柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 皆さんへ

 河井継之助記念館が、昨年、長岡に完成しておよそ10ヶ月、この間の入場者がおよそ9000人に達したそうです。 河井継之助に関しては、地元である長岡においても賛否両論の評価があり、記念館設立には、紆余曲折があったと聞いています。 ただ、司馬遼太郎が『峠』を著し、継之助の評価は、一変したと聞きます。 特に、長岡あるいは新潟県外の人々の関心が高く、来館者も県外の人が多いそうです。

 来館者の中には、米国在住の方もおられたとか。 しかも、20万円を寄付されたそうです。 ところが、現在、記念館は長岡市の商工部観光課の管轄下にあり、現金での寄付は、手続き上記念館に反映されないようです。 そこで、書籍を買い、それを寄贈する形式をとったと聞きます。 同様のケースのほか、来館者から記念品のようなものはないのかとか、土産物があってもよいのではないかと言う意見があったそうです。

 そこで、今年の6月、寄付金の受皿や市としては難しい記念品・土産物を扱う組織が必要ではないかという話が出たそうです。 その組織が「友の会」です。 設立の趣旨等に付きましては、添付の入会募集のチラシに掲載されています。

 尚、私は、駒形さんのお誘いで、設立の準備会に参加させて頂きました。 河井継之助に関しては、以前、何度か書いていますが、実際のところ、何冊かの関連書籍や小説を読んでいますが、むしろ学際ネットワークの中の一人として、追いかけていたのが事実です。 ただ、現在の社会情勢などを考えると、河井継之助の生き様の中に、何かしら感じるものがあり、皆さんに入会の御案内をお送りする次第です。 添付のチラシ、御一読頂ければ、幸いです。

Best regards
梶谷恭巨

 案内、御要望の方は、コメントに一言。

 震災後、初めて本町通にあるスーパーに行った。 本町通から見れば地下に当たる、このスーパーも営業しているのだが、完全に復旧しているようには見えなかった。 よく見ると、床や壁面に亀裂が走っている。 駐車場は更にひどい。 本町通でも、この地域は再開発された近代的町並みに思えたのだが、被害を免れることはできなかったようだ。 余談だが、この再開発には、私が過って席を置いた旧社会調査研究所が関与しているのだから、複雑な心境である。

  柏崎の本町通は、地形的には小高い丘の峰に沿って開けた街だ。 江戸後期の地図(天保国絵図)を見ると、柏崎そのもの石高は、確か三百数十石だったと記憶するので、周辺の村と比べても、それ程石高が高いほうではない。 要するに、柏崎は、本町通を中心とする商業によって成り立っていた町なのである。 因みに、正確に調べてみると、柏崎の石高(370石)、隣接する中浜村(30石)、枇杷島村(2449石)、私の住む下方村(340石)、植木君の住む上・下田尻が合わせて1100石である。

  以前に書いたことがあるが、柏崎は伊勢・桑名藩の飛び領である。 しかし、単なる飛び領ではない。 桑名藩が支配する領域は越後一円に広く、11万余石の石高があり、長岡藩が7万余石であったことを考えれば、その石高の大きさが分かる。 それが柏崎に集積されたのである。 更に、越後の縮緬問屋が、柏崎に集中していたのだ。 このことからも、当時の柏崎の殷賑ぶりが伺えよう。 そして、その中心が本町通なのだ。

  桑名藩の支配地では、文政年間、所謂「文政三条地震」といわれる今回の地震を上回る直下型の地震が起こっている。 先ず、その時のデータがインターネットに公開されているので紹介しよう。  http://www.saigaidensho.soumu.go.jp/saigai/import.2006-12-27.190840/ 

 以下、本文: *************** 
【災害名】文政三条大地震【発生日時】文政11(1828)年11月12日【被災地】新潟県三条市周辺【災害の概要】地震の規模マグニチュード6.9の直下型地震。震源地は北緯37度6分、東経138度9分で、栄町芹山付近とみられる。被害地域は、信濃川に沿った長さ25㎞に及ぶ楕円形の地域で、三条・燕・見附・今町・与板などの家屋はほとんど全壊した。被災地域全般で全壊1万2859軒、半壊8275軒、焼失1204軒、死者1559人、怪我人2666人、堤防の欠壊4万1913間という大きな被害であった。【教訓等】三条市八幡町にある真言宗泉薬寺境内に地震供養塔、東裏館の真言宗宝塔院境内には地震亡霊塔(市指定文化財)がある。また、地震から4年後の天保3(1832)年8月には、地震による多数の物故者を菩提のため、浄土真宗本願寺派の三条別院が建立された。年々、地震の日の11月12日を宗祖の報恩講の初日として、震災物故者の追悼供養が営まれてきた。さらに地震の翌年には、震災の惨状を詠み込んだ「ごぜくどき」が広く流布した。三条大地震にまつわるごぜくどきには、『ごぜ口説地震の身の上』と『越後地震口説』の2冊の版本が現存する。
 ************** 
 三条の一部は、桑名藩領だった。 ここの庄屋だった、(記憶が定かでないのだが)、柏崎・荒浜出の宮嶋氏(?)が、その時の様子を日記に残している。 確か、所用で外出中に地震が発生し、急ぎ帰宅しようとするのだが、侭ならない。 絵心が合ったのだろう。 その時の心境と被災の様子を絵日記に書いているのだ。 

 前置きが長くなったのだが、越後には、「百年に一度大地震があり、しかも連続して起こる」という伝承があるそうだ。 それが教訓として語り継がれていたはずなのである。 地震の後、六日町の遠藤さんから、そのようは話も伺った。 恐らく、遠藤さんの話に出る大地震とは、弘化4年(1847)の善光寺地震によるものではないかと推測するが定かではない。 この時は、上越地方も可也の被害が出た云う。要するに、先人は、こうした震災に対して、多くの教訓を残しているのだ。

  こうした災害史を追う中で、「防災」ではなく「備災」というコンセプトが必要だと考えた。 しかし、どうも、それでは足りないと感じるのだ。 すなわち、「知災」というコンセプトが浮かぶのである。 百年も経てば、人々は、被災の記憶、教訓の伝承は失われるのであろうか。 しかし、先の遠藤さんの話もある。 記憶は伝承されるが、意識の奥に埋没されてしまうのではないか。

  余談だが、昨日のTVで、三陸津波の特集を放送していた。 この時のことが、ナショナル・グラフィックに掲載されたそうだ。 確か、NGに日本のことが掲載された最初の記事だったと云う。 4枚の写真が掲載されたそうだ。 この時、外国人2名が犠牲になっている。 確かフランス人宣教師ではなかったか。

  いずれにしても様々な形で、被災の惨状と、それに対する教訓が継承されていることは事実なのである。 しかし、その事実は埋没しているのだ。 歴史を考える場合、常に、その当時の時代背景を考える。 しかし、同時に災害史も関連付ける事にしている。 災害が歴史に与える影響が不可避的に重要だと考えるからだ。 自然災害のみではない。 しかし、それが、その後に起こる人災に多大な影響を与えていると考えるのだ。 江戸後期には、多くの自然災害が記録されている。 地震、洪水、飢饉、様々な災害が、その後の世情、例えば、「ええじゃないか」の大流行、更に人災でもある戊辰戦争へと繋がる。 私が、歴史における感情の継承というのは、こうした災害の心理の影響が、初めは顕著に、時間の経過とともに潜在化するが、決して、消滅するものではないと考えるからだ。 そして、その事が、何かを引き金として、改めて確認されると想定するのだ。

  話が横道にそれそうだが、災害を考える時、技術的な危機管理の問題では、災害時に対応できないのではないかと危惧するのだ。 すなわち、「知災」というコンセプトを言うのは、「備災」の前提に、孫子ではないが、先ず「彼を知り、己を知る」ことが必要だと考えるからだ。

  余談だが、「文政三条地震」について、最も研究していたのが東電の研究所なのだ。 調べてみると、東電の研究者の発表した論文が多いのである。 何と言う皮肉であろうか。 記憶している論文では、地質学的研究論文もあるのである。

  いずれにしても、既に起きた災害である。 私自身、大した物理的被害を受けた訳ではないのだが、しかし、心理的影響を未だに拭い去ることができない。 「備災」と提唱し、幾つかの企画を書き、また、その為ばかりではないが、救命員の講習も受け、FEMAを始め各国の体制・状況を調べ、必要なものは翻訳し、必要と考える資料は収集した。 しかし、何だったのかと空しさを覚えるのだ。  NPOも何処へやら。 「備災」は、個人的レベルでは或る程度実現した。 しかし、今、それをとやかく言う立場には無い。 ただ、「知災」となれば、個人レベルでも可能な分野だ。 今まで歴史追及を継続すればよいのである。 もっとも、酔狂老人の閑言にしか過ぎないのだが。

『柏崎通信』、514号から転機 

 尚、『柏崎通信』、配信の御希望があれば、コメントに一言。

 月曜日(6月25日)、河井継之助記念館友の会設立準備会の第三回目の会合があった。 場違いな感じがするが、これも何かの縁、今回も出席した。 主要なテーマは、第2条の目的と設立趣旨書の内容に関してである。 そこで、事前に、こうした記念館あるいは博物館などの支援組織の状況を調べてみた。 むしろ、書こうと思うのは、そのことである。

 準備会でも問題になったのが、「支援の範囲」である。 現在、行政改革の一環として、行政の軽量化が進展している。 記念館も、その対象になるようだ。 そうなると、「支援」は、運営にも繋がる。 運営を想定するのであれば、設立当初から、その事を反映した組織作りを行わなければならない。 こうした運営の民間移行の最初のケースが、「NPO・芦屋ミュージアム・マネージメント(AMM)」ではないだろうか。 ただ、ミュージアム・マネージメント学会という学会があるところを見ると、既に、形態の異なる、例えば、企業による運営管理は先行しているのかもしれない。

 少々回りくどい言い方になった。 日本では、参考になるケースが少なかったので、事例を海外に求めた。 私自身、昔から海外の博物館などの支援組織のメンバーになっていたことがあるので、ある程度の状況は解った積りであったのだが、ミュージアム・マネージメントという視点から考えたことがなかった。 ところが、「ミュージアム・マネージメント」という社名のコンサルタント会社が、米国・サンフランシスコにあるのだ。 米国内はもとより、広く海外の美術館や博物館のコンサルタントを勤めている。 最近の事例では、香港の美術館があった。 ホームページから知ることができる範囲は知れているが、コンセプトや基本的戦略については知ることができる。 一部を翻訳してみた。 粗訳だが以下の通り。 少々長いが転記する。

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戦略プランの要件

使命感(ミッション)
 使命感は次のことを明確にする:
(1) 存在の目的(存在意義)
(2) 誰のために在るのか(存在理由)
(3) 在る事による影響(インパクト)
使命感は、組織としての試金石であっリ、展示内容、施設計画や組織に関する重要な決定など、様々な意思決定の全てのガイドラインになるものである。

中心的価値観(コア・ヴァリュー)
 中心的価値観は、組織を動かすための信念にある。 中心的価値観は、日常の運営において最も重要であるものに焦点が置かれていなければならない。

展望(ビジョン)
 ビジョンは、将来、組織が如何にあるべきかを明確にする。 すなわち、野心の表明である。

目標(ゴール)
 ゴールは、「何を達成したいのか」という問いに対する答えである。 役員およびスタッフによって確認されたキーとなる領域に特定された幅広い表明として書かれなければならない。 例えば、継続的運用・維持管理のための財政戦略のような財務に関連した目標など。

l背景(コンテキスト): 背景には、各目標に対する現状評価が明示されなければならない。 背景は、「何故、目標が戦略プラン含まれているのか」と言う理由に対する大枠(フレームワーク)を明確にする。
l目的: 目的は、目標(ゴール)をサポートし、「目的が如何に達成されるか」を明らかにする。 例えば、「年間運営予算の33%をカバーするために、寄付金の額を増加させる」などの目標に関する目的など。
 O実施義務(アカウンタビリティ): 各員に目標達成を監督する義務を課す。
 O時間枠(タイムフレーム): 目標達成の期限を徹底する。
 O資源(リソース) : 表明した目標達成に必要な人員(ボランティアおよび専門家)と資金の必要性を徹底する。
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 とまあ、こんな具合だ。 当然、ノウハウなどは公開されない。 ただ、この内容を管見すると、何だかカルト的組織化戦略を思い浮かべる。

 そこで、最近まで最下位のレベルのメンバーだったNYの「メトロポリタン美術館」の事例を見よう。 ここでは、運営と支援が明確に分離されている。 運営は、まさに企業だ。 特典付き生命保険の販売までしているのだ。 一方、支援組織は、格差の世界だ。 最下位のメンバーシップは、$50から始まる(会報と四季報が配布されるのみ)。 そこから、実に、$2万まで、およそ12のランクがある。 そして、運営には一切関知しないのが原則。 云いかえれば、「金は出すが、口は出さない」と言うことなのである。 更に、この他に、2つのソサエティがある。 メトロポリタンの歴史は、一人のコレクタの絵画コレクションの寄贈に始まる。 最初は、セントラルパークに近い民家の改造だったようだが、当初から独立を意識し運営されたそうだ。

 「河井継之助記念館友の会」設立準備会の話が、あらぬ方向に向かったようだ。 ただ、将来、運営が民間へ委託されるのであれば、運営か支援かを意識しておく必要があるのではないか。 館長の稲川先生が、こんな事を言われた。 「民間に委託されるのなら、出来ることなら地元の業者である方がよい」と。 無縁の組織に運営されたのでは、継之助も浮かばれないのかもしれない。 あるいは、先見性のあった継之助のこと、全く別の見方をするのであろうか。

 余談だが、昨年の11月オープン以来、現在までの来館者数は、およそ9000人、しかも、リピータが多く、更に県外の人がほとんどだったそうだ。 中には、寄付の申し出をされる人も多々あり、記念館としては、それだけに、受け皿としての友の会の設立を急いでいるとのこと。 第一回の総会は、新暦だが継之助の命日に当たる8月17日に階差の予定、旧暦の命日には、第一回目の記念講演として、司馬遼太郎記念館の館長の講演を予定。 聞くところによれば、司馬遼太郎氏の意向(遺志)でもあったようだ。

Best regards

 司馬遼太郎の『峠』の中に面白いことが書かれている。 継之助は、母親似だと云うのだ。 その母親の趣味が算盤で和算の問題を解く事だとある。 そこで、小千谷の佐藤雪山(虎三郎)の通機堂の門人を調べてみると、長岡縁の門人は次の通りだ(『五十嵐秀太郎著『評伝・佐藤雪山』による)。

 助教・阿倍留吉正明(長岡中島)、学頭・南五兵衛亮方(長岡在寺島)、学頭・吉澤作右衛門義利(長岡千手)、高橋吉太郎知道(長岡藩)、小林常松泰(古志郡長岡)らが見える。 当時(幕末)、雪山の門人は、広く全国に及び、江戸・京都・富山・上州・下野・安芸・長州などに広がっていたようだ。 因みに、佐藤雪山は、関流和算の正統八伝(代と同様の意味)で、六伝・長谷川善左衛門(弘あるいは寛)社中列名に師である越後水原の七伝・山口坎山(倉八・和)と共に、「別伝(免許皆伝)」に名前があるから、その才能が全国に認められていたのである。

 そこで、門人録にある長岡縁の名前を調べるのだが、少なくともインターネットではヒットしない。 当時、和算は学問と言うよりは、趣味と見られていたようだから、研究者が少ないのかも知れない。

 ただ言える事は、当時、小千谷・柏崎・長岡近辺は、日本における和算の中心的存在であったのではないだろうか。 すなわち、佐藤雪山の後継者は、柏崎・茨目の村山雪斎(禎治)であり、その後、関流の正統は継承されていないのだ。 (但し、別説もあるようだが。)

 それではと、雪山の師である山口坎山の足跡を調べてみる。 坎山は、有名な『道中日記』を残している。 都合三回の旅をしているのだが、坎山が故郷水原を始め越後を旅したのは、第三回目だ。 この旅は、文政三年(1820)7月22日から文政五年12月1日までの約2年半に近い旅で、三回の中では最も長い。 この時、神田から信州を回り、直江津から日本海側を通って新潟・新発田まで行き、故郷水原に滞在している。 その後、信濃川沿いに長岡に至り、直江津に出て日本海沿いに関西に向かっている。

 この旅で、長岡に寄ったのは文政四年4月26日で、先ず悠久山の蒼芝(柴)神社に参拝している。 そこで、算額を見、書き写している。 『道中日記』の写真を見ると、詳細は不明だが、描かれた図形などから面積の問題のようだ。 この算額は、文化元年(1804)と寛政十年(1798)のものだから、和算が長岡で盛んであった事の査証ではないだろうか。 因みに、当時、坎山の門人が最も多かったのは、柏崎であるようだ。

 いずれにしても、長岡は信濃川水運の要の土地柄であったことが、和算を盛んにした背景にあるのではないだろうか。 しかし、それが、武家の奥方にまで及んでいた事実が、長岡藩の特異性を示しているように思える。 ただ、継之助の父親・代右衛門が新潟奉行をした時期があるので、その辺りの事情も考える必要があるのかも知れない。

 単なる推測の域を出ないが、継之助の人となり、あるいは、横浜におけるスネルとの交渉のエピソードなどを見ると、案外、母親の和算趣味、あるいは和算の盛んだった土地柄が大いに影響しているのではないだろうか。

 余談だが、山口坎山は、先にも書いたように三回の大旅行をしている。 そこで、少々この旅について触れておこう。 最初の旅(文化十四年4月、1817)は、神田から始まり、水戸街道を北上して、取手・上蛇村(水海道市上蛇町)・寺具村(つくば市寺具)・飯田・土浦・玉作(玉造町五町田)・鹿島・香取を巡り、江戸に帰っている。 二回目の旅は、同年十月、江戸を発ち、筑波・会瀬(日立)・岩沼・仙台・石巻から金華山を見、一旦石巻に返って、一ノ関・盛岡・むつ・大畑・恐山を回り、むつから日本海側に抜けて、能代・鳥海山・酒田・湯殿山・月山から、岩沼に還り、日立から笠間・小港・銚子などを巡り、江戸に帰っている。 三回目が今回採り上げた旅だが、これが最も長い旅だ。 直江津から先に進むと、金沢・福井・敦賀・京都・大津、琵琶湖を渡り長浜、南下して伊勢・松坂、鈴鹿越えで、奈良・吉野・和歌山、船で堺に至り、大阪・岡山、瀬戸内海を渡り、丸亀・金比羅・今治・松山、復瀬戸内海を渡り、広島・岩国・防府・小倉・唐津・伊万里・長崎・熊本・久留米(和算の盛んなところ)・宇佐・小倉から本州へ、更に広島から日本海・石見に抜け、出雲・鳥取・宮津、敦賀に還り、江戸に帰っている。 これらの旅を『道中日記』に詳細に記している。 それが、芭蕉の『奥の細道』に匹敵する旅日記と言われる所以である。 因みに、道中、門人あるいは他流の算額道場を訪れ、時には、教授あるいは道場破りのようなことも行っているようだ。 (佐藤健一著『和算家の旅日記』、伊達宗行著『和の日本史』ほか、東北大学和算アーカイヴなどを参照した。)

 和算は、明治以降、西洋数学によって影を潜めるのだが、江戸時代から明治初年における和算の意味は、単に数学史というより、社会あるいは歴史そのものに与えた影響が相当にあると考えるのだが、如何せん、微力、勉強不足で、確証に至らない。 ただ、この分野、数学としての内容よりも、文化として、実に面白い分野だとは思うのだが。

『柏崎通信』422号(2006年12月19日)から転載
 調査依頼をしていた山口県立岩国高校から回答があった。 その結果、岩国中学における羽石重雄校長の様子が、ある程度判明した。

 詳細は依然として不明だが、羽石校長は、九州の学校(校名不詳)から転任して明治42年(1909)4月に岩国中学の校長になった。 問題は、退任の経緯だ。 岩国高校の話によると、羽石校長は、大正1年末頃から校長排斥運動があり、翌大正2年2月依願退職していたのだ。 この経緯が、実に面白い。 何だか、夏目漱石の『ぼっちゃん』を髣髴させるエピソードがあるそうだ。 排斥運動の中心になったのは、8人の5年生。 その理由が、校長の金時計や洋装が気に食わないと言うのだ。 岩国中学は、藩校「養老館」の伝統受け継いで、当時も学生の間には質実剛健を良しとする気風があったようだ。 しかも、この羽石先生、新たに採用する教員を主に九州から求めたそうだ。 詳しい事は、校史にもかかれていないようだが、このエピソードは、後々まで語り継がれたようだ。 ただ、後日談だが、羽石校長は、実は、大変な人だと言うことが判り、関係者は、「慚愧に耐えなかった」と後になって悔やんだそうだ。

 前回、この依願退職の事実が判らなかったので、柏崎中学には、大正2年(1913)に着任かと推測していた。 確認のため、柏崎高校に問い合わせたところ、実は、大正4年2月着任と言う事実が判った。 そうすると、約2年間のブランクがある。 この間、継ぎの任地を探していたか、あるいは、一旦退職しているのだから、校長職の周旋運動(職探し)をしていたのだろうか。

 そこで、思い出したのが、夏目漱石の書簡のことだ。 明治39年、漱石は、畔柳芥舟(一校教授、くろやなぎかいしゅう)に長岡中学の英語教師の周旋を依頼されて、それに対する回答の書簡を出している。 次代が少々遡っているが、羽石重雄も、人脈を介して校長職の周旋を頼んだのではないだろうか。 柏崎中学は、明治33年(1900)高田中学の分校として開校し、翌年、創立記念式典を実施、明治35年新潟県立柏崎中学と改称している。 羽石重雄は、大正4年2月、柏崎中学の校長に就任しているが、この年の4月、設立15周年記念式典が行われていることから推測すると、矢張り強力な人脈があったと言うことだろうか。 改めて当時の教育人事に興味が湧いてくる。

 また、前回では、横山健堂・羽石重雄・杉の三人は、旧知の仲で、もしかすると、共に山口県出身あるいは旧制山口高校の同窓生ではないかと書いたのだが、横山健堂以外は、今のところ、何れの事実も特定できない。

『柏崎通信』377号(2006年9月1日)から転載


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1947/05/18
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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