柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
『柏崎発、学際ネットワーク』や『柏崎通信』で、何故に歴史を書くのか、あるいは、その言わんとするテーマは何かと聞かれた。 そこで、今回は、引用など交えず、自分の言葉として「歴史」について書いてみたい。 私は、歴史というものを年表的事実の羅列ではなく、人間社会という場が、安定を求めた運動の軌跡であり、その帰結としての現在を起点とした未来への軌道であると考えてきた。 社会は、人と人の繋がりによって構成される。 そして、人と人との繋がりは、刹那的コミュニケーションの積み重ねによって形成される。 しかし、コミュニケーションは、単なる人と人とを繋ぐメディアや機能ではありえない。 相互に交わされる事実、あるいは発信者が事実と確信する事実は、口から発せられた瞬間に全く別の存在となる。 受取手の知覚を経て、その頭脳に至れば、発せられた事実とは全く異なる受取手の事実へと変貌する。 それ故、事実あるいは事象のみで社会を語ることは出来ない。 同様に、「歴史的事実」は単なる無機質的記録としての事実ではなく、「ある時代の人と人の繋がりから生じる事実とそれに付帯する事象の総体」であると考える故に、「歴史」とは、その集合あるいは総体の連続した軌跡と継続される軌道であると考える。 そして、過去の記録の中に埋没した事実を発見し、その中から、人と人との繋がりを解明して、現在への道程を追及し、更に、未来への最適経路を発見するのが「歴史学」だと考えるのである。 言い換えれば、先ず、人と人の繋がりがあり、そこに「思惑と思惑のせめぎ合い」が生まれ、その個々の「せめぎ合い」が集まって「社会現象」が生じ、それが時間の経過によって「歴史的事実」として認識され、更に累積されて「歴史」が成立すると考える。 そして、記録を頼りに、その「せめぎ合い」を解読し、現在への繋がりを究明して、未来への方向性を「今」探求するのが「歴史学」と考えるのである。 このように考えると、歴史を明確な図式として捉えることができる。 ところが、記録に完全性を求めることは出来ない。 ましてや人の書き残したものである。 そこで、時間を越えた「せめぎ合い」が生れる。 これが問題を複雑にする。 解決の方法の一つとして、記録者・作者の背景や周辺の人間関係を求め、生活感覚をイメージし、場合によっては感情移入して、追体験をする方法がある。 敢えて言えば、「誰それなら、どう考えるだろう」と。 こうすれば、少なくとも、記録者・作者との「せめぎ合い」を軽減し、彼らの視点から周辺を見渡すことを容易にする。 勿論、仮想の上に仮想を積上げるのだから、事実とは程遠いものになるかも知れない。 しかし、「今」の視点で追体験するも可能なのだ。 概して、人は、自分自身が歴史を創り、死に至るまで創り続けている事を意識しないものである。 自分自身がそうであれば、三代も前の事になると、もう闇の中に違いない。 先人の余慶に生きながら、その苦楽甘酸の歴史は忘れ去る。 現実の生活の中では、中央の歴史は何程の意味も持たないかも知れない。 地域の歴史にしても、「我家」に無関係であれば、興味も湧かないだろう。 しかし、その時代を生きた人々は、その時代を 無縁だった歴史上の人物でさえ数代前の縁者であり、今身近に居る他人さえも何代か前に分かれた縁者であるかも知れないのだ。 このように考えれば、歴史ほど身近なものはない。 その歴史を「人の繋がり」として「今」に追体験することが出来なら、これ程楽しい事はないのである。 人の心は豊かになり、地域社会にはゆとりが生れる。 「歴史」とは、そういうものであるべきではないか。 そんな事を考えるのである。 先の回で石黒忠悳について、幕末の新興下級武士の方が、むしろ門閥の武士よりも武士らしいと書いた。 しかし、これは一面的見方だったようだ。 しばらく前に、『武士の家計簿』という本が話題になったことがある。 加賀前田藩の御算用者・猪山家の幕末期二代に亘る家計簿や書簡を基にして、茨城大学の磯田助教授(当時)が幕末明治の武士の生活史である。 御算用者というのは、前田家の主計官(経理課員)というところだろう。 多少ニュアンスは異なるが、幕府代官の手代であった平野家(石黒)と似たところがある。 石黒忠悳の『懐旧九十年』には、それらしき記述はないのだが、和算の学習も何処かでしていたのではないだろうか。 あるいは、父親が指導したのかも知れない。 それを裏付けるのではないかと思われるのが、17歳で開塾した時の授業内容ではないだろうか。 経書や習字はさて置くとして、算術を教えている。 余談だが、習字については苦労している。 当時の公用書体は「御家流」で、石黒忠悳が習った書道とは異なっていた。 その為、「御家流」を改めて習っているのだ。 先回書いた屋根釘のエピソードも、考えなければならない。 平野順作(忠悳の父)は、一代で手代になり、亡くなる時には、500両の蓄財があった。 文中にも、貸金の利息が数十両あったと書いている。 前田家では、庶民への金貸しは禁止されていたとあるから、平野家の貸金も同輩へ貸したものか。 いずれにしても、経理の才能がなければ、500両という大金を蓄財することは出来ない。 因みに、磯田氏によると、1両は現在の約5万5千円だが、生活感覚で言えば30万円になるそうだ。 500両は、前者で2千7百50万円、後者であれば、何と1億5千万円ということになる。 もっとも、江戸と金沢では、感覚に相違があるのかもしれない。 それに、関西圏に属する金沢は銀本位制だが、江戸は金本位制で、通常使う銭との換金率がかなり違っていることも考慮しなければならないだろう。 それにしても、大金である。 石黒忠悳が、父の死後、母と共に親戚を転々とし、母の死後も、悠々自適の生活を送れたことにも納得がいく。 それでは、屋根釘のエピソードは何を物語るのか。 成り上がり者故に、それだけ儀礼・格式を意識したのか。 母親の実家も、一代者とは異なるが、小録の御家人であることに変わりはない。 概して、自伝というものは虚飾が伴う。 その辺りの事を考慮しても、疑問が残る。 先回、家を購入・移築したことを書いた。 その広大さに驚いて、『武士の家計簿』を思い出し(NHKで放送した)、改めて読んでみると、先に書いたような次第である。 全く、当時の社会における金銭感覚が狂ってしまった。 単純には行かないと思ってはいたのだが、これは少々ショックである。 視点を変えて見直してみたい。 『柏崎通信』431号(2007年1月22日)より転載 どう言う訳か、もし放送されれば見たいと思う番組を偶然見ることがある。 その一つが、NHKの「週刊ブックレビュー」だ。 しかも今日の特集は、『ローマ人の物語』、塩野七生氏だった。 シリーズが始まって15年、年一回の出版で、今回が最終巻、読者としての感慨がある。 この本が出版された時、それまでの女史の作品から、何かを予感していた。 その何かは、冒頭の「読者へ」の文中で明らかになる。 「知力では、ギリシャ人に劣り、体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、技術力では、エトルリア人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣るのが、自分たちローマ人であると、少なくない史料が示すように、ローマ人自らが認めていた」と。 15年前、私自身一つの転機にあった。 才能は、人に及ばず、技術は全力を挙げても追随するのみ、年齢は不惑に達すれど、迷いは尽きず、体力には限界を感じていた。 そういう時期に、この本と出遭ったのである。 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』やトインビーの『歴史の研究』にない近親感、中国の十八青史にはない躍動感、歴史小説とは異なる俯瞰性、そして何よりも、「今現在の自分に問いかける」何ものかが存在した。 巻を重ねるにつれ、その実態が姿を現す。 偶然だが、「週刊ブックレビュー」の初刊時のインタビュー、イタリア政府から勲章を受章したというその時のローマの自宅でのインタビュー、そして、今回のインタビュー、その言葉の端はしに、「ああ、この本は、歴史に残る名著になるだろう」という確信が生れる。 幾つかの語録を。 「何故、『ローマ人の物語』を書かれたのか」、「相手の事が全て解っていて、あなた、結婚しますか? ・・・」 書評など書ける才能もないが、先にも揚げた、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は堅苦しくて退屈だし、トインビーの『歴史の研究』は膨大過ぎて、なお検証の為の繰り返しが多いから全巻(25巻)など読めるものではない。 社会思想社の『トインビー著作集』でさえ全8巻もある。 最近、ブローデルの『地中海』を試みたが、これも10巻の大著で、この年になると根気がもたない。 そこに来ると、『ローマ人の物語』は、堅苦しさもなければ、押し付けもない。 それどころか、(全巻がそうだとは言わないまでも)、一気呵成に読むことができる大著である。 機会があれば如何だろう。 『柏崎通信』430号(2007年1月22日)から転載 最近は気の重くなるようなニュースばかりだ。 世の中、どうなっているのだ。 どうなるのだ。 何となく、人類の終末観を予感する。 昨日、久しぶりに木島さんと話した。 氏の日本海文学大賞受賞以来か。 「こうりゃあ、キルケゴールの死に至る病ですね」、こんな言葉が口をつく。 ナショナル・ゲオグラフィックのサイエンス・ライブラリーで、面白い試みをしている。 類人猿・原人の研究結果から、それぞれを人類学的特徴に基いて、俳優をハリウッドの特殊メイクする。 そして、その俳優をLAの街中に突然出現させ、街の人の反応を見る実験だ。 そこで、どの段階で、特殊メイクの類人猿あるいは原人を人類と認めるかというのである。 結論から言えば、ホモエレクトス辺りで、ある程度の時間が経つと、人類と認めるようだ。 実験そのものにも興味があるが、むしろ、関心を引いたのは、先人類が、何故に滅んだのかという事だ。 先人類あるいは原人が、生態系の上位に位置した時代は、ホモサピエンスの時代を遥かに超越するのだ。 詳しくは知らないが、現在の人類は、ジャワ島辺りの超巨大噴火による地球の寒冷化を生き残った僅か2000人から始まったそうだ。 世界規模の遺伝子(DNA)の調査で、それが判明したとか。 そして、その原形をとどめるのが、アフリカのカラハリ砂漠の居住する「サン族」だそうである。 食物連鎖のヒエラルヒーが何処かで狂ってくると、その生態そのものが滅びる。 生き残った生物があれば、そこに新たなヒエラルヒーが生れる。 頂点に立つ生物が、基盤になる下層の生物を滅ぼせば、頂点に立った生物の中でヒエラルヒーが構成されることもあるのかも知れない。 それが、今の人類であるということも出来るのではないか。 そんな事が頭をよぎる。 もう一つの考えからたが、「棲み分け理論」だろう。 種が生き残る為に、自然は一種の「フェール・セーフ・システム」を提供する。 生態系が分散され、種は外的内的要因による種の危機を回避してきた。 人類が民族として分散してきたのも、あるいは文明が同時多発的に生れたのも、一種のフェール・セーフ・システムではないのだろうか。 しかし、文明の発展と共に、あるいはグローバル化と共に、「棲み分け」は困難となった。 そして、ネットワーク社会化は、「棲み分け」そのものを崩壊させる。 飛躍かもしれないが、そんな構図が見えて来る。 このように考えると、「格差社会」は、一種の新たなる生態系のヒエラルヒー化の生んだ必然的帰結と見ることも出来る。 言い換えれば、人類の「危機が、今、そこにある」と言う事になるのではないか。 地域の崩壊も、その論理に従えば、何となく見えて来る。 国家の基底部を構成した地域が崩壊すれば、次に来るのは何だろうか。 これは、個々人の心の問題についても言える。 アイデンティティという人間存在の基盤を失えば、自我の崩壊を招くだろう。 もしかすると、キルケゴールは、それを「必然性と可能性の絶望」、言い換えれば「死に至る病」と捉えたのではないだろうか。 キルケゴールの時代、ルネッサンス・大航海時代を経て、封建制農村社会が崩壊し、グローバル化が進行し、一部では産業革命が生れている時代だ。 どこか、現在と似ているのではないか。 それでも、ヨーロッパ社会が崩壊することはなかった。 異種の文明、言い換えれば、新たなるフロンティが常に存在した。 「棲み分け」というフェール・セーフ・システムが機能したのだ。 誰だったか、ハッチントンだったか、日本を一つの文明圏とし、その特異性、すなわち、異種の価値観が混在することを許す寛容性に着目している。 別な表現を借れば、街角を曲がれば、あるいは、トンネルを抜ければ、全く別の文化が存在するのが日本だと云うのだ。 敢えて言えば、「汽水域文化圏」、私は、そんな表現をしてみた。 その日本の文化あるいは日本文明が、実は、内部から崩壊し始めているのではないだろうか。 そう危惧すのである。 少子化、犯罪の低年齢化、自殺の増加、企業倫理や指導者倫理の危機、それに、地方の崩壊が進行する。 鶏が先か卵が先か、それは分からない。 しかし、相互作用はあるのである。 昨夜、衛星放送で「クルーシブル(The Crucible、るつぼ、厳しい試練)」という映画を見た。 17世紀末におこった米国マサチューセッツ州セイラムの魔女裁判の話だ。 些細なことから集団ヒステリックが始まる。 200人近い村人が魔女として告発され、19人が処刑された。 マスコミの在り方によっては、その再現もあり得るだろう。 否、既にその観があるのでは。 因みに、この時の判事は、サミュエル・ホーソンの先祖。 作品『緋文字』の見方も変わるだろう。 まあ、そうは言っても、悲観的にはなりたくはない。 今年は、総選挙の年。 性善説を信じ、人類の未来を信じる者にとって、国・地域のリーダーたる政治家に、僅かでも期待を賭けたいのだが、果たして如何。 「草莽崛起」の言葉が浮かぶ。 『柏崎通信』429号(2007年1月19日)から転載 ここ半年ばかり、柏崎を例に取り近世・近代における人の繋がりを追いかけてきた。 歴史を単に時系列に従った事実の羅列ではなく、人の繋がりという視点から見ることにより、現在に還元できる何かを見つけようとしたからである。 ところが、この人の繋がりを追えば追うほどに、予想とは全く異なる歴史像が浮かんでくる。 しかも、その絡み合う糸は、思わぬ方向へ思考を導いていく。 今までは単に表面的な事跡を追っかけていたのだが、石黒忠悳(ただのり)という人物は実に興味深い。 弘化2年(1845)、今の福島県伊達郡梁川(伊達政宗出生の地)に生まれ、昭和16年97歳で没している。 幼名は庸太郎(つねたろう)、号を況翁という。 石黒氏の祖先は、御館の乱(謙信死後のお家騒動)で浪人し、現在の小千谷市片貝で帰農、その後、近隣の池津に住んだと云う。 その何代か後、次男に生れた父親(石黒子之助、後、平野順作・良忠)が、江戸に出て苦学し、幕府代官の手代・平野氏の養子になって、手代職を継いだ。 手代は一台限りだから、その一人子である庸太郎も苦学する。 父親が巻菱湖に書を習ったそうだから、その縁もあったのか菱湖の門人である中澤雪城に書を習っている。 因みに、「幕末の三筆」といわれた巻菱湖は現在の新潟市巻町の出身、中澤雪城は長岡藩士、一時期脱藩して江戸に出て、市河米庵(幕末の三筆の一人)に入門するが、後、巻菱湖の門人となる。 中澤雪城は、大変な奇人であった様で、その事が石黒忠悳の自伝『懐旧九十年』に詳しく書かれている。 況翁・石黒忠悳は、11歳の時、父親と死別、14歳で母親が没し、16歳で、父親の実家・石黒家を継いで平野姓から石黒姓を名乗る。 この間の事情も興味深い。 例えば、13歳の時、母の実弟・秋山省三の任地・信州中之条に転居していたが、母の死後(15歳の時)、思い立って江戸に出る途中、追分の宿で勤皇の志士・大島誠夫(のぶお)と会う。 意気投合して、同道して京に上る。 早熟の秀才といっても、若干15歳、それが一夜・夕食を共にし意気投合したからといって、京に上ろうと思うだろうか。 しかも、この大島氏が謎の人物。 京では、幕吏や刺客に追われるとして、戦々恐々、一日の在京で、逃れるように京を去る。 庸太郎(恒太郎)は、大島氏と別れ、中之条に帰るのだが、このことが勤皇攘夷思想へ傾倒する原因になるのだろう。 (ただその以前から、その傾向はあったようだ。) 前置きが長くなったが、石黒忠悳を考える場合、その幼年期・少年期は人格形成上重要である。 要するに、新興下級武士家庭の教育の典型が見えるのである。 当時の新興下級武士の家庭は、譜代の武士の家庭よりも、むしろ武士の家庭なのだ。 『葉隠』に見る古武士の精神を継承しているのではないだろうか。 こんなエピソードが書かれている。 安政3年(1856)8月、江戸は所謂「安政の大風(暴風雨)」に見舞われた。 前 そうした家庭に育った恒太郎(庸太郎から一時改名)が、片貝の石黒家を継ぐと、親類縁者や近在の自作農は、16歳の庸太郎を「江戸の紳士が帰ってきた」と持て囃した。 既に、地域の名士である。 村塾の助教などをするのだが、人の出入りが多く、17歳の時、新居を構える。 これがまた凄い。 参考までに紹介すると、玄関4畳、8畳の座敷は2間、6畳が1間、応接の為の茶の間が10畳、他に9畳の寝室、二階があり6畳が2 更に驚くのは、17歳(1861)の時、私塾を開いていることだ。 門人の中に、東洋大学の創設者・井上円了(1858-19191)がいる。 13歳年下だから井上円了は5歳前後で入門したことになろうか。 授業科目は、一般が、習字・読書・算数を教え、医師・僧侶・農家(自作農のことか)には、習字(書道)・経書(四書五経など)・歴史・算数を教えている。 更に、剣道の型も教えているのだが、これは時勢を考えてのことかもしれない。 参考のまでに、後者(上級者)の教科書を揚げると、『四書五経』の他、『小学』、『朱氏家訓』、『国史略』、『日本外史』、『日本政記』、『十八史略』、『元明史略』、『古文真宝』、『坤輿図誌(識か?)』、『明倫和歌集』とある。 特に、頼山陽の『日本外史』・『日本政記』や水戸列公・徳川斉昭撰による『明倫和歌集』などから、尊王思想が見えて来る。 しかし、先にも書いたが攘夷思想も持っていた事と考えると、世界地理解説書『坤輿図誌』は、佐久間象山を訪ねた後の教科書ではないだろうか。 尚、推測だが、「算術や国史(日本史)は、近隣の一般の塾では教えていなかったようだ」と書かれているが、私の調べたところと多少の違いがあり、況翁の記憶違いかもしれない。 また、ここに揚げた『国史略』が巖垣松苗著の『日本国略史』であれば、出版が明治10年10月であるから、これも記憶違いではないだろうか。 更に言えば、『坤輿図誌』は、箕作省吾(箕作阮甫 の養嗣子)の日本初の世界地図『新製輿地全図』の解説 いずれにしても、20歳前後で、越後における勤皇攘夷の志士・郷党の中心的人物になっているのである。 長くなりすぎたので、今回はこの辺りで終わりにするが、最後に、石黒忠悳の背景を考える時、その親戚・縁類を考える必要があるだろう。 その一人が、佐藤左平治の存在ではないだろうか。 佐藤左平治は、文政、更に天保の飢饉の折、私財をなげうって救民救済に尽力した片貝の豪農・豪商で、現在、その屋敷跡が片貝ふれ 『柏崎通信』428号(2007年1月18日)から転載 |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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