柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
『柏崎華街志』について紹介して以来、随分経ってしまったが、をアップロードする事に決めた。 以下は、2003年5月8日から開始した記事である。尚、配信版『柏崎通信』に記載した内容を一部修正、あるいは訂正した。また、事情によっては、今後も、加筆修正あるいは訂正する事があるかも知れない。その点を御含みおき頂ければ幸いである。 昨日、資料集めをしていたら面白い本にであった。 小田金平著、明治42年11 月20日発刊の『柏崎華街志』という本である。 因みに、詳細を挙げると、定価は 25銭、発行兼編集人(著者)は、小田金平で、 番地。 印刷人は、武藤京三郎(柏崎町第874番地)、印刷所は、 第1227番地となっている。 構成は、周辺地図一葉、写真(6枚、内10枚は風 景、2枚は人物で、「柏崎貸座敷正取締・前川政司、同副取締・ 名)、序文(明治42年晩秋、鶯丘隠士誌)、 として、「明治己酉天長節前一日、贅疣仙史、 (盆菊花香る処、柏崎日報編集局に於いて戯れに題す)」、次に、 己酉11月、梧桐・天凱識、凡例、内容(目次)本文、附録( 奥付、広告の構成である。 この『柏崎華街志』は、明治後期の歴史を知る上で、 それを物語るが、序文を始めとする巻頭の小文だろう。 この書の出版の意図も、自 ずから解るのである。 そこで、先ず序文から紹介するのが妥当だと考え、少々見辛 い部分もあるのだが、漸次紹介したい。 尚、出来るだけ原文に従うが、一部現代仮 名遣いあるいは当用漢字を使用する。 また、漢文の読み下しに不安があるが、ご容 赦。 「序」 桐葉落て秋の来るを知り、蟻穴封じて雨の至るを覚る、蓋(ケダ) も、明者之を観て、其(ソノ)将来を徴せり、或云(アルハイウ) ける、其の盛衰吾奚そ(吾何ぞ)與(与す)らんと、 (として)全市街の振否(フルウトイナト)を徴するを得は( 吾奚ぞ与らんと云うは至論にあらず、古人云(イウ)、 ユウ、動植物園のようなもの)之興廃而得と( の興廃をうかがって得る」ということになるのだろう)、 (ナオ)然り、況(イワ)んや遊郭の市街に於けるをや、適々( 遊郭(ノ)沿革志を示めし、予(ヨ)が一言を乞われる、 筆し、之を返す。 明治四十二年晩秋 鶯丘(オウキュウ)隠士誌(シスル) とまあ、斯くたる次第である。 ところで、この鶯丘隠士という人は如何なる人な のだろうか。 「鶯の丘」とは、粋な号である。 漢学の知識も相当にあるいえるの かも知れない。 しかし、上記赤字の部分には、誤謬あるいは記憶違いがあるよう だ。 さて、この文、漢詩ではないことは一目瞭然。 そこで、何かの「序」か「跋(バ ツ、あとがき)」と推測できる。 しかし、後段に間違いがあったので、見つけるの に一苦労した。 結果、これが、宋代の詩人李格非(蘇軾・東坡の門弟)の『洛陽名 園記』の「自跋」(自分で書いたあとがき)である事が判った。 全文を紹介すると 長くなるので、件の部分に関係する処を抜粋すると、 予故嘗曰(予、故にかって曰く)、園圃之廃興者( 之候也(洛陽盛衰の候なり)。且天下之治乱(かつ天下の治乱)、 知(洛陽の盛衰をうかがって知る)、洛陽之盛衰、 をうかがいて得る)、則名園記之作(すなわち『名園記』の作)、 あに徒然ならんや、「何もすることがないではないか」)・・・・ が、省略する。 そこで、先の部分であるが、下の原文と比較すると判るように、多 少の記憶違いがあったようだ。 ただ、この文を引用したのは、『洛陽名園記』 の北宋という時代背景を論じてもいる事を承知の上だということだ と新法派の対立などあり、国内は必ずしも平穏ではなかった。 本論から外れるので 省略するが、李格非の師匠である蘇東坡は、『資治通鑑』の著者( 立し、何度も左遷の憂き目を見ている。 いずれにしても、この序の作者は、遊郭を名園に擬して、 を、あるいは時代を物語ると言いたいのではないだろうか。 実は、著者の自序に も、それが窺えるのだが、また次回にでも書く事にしよう。 Best regards 梶谷恭巨
しばらくご無沙汰している。一つには『柏崎華街志』の扱いに就いてだ。そこで、一計を案じた。何しろ問題点のある史料だから、このブログの読者諸賢にお伺いする方式を取りたい。
現在、ほぼ後半に到り、全容を紹介することが出来る。そこで、若し諸賢が浅学ではあるが、若干の注釈を加えた『柏崎華街志』をご希望であれば、自分としても、御意見を伺いたい意向もあり、配信する事も吝かではない。 ご連絡頂ければ、配信可能。その場合、コメントで頂ければ幸いである。 尚、『柏崎通信』1163号、『柏崎華街志』(49)に「花柳界の迷信」をFacebookに公開した事を付け加える。 Best regard 梶谷恭巨
しばらく掲載しなかったのだが、これには理由がある。ある本で出会ったのである。まず、その経緯を紹介する。
前回、柏崎から「奇兵隊」への参加について書いたのだが、その後、調べられる範囲で、調べて見た。一つは、『奇兵隊日記』である。その越後関連部分をダウンロードし、更に関連史料を追いかけて見た。ところが、「柏崎」をキーワードで検索して、面白い史料がヒットしたのだ。それが、『柏崎華街志』である。 歴史を追求する場合、表裏を考える。要するに、裏面史の中に何かしら重要なキーワードがあるのでは、と考える訳だ。ところが、これが結構難しい。何しろ「裏面史」なのだ。例えば、戊辰戦争における「侠客」の存在と、その後。あるいは、表面的には公開史料であるが、実は、裏面史を伴うもの。 しかし、一つ言えるのは、社会の裏面を物語った史料ではないのではないかと謂う疑問だ。『柏崎通信kデジタルライブラリー』で、『況翁閑話』を挙げたのも、その一例である。 ところが、こうした名を為し功を遂げた人々の回顧録では、必ずしも時代背景を知るのは難しいのだ。勿論、書き残すには、それだけの教養資質が必要だろう。それを知った上で、求めるなら、当に社会の裏面ではなかろうか。例えば、ローマの生活史を知るには、先ず「ポンペイ」であるが如く。 前置きが長くなったが、現在、『柏崎華街志』に注釈をつけて、配信版『柏崎通信』に連載している。今日、その17回を配信した。しかし、注釈を書きながら、未だ三分の一を消化していない。(現在は、38回) 何しろ、花柳界は複雑怪奇であり、且つ、調べて見ると、維新後の明治政府の苦慮が見えるからなのだ。そう、表向きの歴史の背景に、庶民、しかも、最も最古の職業と言われる「売春」あるいは「遊女」の存在が、いつの時代からか、意図的に「裏面」に押しやられ、伝統文化に多大な関係のある「裏面」史が、「蓋をされた状況にある」事を知ったのである。 斯書けば、非難もあろう。しかし、それは、時系列における特異点か、否、人類の歴史は、アフリカの一人の「ミトコンドリア・イブ」から発せられたという。犬は、今のトルキスタン辺りの三匹の狼から始まったとか。序に言うと、猫の場合は、相当に違うらしい。ロシアで実験をした人がいる様で、犬の場合、数世代で、形質懈怠の異なる種が生まれるそうだが、猫科は、例えば、ライオンと家猫の場合、先のように「ミトコンドリア・イブ」が特定できず、三匹のイブ、という事らしい。(ナショナル・ジオゲオグラフィック) 話が逸れてしまったが、この問題、先のように17回書いているが、さて、どうしたものか。読者諸兄に聞く次第である。(現在は38回) 論旨、纏まらず処諸兄は、ご迷惑かも知れないが、公開の可否、お伺いする次第である。コメントでも頂ければ幸い、と云う事です。 Best regards 梶谷恭巨
先日、作家の木島次郎氏から興味深い話を聞いた。 阿賀野川周辺の取材中の話だそうだ。 詳細は不明なのだが、奇兵隊の名簿の中に、明らかに柏崎市北条周辺の出身者と思われる名前が多く在ったのだそうだ。 その事情というのが、山県有朋が柏崎に在陣した当時、「我々は、毛利家の遺臣である」と、北条周辺の人々が訪ねて来たのだと云うのである。 これは、有り得ることだ。
北条時頼の時、大江広元の子・季光(毛利姓大江季光)は、「宝治の合戦(あるいは、三浦氏の乱)」で、娘が時頼の正室であるにも拘わらず、妻の兄である三浦泰村に加勢し、越後国佐橋庄に在った四男経光を除き、族滅している。 その後、経光は許された。 四男の時親は、南北朝時代を通じ、幕府の重鎮として家を維持するのだが、本拠地を安芸国吉田庄に移した経緯があるのだ。 一方、経光の長男の基親の家系は、その後、北条(きたじょう)、安田と姓を変え越後に残った。 詳細は省くが、その家系が、上杉氏の米沢移封の後も、今の柏崎市に残った訳だ。 戊辰戦争当時、柏崎周辺の事情は複雑である。 柏崎(大久保陣屋)を中心にした桑名藩領は、越後の国に点在し、石高にしておよそ八万石くらいあった。 桑名藩主・松平定敬(さだあき)は、会津藩主・松平容保の弟であり、容保が京都守護職の時、京都所司代を務めた。 その為、柏崎は、戊辰戦争(北越戦争)の激戦地の一つになった。 ところが、一方では、戦前から長州の国学者・近藤芳樹(後、明治天皇の侍従)が、国学を通じて、勤王派工作を行っていた。 その為、柏崎は東西二分して、戊辰戦争に与したのだ。 以前紹介したことがあるが、為に、柏崎から新選組に入隊し、函館戦争まで従軍した人物が、少なくとも五名は居たのだ。 因みに、官軍(西軍)に、私財をなげうって協力したのは、豪商・星野藤兵衛と云う。 後に、これが為に、星野家は没落し、明治11年の明治天皇北越行幸の折、子息と弟が、その窮状を近藤芳樹を通じて、明治天皇に上訴し、従四位と金1000円を遺贈された。 迂闊だったのだが、こうした事情から官軍に参加した柏崎人があったのでは、と思ってはいたのだが、資料を見つけることができなかったのだ。 そこに、木島氏の話である。 早速、『奇兵隊日記』を調べてみた。 これに関連するのは、その内、『越後口日記』(慶応4年4月25日~同閏4月10日)、『柏崎会議所日記』(慶応4年5月10日~同8月1日)、『与板出張出軍日記』(慶応4年5月27日~8月1日)、『奇兵隊本陣日乗』(慶応4年7月12日~同8月24日)、『津川会議所日記』(慶応4年9月17日~同9月27日)がある。 また、『奇兵隊日記付属』として、『争地度数死傷者名簿』と『軍忠状写死傷姓名録』(明治元年)も調べてみた。 しかし、これらの史料の中には、柏崎出身者を思わせる姓名がないのである。 もっとも、記載されている死傷者は、いわゆる士官か、その従者のみで、一般の隊員に関する記載がないのであるが。 そこで、これはお願いなのだが、何方か、柏崎毛利の遺臣の奇兵隊入隊者の事情をご存じはないだろうか。 実に興味ある事実だが、未だ関連する史料に行き当たらないのである。 Best regards 前回に引き続き、法科大学編入時及び在学中の教師を紹介する。 ○法理学 講師 加藤弘之: 1836年8月5日(天保7年6月23日)、但馬国出石藩(現、兵庫県豊岡市)の家老・加藤正照(母・錫子)の長男として生まれた。 1852年(嘉永5年)、出府して佐久間象山に洋式兵学を、1854年(安政元年)、大木仲益(坪井為春、蘭医・坪井信道の養子)に蘭学を学び、1860年(万延元年)、蕃書調所教授手伝、1864年(元治元年)、幕臣取り立てられ開成所教授職並、1868年(慶応4年)1月、目付、1869年(明治2年)、新政府に出仕、外務大丞、以後、1873年(明治6年)、明六社(森有礼提唱に、福沢諭吉や西周らと参加)、1877年、東京開成学校綜理、1881年7月、制度改正により旧東京大学初代綜理(~1887年1月)、1890年(明治23年)5月、改制により帝国大学第二代総長、同9月30日、貴族院議員に勅撰(~1906年12月15日)、1900年、男爵叙爵、1906年7月、帝国学士院長、同12月10日、枢密顧問官、1916年(大正5年)2月9日、没、享年79歳。 長男・加藤照麿(医学博士)、孫に、直系嗣子の女子美術大学学長・加藤成之、弁護士・推理小説家の濱尾四郎(照麿四男、文部大臣・東京帝国大学第八代総長・濱尾新の養子)、変ったところでは、喜劇役者の古川緑波(照麿の六男)がいる。 初め「天賦人権説」による啓蒙思想に傾倒したが、進化論による「社会進化論」から民権思想を批判する立場に転向、天賦人権論の視点から著した『真政大意』と『国体新論』の絶版を宣言した。この問題は、その経緯から「天皇機関説」との関わりが推測されるが、今のところ詳細は不明である。 Best regards 梶谷恭巨 |
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1947/05/18
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よろず相談家業
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自己紹介:
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