柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
『武士の娘』を読むと、一章一章に驚きがある。 その一つが、悠久山の裏の草山で行われたと云う祭りのことだ。 戊辰戦争で長岡城が落城した日、それが5月7日なのだが、明治二年のことだから、幻の祭りが始まったのは、長岡がある程度復興した5、6年後のことだろうか。 杉本鉞子(えつこ)の父親、稲垣茂光が、その祭りの主催者の一人だったそうだ。 稲垣茂光は、長岡藩牧野氏の門閥・城代家老(2000石)だったが、戊辰戦争では、河井継之助の敵役として描かれ、概して評判がよくない。 稲垣氏については、後で書くとして、この祭りは、相馬のの野馬追いのようなものだったようだ。 その日(落城の日)、戦陣の隊列を組み、先ず、蒼芝神社に詣で、会場となる東山公園に向かう。 そこで、模擬戦が行われ、後に、剣術・弓術・鎗術の試合が行われた。 稲垣家では、女たちが、祝宴の支度で忙しく立ち働き、男たちの帰りを待つ。 既に武士階級は零落し甲冑・装備も貧弱だったが、出陣から帰陣まで、長岡の町の老若男女が付き従い、この祭りというか儀式を楽しんだそうだ。 双方とも複雑な心境があったと思われるのだが、「落城の日」を儀式として記念したことには、何かしら重要な意味を感じる。 余談だが、『武士の娘』は、元々英語で書かれている。 未だ確認は取れないが、『武士の娘』の翻訳は、余りにも日本的過ぎるのだ。 多分、原書と比較すると、大きな差異があるように思える。 杉本鉞子は、コロンビア大学で講師もしている。 しかも、時代的背景を考えると、米国における英語(米語)が確立する前の Best regards
陽明学に付いて、朱舜水・安東省菴 → 中江藤樹・熊沢蕃山 → 山田方谷・河井継之助の流れを追いかけている。 始めは、継之助・方谷から遡っていたのだが、今は、先の通りだ。 というのも、どうも繋がりが見つからないのだ。 ミシングリングである。
兎に角、安東省菴の史料・関連文書を読んでいる。 その中に、鬼重忠恕著『小説・安東省菴』がある。 面白い事が書かれていた。 筑後柳川藩立花家の城代家老に小野という家がある。 安東省菴と小野家の二代目・伊織は、幼馴染だ。 (後に、省菴の妹が伊織に嫁いでいる。) その小野家の流れを汲むのが、安田財閥とも縁の深い「ヨーコ・オノ」なのだそうだ。 だからどうだと言うのではないが、連綿と続く人の繋がりが、こんな所にもある、と一人ほくそ笑むのである。 安東省菴は、明の亡命学者(果たして、学者とのみ位置づけるべきか?)朱舜水を援助した人物として知られている。 安東省菴の家、すなわち安東家は、柳川藩開祖・立花宗茂と縁戚に当たる。 省菴は、分家して一家を立て200石の知行を受けていた。 実質的には、80石くらいといわれるようだが不詳。 その半知分を朱舜水に送り続けたのである。 その結果か、省菴の生活は相当に苦しかったようだ。 立花家は、宗茂がそうであるように、むしろ武門の家である。 藩風も、自ずから武を奨励した。 省菴自身も、武を第一と考えていたようだが、それが、痔疾の治療のため長崎に滞在した際、その医師(矢張り、亡命・帰化中国人)を介して、朱舜水と出会うのだ。 (立花宗茂という人物も興味深い。 一度改易になり、また先祖伝来の故地に返り咲いたの大名は、他にいないのではないだろうか。) 『先哲叢談』第三巻に記載がある。 (同巻には、熊沢蕃山も掲載。) これを読むと、義の人であると同時に、端々に武人あるいは武士を感じるのだ。 例えば、その末文に次のようは評がある。 「省菴、文事を以って一世に表見す、今此編(省菴の回顧録『扇銘』、この前文にある。)を読めば、其の少年の勇猛、豈(あ)に毅然たる大丈夫にあらずや、即(も)し省菴をして、戎馬(じゅうば、戦時)の際に生れしめば、其の為す所、亦(まt)迥(はるか)に群を出でん。 古云(いにしえにいわ)く、文事ある者は必ず武備ありと、省菴あり、省菴の高義、世に絶えて無し、其の学も亦世に多く有らざる所なり、而して性謙譲なり、男(息子)守直に告ぐる遺訓に曰く、我、才なく徳なし、汝、諸生と共に、年譜、行状、行実、碑銘、墓銘、及び文集の序等を撰すること勿れと」 安東省菴は、不思議な人物である。 文献も少なく(私が知らないだけかもしれない)多くを知る訳でもないのだが、何かしら近親感を感じるのだ。 柳川藩の開祖・宗茂の波乱に飛んだ生き様が、省菴に反映されているのかも知れない。 事実、宗茂は、少年時代の省菴(助四郎)に、人に無い何かを見ていたようだ。 推して16歳で島原の乱・原城攻めに従軍した時、その身を気遣った書簡を送っている。 (先に書いた舜水との出会いの因縁にもなる持病・痔疾は、既に此の頃から患っていた様だ。) この中で、次男である助四郎(省菴)に分家して知行を与えることを約束している。 単に、縁戚の次男坊に対する気遣いではない。 一言で言えば、省菴は「義」の人である。 省菴がいなければ、朱舜水と水戸家・光圀との関わりは出来なかっただろう。 その舜水がいなければ、果たして水戸学が成立しただろうか。 朱舜水もまた、「義」の人である。 国姓爺・鄭成功を支援したのも舜水である。 亡国・明に殉じて、生涯日本語を話さなかったと言う。 余談。 日本で始めてラーメンを作り食したのは、水戸光圀公だと言われている。 しかし、黄門様にラーメンの作り方を教えたのは、朱舜水だと言われている。 「義」と言う意味では、河井継之助も「義の人」いわれる。 古賀茶渓の久敬舎に入門したのは、当時希少だったと言われる王陽明全集があったからだと云う。 もしかすると、継之助は省菴と舜水の逸話を知っていたのではないだろうか。 余談。 数年前だろうか。 柳川で、「殿様サミット」が開催された。 そこに招かれた旧大名家の当主の一人が、牧野氏だった。 ここで大いに語られたのが、「素読」を見直そうと言うものだったそうだ。 柳川に近い佐賀、山田方谷所縁の高梁、吉田松陰の山口、こうした地域では、幼稚園あるいは小学校で、実際に素読が実施されているそうだ。 「素読」については以前書いたことがあるが、予想以上の効用があるそうだ。 内容の問題ではない。 「素読」という行為そのものに、学習効果があるそうだ。 最初は、意味が解らぬまま読むわけだから、子供にとっては、大変な負担になるのかもしれない。 しかし、解らぬ字面を追う内に、何が書いてあるか知りたいと言う好奇心が生まれるのではないだろうか。 まあ、この話は別の機会に。 余談の序に。 柳川に福岡県立伝習館高等学校がある。 旧藩校が始まりと云う。 県下屈指の進学校でもあるそうだ。 先輩の出身校なので、何となく知っているの。 伝習館の「伝習」は、恐らく、王陽明の『伝習録』に由来するのであろう。 ここにも、安東省菴と朱舜水、更に陽明学との繋がりが見える。 だらだらと書き繋いできたが、長くなってしまった。 昨日は、会社に泊まりこみで仕事をした。 先ほど帰り、書いていたのだが少々疲れが出てきたようだ。 改めて書くことにしよう。 『柏崎通信』(522号、8月24日)から転載
8月16日、長岡の会館青膳で、設立総会が開催され、河井継之助記念館友の会が正式に発足した。 最後まで難航した会長人事は、スーパー原信(原信ナルス・ホールディング)社長の原信一氏に決まった。 ただ、当日、既に予定があったとのことで欠席された。 また、顧問には、旧長岡藩第17代当主・牧野忠昌氏が就任された。
当日まで、果たしてどれほどの人が集まるのだろうかと危惧していたが、100人を超える予想以上の盛況で、準備委員としては、安堵の胸をなでおろした次第である。 講演会・総会に前に、記念館の状況報告があった。 それによると、オープンして、228日目に来館者が1万人を越えたそうである。 その時、8月4日だと記憶するが、記念式典が開催されたそうだ。 前日まで、長岡祭りであったことを考えると、帰省した人たちや大花火大会を訪れた人たちが、大蔵移管されたのではないだろうか。 オープン後4日間は無料公開したそうで、その時の来館者およそ3000人を加えると、14000人の来館者が会ったことになるそうである。 また、来館者のほとんどが、市外・県外の人たちであったようだ。 特に、サラリーマンが多く、しかもリピータが多いとの事。 稲川先生の話では、『峠』にみえる河井継之助の生き様、特に藩政改革に至る継之助の心理的・社会的地位の変遷が、サラリーマンの共感を得たのではないかと。 その継之助の生き方、「義」を重んじ、「義」に生きる生き様について、稲川先生が、続く講演会でエピソードを交えながら講演されたのである。 設立総会開催の前に、稲川明雄先生(記念館館長)の講演があった。 テーマは、『河井継之助にみる義の心』である。 以前にも書いたことがあるが、稲川先生は、著書『河井継之助-立身は孝の終わりと申し候』で、河井継之助には批判的なことも書かれている。 しかし、視点を変えれば、その事が歴史に長岡を特異なな町として位置づけ明記させることになったの事実である。 しかも、藩政改革や戊辰戦争に至る序曲の段階での継之助の業績と対比すれば、これからも歴史の中に、輝き続けると確信できるのだ。 友の会の活動が軌道に乗れば、今回の講演録なども、HPに掲載されるだろう。 稲川先生の講演は、およそ40分、前もってレジメが用意されたのだが、話は独走して、メモを纏めるには少々時間が要る。 また、客観的に講演の内容を書くには、私自身の思いが、妨げになる。 とまあ、そんな訳で、講演の内容は省略するが、キーワードとして言えるのは、先に揚げた「義の精神」(儒学的義とは、異なる)、「陽明学」(これも、継之助流の解釈があったのではないか)、「常在戦場」(三河以来の考えとは、明らかに異なる)、などなどが揚げられるだろう。 講演会の後、19時より、懇親会が開かれた。 福島県只見町塩沢(継之助終焉の地)で、今日、慰霊祭があったそうだ。 長岡からも、市長の代理、稲川先生などが出席されたとか。 その只見町から、町長以下4名の方が出席された(講演会にも出席されたようだ)。 ほか、牧野の殿様、長岡の森市長、多士多彩である。 しかし、どうも、こうした華やかな雰囲気は苦手である。 駒形君と同席したが、かれは流石に社交家、私は壁の花のようなものだ。 隣の人と話すのが精一杯。 その隣人は、新潟からこられたとか。 また、その隣のご夫人は、新発田出身だが現在東京在住、この会のために遠路来長、河井継之助の全国区振りが、この事かも判る。 会の進行は、FMながおかの脇屋氏とマイスキップの渡辺千雅さん、場の雰囲気を盛り上げるのには、打って付の人たちだ。 出席者も多く、私の知らない『長岡城の歌』などでて、盛り上がる。 やはり、どうも苦手である。 丁度、よい時間が来て中締め、駒形君も帰るというので、これ幸いと引き上げる。 ただ、様子を見て、この会の発展が予測できる。 私自身、幸いだと考える。 今度は、各地の資料集めに大義名分ならぬ、看板が出来たからだ。 これで、古賀三代、山田方谷、更に、広島・我家にも所縁のある頼山陽、菅茶山など、調査の範囲が広がり、何と言っても容易になった。 尚、今回は、学際ネットワークを書く際に試作した『歴史人脈』を添付するので、御意見などあれば、お聞かせ願いたい。 (これは転載記事なの、『歴史人脈図』は添付されていません。 ご希望の方があれば、コメントにどうぞ。 『柏崎通信』(521号)から転載。 お盆である。 もう長いこと、広島に墓参りに行けない状況が続いている。 広島のお盆の風物詩、色とりどりの支柱に四角錘を逆さに乗せたような盆灯篭も久しく見ない。 月性の詩、「男子志を立て、郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも帰らず。骨をうずむ豈ただ 墳墓の地のみならんや。人間いたる処青山あり」を懐に、新 まあ、そんなことを言ったところで始まらない。 唯、進むのみである。 ところで、先ほどのニュース(8月13日)で、柏崎の西本町にある真宗大谷派の聞光寺の様子が映っていた。 現在の住職が25代目と云うから、歴史のある名刹と言えるだろう。 しかし、聞光寺には知られざる歴史がある。 維新・明治の歴史に、1つのエピソードを残しているのだ。 後に明治天皇の和歌の師ともなる近藤芳樹は、戊辰戦争以前、国学の縁を頼って、隠密裏に越後を周遊する。 恐らく、偵察行であったのではなかろうかあろう。 頼ったのは、星野藤兵衛である。 ただ、前後の経緯と考えると、むしろ星野藤兵衛とは親戚に当たる詠帰堂二代目星野鏡里あるいは三代目介堂との接点が在った為ではなかろうか。 鏡里は、古賀謹一郎・茶渓の家臣で水戸学を学んだ国学者でもある藤森弘庵と同門(久敬舎・古賀家の家塾)であり、子・介堂は、藤森弘庵(安政の大獄で中追放)の門人である。 因みに、河井継之助も古賀茶渓の久敬舎で学んでいる。 序に言えば、頼三樹三郎が柏崎を訪ねるのも、この縁ではないかと推測するのだが、定かではない。 戊辰戦争・北越戦争が始まると、近藤芳樹の周旋が功を奏したのか、星野藤兵衛は官軍方に与し、柏崎を戦火から救ったと云われる。 しかし、この事が影響したのか、明治になり、星野家は没落したと云う。 聞光寺が登場するのは、明治11年の天皇行幸の時である。 明治天皇は、柏崎を二度訪れている。 行きと還りにである。 因みに、曽地峠は、その時に開削された。 柏崎の行在所は、今の柏崎小学校だったが、侍従として随身していた近藤芳樹は、聞光寺を宿舎とした。 そこに、夜中人目を忍んで訪ねた人たちがいた。 星野藤兵衛の弟と子息であったと記憶する。 星野家の両名は、近藤芳樹に星野家の惨状を訴えに来たのである。 詳細は不明だが、近藤芳樹は、復路、再開を約束した。 恐らく、明治天皇に上奏したのではあるまいか。 再開の時、星野藤兵衛に正(従)四位を追贈され、当時の金額で1000円を下賜されているのだ。 この時の事は、近藤芳樹が行幸の様子を書いた『陸路廻記(くぬかちの記)』に書かれている。 実は、この辺りの事情を聞光寺に尋ねようと考えていたのだ。 近藤芳樹についても、明治以降の事は、ある程度調べることが出来るのだが、戊辰戦争以前のことが判然としないのである。 また、星野藤兵衛が、この地域では有名な豪商であり、御殿山にあった云う屋敷には、多くの文人墨客を招いたことも知られている。 しかし、藤兵衛自身が、国学との直接的関係があったという史料に当たらない。 そうなると、星野家三代(鵜水・鏡里・介堂)との関係を推測することになる。 星野三代は、代々、古賀家の家塾・久敬舎で学んでいる。 鵜水は古賀精理 それが、このお盆、倒壊した墓石も、可能な限り修復され、倒壊さした本堂から避難した御本尊も、映像に写っていた。 我家は、浄土真宗、石山本願寺攻防戦では、門徒宗として兵も出し、太閤の世には、二度の朝鮮の兵役に参戦し、『さやか伝説』が形を変えて残っている。 浄土真宗でに、「御同行」と言う言葉がある。 戦国時代から、その連携は全国に及び、戦国大名を震撼させた存在である。 江戸期、家康の意向で、東西に分かれたとしても、その根源は、親鸞にあり、蓮如にある。 聞光寺の惨状には、西の者にも、訴える。 因みに、若井は、御東さん。 明治13年、全焼しているのだが、何かが残っていないだろうかと、思い続けたことが、今回の地震で消えてしまうのではないかと危惧するばかりだ。 最近は、ほとんどゆとりがなく、この歴史的ミステリーを追いかける暇もない。 歴史的背景から、あるいは今の風潮から、柏崎、あるいは奥羽列藩同盟の戦った北越戦争の本来の人心地図はタブー視される。 (私は、そう考えている。) 何とも難しい世界だ。 唯、敢えて言えば、私自身、柏崎とは無縁でない。 余計なことかも 26年前の4月29日、柏崎駅に降り立った時の感覚、「ああ、もしかすると、ここが終の地か」と。 もしかすると、500年の歳月を経て、18代目であるべき私が、この地に来たのは、必然であったのかもしれない。 聞光寺の話が、何とも思わざる方向に向かってしまったものだ。 しかし、聞光寺の歴史の中に、戊辰戦争・北越戦争の行方に、キーワードとしての何かがあったことは確かなのである。 因みに、明治天皇についての評伝として有名なドナルド・キーンの『明治天皇』には、柏崎行幸に関する記述は、僅か数行しかないのだ。 今日、中国の人である若き有能な将来を期待される画家、崔君曰く、「柏崎は、今まで大きな地震に見舞われたことはないそうですね?」 災害史の中に、確かに、柏崎が大きな地震に見舞われたことはないのだ。 最も近いところで、「三条大地震」があるが、確かに、歴史に残る震災はないのだ。 さて、これを、どう解釈すればよいのだろう。 課題である。 結局、先回も書いたと思うが、問題は、心である。 心理である。 心情である。 言い方は別として、常在戦場の心がけが、結局は、後々に影響する。 聞光寺の惨状を見て、その歴史的背景を思った人はいるのだろうか。 聞光寺の現住職は、家でもある庫裏はさて措き、先ず墓石の修復を行ったそうだ。 お盆、先祖は、その心情を異次元から見ているのかもしれない。 『柏崎通信』(518)から、訂正と修正を加えて転載した。 先週の日曜日、町内の草刈があった。 恒例の行事で、町内の神社である若宮神社周辺と鵜川沿いの草刈をする。 朝、8時に若宮神社に集合。 地震後、初めて若宮神社を見る。 石の鳥居は、海に対してほぼ直角に立っている所為か、特に損傷も見当たらなかった。 大きな石碑もあるのだが、こちらも損傷なし。 しかし、石段を登り、境内に入ると、先ず二基の狛犬が被害を受けているのが目に入った。 阿の一基は、狛犬が落ち、吽の一基は狛犬が大きくずれていた。 驚いたのは、大きく開いた台座の間に蜂の巣があったことだ。 蜜蜂だそうである。 その他に、何基かある石の祠と石碑が、軒並み倒れていた。 幸い神社の建物そのものには、特に損傷が認められなかった。 これらの石碑の中に「六百年祭」を記念した石碑がある。 昭和30年代に600年だ。 南北朝時代だろうか。 地形から見ると、山城であった可能性がある。 鵜川の蛇行は、時代とともに変化したと聞くので、若宮神社は鵜川に面した時代もあったのであろう。 いずれにしても、地形的に要衝の地であることに違いはあるまい。 NHKの大河ドラマ『風林火山』は、先週、上杉謙信(長尾景虎)を中心にしたテーマだった。 そこに、枇杷島城主・宇佐美定満が登場する。 緒方研が演じていた。 昔、『天と地と』の映画では、渡瀬恒彦が、この役を演じたように記憶する。 柏崎には、今でも、枇杷島の名が残る。 大字枇杷島。 また、枇杷島を冠した小学校もある。 川を右あるいは前に見、山を背にするのは、兵法における布陣の定石である。 以前、過って枇杷島城があったと思われる周辺を歩いたことがある。 枇杷島あるいは剣野方面から山(高い山ではない、丘陵ともいる山だが、奥行きはありそうだ)、 そこに入ると、想像したのとは異なる風景が広がる。 小川沿いに畑が広が 詳細は不明だが、今回の地震で、この地域の被害は然程でも無かったように思えるのだ。 確かに、若宮神社の狛犬像は倒れていた。 石段にも多少の歪が認められる。 しかし、大きな被害があったとは聞かないのである。 先人の知恵だろうか。 これも詳細は不明なのだが、現在の中心街である本町通の被害とは別に、大きな被害が出たと聞く地域が、春日という地域だ。 柏崎地域は、江戸後期、領地が入り組んでいた。 桑名藩のほかに、旗本・安藤氏の所領があった。 五千石とか八千石だったと云う。 それが、春日を中心として地域だ。 報道でも知られる「リケン」の所在地も、ここである。 江戸後期、この地域では、一揆が起こっている。 大規模な一揆ではないが、領主の代官と地役人との結託による苛斂誅求の年貢徴収や借り上げが、騒動の原因だったようだ。 柏崎には、こんな諺があるそうだ。 「春日には嫁にやるな」と言うものである。 他藩領と比べ、そんな諺ができるほど、貧困であったと云う。 ただ、幕末には改善されている。 和算の関流八伝・佐藤雪山と広川晴軒(共に小千谷)が、安藤領・春日周辺を測量したのも、この頃である。 余談が長くなったが、この春日辺りは、旨まで浸かる深田が多かったそうだ。 要するに地盤が脆弱なのである。 柏崎は、日本石油・帝国石油の発祥の地である為、昔、かなり詳細な地質調査が行われている。 地元の人も知らないようだが、現在の新潟産業大学の近くから、海岸に向けて油田開発のための地質調査の試験坑が掘られている。 うる覚えだが、沖合い3キロという長いものだと云う。 以前、旧石油資源開発公社の仕事をしたことがある。 その時、そんな話を聞いたことがあるのだ。 因みに、この時の仕事は、地質図をプロッターで描くと言うものだった。 当時は、大型のフラットベッドのプロッタが国産には無く、確かカルコンプのプロッタだったように記憶する。 何処まで関与していたのかは記憶が定かではない。 ただ、相当細密な地質図を見た記憶がある。 恐らく、目的は違うが、これだけ綿密な調査が、明治の昔から継続的に行われていた地域はないだろう。 皮肉なことである。 憶測に過ぎないが、縦割りの機構が、こうしたところにも出たのではないだろうか。 余談だが、明治から大正にかけて、日本石油の陣頭に立って、地質調査・採掘調査を行っていたのが、山口出身の杉卯七(初代研究所長)である。 序に言えば、卯七の長男が、フランス文学者、フランス語フランス文学会の名誉会長(第3代)・会長(5・6代)の杉 捷夫氏である。 因みに、6代会長の時の副会長が、桑原武夫 これも余談だが、杉卯七の勤続25周年を記念して、友人が柏崎に会した。 野村健堂と羽石重雄である。 共に山口県出身、羽石重雄は、当時、旧制長岡中学校(前・旧制柏崎中学校長)、野村健堂は、ペンネーム 地震の後遺症は、むしろこれから現れてくるだろう。 しかも、時間と共に深刻になるのではないだろうか。 思いついたまま、だらだらと書いてしまった。 昨日、竹田君が訪ねて来た。 彼とも話したのだが、何となく疲れを感じる、そんな気分が尾を引いている。 今も、杉捷夫のエッセーを探したのだが、地震後未整理の書架 Best regards EMail : yasuhiro.kajitani@gmail.com
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1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
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柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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