柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
さて、年が改まって何を書くか、そんな事を考えていたら来客があった。 昨年、改めて紹介された昔から知人である。 まあ、その内容は措くとして、改めて確認したのは、現在を生き、そして将来を考える上で重要なのは、人あるいは社会における歴史、言い換えれば「必然性」としての歴史観の必要性だ。 以前から柏崎について、先ず語ってきたのは、その必然性としての歴史に裏付けられた愛すべき自然と環境だ。 外来の人間から見れば、ここ、あるいはこの地域ほど恵まれた地域はないのではないかと考えている。 ましてや、子が生まれ、その成長を柏崎という環境の中で見つめてきた10余年、その思いは募るのである。 昨年機会を得て、地域史を私なりに考えてきた。 驚くのは、その広がりである。 発展する地域には、それなりの歴史的背景がある。 それは承知のこと。 しかし、その広がりまでは予想していなかった。 ところが、どうであろう、調べてきた歴史は、今や海外へまで広がろうとしている。 その起点が、私の場合、柏崎であったことは、既に述べたとおりだ。 現状(今追いかけていること)を言えば、緒方洪庵から始まる、その子弟・師弟の関係だ。 その中で興味ある事実に行き当たった。 明治の医学史上、有名な論争がある。 「脚気」問題。 まさかとは思っていたが、日露戦争の結果さえ左右しかねない問題だ。 その根源に、越後の医学史あるいは洋学史が関連していた。 少々横道に逸れるが、この問題の背景に関連するので、緒方洪庵の適塾(適々斎塾)について触れる。 緒方洪庵の適塾に学んだ越後人は11人、内、その足跡を追えるのは、現在のところ4人、その内の一人「鈴木玄斎」は、会津の人(後に重要になる)。 参考の為に、適塾の門人録にある越後出身者を列挙する。 (1)鈴木玄斎 : 会津藩、どういう経緯で越後に分類されたのかは不明。 推測だが、小千谷との関連があるかもしれない。 小千谷は天領だが、会津藩の預かり地。 思い出したが、六日町も会津領だった時期がある。 吉見乾海 : 会津亡命後、海軍兵学校12期、明治19年卒業し、その後、兵学校校長など旧海軍の重責を担い大正4年中将のとき予備役、その後、海城中学校校長(理事長)。 そして、その子息・海軍少将・吉見信一は、明治27年、父・乾海が兵学校教官当時、江田島に生まれ、広島中学校(一中・現国泰寺高校)から、祖父の影響か岡山医専を受験合格したが、父の意志を継いだのか海軍兵学校(43期)に入学、二つの大戦を経 (5)小林準硯 : 不詳、ご存知の方があれば御教授されたし。 さて、この適塾が関連するのが「脚気」問題なのだが、その一方の立役者が、石黒忠悳(ただのり)・森林太郎(鴎外)なのだ。 すなわち、後者、石黒・森(共に陸軍軍医総監)は、「脚気」の原因を細菌説に置き、慈恵会を設立する高木兼寛(海軍軍医総監、熊本出身)や緒方洪庵の子息・惟準(これよし、平三、軍制確立前の軍医監など)の食生活説と対立している。 但し、石黒忠悳は、後に、細菌説を否定するが、森林太郎は、死ぬ いずれにしても、我々が生活する現在の背景には、膨大な人の繋がり、言い換えれば歴史がある。 今、柏崎あるいは近隣の地域を考える場合、現世の対立の構図を認識する為には、先ず、その原点である歴史に立ち返る必要があると考えるのだ。 その一例が、「脚気」問題ではないだろうか。 しかも、その一方の原点が、越後にあり、蘭学・洋学の歴史に見出されるのだ。 しかも、藍澤南城を始めとする江戸期共通言語である漢学を背景にしているのである。 (藍澤南城が敬愛した片山兼山は、熊本藩で確か6年ほど教えている。) 余談だが、日露戦争の激戦、黒溝台の戦いで勇名を馳せる第8師団長(弘前)・立見尚文は、戊辰戦争で桑名軍を率いて、官軍を悩ませた「立見鑑三郎」その人である。 そして、その勇将を悩ませたのが兵力の維持、脚気問題なのだ。 因みに、日清戦争後における陸軍の「脚気」罹患者数は4万人強、死亡者は約4千人、日露戦争後における死亡者は約2万8千人、実に、3個師団に近い数字なのである。 更に余談。 緒方洪庵の適塾を調べていて気付いたことだが、手塚治虫の曽祖父・手塚良庵が適塾の出身者であることは有名だが(福沢諭吉の『福翁自伝』に逸話が残る)、水戸徳川家の藩医であったことを失念していた。 そこで、茨城県の適塾出身者を調べてみると、6名の登録がある。 以下の通り。 松本良介、手塚良庵、金子壽活、飯田良節、田上周道、岡部同直、以上だが、先頭の松本良介が気になる。 松本良順との関係だ。 他の人物も調べて見たが不詳。 余談が長くなった。 今回は詳細を省くが、石黒忠悳は、17歳の時、越後片貝(池津)で私塾を開いている。 僅か17歳で郷党の名士になり、勤皇の志士として、各地に遊説し、同志を募っている。 柏崎の原修斎、粟生津の鈴木文台が同調している。 その拠点となった石黒塾は、漢学の塾なのである。 因みに、医学を目指すのは、未だ後のことだ。 長くなった。 この辺りの話、また改めて書くことにしよう。 『柏崎通信』426号(2007年1月10日)から転載 さて、前回は、「入澤達吉」から発展したのだが、これが改めて調べてみると、実に面白い人の繋がりがある。 先ず、前回紹介した「杉本東造」が新潟出身。 そこで、この線を更に追ってみた。 杉本東造の詳しい出身地は不明だが、多少の記録がある。 先ず、東大医学部を明治35年に卒業している。 また修善寺療養時代、しばしば診察を受けている。 漱石の書簡を調べてみると、本人への書簡(はがき)は無いのだが、文章中に2回ほど登場する。 一回目は明治44年3月27日(月)、二回目は大正3年1月14日(木)の長与胃腸病院の医師・森成麟造への書簡にある。 最初の書簡では、どうも文面から察するに杉本医師が長与胃腸病院を退職して、新しい職場へ移ったと取れる。 もしかすると、入澤達吉の関係で満鉄病院へ転職したのかもしれない。 二回目の書簡に、「杉本さんは帰ってきましたね私は音楽会で一遍電車の中で一遍会いました然し患者としては交渉がありません。まあ仕合せなんでしょう(せう)」とあるところから推測するのだが。 余談だが、漱石は相撲が好きだったように見受けられる。 先の続きに「柏戸は本場所を休んでい(ゐ)ますね」とある。 さて、ここで新しい人の繋がりが伺える。 杉本博士は、漱石の主治医であったようだが、書簡の宛先・森成麟造が、その後を引継いだか、あるいは、入院時の実際の担当医であったように推測できる。 また、森成医師への書簡が多い(本人宛:14通、登場:4通)。 森成医師は、明治40年仙台医専卒業後、長与胃腸病院に勤務している。 ところが、この森成医師も新潟の出身なのだ。 しかも高田であり、後に同地で開業している。 そこで調べてみると、更に興味ある事実が判った。 森成麟造は、上越地方における考古学の先駆者だった。 その事が、上越市の『市史のひろば』156号に記載されている。 それによると、没後、遺族から「考古資料コレクション」が寄贈さてている。 詳細は省くが、森成医師は、文学青年であったようで、夏目漱石に感化され、自分でも『草履日記』なる小説を書いている。 これもまた不思議な縁というべきか。 書簡の多さが、それを物語っているようだ。 因みに、先に上げた大正3年の書簡は、森成医師が贈った海老と笹飴への礼状である。 尚、笹飴は、上越の名産、現在でもお土産として販売されている。 以前、漱石と新潟の関係を調べたことがある。 その時は、視点が違っていた。 むしろ、作品の中の登場人物、例えば『こころ』の先生などを追いかけたのだが、今回は、全く別の視点、新潟における幕末・明治の医学史あるいは医師の相互関係の視点から調べた。 それが、図らずも繋がったのである。 勿論、漱石研究者らの諸賢は、既にご存知のこととは思うのだが、素人目から見れば、人の繋がりの不可思議を感じざるを得ないのである。 歴史を単なる時間軸上の事実と捉えれば、まさに無味乾燥、何ら感動を覚えない。 しかし、人の繋がりを追及すれば、歴史が、まさに色付いてくる。 イメージが鮮明になり、登場人物が生き生きと動き出す。 何とも感動的だ。 思うに学校教育における歴史も、さあるべきではなかろうか。 閑人の戯言と言われれば、ただそれまでのことなのだが。 『柏崎通信』(2006年12月22日)425号より転載 以前、388号(06年9月29日)「大橋図書館について」で、「入江達吉」と書いたのが、これは「入澤達吉」の間違いであった。 訂正して、お詫びする。 さて、それではと言うのではないが、入澤達吉について改めて書くことにする。 尚、ブログ『柏崎通信』には、同文を訂正して転載する。 先ず、参考に為に、その時書いた「入澤達吉」の部分を転載する。 「入澤達吉は、現在の見附市今町の出身(名誉市民になっているようだ、1871年、慶応六年生)、近代日 本内科学を確立した。 13歳の時、東大医学部予科を卒業したと言うから、その天才振りが想像できる。 また、森鴎外との縁も深いようだ(25歳の時、4年間ドイツ留学)。」 偶然、入澤達吉に出会ったのは、夏目漱石を調べていた時だった。 漱石は、胃潰瘍を患い明治43年6月から翌年の2月まで、長与胃腸科病院に入院している。 この辺りの事を『思い出す事など』をいう随筆に書いている。 その注釈に「入澤達吉」が出てくる。 注釈によれば、入澤達吉は、胃腸科の名医として名が高く、旧友らの発案で、漱石の診察を依頼した。 余談だが、満鉄病院に在籍していたようだ。 ところが、長与病院院長である長与稱吉(称吉)が危篤状態にあり、代わりに、当時麹町区永楽町にあった永楽病院院長の宮本叔(はじめ)が療養先である修善寺に往診したとあるのだ。 因みに、長与称吉は、長与専斎の長男。 長与専斎は、最初、緒方洪庵の「適塾」に学ぶが、ポンペ・松本良順による長崎(小島)医学所が開設された折、洪庵の命により嫡子・三平(惟準)と共に、医学所に派遣されている。 その後、この医学所を引き継いだのも専斎だった。 この辺りの人の繋がりは、実の興味深い。 後日、改めて書くことにしよう。 尚、この辺りの事情は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に詳しい。 ところで、その入澤達吉は、司馬遼太郎の『峠』にも記載があるのだ。 入江達吉は、随筆家でもあったようだ。 『峠』には、その随筆『加羅山随筆』からの引用がある。 佐倉の順天堂・佐藤尚中(たかなか、舜海)らが中心となって構成された「明治医学会」にいた書記の話だ。 田中稔という。 今町口の戦いで、銃士隊隊長として活躍した。 その話なのだ。 詳しくは、『峠』の「八町沖」の節を参照されたい。 更に、『峠』の中に、松本良順が、河井継之助を診察するエピソードがある。 松本良順は、佐藤泰然の長男、佐藤舜海とは義理の兄弟に当たる。 長与専斎は、泰然の門人であり、尚中とは兄弟弟子の関係にある。 何とも不思議な縁ではないか。 しかも、入江達吉は、慶応6年生まれだから、戊辰戦争当時のことをある程度記憶している。 その入江達吉が、明治33年ごろ、田中稔のことを知るのである。 序でに書けば、漱石の『思いだすこと』に長与病院の副院長・杉本東造が、修善寺に往診したとある。 この杉本東造が、新潟県の出身なのだ。 著作に『胃腸の新しい衛生』がある。 昭和2年出版とあるから、当時(漱石往診時)、若手医師として既に名を成した人だろう。 因みに、漱石の明治43年10月11日の『日記』に次のような一文がある。 尚、この日は、漱石が東京に帰る日であった。 「入院故郷に帰るが如し。 修善寺より静かななり。 面会謝絶、医局の札をかかげたる由。 壁を塗り交へ畳をかへて待つていると杉本氏の言葉はまころなり。 落付いて寝る。 電車の音も左迄ならず」と。 いずれにしても、幕末前後を起点とするこの人の繋がりには驚くのである。 複雑、これは矢張り図式化しなければなるまい。 『柏崎通信』(2006年12月21日)424号より転載 前回と同様、松本良順を調べていた。 良順は、明治になって初代の陸軍軍医総監になった。 実は、一度確認していたのだが、第三代陸軍軍医総監、石黒忠悳(ただのり)は、三島郡片貝村(現在の小千谷市)の出身で、幕府医学所の出身、すなわち松本良順の門人なのだ。 因みに、越後長岡周辺には、医学の近代化に貢献した人物が多いのだ。 例えば、入澤達吉がいる。 入江達吉は、現在の見附市今町の出身(名誉市民になっていたようだ、1871年、慶応六年生)、近代日本内科学を確立した。 13歳の時、東大医学部予科を卒業したと言うから、その天才振りが想像できる。 また、森鴎外との縁も深いようだ(25歳の時、4年間ドイツ留学)。 石黒忠悳は、その後、貴族院議員・第四代日本赤十字社長を歴任し、子爵に叙せられている。 実は、この石黒忠悳が、大橋図書館の初代館長に就任しているのだ。 それでは、大橋図書館とは何なのだと言う事になる。 大橋図書館は、長岡出身で、明治の大手出版社「博文館」の創設者大橋佐平が、明治20年、財団法人として設立した。 大橋家の家訓「大橋共全会規約」に、その趣旨があるので紹介しよう。 「大橋図書館は中興の祖奉公の宿志を遂ぐる為め左の趣旨(設立趣旨)を以って設立たる者なるを以って大橋家の子孫は該財団法人の協議員と共に永遠に其大成を期すべし。・・・・」とあるように、その意気込みが伺われる。 因みに、その趣旨をは、図書・雑誌の出版で成功した博文館の利益を社会に還元する、と言うものであった。 また、設立にかけた資金は、大橋家の資産の4分の1(125000円)であったと言うから、驚きである。 その後も、大橋家次代は、図書館の充実に多大な寄付をするのだが、関東大震災で全壊、再建の為に、25万円を基本金として寄付し、昭和15年には、図書館の資産が150万円に達したと云う。 更に、この財団(大橋家)の社会的貢献は続き、博文館記念日等祝事の毎に、各大学の図書館への図書購入費援助や、金沢文庫の復興には、神奈川県知事と「神奈川県の径庭として永久に維持する事」と契約書を交わし、資金援助から物品・備品の購入まで援助したというのである。 その後、図書館長は、石黒忠悳の枢密顧問官就任に伴い、加茂市出身で東京専門学校(早稲田)の学生時代から博文館に勤務していた坪谷善四郎に引き継がれた。 坪谷善四郎は、博文館の取締役・編集長の傍ら、現在の日比谷図書館の設立に貢献している。 因みに、大蔵喜八郎も同郷と言うこともあり、大いに支援したそうである。 いずれにしても、博文館大橋家の社会への貢献は、現在、経団連が策定した『企業憲章』における企業倫理(CSR、企業の社会的責任)の手本とでもなるべきものではないだろうか。 先週日曜日の日経文化欄は、国立国会図書館の電子化の問題を採り上げていた。 遅々として進まない電子化の問題である。 私は、電子図書館サービスが開始された当初(平成15年辺り)から利用登録しているのだが、このサービスは、全く不親切・不十分・不完全、更に、特定の情報に関しては、有料で、しかも高額なのだ。 例えば、学会誌の検索など、題名とサマリーのみので本文を見ることが出来ない(一部可能、徐々に公開か?)。 しかも、利用条件として、認定学会のメンバーであることを要求される。 私のように、個人の研究者には経費的にも利用が難しい。 そんな訳で、むしろ、米国の国立アーカイブ(文書館)や公的機関、あるいは各大学のデータベースを利用している。 日本の文献を探す場合でも、米国から調べた方が良いのだから、あきれてしまう。 ただ、国立国会図書館は、世界にも珍しい立法府に所属する図書館だ。 調査、特に文献の調査に関しては、優れている。 公開されないが、国会図書館調査月報は、充実していた。 学生時代、フリーパスを貰っていたので、大いに活用したものである。 言語と言う障壁があることは分かるのだが、技術は既に問題を解決する域にまで達している。 ペンシルバニア大学だったか1大学から始まった、「グーテンベルク・プロジェクト」は、私が加入した15年前(CDで供給されていた)から年々拡大し、今では、世界規模のプロジェクトになっている。 それに公開で、参加者を拒まない。 最近、ダンテの作品をダウンロードしたのだが、その時、確か50万冊以上が電子化され、約2万冊のEブックが閲覧できると記憶する。 (ただし、検索の仕方によっては、大抵のEブックに到達できる。 尚、公開で問題になるのが、著作権であるようだ。) しかし、これは一例に過ぎない。 技術的最先端にある日本が、むしろ、先進国中最後進国であるというのは如何なものであろう。 情報が世界を制する時代、我が国の状況は、背筋に寒気を覚えるほどだ。 「プロジェクト・グーテンベルク」は、一大学の提唱に始まり、企業の支援で広がった。 過って、大橋佐平の社会への貢献は、我が国の図書館の在り方の基本を作った。 柏崎に住みながら、あるいは長岡や六日町に棲んではいたが、今現在のことには全くの無知、最近、様々な情報が通り過ぎていくのだが、必然性と言える歴史も、可能性としての未来のビジョンも、聞こえて来ない。 これでは、キルケゴールの『死に至る病』ではないか。 まあ、異邦人の戯言、ご容赦あれ。 『柏崎通信』(2006年9月29日)388号から転載 青島氏が亡くなった。 調べてみると、1932年生まれと言うから、15歳年上である。 我々団塊の世代にとって、何かに付け印象に残る人だった。 特に、直木賞受賞作『人間万事、塞翁が丙午』は、印象に残る。 新潟に来た翌年の受賞作だ。 柏崎マイコンスクールの仕事も順調とは言えず、昼は、ほとんど来ない生徒を待って暇を託ち、午後遅くなれば、小学生相手の塾の講師、夕方からは高校生の家庭教師、それが終わればスナックの厨房で働く(午前中には仕込みをするのだが)。 着たきりスズメで柏崎に着たので、住む所も侭ならず、ましてや本を買うこともできない。 そんな時に、読んだのが『人間万事、塞翁が丙午』だ。 鬱屈した気持ちを慰めてくれる笑いがあった。 TVの番組など関心が無かったし、見る暇もなかった。 そんなことで、この小説は、青島氏を見直す好い機会でもあった。 そう、ある意味、その作品の笑いの効用に感謝さえしているのだ。 振り返ってみると、当時、諧謔というのか、ブラックユーモアとでもいうのか、そんな笑いが流行していた。 余り読まなかったユーモア小説を、と言っても、せいぜい井上ひさしの小説ぐらいだが、よく読んだものこの時期だ。 そうそう、井上ひさしの『モッキンポット師の後始末』を読んだのも、家庭の事情で広島に帰り、生命保険、ジャノメのセールス、百科事典緒の営業をしていた時期だ。 人間、塞いだ時には、笑いを求めるようである。 さて、今の時代は、どうだろう。 お笑い番組が全盛かに見える。 しかし、どうも疑問を持つのだ。 「諧謔」などという高尚なセンスなど微塵も感じない。 何かしら、底の浅い「哂い」のみ。 どこか嘲笑に似た響きがあり、臭いがする。 退廃の時代の「ワライ」なのだろうか。 青島氏、逝去のニュースを聞き、昔の「笑い」を想いうかべた。 「ああ、人生、人間万事、塞翁が丁亥(ひのとい)」と。 青島幸雄氏の御冥福をお祈りします。 (12月20日)『柏崎通信』423号から転載
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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