柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 幕末、今の小千谷市に数学の天才が出現した。 関流和算の第七伝山口坎山(和、1781?-1850)が見出した後の第八伝(最後の伝承者)佐藤虎三郎(雪山、1814-1859)である。 後年、湯川秀樹博士に、彼をして、「今に生きれば、間違いなくノーベル賞を受賞したであろう」と言わしめた。

と言った書き出しで書くと、小説じみてくるのだが、調べてみると、実に興味深い人物なのである。 以前から思っていたことなのだが、柏崎には、和算の学者が多い。 その一人が、最後の大算者といわれる山村禎治(雪斎、1830-1922)である。 また、その最初の師が、黄金屋(きがねや)植木彦吉なのだ。 植木彦吉の家は、偶然にもマイコンクラブの植木君の本家筋に当たる。 このお盆、そのこともあり、植木君にお願いして、その本家を訪ねた。 何か資料のようなものが残っていないかと考えたからだ。 残念ながら、そこまでは行着けなったが、本家の奥さんと、丁度法要に見えた菩提寺の住職(御前様というそうだ)と話す機会を得た。 そこで、改めて、興味が湧き、あれこれと調べた結果、黄金屋植木彦吉が、山口坎山の門人控に記載されていることを確認した。 植木彦吉は、早くから村山禎治の才能に着目し、同門でもあり、既に師でもあった佐藤雪山に村山禎治を託すのである。

さて、そんな経緯から、実は初めて、佐藤雪山の存在を知る。 ところが、佐藤雪山を調べる過程で、もう一人の人物に出会う。 すなわち、後に『三要素略説』(熱・光・電気は同じものと提言した?)を著した広川晴軒である。 広川晴軒は、柏崎の三余堂(藍澤南城)で学問を修め、小千谷のに帰り家業の町見術(測量技術)を継いでいたが、既に神童と噂されていた佐藤虎三郎と出会い、その才能に驚嘆する。 以降、年齢を越えた親交が始まり、後年、入門までしているのだ。 雪山が単なる和算学者あるいは算者の域を越えた背景には、この広川晴軒の存在がある。 また、付言すると、もう一人の存在がある。 蘭医石阪栗堂である。 詳細は省くが、この三人は、一種の盟約を結び、互いの専門分野を交換して勉強し、研鑽に励んだようだ。 小千谷と言う、それ程広くもない天領(会津藩預かり、同藩の陣屋があったそうだ)にこれ程の才能が集中したと言う事は、驚くべきことだ。 (状況が柏崎と似ているように思われる。)

それにしても、当時の学際ネットワークには驚いてしまう。 例えば、小千谷と水原、あるいは江戸との距離は、現在では想像も付かないくらいに遠いのである。 そこに、師弟関係が成立し、且つ頻繁に交流があるのだ。 当時、人々は、どのようにして師を得たのだろうか。 ここに、一つの例がある。 司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に、一方の主人公、島倉伊之助が、佐渡から松本良順方へ弟子入りする場面がある。 佐渡は、天領であり、その為、江戸との関係が深い。 庶民においても人脈が潜在的に存在するのだ。 伊之助の伊右衛門は、伝を頼り、順天堂の起源にもなる佐倉藩の蘭医佐藤泰然方への入門を目指すのだが、伝の又伝で頼んであるものだから、江戸に出ても、伝頼りで行き先も定かではない。 結局行き着いたのが、幕府の御殿医松本家だ。 松本良順は、佐藤泰然の次男だから、当たらずとも遠からず、むしろ後のことを考える奇貨を得たのかもしれない。 要するに、人を介さなければ、目的に至らないのである。 言い換えれば、人のつながりと言うネットワークの存在が、日常においても、他の社会システムにおいても、不可欠なものだったのである。

少々話しが横道に逸れたが、佐藤雪山が、算学者として大成する背景には、その才能のみならず、彼が縮商として江戸・京阪辺りまで行商に出かけたこともあるのではないだろうか。 すなわち視野の広さと言うことだが、反面、そうしなければならなかった家の事情から考えれば、仕事の合間、旅の宿で寸暇を惜しんで勉学した、その情熱にも驚かされ、小千谷と言う越後の片田舎にあって、関流の正統(長谷川派)を継承することにも、納得するのである。 因みに、関流和算の正統の継承者は、代々、端渓の硯を受け継いだそうだ。 尚、佐藤雪山の著作として残るのは、『算法
円理三台』(1846)、雪山を継承した村山禎治(雪斎)の『通機算法』に序文を書いている。 因みに、「通機堂」は、雪山の数学道場のことである。 余談だが、晩年、安芸(広島)藩士、法道寺和十郎が雪山を小千谷に訪ねた時、解題に実験を行っている。 ここにも、雪山が、算学を趣味・道楽としてではなく、実学と考えていたことが窺える。 その後、法道寺和十郎は、再度、雪山を訪ねるのだが、その時、雪山は既に亡く、霊前に額ずき「雪山先生が最後の先生でした。 教示を頂けず、親を失った子供のように頼るものがなくなった」と言い、悄然と安芸の国に帰って行ったと伝えられている。

ここにも広島と越後をつなぐ縁がある。 世の中は、何とも不可思議な縁の糸で繋がれているのかも知れない。

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梶谷恭巨

 物事を見るのに何でもかんでも図式化する習性がある。 図式化といっても、一種
のイメージの地図を作るのだ。 こうした方法との出会いは、高校時代に読んだ認知
心理学の一冊の本から始まっている。 そこでは、「意味空間」あるいは「意味地
図」と表現されていた。 それが、長い年月を経て、習慣化してしまった。 ただ、
この方法には良い面と悪い面がある。

 物事を俯瞰的に眺め、それをネットワークとして表現するのだから、問題点を発見
し、その解決策を検討するには、非常に有効な方法だ。 それに、図式化することに
よって、見えないものが見えてくる。 しかし、反面、視野が広がるだけに、問題の
焦点が絞り込めない。 「木を見て、森を見ず」ではなく、「森を見て、木を見ず、
故に、木の本質を知らず」とでも言うべき状況も出現するのだ。 どうも、これは私
自身の問題のみではなく、社会にも適用できることなのではないか。

 一昨日、柏崎祇園祭の最終日を飾る海上大花火大会が開催された。 開始直前にに
わか雨が降り、「ああ、昨年の二の舞か。 今年失敗すると大変なことになる」と思
いながらも、駐車場を探して、うろうろ。 結局イトーヨーカ堂の駐車場が穴場で、
そこから海に向かって、今度は場所探し。 雨を心配しながらも、何とか、場所を見
つけた。 さて、花火はどうかと言えば、始めは風も無く、煙が流れないので、どう
なることかと思っていたが、中盤の山場辺りから、花火の残光かと思えば、北極星。
 風も出てきて、花火には最適に近い状況になった。 フィナーレに近い東電の「超
ベスビアスワイドスターマイン・プラネットパラシュートダンス」辺りから、自然発
生的に拍手が起こり、「怒涛の尺玉300連発」、柏崎市民協賛のフィナーレでは、
子供たちまで踊りだす躁の状態。 まさに感動ものだった。 しかし、その後が問題
だ。 帰るタイミングを逃したため、帰宅まで何と2時間半、渋滞に巻き込まれて、
感動の反動は疲労に変わる。

 一日おいて、改めて「花火の感動」を振り返ると、「さて、あれだけの感動、宴の
後にすべきではない」との思いが湧く。 そこで、見回すと、あることに気付くので
ある。 「海上で行われる花火としては日本一」、「日本海に面する海浜公園は素晴
らしい」、「美術館・博物館街道といわれるくらい文化的資産が豊富」、「川には鮭
が遡上する」などなど、「日本石油の発生の地」、「世界最大の原子力発電基地」、
兎に角、文化的社会的経済的資源に恵まれている。 要するに、この柏崎という森に
は、大木が繁茂しているのだ。 一本一本の樹は素晴らしい。 ところが、下草や若
木は瀕死の状態。 森としての機能が失われているように思えるのだ。

 例えば、こんな事を考えた。 「海上大花火大会を日本一にするならば、海岸線の
整備をそれに合わせればよいのではないか」と。 「花火観覧を考慮して、防潮堤を
円形劇場的階段構造にすればよい。 構造的にも可能ではないか。」 考えれば様々
である。 しかし、出てくるのは負の事例ばかりなり。 さてさて、汝を如何せん。
 「私は、柏崎が好きなのだがね。」

 柏崎の歴史(学問の系譜)を地元紙に書き始めて、調べれば調べるほど、下草や若
木が育たない森で大樹が朽ちていく様が浮き彫りになってくる、言い換えれば、大樹
が育てば、森全体が繁栄する様がみえるのである。 藍澤南城は、安達清河が認める
ほどの詩才を、星野鵜水は、古賀洞庵が序文を書くほどの学才を持ちながら、栄達を
棄て、郷里に大樹を育てるべく、帰郷して子弟の教育に専念する。 そして、その結
果は、戊辰戦争で荒廃した柏崎の大地に大樹を育て、森を繁らせ、繁栄の花を咲かせ
るのである。

 それにしても今はどうであろう。 「木を見れば木のみ、森を見れば森のみ」、そ
の何れであれ、繁栄への道を失うのではないか。 すなわち、「木を見て森を見ず。
 森を見て木を見ず。 而して木も森も荒廃す」と思うのである。 もっとも、私自
身が、既にして、迷走しているのも事実だが。

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梶谷恭巨
 地元では「樽にわか」と呼ぶ柏崎祇園祭りのメインイベントの一つである山車の巡
行が開催された。 私のように広島の山間部で育った人間には、何時見ても一種の羨
望がある。 反面、矢張り旅人なのだという何かしら祭りに溶け込めない違和感のよ
うなものを感じるのも、こうした祭りのときだ。 まあ、それは私だけのこと。 子
供や女房殿にとっては、別の感覚があるのだろう。 祭りとなれば、矢張り「面倒く
さい」と言いながらも、出かけるのである。

 そんな私であるが故に感じるのかもしれないが、どうも祭りに盛り上がりが無いよ
うに思えるのだ。 一つには、私の住む町内が「樽にわか」には参加していないこと
があるのかもしれない。 しかし、それだけでもないようだ。 昨年は、祭りの最大
のイベントである会場はなぎ大会が、悪天候を押して実施され市民の不興を買った。
 今年は、前夜祭の民謡流しが雨のため順延の無い中止になった。 最終日の花火大
会も天候に係らず実施するそうだ。 どうも、この辺りに盛り上がりに欠ける原因が
あるのではないか。 企画全体を統括するところがあると思うのだが、言って見れ
ば、フェールセーフの無い企画が実行されたようなものである。

 こうした有様を見ると、柏崎祇園祭そのものが、本来の祭りの意味を失った単なる
イベントに成り下がったのではないかとさえ思われるのである。 「祭り」には、そ
の地のアイデンティティを確認し継承するという機能がある。 言い換えれば、コ
ミュニティのゾレン(当為)、すなわち「あるべきこと」「なすべきこと」言い換え
れば、コミュニティの必然性として、「祭り」は機能すべきものではないだろうか。
  私のような旅の人でも長く住めば、愛着を感じる。 祭りの雑踏を歩いて、知人
に逢えば、日常とは異なる感情で、その人を見ていることに気付くのである。 「祭
り」という状況が、一種の共感を生み、「自分が、この地にある」という事実を再確
認させるのである。 例えば、別の地で「柏崎のことを悪く言われると不快感を感じ
る」、そんな感情を生むのである。

 市町村が合併し新しい市町村が生まれても、直ぐには、その市町村に対する帰属感
あるいはアイデンティティは生まれない。 そこで機能するのが「祭り」ではないだ
ろうか。 明治初期、行政地区が再編された。 現在の町村合併以上のインパクトが
あった。 しかも、明治政府が確立されるまで、行政区画は短期間で二転三転してい
るのだ。 これだけの激変の中、地域がそれ程の混乱も無く、地域としてのアイデン
ティティを保てたのは、「祭り」ではなかったかと考えるのだ。 そうした視点で見
るならば、60年から70年の周期といわれる「ええじゃないか」や「お陰参り」も
「祭り」である。 「祭り」は、社会が持つ調和の為の仕組みであり、一種の社会的
安全弁の機能でもある。 例えば、勝小吉の『夢酔独言』に、こんなエピソードがあ
る。 「江戸の誰それの所縁の者(恐らく、講)といえば、食事から宿泊まで、それ
に多少の旅費まで都合してくれる」と。 「祭り」には、庶民の間で自然発生的に完
成した秩序があり、一種の機構としての統制があったと考えるのだが飛躍だろうか。

 柏崎祇園祭の少し寂しい喧騒を見て、そんなことを考えてしまった。

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梶谷恭巨
 江戸後期における学塾、特に私塾の在り方は実に興味深い。 前回の「久啓舎」の
例を見ると、師匠である古賀謹一郎は、幕臣であり、蕃所調所頭取の職にあり、相当
に多忙であるため、「久啓舎」に顔を出すことは稀であったようだ。 そこで、塾生
の学習は、自習あるいは輪読が中心だった。 ただ、塾生と言っても年齢は少年から
熟年まであり、中にはその分野で一家を成す塾生もいたようで、そうした塾生を中心
にセミナー(ゼミナールと言った方が雰囲気に合うように思えるが)方式で勉強して
いたのではないだろうか。

 余談だが、大学時代、(学習院が特殊なのかもしれないが)、学塾形式の痕跡のよ
うなものが残っていた。 正規の学科ではないのだが、経済研究会では、教官は参加
せず、学生が自主的に輪読とセミナーを実施していた。 時には、セミナーの合宿が
あり、新潟県の妙高高原にあるセミナーハウスで一週間の詰め込みセミナーをした経
験がある。

 要するに、「久啓舎」は塾生の自主運営だったのではないだろうか。 ところが、
河井継之助が江戸遊学で最初に入塾した斉藤拙堂の塾では、少々様相が異なっていた
ようだ。 例えば、こんなエピソードがある。 斉藤拙堂と勝海舟が激論したことが
あるそうだ。 さて、何についてだろう。 この激論を傍で見ていた塾生の中に、小
林虎三郎と吉田松陰が居たそうだ。 両者は斎藤塾の「二虎」と言われたそうだか
ら、もしかすると、彼らだけ陪席許されたのかもしれない。 この様子をイメージす
ると、「久啓舎」とは異なるようだ。 しかし、斉藤拙堂も元は昌平黌の教官であり
幕臣であったが、後には、津の藤堂藩の藩儒として藩校「有造館」督学(教頭に当た
るのだろうか)になった。

 当時の著名な学者には大抵パトロンが居た。 単なるパトロンとの関係(パトロ
ネージ)というより、多くが雄藩の藩儒として出仕している場合が多い。 その上
で、尚かつ私塾も開いている。 すなわち、大抵「二束のわらじ」なのだ。 さて、
こうした状況を考えると、著名な私塾と言うものは、一種の全寮制の大学院と内弟子
制度の融合したものとも思えるのだ。 イメージを飛躍させると、西欧の大学の場面
が浮んでくる。 例えば、ドイツでは、教官の移動と供に学生も移動したというか
ら、もしかすると、教育の在り方を追求していくと、一種の塾のようなものになるの
かもしれない。

 ところで、「セミナー」あるいは「ゼミナール」という教育の形式は、19世紀後
半にドイツで生まれた方式だ。 それが、英国や米国の大学に広がった。 因みに、
「Seminar」の英語の語源は、「Seminary」神学校に由来するのではなく、先に書い
た通り、ドイツの「指導教授の下で特殊研究をする大学の」研究グループ、すなわち
スペルも同じ「ゼミナール」である。

 取りとめもなく書いてきたが、江戸後期の高等教育には、二重構造があるのではな
いかと考えるのだ。 「建前と本音」というか「公式と非公式」が、幕藩体制の公的
最高学府である昌平黌でさえ、不可避な状況に在ったのではないだろうか。 その現
われが、松平定信の「寛政異学の禁」ではないかと思われる。 それを提言したの
が、「寛政の三博士」、すなわち古賀精理・尾藤二洲・柴野栗山だが、それぞれに朱
子学を至上のものとしたにしては、この三博士、柴野栗山を除けば、その後が余りに
も意外である。 古賀精理は佐賀の弘道間を創設し、尾藤二洲は叔父として、頼山陽
に多大な影響を与えるのだ。 この両者を単純に朱子学者ということが出来るだろう
か。 只、いずれにしても、塾による私的学統が継承されて明治維新の背景になっ
た、あるいは原動力になったということが出来るのではないだろうか。

 最近では、塾と言えば所謂「学習塾」のことだ。 その「学習塾」でさえ、子供た
ちいわせれば、学校の教師に対するより、余程親近感を持つという。 まあ、それは
別の次元の事として、過っての「塾」の在り方を見直す必要はないだろうか。 松下
政経塾は措くとして、「塾」の必要性を考える人が居ない訳ではない。 柏崎の創風
システムの石塚氏は、そういう塾が創りたいと過日私に相談された。 それが、「創
風塾」なのだが、様々な事情から頓挫してしまった。 実に残念である。 しかし、
恐らく、同様のことを考える人は多いだろう。 今、新たなる断絶の時代。 今こ
そ、「塾」の在り方を、見直すべきではないだろうか。

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梶谷恭巨
 幕末、「お陰参り」、あるいは「ええじゃないか」が、まさに降って湧いたように
発生する。 アルフレッド・T・マハン(Alfred Thayer Mahan)は、日本来航の年
(1867)、兵庫(神戸)でこれを目撃した。 彼は、当時、米艦「イロコイ号」
に副長(少佐、Lieutenant Commander)として乗艦していた。 余程「ええじゃない
か」が印象に残ったのだろう、翌年1月2日付の母親、更に1月13日の妹への手紙
に、このときの模様を、「まるで、本で読んだことのあるラテン・アメリカのカーニ
バルのようだ」と書き送った。 因みに、彼には、「ええじゃないか」が、「You're
a nigger, He's a nigger」と聞こえたようである。 文面からは、むしろ楽しんで
いるように読み取れるのだ。 ところが、これが、アーネスト・サトウになると、全
く見方が変わってくる。 慶応3年(1867)12月に、冷静に観察した客観的記
録を残している。

 ところで、この「お陰参り」とは何なのだろうか。 最初の記録は、元和3年(1
615)とあるが、その後だいたい70年の周期で最後の慶応3・4年までに7回発
生しているだ。 しかし、それぞれに予兆のようなものがあったのではないだろう
か。 例えば、勝小吉(勝海舟の父親)は『夢酔独言』の中で、無断で江戸を出奔し
た模様を書いているが(11歳と21歳の時)、ひしゃく片手に伊勢参りと言えば何
処でも往来できたし、江戸の何某(恐らく、講の主催者だと思うのだが)の名前を挙
げると、旅費まで出してくれたそうだから、お伊勢参りが一種の社会的安全弁として
機能していたのではないだろうか。 また、それが「お陰参り」として爆発するの
は、安全弁の許容範囲を超えた何事かが発生していたからではないだろうか。 例え
ば、慶応3年は、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)」勃発の年なのである。

 ただ、最後の「お陰参り」には、薩長による謀略説がある。 定かではないが、そ
の首謀者として名前が挙がるのが、薩摩の益満休之助だ。 江戸の御用盗や薩摩屋敷
放火事件も、実は、益満による謀略であるという説まである。 確かに、世情が不安
定で、文政13年の「お陰参り」では、約三ヶ月でおよそ500万人(当時の人口の
約6分の1)が伊勢に殺到したという事実を知っていたとすれば、この対幕府謀略は
極めて有効である。 謂わば、「プロパガンダ戦略」だが、これは決して現代的戦略
ではない。

 余談だが、孫子を始めとする兵学書は、本家である中国では度重なる戦乱で、その
多くが失われていたそうだ。 (明治の廃仏毀釈の時、多くの漢文学関連書籍が放出
されたそうだ。 その時、清朝政府は、それを大量に買い求めたと伝えれている。)
 その為、兵学あるいは軍事学・戦略戦術論の理論的体系化が行われなかった。 し
かし、日本では、兵学が一つの学問的体系として確立した。 その代表的な兵学者
が、山鹿素行だ。 有名になるのは、赤穂浪士の討ち入り事件で、大石内蔵助が山鹿
流兵学に基き陣立てを行い、指揮したことだ。 そして、幕末には吉田松陰が、家学
である山鹿流兵法を継承し、藩主にその講義を行っている。 西欧に比較すれば、山
鹿素行(1622-1685)が兵学を体系化したのが、西欧的戦略論の開祖とも云
われるクラウゼヴィッツ(1780-1831)やジョミニ(1779-1869)
より、150年も前のことだから驚きである。 付言すれば、日本海海戦(日露戦
争)の作戦を立案した秋山真之は、「多くを山鹿流兵学と小笠原家に伝わっていた能
島水軍の兵学書にヒントを得た」と伝えている。

 本題に戻る。 「お陰参り」は、閉塞した社会環境の中で庶民のストレスが爆発し
た現象と言えないだろうか。 そこで、比較するのが、米国の「大覚醒運動(The
Great Awaking)」、あるいは「信仰復興(Revival)」だ。 有名なのは「ノーサン
プトン・リヴァイヴァル」と呼ばれるコネチカットに発生した「大覚醒」(173
0・40年頃)で、ジョナサン・エドワーズの説教が切っ掛けとなったと云われてい
る。 また、南北戦争の前年頃に、テネシー・ケンタッキー辺りでも大規模な「大覚
醒」が発生している。 「お陰参り」とに似ているのは、老若男女、人種を問わず、
ある日突然に大群衆が形成され、平和的な大熱狂が生まれるのだ。

 「お陰参り」と「大覚醒」には、以前から興味があり文献を探してきた。 イン
ターネットが使えるようになって、資料も入手し易くなったのだが、未だ確信を得て
いない。 一時期は、「進化生物学」や「スウォーム・アルゴリズム」に解答を求め
たが、結論を得ない。 ただ、1つ気になることがある。 安定した社会的場に、新
しい価値観のような文化的特異点が生まれる、あるいは移入されると、「場」は安定
を求めて、急激な回帰現象を生むことがある。 例えば、宗教的原理主義運動が、そ
うではないかと考える。 過っての学生運動も、そうではなかったのではないだろう
か。 そこで、昨今の様々な事件、何かの予兆と考えるのだが、杞憂だろうか。  

Best regards
梶谷恭巨


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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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