柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 さて今回は、京と大阪を一度に紹介。特に変わった事もないが、後に柏崎花街に関わる地名が、大阪の新の段に出てくる。確認すべき資料がないので、何とも言えないのだが、佐渡島や越後が登場するのには興味が湧く。尚、「京都島原」に年号が多出するので、時代背景を知る上で参考になるかと若干の註を付けた。

 

 また加えると、この辺りの事情は、作家・隆慶一郎氏の公式サイトに、ほぼ網羅されているようだ。関心ある方は、下記のURLへ。

  http://www.ikedakai.com/ (隆慶一郎わーるど)

 

「京都島原」

 島原は日本遊郭の根元地として其名を知られ、又実に京都遊廓の最初の創設にかかわるものとしてある。享禄元年十二月公許を得たりとも云う。天正十七年五月免許を得て冷泉万里小路に一廓を開きしとも云う。万里小路とは押小路、柳馬場附近の事で、当時廓の門口に日本の柳を植えしより柳とも呼んだと云う。慶長七年八月皇城に接近するの故を以て室六條に遷され、此処を三筋と名附けた。

 小舞十六番

   文がやりたや室筋へとりや違えて他の人にやるな

     花のよみやまの手に渡せ(奈良楽

とあるのは此頃の作であるとの事である。後四十年更に寛永十八年に至って現今の地に移転されたが、此命令の下ったのは、何の用意をもなす事が出来ぬ迄に火急であって、各自仮小屋を設けて業に就きしを、前年肥前の島原で天草の乱が起ったとき、混乱騒擾したるに引比べて、世人島原の如しと云いたるを以て、其儘廓名にしたのだとも云い、又島原の乱の如く人心を騒がして、此廓に遊ぶ者多い為めに島原と命名したのだとも云う、又「色道大」によれば「伊勢物語」の遊島から出たとも云うて居る。嘉永四年祝融の災に会い、揚屋を残すの外悉く灰燼に帰してしまったが、再建して、現今の状態に復したのである。

 

(註1)享禄元年の十二月公許: 享禄元年は、西暦1528年に当り、820日に「大永」より改元された。この年の十二月の出来事を岩波の『日本史年表』の社会・文化欄で見ると、「大内義興没(52)、厳寒、琵琶湖結氷」とある。他不詳。

(註2)天正十七年五月免許: 同年表に5月の記載はないが、同年2月に駿河・三河に大きな地震があった。また翌年は小田原攻めで、8月に家康が江戸入府。注目するのは、秀吉の統制が強固になり、各地に検地が行われた事。

(註3)慶長七年八月: 西暦1602年に当たる。矢張り廓に関する記載はないが、この8月、イスパニア船と土佐清水沖で海戦、家康は、捕虜を返還し、フィリピン総督に交易を求める書簡を提示しているのが注目される

(註4)小舞十六番: 初期の歌舞伎の若衆歌舞伎の16曲。狂言小舞の影響があった。(註3)の翌年慶長八年4月、出雲阿国が歌舞伎踊りを演じている事のが興味深い。

 その小舞の「文が遣りたや・・・」は、端唄・俗謡の「室と云うのだそうだ。その後にある(奈良楽)と云うのは不詳。

(註5)寛永十八年: 西暦1641年。この年の8月、幕府は、風流踊を禁止しているが、何らかの係わりがあるのだろうか。この年、全国的に飢饉が起っている。また、「島原の乱」を前年としているが、実際には、寛永十四年10月(163712月)に勃発し、翌年2月(4月)に終結している。

(註6)「色道大鑑」: 延宝六年(1678)の序が残る藤本箕山著の『色道大鏡』1814冊と思われる。当時、遊女評判記が流行したが、その代表的なもの。2006年、新版色道大鏡刊行会により八木書店から出版されている。書誌によると、762ページの大書である

 

「大阪新

 新は五花街中に最も由緒ある廓である、寛永年中木村長門守の家臣と云う、大阪の浪人木村亦次郎と云う者があって、庄屋年寄を仰せ附けられた。其頃は一面に蘆原であって、殆んど足を容れる処もない位であったが、是を開拓して官許を得、傾城としたのが、最初であるとの事である。其頃大阪で遊女らしい処と云えば、道頓堀幸辺にあったのみで、他には絶えて無かったが、其旧来の遊女に対して新と命名したのであると云う。の内には瓢箪、佐渡島、越後、吉原の五ヶ所あるが、瓢箪に木村亦次郎の住居があって、一名を亦次郎と云うて居った。瓢箪は太閤の馬印より取り、旧き恩誼を記憶せんが為めに、浪人気質の殊更に其名を選んだのだとも云いい。又古道頓堀辺の瓢箪の娼家を移したるに因とも云うて居る。佐渡島は上博労に住みたる佐渡嶋与三兵衛と云う者が此地に移って、遊女屋を始めたるに起り、越後は佐渡に隣れる越後国より思い附きて名付けたるものであると云う。吉原は今は裏新と呼んで北天満の吉原に屯せし一団の遊女を此地に移せしに因ると云って居る。兎に角大阪人の誇りとしたのは此廓の揚屋の壮麗を極めて居る事である。

 

 先の様に、隆慶一郎氏に公式サイトに詳しいので、注釈を省いた。

 

「遊女の起源」

遊女 遊女の名称は詩の周南漢広の首章に出ている。即ち南有喬木、不可休息、漢有遊女、不可求思、漢之広矣、不可泳(思)、江之永矣、不可方思とあるもの之れである。楓橋漢水は後世に至っても、遊女の名所として我が神崎江口と対称せられて居る。然(サ)れば周代既に江漢の域、此者ありしを推すに足るのである。我が国に文字の見らるのは万葉集に天平二年冬太宰帥大伴卿が上京の際、遊行女婦児島と云うが別(ワカレ)を悲んで歌二首を詠じたのを初めとする。

  凡有者(おほならば)左毛右毛将為乎(かもかもせむを)恐跡(かしこみと)

     振痛袖乎(ふりたきそでを)忍而有香聞(しのびてあるかも)

  倭道者(やまとぢは)雲隠有(くもかくれたり)雖然(しかれども)

     余振袖乎(わがふるそでを)無礼登母布奈(なめしともふな)

 之に拠れば奈良時代に於いて所謂遊女なるものが、大宰府の津辺にあったものと見らる。

 降って大和物語によれば、遊女白女(シラメ)なるもの亭子院の御門が津の国河尻に幸せられた時召させられた事があり、白女歌を詠じて叡感に入ったと云う事である。

  浜千鳥とひ行く限りありければ

     雲立つ山をあはとこそ見ゆ

 又同じ帝が、津の国鳥飼の院に幸せられた折、此辺の遊女を夥多(アマタ)召させられたが、中に丹後守大江玉淵の娘と云うがあって、鳥飼と云う題で歌を上(タテマ)ったことがある。

  浅緑かひある春にあひぬれば

     霞ならねどたちのほりけり

 是また叡感斜ならず、帝袿(ウチギ)一襲と袴とを賜わり、上達部四位五位の人々まで、物ぬぎて取らせざらんものは座より立ちねと仰せられて、一同かづけものを与え、二間に余って積み置いたという事である。此女は古今著聞集十訓抄等によれば先の白女と同人なのである。 

 

(註1)周南漢広: 『詩経』国風周南編の「漢広」の事。『詩経』には、民謡を集めた「風」、雅楽とも言える音楽の歌詞である「雅」、祭祀に用いた廟歌の歌詞があり、「風」は、日本の『万葉集』に似ている。「国風」は、当時の15国の小唄・民謡と考えればよいだろう。「漢広」は、その題で、求愛の歌。興味ある方は、下記URLを、(壺斎散人と号される引地博信氏のサイトである。

(註2)南有喬木・・: 『詩経』の国風周南にある。文中()の部分は、脱字だろう。

 http://chinese.hix05.com/Shikyo/shikyo107.kankou.html

(註3)凡有者・・・: 下記URLを参照の事。

 http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/29260095.html

(註4)倭道者・・・: 下記URLを参照を

 http://hiro-ks.jp/manyou/manyou/MK6-966.htm

(註5)『大和物語』以下: 『大和物語』は平安期に、『伊勢物語』を擬して執筆された物語と言われるが、作者等の詳細は不詳。掲載された和歌は、145段と146段にあり、詳細は、下記URLを。

 http://plaza.rakuten.co.jp/masasenoo/diary/201105220000/

 http://plaza.rakuten.co.jp/masasenoo/diary/201106050000/

 

(註6)古今著聞集: 鎌倉時代、伊勢守橘成季によって編纂された世俗説話集。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』を合わせ日本三大説話集。

(註7)十訓抄: 鎌倉時代中期の説話集、詳細不明。

 

 いやはや、編者あるいは当時の人の博学に驚いてしまう。漢文は、子供の頃より身近な存在だった事もあり、また高校時代、今の広島県立女子大学の副学長・図書館長の高橋清先生に毎週日曜日、『史記』『唐詩選』、現代中国語(中音字母)で習った事もあって、ある程度判断する事が出来るのだが、国文学となると、それこそ高校時代の古文の授業くらいしか記憶になく、少々面喰っている。

 

 その後、色々調べてみたが、これほどの地方遊郭に関する史料を未だ発見していない。換言すれば、当時の柏崎人の博学教養の深さを知るのである。また、何故に、江戸から明治・大正を通じて柏崎に著名な文人墨客が訪れたのか、納得もするのである。

 

 しかし今、先人によって培われた柏崎の文化は、奈辺に行くのであろう。一抹の危惧を抱きながら、『柏崎を読み解く次第である。

 

Best regards

梶谷恭巨

 しばらく一般論が続く。 ご容赦。 (尚、今のところ、平日に一段毎紹介する予定である。)

 

 さて、今回は、江戸吉原の沿革とでもいうべき段落である。実のところ、遊郭の知識など皆無に等しい。精々知っていると言えば、TVや映画の時代劇で、その一端を垣間見る程度だ。斯く次第で、当初は柏崎に関わる部分のみを、と思っていたのだが、改めて考えてみると、さて地理が分からない。柏崎に来てしばらくの間、友人のスナックの裏方などした時期がある。それがあるから、それなりに昔話を聞いた覚えはあるのだが、なにせ『柏崎が書かれたのは、明治42年(1909)であるから、既に百年以上昔の話だ。ましてや、地元生まれでもない異邦人だ。さて、どうしたものか、と思うのである。

 

 以前、『ある旧制中学校長の足跡』として、柏崎中学、確か第四代校長である羽石重雄を中心に取材した。九州は、出身地の福岡から熊本、長崎、本州に渡り、山口、大阪、新潟、そして初任地でもある長野へ。また柏崎長岡中学歴代校長について言えば、鹿児島から北は、山形、宮城に至る。勿論、教育を受けた東京もあるのだ。この場合は、案外、その取材が絞れたのである。先ず、明治の中等教育がテーマにある。それに、教育については、少なくとも予備知識がある。それでも、ミッシングリングを探す事が出来なかった。

 

 さて、今回の『柏崎』は、先のように予備知識が無いのである。実のところ、花柳界・遊郭に関する文献を読むのは初めての事と言ってよい。矢張り、編者である小田金平氏が、「凡例」でぼかすのも、花街は社会のり面という事だろう。しかも、その土地に深い拘わりを持っている。まあ、そんな次第で、写本の積りで『柏崎』を入力し、字句・出典に注釈を付けて、頭の中にイメージでも出来ればと考えた訳である。

 

 何とも言い訳がましいことになったが、今しばらく、ご容赦されたい。

 

「江戸吉原」

 慶長以前には江戸にも麹八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に十四五軒、大橋(今の常盤橋)の内柳に廿軒余散在し居って、一定の遊廓と云うものはなかった。慶長十七年の頃、庄司甚右衛門というのがあって、良家の子弟の流連遊蕩する事を取締るに便利なる事、及び詐欺暴力等を以て誘拐せられたる婦女を保護するに便なる事、又大阪の残党の処々に潜伏するを吟味するに便利なる事の理由を以て、所々に散在する娼楼を一所に集合せん事を願い出で、元和三年漸く其許可を得たので、茸屋の内二四方を賜わり葭茅を刈払い、此処に一の遊廓を組織し、名附けて葭原と云うたのであるが、後に葭の字を吉と替えて吉原と云うに至った。其内の京へは元麹の妓楼、江戸へは元柳鎌倉河岸の妓楼、へは京の角(カドマチ)の妓楼が移住したものである。

 尤も此庄司甚右衛門と云う人は小田原の者で北條家の浪人であるが、天正十八年小田原城落城の後、江戸に来て、前に述べた柳に傾城屋を起てたのであって、吉原の沿革『洞房語園』の著者勝富が六代の祖である。此人は總(惣)名主となったが、其節五ケ條の申渡しがあった。

一、    傾城の外、傾城商売致す可からず、並(に)傾城園の外、何方(イズカタ)より雇来り候共、先々へ傾城を遣わし候事

一、    傾城買遊び候者、一日一夜より長留致すまじき事

一、    傾城の衣類、総縫い金銀の摺箔等、一切着せ申間敷(モウスマジキ)事、何地(イズチ)にても紺屋染用い可申事

一、    傾城家作普請等、美麗に不可致(イタスベカラズ)、役は江戸之格式通り、急度相勤可申(アイトトメモウスベキ)

一、    武士人体の者に不限(カギラズ)、出所慥(タシ)かならず、普請成者(フシンナルモノ)徘徊致し候わば、住所吟味致、弥々(イヨイヨ)以て普請に相見候わば奉行所へ訴出可申事

右之通急度相守可申もの也

 

 此吉原は其後日に月に繁昌したが、明暦二年其辺一帯御用地となりたれば、と三の地を一万五百両の移転料を賜わって、代地なる日本堤のしたに移ったのであるが、是れ即ち新吉原の由来である。遊女の数は寛保より天保の頃迄は二千人乃至二千五百人の間を往来し、安政以後は三千人を超すに至った。初は吉原の外に妓楼を設くる事を許さなかったが、後には次第に其禁制緩和となって、深川、本所、根津、音羽、三田、赤阪、田、麻布市兵衛、鮫ヶ橋堂前其他に十軒、二十軒の妓楼が出来たが、天保十三年の厳禁を見るまで、吉原に対して是を総称して岡場所と云うて居たのである。

 

(註1)吉原の沿革『洞房語園』の著者勝富が六代の祖: 『洞房語園』は、江戸中期の随筆、著者は、庄司道恕斎富勝で、庄司甚右衛門の子孫。享保5年(1720の自序が残っているが、本文には異本などあるようだ。

(註2)天保十三年の厳禁: 水野忠邦の「天保の改革」

 

 冒頭に書いた次第だが、一つ思い出したので、トリビア的記憶を。何で読んだのか定かではないが、(もしかすると、渡辺崋山と生田万の高崎塾でのエピソードか?)、高崎の旅籠の話ではなかったかと思う。越後出身の高崎の飯盛りが、待遇が約定と違うと、公文所に訴状を出したのだそうだ。驚いたのは、その訴状が自筆だったと云うのである。特に関東の裏の世界は、映画などで余ほど悪いイメージしかないのである。それこそ記憶が定かでないが、江戸時代のイメージを一変させるエピソードだと思った。そう、もしかすると、アーネスト・サトウに日記か、あるいは、渡辺京二の『逝きし世の面影』に引用された外国人の記事ではなかったか。だからと言って、負のイメージが払拭される訳ではないが、アンビバレンスを内在するのが、人であり社会だと思うのである。

 

Best regards

梶谷恭巨

 今回から本文に入る。 しばらくは一般論あるいは概説である。柏崎の事を早く知りたい向きもあるだろうが、今少しのご猶予を。 尚、カッコ内の読みは、便宜上付けたものである。

 

「我国の花柳界」

 

 多数の妓楼を一定の地域内に集合したものを遊郭と云うのであるが、公娼を取締るには散娼式と集娼式との二つあって、遊郭組織は集娼式の一つである。欧州諸国の内でも伯林(ベルリン)は専ら散娼式で、巴里(パリ)は散娼式と集娼式とを併用して、共に遊郭と云うものはないとの事である。其他地方の小都府に於ては、往々遊郭式に則(ノット)るものがあるけれ共、美の設備をして、人目を惹く事を禁ぜられて居る。我国でも一廓をなして群集すると云う事は、将軍の時代迄はなかった。尤(モット)も以前に猿源氏の草紙に、五條東の洞院に大傾城(オオケイセイ)屋があって、遊君三十七人許(バカ)り出で立たせと云う事があるが、是とても此の処に、大なる傾城屋があったと云う迄の事で軒を並べて一廓をなして居たと云う様な事はない。就中(ナカンヅク)一廓の鼻祖は往昔太閤の家臣に原三郎左衛門と云うものがあって、太閤出駕には必ず御供を勤めたが、或時太閤秀吉が仰せられたには、予天下を掌握してより以来国富み民栄うる事、其限りを知らず、此時に当りて、如何なる雑人原にても、我内にあるもの心に望み思う事あらば申す可しとの上意があった。曾(タマタ)た太閤洛陽万里小路を御通過の時、矢張件(クダン)の三郎左衛門が御供の内に罷(マカ)り居たが、其頃此万里小路二條辺は道の両側に柳の並木があって、実に青々たる千條の緑を垂れて居たので、俗に此処を柳の馬場と呼做(ヨビナ)したのである。太閤の御馬が恰(アタカ)も此処へかかりたる時、三郎左衛門、公の馬前に跪(ヒザマズ)いて申上ぐるよう

『恐れながら、私内々存ずる旨あり、遊女を抱え集めて、洛中に傾城屋を建て、格子局(ツボネ)を飾り、糸竹の調べに歌舞を尽し、衆人を慰めて、京師を賑いにいたしたく、且は国家安泰の瑞相になり申す可き歟(カ)』

と言上した。

 元より太閤は色を重んずるから直ちに許された、間もなく三郎左衛門は此処に粗末ながら仮屋をしつらえ、暖簾(ノレン)をかけわたして傾城屋をこしらえたが、此事を聞ける都の内、諸所に散在して居た傾城屋共が馳集まって三郎左衛門の手下に属し、屋敷を受取り、家を普請して、瞬く間に立派な遊郭を作り上げた、時に天正十七年である。尤も此の三郎左衛門は、太閤の馬の口取であった、是によって、傾城屋の異名を轡(クツワ)と云う説があるが、三郎左衛門が馬の口取であたっと云う事は慥(タシ)かでないから、轡と云うのも疑わしい。尚お孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥の八正を忘るるものの入り込む処であるから忘八屋と云う異名もあるが、何れが真なるか判別しない。兎に角遊女が一廓内に集合して妍を競い、栄を争うたのは此時より始まったのであるが、徳川時代には非常に遊郭組織が発達して寛文年中、全国に公娼許可を得しもの二十五ヶ所に及んだとの事である。今其所在地を洞房語園に拠って記せば実に左の如くである。

 

 第一  京の島原            第二  山城国伏見夷

 第三  伏見           第四  近江国大津馬場

 第五  駿河国府中弥勒      第六  武蔵の国新吉原

 第七  越前国敦賀六軒      第八  同 三国松下

 第九  同国今庄新         第十  大和奈良鴨川

 第十一 和泉国境北高洲      第十二 同 境南津守

 第十三 摂津国大阪瓢箪      第十四 同 兵庫磯

 第十五 佐渡国鮎川(相川)山崎町 第十六 石見国塩泉津稲

 第十七 播磨国室小野       第十八 備後国鞆有磯

 第十九 安芸国広島太多海(忠海) 第二十 同 宮島新

 第廿一 長門国下ノ関稲荷     第廿二 筑前国博多柳

 第廿三 肥前国長崎丸山      第廿四 薩摩国樺島田

 第廿五 薩摩国山鹿野

 

 其後日に月に増加して、今日に在っては全国を通じて、実に四百余ヶ所も出来て居るが、実に其増加の速やかなるには驚かざるを得ない。而して芸娼妓の増加も偉大なるもので、明治三十七年度末に於ける全国の調査は

 娼妓  四万二千百七十八名

 芸妓  二万六千二百二十六名

に達して居ったが、当時は日露戦役の影響で、師団兵営所在地に所謂軍妓の増加著しく、芸妓は比較的減少して居ったとの事である。今日では亦多少の増加を示して居るであろう。

 就中吾が国に於ける遊郭の嚆矢(ハジメ)は京の島原を始め江戸の吉原、大阪の新等で、今此(イマココニ)日本三大遊郭の沿革を記し、併せて遊郭の出来ぬ前の事は、白拍子、遊君、遊女、傾城と云う名の下に一々項目を挙げて記述する事にする。

 

 以上、「我国の花柳界」の内、前半を記した。

 

(註1)原三郎左衛門: 不詳。 この話は、江戸中期の国学者・入江昌喜、享保7年(1722)~寛政12年(1800)の『久保之取蛇尾』に書かれているようである。また、太閤に願い出たのは、原のみではなく、当時浪人をしていた林又一郎(後の歌舞伎役者・林又一郎の名跡)と共に願い出たようだ。林又一郎の作った「扇屋」は、その後も子孫によって継承され幕末まで続いたそうだ。

(註2)太多海: 現在の広島県竹原市忠海

 

 今回は、特に注釈・解説もほとんどないと思う。 尚、25遊郭の所在に関しては、インターネットで調べるのも一興かと。

 

Best regards

梶谷恭巨

 さて、『柏崎華街志』だが、矢張り、社会の裏面史である。 読者の中には、抵抗感を持つ方もあるかもしれない。 ただ、一読するに、『柏崎華街志』は、当時の時代背景をよく表しているのである。
 

 今回は、著者小田金平の「自序」を紹介する。 興味深いのは、著者が、先ず引用しているのが、幸田露伴の『花街風俗志』の序文である。 兎に角、原文を紹介しよう。 

 幸田露伴氏「花街風俗志」の巻頭に序して曰く「花柳の事士君子之を語るを恥づ、然りと雖(イエド)も妓女の徳川氏の治世に於ける、実に当時の一大勢力にして、其の関連する所甚だ広く甚だ深し」と、豈(ア)に唯に徳川氏の治世のみと曰(イ)はんや、苟(イヤ)しくも吾人人類の其の跡を滅せざる限り、其の裏面に於ては、永(トコ)しえに花街柳巷と相関渉せざるを得ざらむ。吾が柏崎の花街未だ馬声廻合青雲外、人影搖動緑波裏の盛観を見ざるも、然かも楊柳傷心の樹、至(る)処に靡(ナビ)き、桃李断腸の花、不断に咲けるあり、況(イワ)んや其の沿革甚だ旧くして、若(モ)し今日に之れを探(タズ)ぬるに非すんば、杳(ヨウ)として又知ること能(アタ)はざるに至るの憾(ウラ)みあらんとす。予等自ら揣(ハカ)らず「柏崎華街志」を刊行し、敢えて之れを江湖に問ふもの、其の意全く茲(ココ)に存す。此の一小冊子、若し今日に於て、過去の柏崎と其の花街とを見る者に取り、多少の参考とならば、望外の幸となす所、ただ剪劣の才、粗笨(ソホン、大まかでぞんざいな)の文、よく柏崎花街の真面目を写す能はざるを遺憾とするのみ。

明治己酉十一月  梧桐、天凱、識 

(註)『花街風俗志』、著者・大久保葩雪(ハセツ、名は豊、別号に無心老樵葩雪、幕末から明治に活躍した、生年没年不詳)、1906年(明治39年)4月、隆文館(東京)発刊 序、幸田露伴、他に、『花街風俗史』があるが、序文も幸田露伴であり、出版社、出版年月が同じなので、同一のものと思われる。

  以下、少々長くなるが、『柏崎華街志』が恐らく影響を受けているであろう大久保葩雪著『花街風俗志』の幸田露伴による序文を紹介する。 原文は、旧漢字、旧仮名遣いである。 そこで便宜上、現代文に置き換えることもある。 

「華街風俗志序」

 花柳の事士君子之を語るを愧(ハ)づ。然りといえども妓女の徳川氏の治世に於ける。実に当時の一大勢力にして、其の関連するところ甚だ広く甚だ深し。徳川氏三百年間、詞章工技より音楽演劇に至るまで、花柳の事殆(ホトン)ど其の中心たるの観ありて、所謂(イワユル)徳川氏の文明は、花柳の事を除けば、剰(アマ)すところ幾何も無きに似たり。蓋(ケダ)し希臘(ギリシャ)の盛時、名妓輩出して、鉅公大人もまたこれに狎昵(コウジツ、慣れ親しむ)するを嫌わざりしが如く、島原芳原の殷(サカ)んなるに当たっては上下翕然(ギュウゼン、集まりあう様)として桃李の春色に酔い、人々ただ其の悦(ヨロコ)ぶべきを知って其の悪(ニク)むべきを知らざりしなり。
 是(ココ)に於て彼にヂミトリユス(デミトリウス)の寵を受けて二十五万元の石鹸料を得たるヲミヤありしが如く、此(ココ)に八宮親王の貴きをして自ら八と称するに至らしめたる八千代あり彼に二千金を贈りて歓を買わんとする論師ダイオゼニスを斥(シリゾ)けて巨樽を家とせる奇人ダイオゼニスを愛せしライスありしが如く、此に一笑を貴紳に吝(オシ)んで寸心を寒士に寄せたる高尾あり。彼に博学善論のヒバルチャありしが如く、此に多芸万能の芳野あり彼に蚤死して人の惜(オシ)しむところとなれる蘭心蕙質(ケイシツ、美人のからだつき、美しい性質)のバクチースありしが如く、此にも世を早(ハヨ)うして却(カエ)って名を留めたる幽婉嫻麗(ユウエンカンレイ、奥ゆかしく美しく、みやびやかでうるわしい)の玉菊あり。彼に彫刻家ブラキステルスのために其の嬌体(なまめかしい身体)を示すを厭(イト)わざりしヒリインありしが如く、此に画家歌麿の為に数々(シバシバ)其美貌を写されたりし喜瀬川ありき。噫(アア)また盛(サカン)なりというべし。是(カク)の如くなれば我が文学に於ける巣林、西鶴、其磧、京伝等が著は多くは皆其の境をここに取れるなり、師宣、祐信、春信、歌麿等が作は多くは皆其の材をこれに仰げるなり、音楽演劇に至っては、淫声冶容(みだらな声と艶めかしい容姿)と皆女閭遊郭の為に光を揚げ徳を頌(ショウ)するに近きなり、概して之を言えば徳川氏三百年間の一切の事相は、其の精神、其の形式、其の趣致、其の色彩、其の歴史、其の系統等に於て、花柳の世界と関係交渉せざるは無き也。此故に徳川期の文明を談ぜんとするものは、必らず先ず一部の花柳史を読了して之に通ぜざるべからずというも可なり。果たして然らば誰か肯(アエ)て花柳の史を無用の閑書とせんや。葩雪大久保君其の著わすところの花街風俗志を刊するに臨み、予をそて数言を巻頭に題せしむ。乃ち為に此の言を録す、知らず君の点頭して善しと称するや否やを。 

明治丙午仲春  幸田露伴識 

(註1)デミトリウス(ヂミトリユス)の話: 出典不詳。名前から推測して、ローマ時代の物語のように思えるのだが、不明。ご存知の方があれば、ご教授願いたい。
(註2)八宮親王の話: 江戸時代初期の後陽成天皇の第八皇子で、郭通いが高じ、万治二年に許されるまで、甲斐の天目山に流された。
(註3)ダイオゼニスの話: 樽に住んだというところからディオゲネス(文中、ダイオゼニス)と思われる。高級娼婦ライスは、ディオゲネスをしばしば訪ねた。貢がれた金をディオゲネスに貢いだと言われる。また、アレキサンダー大王が、ディオゲネスを訪ねた話は有名だ。 また、デモスゼニスというのも、ディオゲネスから類推すると、「デモステネス」かもしれない。もうし、そうであれば、反マケドニア運動を展開し後に自殺するデモステネスのことか? 時代背景を考えると、これらの話は、イソップ物語から引用されたのかもしれない。
(註4)高尾の話: 紺屋の職人と恋仲になった高尾大夫のことで、『紺屋高尾』という落語、浪曲がある。
(註5)ヒバルチャと芳野の話: 出典不詳。
(註6)バクチースと玉菊の話: 出典不詳。
(註7)ブラキステルスとヒリインの話: 出典不詳。
(註8)歌麿と喜瀬川の話: 喜多川歌麿の『五人美人愛嬌鑑・松葉屋喜瀬川』
(註9)巣林: 早稲田大学演劇博物館蔵の近松門左衛門の肖像画に、
「浄瑠璃歌舞伎狂言雑稽戯惣中祖 平安堂不移山巣林翁 近松門左衛門藤原信盛繡像」とある。
(註10)其磧(キセキ): 江戸期、寛文から享保年間に活躍した浮世草子の作者江島其磧、寛文6年(1666-享保20年(1735)。名は、京の大仏餅屋村瀬正孝の子、権之丞、通称、庄左衛門。尚、西鶴は「井原西鶴」、京伝は「山東京伝」
(註11)師宣: 菱川師宣、切手になった「見返り美人図」で有名。
(註12)祐信: 西川祐信、江戸初期から中期にかけての浮世絵師。
(註13)春信: 鈴木晴信、江戸中期の浮世絵師で、平賀源内の友人。
 

 以上、参考の為に、幸田露伴の『花街風俗志序』を紹介した。 

 尚、幸田露伴について若干触れる。 

幸田露伴: 1867822日(慶応3823日)~1947年(昭和22年)730日、本名は成行、別号には、蝸牛庵(カギュウアン)などある。尾崎紅葉ともに、紅露時代を築いた。詳細は、省くが、娘・文、孫・青木玉、曽孫・青木奈緒も作家(エッセイスト)、文才は遺伝するのだろうか。

さて次に、「凡例」を紹介する。ここには、意外に重要な情報が記載されている。兎に角、先ずは原文から。尚、この「凡例」に関しては従前どおりである。

「凡例」

一、 本書発刊に就いては幾多の先輩諸氏より多大の同情を傾倒せられ、或は有益の材料を与え、  或は親しく談話を試みらるる等直接間接に尽力さるる事、頗(スコブ)る多きが、茲(コ   コ)に聊(イササ)か其の芳名を列記して謝意を表せんと欲せしかど、却って礼を失するの  恐れあるを慮(オモンバカ)り、わざと略する事にせり。
一、 本書編纂に当り、多数参考書を渉猟せるが、一々之れを詳記するの煩(ワズライ)を避け、  其の重(オ)もなるもの二三を記して謝意を表せんとす。
一、 
北越史料出雲崎、同寺泊、花街風俗志、花柳風俗志、日本百科事典、刈羽郡案内、越後の婦        人、柏崎町鑑、国民百科事典、花柳巷談、二筋道
一、 本書は職業の余暇を以て編纂せるもの、且つ博学菲才の身を以てして到底完全の材料を拾収        するを得ず、大方諸君、編者のために叱評の労を吝(オシ)むなくんば幸甚とする所なり。一、 本書中の各地花柳界の沿革は僅かに其大要を録したるものにして、凡(スベ)ての調査は明       治四十二年五月現在に依れり。

 己酉十一月    編者 識

 (註)参考文献について。 尚、で示したのは、柏崎市立図書館蔵で、近代デジタルライブラリーからダウンロード出来る。は、柏崎市立図書館蔵。は、近代デジタルライブラリーからダウンロードできる。は、学会ライブラリーなど、一部有料で利用できる。×は、いずれにも無いようである。

『北越史料出雲崎』: 西澤新次郎編、佐藤書店、1906年(明治39年)9月刊。この史料に関しては、19776月、復刻版が発刊された。
『北越史料寺泊』: 河合孫七編、佐藤書店、出版年月不詳。
○『『花街風俗志』: 承前
『花柳風俗志』: 著者不詳。1905年(明治38年)博文館発刊の『文芸倶楽部』(定期増刊号1110号)に掲載された。
×『日本百科辞典』: 1908年(明治41年)から刊行された三省堂の『日本大百科辞典』の事か?
○『刈羽郡案内』: 関甲子次郎著、高桑儀作出版、出版年月不詳。
『越後の婦人』: 関木甲子次郎著、高桑儀作出版、1902年(明治35年)5月刊
○『柏崎町鑑』:  桑山直次郎編、これには、年度版があり、明治32年版(189911月刊(尚商館)と、中越新聞社刊の明治38年版(1905)があるようである。また、江戸時代、正徳元年に発刊された同名の『柏崎町鑑附沿革略考』がある。柏崎市立図書館蔵だが、写本との事。
×『国民百科辞典』: 明治41年(1908)、冨山房より刊行された『国民百科辞典』と思われる。
『花柳巷談二筋道』: 恐らく、明治39年(1906)、隆文館発刊、岡鬼太郎著『二筋道花柳巷談』と思われる。

 
 さて、ここで判るのは、当初書誌をよく確認しなかった事もあるのだが、編者が即ち「小田金平」であることだ。この小田金平氏について市立図書館に問合せしたが、明快な回答は得られなかった。ただ、先日(日)に木島さんと来月の連載に関する打合せをした時、柏崎に「小田印刷」という印刷の老舗があると聞いた。木島さんも、前後の事情から「小田印刷」ではないかと言うのである。私は、その存在も知らなかったので何とも言えないが、木島さんは現社長とも面識があるとの事なので、近々判明するかもしれない。
 ところで、「凡例」の冒頭にある如く、こう当時でさえ、矢張り遊郭の話は一般には禁句であった事が窺われる。しかし、前回紹介した『花街風俗志』の序文を書いた幸田露伴の言うように、文化あるいは文明と花柳界あるいは遊郭との拘わりは、重要である。言い換えれば、特に、文芸の世界は、花柳界や遊郭・遊女を抜きにしては成立し得ないのではないだろうか。
 人にはそれぞれに「アイデンティティ」がある如く、時代時代には、それぞれの「アイデンティティ」が存在する。人がそうであるように、時代にも建前である正史がある如く、裏面史が必ず存在し、表裏一体となって、時代を形成する。寧ろ、裏面史の中に、歴史の真相が埋没していると言っても過言ではあるまい。
 考えてみれば、映画やTVドラマ、否、原作である小説にして、社会の裏面が題材ではないか。言い換えれば、裏面史は、歴史の風景の様なものだ。そこに存在する人と背景が織りなして、歴史の風景を構成すると、私は考えている。そして、歴史的事実とは、歴史風景という時代の場に生じた「特異点」に他ならない。すなわち、歴史に学ぶ者は、その歴史風景の視点に立って、歴史的事実や事件の観察をしなければならないのではないか。序に言うと、こうした歴史認識を基に、現在と言う時点から俯瞰的に歴史を見るべきではないのだろうか。

 浅学にして菲才、大仰に陳述したが、ご容赦。

 今回は、先の遅れを取り戻す為に、本文の冒頭として、「内容」、恐らく目次であろう、それも付け加える。

「内容」
我国の花柳界
江戸吉原
京都島原
大阪新町
遊女の起源
  遊  女
  傾  城
  遊  君
  白拍子
  歌舞妓
土地と遊郭との関係
柏座の遊郭
  華街の起り
  遊女の起り
  貸座敷の事
  娼妓の事
  芸妓の事
雑事
  東郷上村二将軍来柏
  白石正利氏
  一九先生
  俳星碧梧桐
  白浪庵滔天
  遊郭に就ての発刊物
  剣の山の観月会
  昔の花街風俗
  其他
歌舞の師匠
芸娼妓の年中行事
柏崎の廓言葉
位置及附近の風景
柏崎の名妓
名物俚謡
越後より出たる名妓
紅塵余談
花柳界の迷信
越後の花柳界
  新潟 長岡 直江津 高田
  三条 村松 五泉 新津
  中条 新発田 津川 出雲崎
  寺泊 小千谷 相川 夷港
  小木 二見
附録
  柏崎著名の料理店
  柏崎華街細見記

以上。 さて、次号から本文に入る。

Best regards
梶谷恭巨

 さて以下の文章だが、これを書いたのは昨年の5月、かれこれ一年になる。読み返して赤顔する処もあるのだが、兎に角、その当時を振り返りながら、掲載する。尚、この後に、写真等続くのだが、百年の歳月が過ぎたとは言え、当時の状況と今の価値観が異なり、この『柏崎華街志』をアップロードする際にも考えた事だが、時系列とは過酷なもので、必ずしも今生きる我々の感覚では、認識できない事象も起りうるもだ。


 さて、前回に続き『柏崎華街志』を紹介しよう。 「序」に続いて、漢詩(七言絶詩)二首があるが、白文(返り点などが付されていない漢文)である。 内容的には、指して観るべきものが無いように思われるが、一応紹介する。 ただし、詩文なので、下し読みに自信がない。 ご容赦。
 

 題詞

 贈芍採蘭詩不刪、「贈芍採蘭の詩は刪らず」
(芍を贈り蘭を採る詩は、なかなかまとまらないものだが、)

 采風察俗記周官、「采風察俗の記は官に周く」
(風俗を取材した記事は、広く知られるところだ。)

 諸君休怪品郎筆、「諸君休怪して郎筆を品し」
(皆さん少し休んで、私の書いたものを評し、)

 細写華街紙上看、「細写する花街、紙上で看よ」
(花街のことを事細かに描いたので、読んで欲しい。)

 其二

 繁華滅却昔時栄、「繁華滅却は昔時の栄え」
(繁盛し寂れたのは、昔栄えたことだ、)

 扇閣瓢楼幾変更、「扇閣瓢楼は幾変更」
「扇閣や瓢楼は、何度、代替わりした事か、」

 非獨新街知沿革、「新街の沿革を知るは独りに非ず」
(新町の歴史を知る人は、一人ではないだろう、)

 柳情花態亦分明、「柳情花態、また分明す」
(遊女たちのしなやかで艶やかな姿も、また明らかである。)
 

 と、まあ浅学な知識で訳しても見たが、さてどうなのだろう。 ただ、表意文字の良いところで、字面からイメージすることは難しくはない。 強いて言わせてもらうと、対句や韻は踏んであるようなのだが、七言絶詩として、果たして性格なのだろうか。 平仄を一部調べてみたが、何とも言い難い。 作者が、敢えて「題詞」としたのは、その辺りの事情があるのかも知れない。 しかし、いずれにしても、当時の人々の漢学に対する素養の程が窺われる。 柏崎には、以前から藍澤南城の「三余堂」あり、また、明治後には、北溟義塾ありで、漢詩漢文の命脈は、明治末に至っても広く市民に継承されていたようだ。 どの辺りから、この漢文漢詩の系譜が希薄になるのか、寧ろその事に興味が湧く。 

 前回紹介したので省略するが、この「題詞」は、「贅疣仙史」と号する柏崎日報の編集者と思われる人物が、菊の香りのする編集室の一隅で、戯れに作したものである。 因みに、『柏崎日報』は、その前身である『柏崎新聞』は、明治33年5月10日に創刊され、明治39年1月1日、週刊『中越新聞』と合併して、『柏崎日報』となった。 小熊三郎氏の『柏崎日報物語』によると、『柏崎華街志』が発刊された明治42年当時の社主は桑山直三郎氏(明治45年、社主を引き、大正3年10月26日没)であったようだ。 

 尚、「其二」にある「扇閣」「瓢楼」は、後で出てくるのだが、共に柏崎の老舗の名前である。 特に、「瓢楼」は、文中にもあるように、歴史が古く、当初は、「瓢宅」とも言ったようだ。 以前紹介した十返舎一九の『金の草鞋』に登場するのが「瓢宅」である。 

 今回は、この部分を省略し、作者の「自序」から始めるつもりだったが、省略するのも序の作者に失礼と思い、自信のないまま紹介した。 下し読み等、間違いがあればご指摘、ご教授頂ければ幸いである。 

 ところで、先ほど発掘現場から電話があり、明日より出てくれないかとの事。 何でも、人が5人くらいしか集まらず、県の学芸員からせっつかれたようである。 日当6200円では、景気が今一の状況でも、よほど発掘現場が好きでもない限り、人は集まらないだろう。 という次第で、しばらくは休刊状態になるかもしれない。 何しろ、久しぶりの肉体労働、(発掘作業というのは、天候気候にもよるが重労働なのである)、しばらくは筋肉痛やらで、書く事もままならないだろう。 ご容赦。 

Best regards
梶谷恭巨



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