柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
生田萬を調べる上で参考にした資料の一つが、横山健堂(ペンネーム黒頭巾)が大正9年(1919)政教社刊『日本及び日本人(750号)』に掲載した『大塩平八郎と生田萬』だが、この冒頭に、この評論を書いた経緯が書かれている。 先ず、その前に、横山健堂について説明する必要があるだろう。 横山健堂(達三)は、明治5年(1872、明治4年12月説もある)萩の生まれで、長門市深川湯本で育ち、旧制山口高校を経て東京帝国大学史学科卒業後、(大学院の時、駒澤大学の講師も務めている)、新聞記者(読売・毎日新聞)や大学教授(駒澤大学)を務めながら、「黒頭巾」と号して評論(特に、幕末前後の人物評伝)を書き、昭和18年に下関で没している。 因みに、父親、横山幾太郎は、松下村塾の出身。 九州大学在学中に川端康成らと詩会を創り、北原白秋や高浜虚子と親交のあった俳人・詩人の横山白虹(健夫)は、子息。 横山健堂は、大正年間、柏崎を訪ねている。 文中の記述によれば、日本石油の技師・杉卯七の在籍20周年を祝うことと、柏崎中学校長の羽石重雄が、翌年長岡中学への栄転を祝するとあるが、三人は旧知の間柄であり、(推測の域を出ないのだが、供に山口県出身か、旧制山口高校の同級生ではないだろうか)、再会して旧交を温めるためだったのではないだろうか。 因みに、羽石重雄が栄転が翌年とあるから、長岡高校史から、その年が、大正5年と推測される。 ここで、生田萬が話題と成り、結果として、『大塩平八郎と生田萬』が書かれたようだ。 ところで、今回興味を持ったのは、羽石重雄のことである。 参考にと調べていくと、次のような経歴が判った。 岩国中学校長(明治42~大正2年、現山口県立岩国高校)→柏崎中学校長(大正2~6年、現新潟県立柏崎高校)→長岡中学校長(大正6~9年、現新潟県立長岡高校)→松本中学校長(大正9~昭和5年、現長野県立深志高校) 判ったのは、これだけの経歴だが、これは何を意味するのだろうか。 当時の学制について詳しくない。 しかし、この移動の広さは、どうだろう。 岩国から柏崎へ、しかも、三人が会した時、話題に上ったのが生田萬だ。 直ぐに思い浮かんだのは、近藤芳樹である。 否むしろ、戊辰戦争以前で、長州と柏崎を結びつける人物は、星野藤兵衛と近藤芳樹の関係ぐらいしか思いつかないのだ。 そして、明治天皇行幸でも、近藤芳樹は随員として柏崎を訪れているのだ。 単なる推論にしか過ぎないが、近藤芳樹が、萩で家塾を開き、藩校明倫館で助教を勤めていること、更には、明治になり歌道御用掛・文学御用掛を歴任していることを考えると、羽石重雄が、岩国から柏崎へ職を移した要因になったのではないかと考えるのである。 また、「杉」のいう名前にも興味を覚える。 吉田松陰の旧姓ではないか。 「杉氏」については、今のところ、それらしき資料が見当たらない。 しかし、この「杉氏」が、松陰所縁の人物であるとすれば、当に、ミステリーである。 また、この履歴には、それ以上の意味があるのかもしれない。 いずれにしても、歴史における人の繋がりは、知的冒険の宝庫である。 身近なところから調べては如何だろう。 もしかすると、皆さんも、その面白さの虜になるのではないだろうか。 Best regards 梶谷恭巨 『柏崎通信』376号(2006年8月31日)から転載 「歴史とは何ぞや」の自問に、最近の俗物的結論は、「何と金食い虫であることか」と、まさに俗物的な思いを抱く。 なけなしの金をはたいて、本を買えば、その本がまた、別な史料を要求する。 「これりゃとても」と、投げ出したくなる。 それに、確認の為に、各地の教育委員会や郷土資料館などに電話し、あわよくば、「コピーを送って頂けませんか」と尋ねてみたり、郷土史家の紹介をお願いする。 相手の迷惑も考えず、勇気を奮い起こし、連絡を取るのだが、大抵は不機嫌の臭いを感じる回答ばかりだ。 それでも、世の中は捨てたものではない。 有志、またそこに在り、また楽しからずやの心境である。 さて、本論。 面白い事実を見つけた。 斎藤弥九郎の子息・新太郎の諸国遊歴の修行の旅に関する記述である。 弘化4年(1847)、恐らく父・弥九郎の意向あるいは思惑があったのかもしれないが、長男である新太郎は、門弟4人を連れて諸国修行に旅立っている。 その時の記録『諸州修行英名録』に、対戦相手に関する詳細が列記されている。 この中で、注目すべきは、越後での滞在と長州萩での滞在だ。 簡単に言えば、長 今関心のあるのは、越後における神道無念流だ。 時代を順に追えば、越後における神道無念流が文献上に、(私の知る限りのおいてだが)、登場するのは「生田萬事件」の鷲尾甚介と鈴木城之扶である。 共に、永井軍太郎の門人。 前者は尾張浪人、後者は水戸藩士。 問題は、時間的前後関係である。 越後における神道無念流の歴史を考える場合、長岡藩士・根岸信五郎を考えなければならない。 しかし、根岸信五郎は、弘化元年(1844)の生まれであり、斎藤新太郎の遊歴の時代に直接の関係が無い。 そこで、根岸信五郎の件は、一旦措く事にする。 斎藤新太郎が、最初に越後に来訪するのは、庄内・天童・山形の各藩を巡った後、越後・村上藩に始まる。 しかし、この間、特記すべき試合が無かったのか、詳細な記述がないようである。 次に、同年11月10日、新発田藩に入る。 ここには、直心陰流・男谷精一郎の高弟・窪田鐐三郎と溝口周太がいた。 門人を含め新太郎は、26名と試合をしているようだ。 詳細は省く。 その後、11月11日に越後國蒲原郡中村浜村、11月20日に水原で試合をしたとある。 ところが、それ以降の記述では、嘉永元年(1849)三月一日、新潟の鐘馗流・粕谷房之助の門人6名と試合したとあるのだ。 因みに、その間、嘉永元年(1848)、3月20日、下野で同門・家泉枡八方で試合し、同日、館林の直心陰流の飯塚剛一郎の門人13名と試合しているのである。 すなわち、この間、およそ三ヶ月が空白なのである。 そこで、この年を調べてみると、先ず、越後にも影響を与えたと思われる「善光寺地震」が弘化4年3月に発生していることに気付く。 この地震は、相当なものであったようで、地震学会の史料を見ると、直江津・高田地域でも相当の被害があったようだ。 善光寺の地理的位置関係を考えると、関東から越後への幹線道路・三国峠の状況が想定される。 しかも、冬、通常は、この道は避けるだろう。 その為、新太郎一行が、北国道・北陸道を断念し、一旦、水戸を経由して江戸に帰ったことは想定できる。 ところで余談だが、この一行の行動と吉田松陰の東北行には関係がある。 吉田松陰の『東北遊記』は、「辛亥の年(嘉永4年、1851)、12月14日、「巳時、櫻田邸を亡命す。 一詩を留めて伝はく。」と題し、「一別胡越の如く、・・・」で始まる五言古詩で始まる。 松蔭は、新太郎が萩に滞在し剣術と兵学を指導した時、何らかの影響を受けていたようで、斎藤弥九郎あるいは新太郎の紹介状を携え、言い換えれば、神道無念流の人脈を頼りに、東北・蝦夷の地を遊歴しているのである。 問題にするのは、新太郎が「なぜ、中越・上越に来なかった」ということなのだ。 そこで、歴史を遡ること、天保8年(1837)の「大塩平八郎の乱」に深く関与している江川太郎左衛門、あるいは斎藤弥九郎が、同年の「生田萬事件」を知らない訳はないのである。 ましてや、同門・同流である鷲尾甚介、しかも鈴木城之扶は、後期水戸学における同志的存在であったのかもしれないのだ。 普通なら、その因縁を辿り、三条・長岡・柏崎を訪ねるのではないだろうか。 当時の情勢を考えると、天保の飢饉以降に多発した米価の高騰やそれに伴うとも考えられる農民一揆や打毀しによる政情不安がある。 そこで、自己防衛の為、地方の豪農や富農に剣術を習う者が急増した。 斎藤弥九郎自身、越中富山の富農の出身である。 幕府が、農民層の剣術修練を黙認した背景にも、幕藩体制の中核を成す豪農・富農に対する懐柔策があったはずである。 この辺りの事情は、天明の飢饉後における幕府・諸藩の対応と異なるようだ。 例えば、天明の飢饉に対しては、厳罰主義で望んでいる。 しかし天保の時には、江川太郎左衛門のように名代官との評判の高い行政官に広範囲な権限を与え、預け地として支配さえるとか、藩政改革に業績を上げた諸藩に支配を委託する傾向があるように思える。 江川の場合は、甲斐国都留郡、後には甲府近隣まで、また、会津藩などには、小千谷などの天領を預け地としている。 更に、交通などの要衝の地では、代官人事、所管の変更、あるいは支配地の変更などが、頻繁にあったようだ。 現在の上越市に隣接する吉川町などでは、所管の代官所あるいは藩が頻繁に変遷しているのである。 余談だが、幕府代官の手付・手代に親戚の多かった石黒忠悳の自伝を見ると、任地の変更が頻繁にあったとある。 特に、支配地の入組んだ越後の場合、幕府・諸藩の対応が複雑に思える。 しかも、「生田萬の乱」には、その規模以上に神経を尖らせている。 平田篤胤が、屋代弘賢など幕府の中枢に関係を持ちながら、事件への関与を理由に中追放の処分を受けたことでも、越後に対する関心が高かったことが伺えるのである。 因みに、この事件の後、越後における平田国学は衰退していく。 その事は、(以前、紹介した)篤胤の養子・平田銕胤が越後小千谷の門人に出した書簡でも伺えるのである。 また、「生田事件」の前後、藍澤南城が、中越を中心にして、所謂「大旅行」を行っている。 南城の三余堂には、当時の社会の中核を成した富農・神職・僧侶の子弟が多かった。 代官所・関連諸藩が、情勢把握と安定の為に、藍澤南城を起用したと考えることも出来るのである。 因みに、南城は、この旅行の後、名字帯刀を許されている。 神道無念流についても同様のことが言えないだろうか。 「生田萬事件」の首謀者の三人までが、永井軍太郎の門人であったことは重要でる。 斎藤新太郎が、表面だって、問題の地域である中越地方を訪ねることには幕府に対する遠慮があったと考えられないだろうか。 また、その地域の門人にしても同様である。 このように考えると、空白の三ヶ月間に意味があるように思えるのである。 当時、越後は、一般的に辺境の地と思われていたようだ。 領地が入組んでいる為、所謂「無宿人」などが横行し、治安状況も悪かったようだ。 司馬遼太郎の『峠』にも、その辺りの事が記されている。 しかし反面、アウトローが英雄にもなる西部劇的自由があったのではないだろうか。 飛躍すれば、日本には数少ない「フロンティア」ではなかったか。 幕末から明治にかけて、傑出した人物が越後から多く輩出されている。 しかも、路線に乗って出世した人物は少ない。 ある者は、民間で、またある者は、官界で、分野は多岐にわたる。 学者から企業家まで、今まで採り上げただけでも、実に面白い人物が多いのである。 どうも、フロンティアから生れる人物像が見えるのである。 話が、神道無念流から逸脱していると思われるかもしれない。 しかし、先ず武をもって身を守らなければ為らないフロンティ越後であればこそ、「武術」が、幕末動乱の越後で果たした役割は大きいのではないだろうか。 その「武術」の一流である神道無念流が、「生田萬事件」に深く関与し、その後の越後近代史に大きな影響を与えたのではないかと考えるのだが、斎藤弥九郎の空白の三ヶ月と同様に、鷲尾甚介・鈴木城之扶から根岸信五郎までのミッシング・リングを未だ見出せないのである。 『柏崎通信』438号(2007年2月16日)より転載 友人である市川昌平家に伝わった『居合術口伝書』、及び、「生田萬の乱」にも関係する越後における神道無念流から端を発した調査だが、どうも単純に剣術の歴史という訳にはいかないようだ。 因みに、『居合術口伝書』は、市川氏の御尊父・故市川鱗平氏が、昭和五年、神道無念流・第七代宗家・中山博道から神道無念流と大森流・長谷川流の抜刀術に関する免許皆伝を受けた際に書かれた口伝書である。 神道無念流の系譜を辿ると、第六代が長岡藩の根岸信五郎で、その師が斎藤弥九郎である。 そこで、齋藤弥九郎を調べる為、文献を集めていたのだが、幸い木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』という最良の評伝を得た。 その本が先週、やっと届いた。 そこで読み始めたのだが、これが大変である。 斎藤弥九郎の門弟に、維新の志士、特に桂小五郎を始めとする長州の志士がずらりと並んでいる事は知っていたのだが、斎藤弥九郎その人が、幕末の歴史そのものに深く係わっていることは知らなかった。 勉強不足である。 斎藤弥九郎は、水戸斉昭、あるいは藤田幽谷・東湖父子との係わり、更に、韮山奉行・江川太郎左衛門父子・英毅(ひでたけ)・英龍と深い係わりを持っていたのである。 しかも、江川家とは、練兵館開設の物心の支援ばかりではなく、あれほど嫌っていた宮仕えまでしているのである。 身分は、韮山代官所・書役(非公式には手付・手代)だが、実質的には、客分・相談役であり、英龍の時代には、探索から連絡役、更には対外折衝までしていると云う。 斎藤弥九郎は、寛政10年(1798)1月13日、現在の富山県氷見市仏生寺(越中国射水郡仏生寺村字脇谷)の裕福な農家に長男として生れた。 (尚、斉藤弥九郎の生年・没年に関しては、異説がある。) 伝聞・推測の域を出ないのだが、この地に生れたことは、後に大きな意味を持つのではないだろうか。 以下、少々私事を書く。 私がコンピュータの世界に深く関与する切っ掛けを作った人が居る。 友人であり、師匠でもあるこの人物の出身地が富山県高岡市。 県立高岡高校の出身で、東京工業大学に進んだ。 専攻が何であったか詳しくは知らない。 ただ、私との接点は、ウィットゲンシュタイである。 逸話の多い人だが、それはまた別の機会に。 彼からよく聴かされた話しがある。 「越中富山の薬売り」の話だ。 この元締めが、確か神通川を挟み二家あ 余談がだったが、この「越中富山の薬売り」のネットワークが、何らかの形で斎藤弥九郎の背景にあると思えるのである。 江川太郎左衛門英毅からの人脈もあるのだろうが、英龍の交際範囲は、想像以上で、幕末の漢学者・洋学者・書家・画家など、ほとんど全般を網羅するものだった。 そのクーリエ的存在であった斎藤弥九郎の人脈の広さは、推して知るべし。 単なる人脈の広さではない。 例えば、英龍と鳥居耀蔵との確執、あるいは幕儒・林大学頭家との確執から端を発すると云われる「蛮社の獄」でも重要な役割を果たしているのである。 渡辺崋山 話が横道に逸れるが、以前、越後とも関係の深い朝川善庵・亀田鵬斎について書いたことがある。 江川太郎左衛門は、内容はさて置き、この両者にも文章の添削などを依頼しているようだ。 片山兼山や井上金峨(父・英毅の時代にはあったかも知れない)などとは、時代的に接点がないのかもしれないが、折衷学派との係わりが見える。 また、古賀洞庵や屋代弘賢との交流があったようだ。 前者は海防問題(『俄羅斯(オロシャ)紀聞』)、後者は平田篤胤の後援者として国学に通じるのである。 また、海防問題では、間宮林蔵や近藤重蔵との交流があり、渡辺崋山ともこの辺りで親交が始まるようだ。 要するに、余りにも交際範囲が広いのである。 伊豆韮山代官である江川太郎左衛門は、常に江戸に居た訳ではない。 天保の飢饉の頃には、名代官としての業績をかわれ、今の山梨県都留郡などの一揆の後始末の後、預かり領として、施政に多忙であった。 因みに、都留・石和辺りでは、「永代江川様の支配地であって欲しい」と節句に「世直し江川大明神」という幟を立てたというから、その善政ぶりが知れるのである。 加えて、海 越後との係わりを見ると、資料中、生田萬事件に触れるところはないのだが、鷲尾甚介(尾張藩浪人)や鈴木城之扶(水戸藩士、藤田東湖の門人とも伝えられる)らは、弥九郎と同門である尾張藩剣術指南役・永井軍太郎の門人である。 彼らの行動に対する見方も変わる。 すなわち、神道無念流を単なる剣術の一派と考える訳にはいかないのである。 斎藤弥九郎は、明治初年まで生きた。 木戸孝允の日記には、明治4年10月25日、「今日福井(順道)より斎藤篤信斎(弥九郎)昨日死去の事を承知せり。 実に余の恩人七十有余不治の病をしるといえども、また愁傷に堪えざるなり」、また28日には、「齋藤に至り、篤信斎の遺骸に礼す」とある。 その生涯、維新前後の歴史に、どれ程の影響を与えたのだろう。 そして、それが現在にどのように繋がっていくのか。 追々に調べていこうと思うのである。 『柏崎通信』435号(2007年2月6日)より転載 先週の土曜日、昨年末開館した河井継之助記念館を木島さんに同行して訪ねた。 一月のこの時期、通常なら雪を懸念するのだが、曾地峠辺りで、霙交じりの雨、長岡市内には雪の気配さえない。 大凡の場所の見当は付いていたのだが、念の為に、駒形君を訪ね所在を確認する。 記念館の駐車場で、送ってくれた若井と息子と別れ、木島さんと記念館へ。 館内に入ると、幕末日本には3台、しかも中2台を継之助が確保したというガトリング砲のレプリカが鎮座している。 受付で案内を請い館長の稲川先生と面会。 入口脇の事務室で面談。 今回の訪問は、木島さんの取材と歴史講座の打合せということだったが、話題は文学から歴史に及び、歴史講座の話は何処へやら。 歴史については多少の知識があるが、文学になると全くの門外漢。 しかし、傍聞しながらも、興味は湧くばかりで 話は尽きないが、木島さんの取材がある。 稲川先生の案内で、展示物を拝見。 各コーナーで説明を聞く。 最高の案内人の最良の解説である。 増えてきた入場者には、「申し訳ない」の一言。 継之助の日記『塵壺』などの展示にも、通り一遍の展示ではない稲川先生の配慮がある。 床は気持ちを和らげるブルーを基調にしたカーペット、展示内容の表題にはサブタイトル、見る者の心理を計算した視線より低く目の展示位置、全文 圧巻なのは二幅に書かれた「常在戦場」、勿論真筆である。 それに、小千谷談判で受け取って貰えなかった『太政官建白書草稿』 書家に依頼して複製を作られたそうだ。 初見だが、継之助の思想・人となりが明確になる。 『峠』から想像して漢文だと思っていたが、幸いにして書下ろし文調、書体も御家流ではなく行書体(?)、何とか読むことができた。 内容も素晴らしい。 継之助の「民」の思想が明確になる。 稲川先生の解 因みに、書体には意味がある。 確かではないのだが、天皇(皇帝)へは「楷書」、高位の官衙(官庁)あるいは上級者へは「行書」、同位の者あるいは庶民は「草書」を使うと聞いたことがある。 ただ、日本の場合、公文書は「御家流」だった。 漢字かな混じり文・行書体で書かれた事に、「何かの意味があるのでは」と感じた。 但し、全くの憶測。 いずれにしても、一見、否、一見どころか何回でも訪ねて、熟読したいほどの価値がある。 拙文で紹介するのが申し訳ない。 近くには「山本五十六記念館」もある。 一度、訪ねては如何だろう。 歴史に対する見方が変わるかも知れない。 『柏崎通信』434号(2007年1月30日)より転載 昔、大叔父の家で、三舟の書、三幅を拝見したことがある。 三舟とは、勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟のことである。 勝海舟は周知の通りだが、高橋・山岡の二舟については少々説明が必要だろう。 高橋泥舟(精一)は、幕末の槍の達人、山岡鉄舟(鉄太郎)は、泥舟の義弟で、北辰一刀流の件の達人である。 また、鉄舟は書家としても有名で、父親・小野朝右衛門高福(たかとみ)が飛騨高山に郡代として赴任していた頃、弘法大師 三舟には幾つかの共通点がある。
ただ、今回のテーマは三舟ではない。 実は興味を覚えたのは、山岡鉄舟の少年期の家庭の事情なのだ。 鉄舟の母親は、三人目の後妻である。 しかも、親子ほど歳の離れた結婚をしている。 実家は鹿島神宮の神官の家で、その辺りが小野家の領地だった。 祖父・塚原秀平は、その小野家の領地の管理を任されていたようだが、理財の才能があった様で、朝右衛門が懇請して小野家の用人になった。 その父親の才能を受け継いだのか、母親は賢妻・賢母であったそうだ。 父・朝右衛門が飛騨郡代であった当時、その相談役であったのが母親だと云う。 要するに、かかあ天下なのである。 たで、出しゃばる様な事はなく、役所の部下や領民にも慕われていたと云う。 実は、石黒忠悳の少青年期に、共通点を見出すのだ。 その一つが家庭の事情にある。 ほぼ同い年で母親を亡くしている。 山岡鉄舟は、後年までその母親を敬慕していた。 磯田道史著『武士の家計簿』によると、武家の主婦の立場は、想像する以上に強かったそうだ。 飛躍かもしれないが、維新後、名を成す人々に共通するのが、母親の存在ではないかという仮説が立つ。 しかも、単に儒教で云う賢妻・賢母ではなく、理財の才能があったように見受けられる。 石黒忠悳の場合は500両の軍資金、山岡鉄舟に到っては3000両の蓄財があったと云う。 確かに、蓄財したのは父親かもしれない(山岡鉄舟の場合は、祖父)。 しかし、維持管理したのは母親なのである。 因みに、『武士の家計簿』に登場する猪山家は、直之の代に理財の才能で出世し、成之の代に大村益次郎に認められ、明治になっては、海軍主計総監になっている。 ただ、大村益次郎が長命であったなら、更に出世し、華族に列せられたのではにかとは、磯田氏の言である。 『大学』の経一章に「国を治めんと欲する者は、まずその家を 斉 ( ととの ) う」とある。 (「斉」は、等しい・整える・きちんとする・偏らない・おこたらないなどの意味がある。) 部分を揚げたのでは、本来の意味が損なわれるかも知れないが、敢えて言えば、「家を 斉 う」のは、主婦である言えるのではないか。 幕末、門閥高禄の武家を除けば、ほとんどの武家は破産の危機に瀕していた。 下級武士になると、赤貧洗うが如し状況だったと云う。 鉄舟は、山岡家を継いで驚いたという。 一日三食など法外の事で、時には2日も3日も米の飯を食えなかったそうだ。 (鉄舟は、母の遺産3000両を5人の同腹の弟に各500両割り当て、大きな子には養子縁組に結納金とし、小さな子には養育費として残していた。 しかし、自分の取り分は、小野家を継いだ異母兄に いつもの通りで、どうも纏まりのないことを書いてしまったが、要は、幕末・明治に名を残した人々の少年期・青年期に発達心理学的関心があり、それを調べていくと、当時の女性、特に主婦・母親の存在が予想以上に大きいことを知った訳である。 実は、石黒・山岡には、もう一つの共通点があるのだが、それは、またの機会にしよう。 『柏崎通信』433号(2007年1月23日)より転載 |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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