歳である。 明治に改元されるのが、1868年であるから、海舟が45歳、アーネスト・サトウは、未だ25歳の若者である。 勿論、日本と西欧にける年齢に対する感覚や社会的位置づけには相違がある。 この辺りの事を調べているが、これがまた難題だ。 まあ、気長に追いかける心算である。
 
 今回は、特にコメントを書かないが、さて、皆さんは、この年齢と、それぞれの年齢差をみられて、どう考えられるだろう。 もしかすると、大河ドラマの見方に変化が生まれるかも。
 
Best regards
梶谷恭巨
 
 前回、ウィリスの報告書に記載のある物価について書いた。 そこで、越後における物価について、補則しておきたい。
 
 先ず、高田の米価が横浜の半分くらいと報告しているが、前回は、その原因を書かなかったが、これは、高田が北陸戦争の兵站基地になった為、米の藩外への輸出が禁止されたのが原因と書いている。 藩内に米がダブついたということだろうが、官軍も大量の兵糧米を必要としていた訳だから、それを補っても余りあったと云う事か。 むしろ、戦争で需要が高まったのだから、米価は高騰すると思われるのだが、江戸から高田までの米価は、十分の一あるいは十二分の一と報告しており、高田でも半分くらい、柏崎で半分以下と書いている。 どうも、疑問が残る。 ウィリスは、公使館の医官であると同時に、外交官(この時は、江戸の副領事)でもあるのだから、この旅にはは情報収集という任務もある。 事実、公使パークスは、進行中の戊辰戦争の状況を知る必要を感じ、新政府の要請に応じている。 その意味でも、ウィリスの観察が正確であったと思えるのだが、この米価の差は、何を意味するのだろうか。
 
 ウィリスは、米価のほかに、西欧人としては欲しいところの肉や卵の価格についても報告している。 高田で、数日、多忙な医療活動をしているが、道中とは違い、多少ゆとりができたのか、報告書も、この時から詳しくなっているのだ。 以下、ヒュー・コータッツィ著(中須賀哲朗訳)『ある英人医師の幕末維新』から、その件を引用してみよう。
 
「魚類は横浜とほとんど同額だが、期待に反して鳥肉は当地がずっと高い。 土地からみて、きじや野兎や熊などがいると思われるのだが、獲物が乏しく高価である。 がんが四分銀から五分銀、野がもが三分銀、並みの品質の卵が一つ天保銭一枚で売られている。 これらの食糧がいつも手にはいるというわけではない。 だからそれがない時は、病院用地として柏崎で推賞できる産物はほとんどなく、当地が冬は温暖であったとしても、病人用の食糧不足によってその利点が相殺されてしまうのではなかろうか」と。
 
 因みに、1両=1分銀X4=1文銭X4000~10000、天保銭=100文、
 
 以前から柏崎の幕末史も調べているのだが、どうも違和感がある。 そこで、前後するが、柏崎に関するウィリスの記述を引用する。 (同書、以前にも引用した。)
 
「柏崎は貧相なつまらない家並みの町である。 戸数は四千といわれているが、なんら製造業がなく、住民も仕事がないようで、町全体が大きな漁村といった様子だ」
 
 酷評というほか無い。 物価についても同様で、先にもあったように、鳥一羽の価格が一両に近く、卵に至っては、米一升に相当する。 確かに、鳥肉や卵は、当時としても高価なものだっただろうが、これは異常とも思える。 ここに疑問があるのだが、これには、戦争と謂う背景があるのではないだろうか。 特に、柏崎の場合には、特殊な事情がある。
 
 柏崎は、桑名藩の飛び領である。 しかも、以前計算してみたのだが、本国桑名と同等あるいはそれ以上の石高があった。 およそ十一万石くらいか。 当時の藩主は、会津の松平容保の弟であり、京都では、兄が守護職、弟が所司代だった。 その為、官軍の最大の標的の一つになった。 しかし、桑名本国は、京都から近いこともあり、藩主をよそに早々に降伏している。 そこで、藩主は柏崎を頼った。
 
 ところが、柏崎も勤皇佐幕で二分していた。 表向きは桑名藩だが、実際には、当時、柏崎でも代々の豪商・星野藤兵衛は、官軍に味方し、軍資金から兵糧まで、私財を擲って、官軍に協力しているのだ。 事実、明治天皇の北陸行幸の際、子息と弟が、没落した星野家の窮状を天皇に直訴(近藤芳樹を介して)し、藤兵衛には、従四位下の官位が遺贈され、千円が下賜されている。 しかし、星野家が復興した気配はない。
 
 因みに、長州藩の近藤芳樹は、国学者でもあり、その縁を頼って、北陸を周遊している。 その時の旅日記が『陸路廻記(くぬかちの記)』である。 近藤芳樹の旅には、偵察あるいは諜報の気配がある。 戊辰戦争が始まる前に、柏崎にも訪れ、星野藤兵衛と会っているのだ。 この時、官軍支援の密約ができたのではないだろうか。 明治天皇行幸の時、窮状を訴えたのも、近藤芳樹を介してである。 尚、明治になって、近藤芳樹は、明治天皇の歌の侍講も務めている。 以前、調べたことを多少書いているのだが、謎の多い、興味ある人物だ。
 
 これらのことから(星野家の没落や、先には書かなかったが、勤皇家で私塾を開いていた原修斎は維新後、柏崎を去り佐渡に渡っている)、柏崎の住民の多くは、むしろ桑名藩贔屓ではなかったかと思われるのだ。
 
 時代が遡るが、天保の「生田萬の乱」の時、生田萬の期待に反して、住民は決起しなかった。 この乱は、歴史的には有名だが、参加したのは僅かに数人。 また、柏崎を中心とする桑名藩領では、それ以前にも一揆が起こった様子が無い。 但し、余談だが、現在は柏崎市の中心街に近い春日という所では、何度も一揆が起こっている。 ここは、桑名藩領ではなく、旗本(確か九千石)・阿部家の領地で、他の旗本領の多くと同様、地元の庄屋と役人が結託し、年貢の取立ては、当に苛斂誅求だったと云う。 何度も直訴、果てには一揆を経て、幕末頃には、平安を得たという。 因みに、何時頃までか不明だが、「春日には嫁にやるな」という話が残っていたとか。
 
 また、ついでに言えば、北陸戦争後、新撰組に参加した人が、記録に残る限りで、5人いる。 桑名藩に対する住民感情が悪ければ、敵対こそすれ、負け戦に最後まで従軍するだろうか。 余談だが、そのうちの一人、金子某は、拙宅の近く新道の農家の出身である。
 
 余談・蛇足が長くなった。 違和感の原因は、当時の住民の感情的背景があったのではないだろうか。 ウィリスが柏崎を訪れたのは、未だ戦闘の余韻の残る、というよりも、直後でもあり、住民の感情には、官軍に対する反感があったのかもしれない。
 
 ウィリスが滞在したのは、前後(往還)数日であり、しかも、治療と日本人医師の指導で多忙を極めていたはずだ。 物価なども、人に調べさせたに違いない。 食糧も、自分で買いに行ったのではないだろう。 サトウは、行く先々で、こまめに買い物をし、且つ記録を残している。 私的な記録なので、その時の状況がよく判るのだが、ウィリスの場合、ここで上げたのが、報告書などの公文書であることも影響しているのかもしれない。 気になったので、一応、ウィリスの来柏の記録が無いか問い合わせてみたが、今の所、無いと言うのが回答だった。
 
 尚、柏崎に産業が無かったわけではない。 例えば、官軍に備えるため大砲も鋳造している。 ただ、時間が無かったた為か、試射に終わっているようだが。
 
Best regards
梶谷恭巨
 
 『海舟日記』、文久三年(1863)3月3日の記事に、海軍操練所創設時の屋敷の概要および借用の費用の記載がある。 NHKの大河ドラマで、ある程度のイメージは湧くのだが、具体的にどのようなものだったのか、知りたいと思っていたところだった。 先ずは、その部分を引用してみよう。
 
◎神戸屋敷、取建入用大凡(とりたてにゅうよう、おおよそ)
 ○屋敷地八反余並びに樹木代六両共、五十三両。
 ○建家一ヶ所、右引移り、地ならし共、三十両。
 ○塾三間幅、十間の長さ。 新規建具畳共、百七十三両。
 ○ほか台所、雪隠、馬屋、門番所、新規、七十七両。
 ○屋敷外囲三方、土堤四尺の高さ、堀四尺幅、大凡百間余、芝代、築上ヶ共、十五両
   生田往還の方すき下ヶ□、十五両。
 ○からたち百三十間、土堤の上へ植付け。 但し一間につき十一本並。 一本二十文宛、五両。
 ○引家、畳、建具
   畳十六畳        十七匁宛四両
   唐紙八枚        一両二分
   障子十六枚    二両
   天井新規
   湯殿               二両
   (計)十八両
 ○門、三両
 ○松の樹植付、二両。
 ○竈(カマド)、二両。
 ○仮塀、二両。
 ○台所向道具、八両。
 ○庄屋、年寄、御代官手代へ地所借入祝儀、三両。
 
 掛かった経費の合計は、約404両。 当時の物価の計算は難しいが、インフレがかなり進行していた状況を考えると、慶応4年(明治元年)頃の換算レートが、1両=10貫800文位なので、その数年前は、それよりも低く見積もり、1両=10貫から10貫200文辺りだろうか。 面倒なので、一応、1両=10貫とすると、掛かった費用は、4040貫、1貫=1000文で、米1升=100文くらいだから、米にして約40400升になる。 1升=約1.5Kgだから、60600Kg。 これも面倒なので現在の米価を、60Kg=10000円とすると、10,100,000円。
 
 適当な計算で申し訳ない。 興味ある人は調べて欲しい。 ただ、当時は、米本位制だから、物価も米の出来高や地域によって、極端に変動していたようだ。 ウィリスが、越後・会津を旅した時、高田までの米価が、横浜の10分の1あるいは12分の1だが、高田では、横浜の半額、柏崎では半額以下と報告している。
 
 要するに、江戸時代の経済あるいは消費経済は複雑怪奇なのだ。 むしろ、今風に言えば、グローバル経済に似ているのかもしれない。 誰かが、株価市場を勉強するには、酒田豪商の本間光丘を研究するとよいと云った記憶があるが、それも、納得できるというものだ。
 
 今回の海軍操練所の件を知り、改めて、当時の社会状況を考えると、一般的なテキストに見える江戸時代を、もう一度見直す必要がある。 話が戻るが、商品相場というものは、日本が発祥の地なのだそうだ。 シカゴ市場の比ではない、江戸時代のはじめ頃には、既に大阪に米を中心とした市場(問屋制)が形成されている。 今まで余り気を止めなかったのだが、振り返ってみると、大阪の「大塩平八郎の乱」と時期を同じくして起きた柏崎の「生田萬の乱」の背景が見えてくる。 天保の大飢饉の時、柏崎(中越の桑名藩領)では、地元の役人や商人と結託した江戸の仙石屋が米を買占め、米価が異常に高騰し、それが、引き金になっているのだ。
 
 余談だが、米国のハーバード大学が、江戸時代経済の研究に力を入れたことは知られている。 英語で幕府政治を「Shogunate」というが、これは、ハーバードで作られた言葉とか。
 
 2400坪の広さと屋敷の増改築の規模を考えると、掛かった諸経費が予想外に安いように思える。 しかし、ここには、非常に高価だった書籍とか測量・航海の機器器具の記載が無く、土地の地代が、どうなっているのかも書かれていない。 まあ、興味半分で書いてみたが、何かの参考になれば幸いである。
 
Best regards
梶谷恭巨
 
 先日、市立図書館(ソフィアセンター)で『海舟日記』(『海舟全集第18巻から21巻)を閲覧、借りてきた。 海舟の人物リストを確認するためである。 ところが、日記には、単にサトウ来訪とあるのみで、詳細が書かれていない。 その時点で、数年前の作成したとサトウに語っているから、文久年間から元治元年辺りに書かれていないかと調べている。 因みに、『海舟日記』は、文久二年の旧暦8月から書かれている。 (以下、旧暦)
 
 まあ、それは措くとして、慶応4年(1868)の3月5日に、山岡鉄太郎(鉄舟)が勝を訪ねた記載がある。 有名な件だから、皆さんご存知かもしれない。 一応、その項を引用する。
 
「旗本・山岡鉄太郎に逢う。 一見、その人となりに感ず。 同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。 我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。 西郷氏へ一書を寄す」とある。
 
 ここで謂う一書とは、有名な江戸開城に関するものだ。 ただ、私が、ここで興味を持ったのは二点。 先ず、前後の文脈から、この時が海舟と鉄舟の最初の出会いだったのではないかと云うこと。 また、益満(休之助)のことだ。
 
 海舟は、「逢う」という字を使っている。 「逢う」の字義は、「両方から近づいて一点で出あう。 転じて、ばったりと思いがけなく出あう」とある(学研『緩和大字典』)。 名前あるいは噂は聞いていたが、この時、初めて会ったと解すべきか。 いずれにしても、海舟は、第一印象を「そのひととなりに感ず」と書いているのだ。 海舟の日記に全て眼を通した訳ではないが、ざっと見る限り、人物について書いた部分は少ない。 山岡鉄舟の印象が強烈だったということだろうか。 確かに、体格からして対照的だ、山岡は2mに近い巨漢、方や海舟は小男である。 矢張り巨漢であった西郷に対するには、体格的にも適任と感じたのかもしれない。 しかし、勝海舟が人物を見る慧眼を持っていたことは、これからも確かだろう。
 
 次に気になったのが、益満休之助のことだ。 勝は、三日前の3月2日、薩摩屋敷焼き討ちの首謀者、南部弥八郎・肥後七左衛門、そして益満休之助の預かりを命じられて、受け取っているのだ。 その経緯の部分を引用して見よう。
 
「旧歳、薩州の藩邸焼き討ちのおり、訴え出でし所の家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は、頭分なるを以って、その罪遁るべからず、死罪に所(処)せらる。 早々の旨にて、所々へ御預け置かれしが、某(ソレガシ)申す旨ありしを以って、此頃、此事、上聴に達し、御旨叶う。 此日、右三人、某へ預け終る」とあり、別本に、「薩人三人御預り命ぜられ、受け取る」とある。
 
 このことから推測すると、山岡は、当初、江戸開城について薩摩との交渉を模索していたが、既に、薩摩の人々は江戸から引き上げており、官軍との交渉を仲介する人物を見出せなかったはずだ。 事は緊急を要す。 そこで、先の薩摩藩士三人を勝が預かっていることを知り、勝を訪ねたのではないかと云う推測が成り立つのではないか。 もし、この時が勝との初対面であれば、この事実は興味深い。
 
 因みに、益満休之助は、私が子供の頃、日本映画が全盛の頃、『黒頭巾』などの常連で、チャンバラごっこでは、誰もが益満役になりたがったものだ。 歴史上の事跡では脇役的存在だが、もしかすると、団塊の世代には、よく知られた名前かもしれない。
 
 まあ、些事といえば、それまでだが、小説などで、この事が書かれていた記憶が無い。 そんな訳で、些事、紹介まで。
 
Best regards
梶谷恭巨

 先日の午後、息子の聖が狂言教室に出かけた。 8月の発表会の為の練習である。 演目は「附子(ブス)」、主人が「附子という毒薬が入っている桶に近づくな」と出かけるが、実は「附子」の正体は「砂糖」と言うところから始まる最もポピュラーな狂言の演目。 息子は、シテ(主人役)を演じるらしい。

 
 ところで、幕末・明治に来日した外国人で、「能狂言」について書いた人は少ないのではないだろうか。 1848年、旧暦9月8日、慶応が改元され明治になった。 サトウの、その年の12月15日(旧暦11月2日)の日記に、能と狂言の観劇のことが書かれている。 (萩原延壽著『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』より)
 
 観劇した狂言の演目幾つであったのかは書かれていないが、面白いと思った狂言は『末広(スエヒロガリ)』、『伯母酒(オバガサケ)』で、『素袍落(スオウオトシ)』も非常によかったと書かれている。 (残念ながら、『附子』は上演されなかったのかもしれない。)  また、能は、『鉢の木』を見たようである。
 
 その部分を引用してみよう。
 
 「能は一種の悲劇ないし史劇で、狂言は笑劇である。 舞台装置はなく、衣装はすべて古風である。 舞台は約二十四フィート四方、左手の長い通路が、舞台と役者の出てくる楽屋をつないでいる。 能は約二百番があるが、印刷した台本は安い値段で買うことができる。 それは笛と小太鼓の奏する音楽、というよりも、不協和音にあわせて、ゆるい朗詠調でうたわれる。 やはり古風な衣装をつけたオーケストラは、舞台後方の床机に腰をかけている」と。
 
 サトウには、能楽が不協和音に聞こえたところが面白い。 さて、これだけでは只単なる記載なのだが、関心を引くのは、先ず、前後の関係から、中世の日本語である狂言を、見て聞いて理解しているということだ。 もっとも、狂言の場合は、今の人が聞いても理解できるし、楽しめるのだが。 それに、能については、 「能のほうは最初よくわからなかったが、隣席の婦人から台本を借りて文句をたどるうちに、わかってきた」と書き、内容を紹介しているのである。 ここでも驚くのは、能の台本を読み理解していることだ。 と言うのも、能や謡の台本というのは、大抵、お家流で掛かれたものを木版印刷されているからだ。 私自身、父が謡をしていたので、その教本や家に伝わる台本を見たことがあり、中学生頃では、もしこれが楷書体であったとしても何が書いてあるのやら全く理解できなったのだ。
 
 サトウは、来日当初から日本語の教師を雇って勉強している。 しかし、習字まで習っているとは書いていないのだが、翌日の12月16日(陰暦11月3日)の日記に、昔習った習字の先生について書いている。 (というよりも、その先生の藩の事情を、当時の藩政の事例として書いたのかもしれないが。)
 
 それによると、その先生は、丹波・出石藩仙石家の人で、手塚タイスケという人物だったようだ。 この日、本人に会って聞いたのか、それとも昔を思い出して書いたのか、記述からは伺えないが、出石藩の内情が書かれている。 もしかすると、ウィリアム・ウィリスが、越後・会津から帰府していたから、会津藩の実情(農民一揆が会津一延に起こっていた事情)を聞いた所為かも知れない。
 
 少々横道に逸れるが、興味ある数字なので、紹介しよう。
 
 「出石藩の藩主は仙石讃岐守(久利)で、石高は三万石と見積もられているが、実収入は一万六千石で、そのうち八千石が家臣の封土から取れる。 四千石が藩主の生活の維持に使われ、のこりの四千石が行政上の出費にあてられる。 後者は役人の俸給、参勤交代の旅費、出陣のさいの費用、武器購入費などをふくむ。 武士階級の数は五十家族にすぎない。 家老などの制度は他藩とおなじである。 太政官日誌第五号で公布された法令により、官職世襲の旧習が廃止され、人材登用の道がひらけたが、これを完全に実施するためには、家臣の封土wp均等にしなければならないと、手塚は考えている。」
 
 これを読むと、磯田道史著『武士の家計簿』に見える加賀藩前田家の状況とは大いに異なる。 多くの小藩の事情が、手塚の話から伺えるようだが、仙石家の場合、少々特殊な事情がある。 丁度、仙石久利が藩主の時、有名な『仙石騒動』により、五万石から三万石に減封されているのだ。
 
 興味ある話だが、話を戻す。 アーネスト・サトウは、当時の一般的な公文書に書かれる書体、すなわち、「御家流」を習ったのであろう。 長くなるので、詳細は省くが、書体には階級がある。 例えば、楷書は天子に対する上書に使うなど。 自分は、三歳から小学校を卒業するまで、松井先生の書道塾で習字を習ったった。 先生から、そんな話を聞いたのである。 (後なって、詳しく調べるのだが。)
 
 長くなったので、この辺りで終えるが、この逸話は、アーネスト・サトウが、僅か20代の若者にして、単に通訳官としてではなく、当代随一の日本の理解者あるいは日本学者であったことの査証ではないだろうか。
 
Best regards
梶谷恭巨
 


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1947/05/18
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