柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 『綴茗談柄(てつめいだんぺい)』という本がある。 藍澤南城の所謂「漢文小説」である。 茶飲み話というような意味であるようだ。 南城先生が、余暇、囲炉裏を囲み三余堂の寄宿生に語った物語だ。 清代、蒲松齢(ほしょうれい)によって書かれた短編集、奇談小説『聊斎志異(りょうさいしい)』を意識して書かれたものではないだろうか。 因みに、「チャイニーズ・ゴースト・ストリー」などの中国(香港)映画は、この『聊斎志異』が原典であるようだ。

 恐れ多いのだが、『綴茗談柄』にあやかって『綴集談叢(てっしゅうだんそう)』と題し、文献や書籍を調べている過程で知った面白そうな話を身勝手な判断で、集め書いてみようと思う。

 小金井良精を調べていた。 日清戦争中あるいは戦後、小金井良精は、人類学の観点から捕虜の骨格調査を行っている。 最大の目的は、日本人のルーツを探すことであったようだ。 しかし、軍隊に縁故がない。 そこで、伝を辿って訪ねたのが芝五郎だった。 共に、賊軍の汚名を着せられた長岡と会津の出身者であり、年齢的にも、戊辰戦争での辛酸をなめたことも似ていた。 暗黙の了解と云うのか、以心伝心と云うのか、芝五郎は、小金井の要望を快く承諾したそうだ。

 芝五郎については、記憶があった。 しかし定かではない。 そこで、改めて調べていく。 私が記憶していたのは、「義和団事件」に関係したの物語りだ。 余談だが、『北京の五十五日』と言う映画があった。 事実が極端にゆがめられ、日本では、何箇所もカットされて公開された。 確か伊丹十三が、芝五郎大佐を演じていた。 しかし、会津の出身者であることを知らなかった。 そこで、何冊かの本を取り寄せて、一通り読んでみた。 その中で圧巻だったのは、石光真人著『ある明治人の記録-会津人芝五郎の遺書』である。 この件は、別の機会に書きたい。

 私が追いかけるのは人間関係あるいは人脈である。 「義和団事件」、日本では「北清事変」ともいう。 この事変を背景に、追いかけていた様々な人々が一堂に会する。 そんな感じがするのだ。 先の『ある明治人の記録』を書いた石光真人の父親・石光真清(まきよ)は、熊本藩士の家系であり、明治・大正時代、諜報活動をしたことで有名である。 義和団事件当時、芝五郎大佐は、在清武官であり、その地位からして、石光真清(少佐)とは縁が深い。 というよりも、石光機関といわれた諜報機関を統括していたのではないかと推測できるのだ。 余談だが、首相を務めた橋本龍太郎の祖母は、石光真清の末の妹に当たる。

 話が錯綜するが、東洋文庫に『北京籠城』という本がある。 その著者は、芝五郎、大山梓、服部宇之吉である。 大山梓は、大山巌の孫で、大山柏の子息である。 また、服部宇之吉博士は、福島県の二本松藩の出身で父親は、戊辰戦争で戦死し、戦後苦学して東京帝国大学哲学を卒業した中国哲学の泰斗である。 因みに、大山梓は、海軍主計大尉、後年、帝京大学法学部教授を務めている。

 羅列的に書くが、先回書いたように大山柏は、小金井良精とは、人類学あるいは考古学を通じた親交がある。 母親は、山川捨松(大山巌の後妻)であり、会津藩の城代家老・山川大蔵の妹であり、女子として最初に留学した5人の内の一人なのだ。 因みに、大山柏は、戊辰戦争の時、大山巌(通称・弥助)が柏崎在陣中に生まれたところから、柏崎の「柏」に因んで命名されたそうだ。

 どうも、この時代の歴史を知るためには、人間的繋がりを把握する必要があるようだ。 そして更に、学問的背景が重要であると思われるのである。 石光真人氏が、『ある明治人の記録』を書くに当たって、芝翁と面題した経緯と内容が書かれている。 その中で、関心を引く点がある。 面談の時期は、昭和17年の頃であったようだ。 著者は反駁したようだが、芝翁は、「この戦は負けです」と明言しているのである。 何度かの面談の後のことだろう。 著者に次のようなことを話されたそうだ。 引用してみよう。

 「この戦は残念ながら負けです。」
 「中国人は信用と面子を貴びます。 あなたの御尊父もよく言っておられたように、日本は彼らの信用をいくたびも裏切ったし面子を汚しました。 こんなことで、大東亜共栄圏の建設など口で唱えても、彼らはついてこないでしょう」と。

 戊辰戦争で、祖母、母、姉妹は自刃し、藩というよりも流刑地の如き斗南藩では乞食のような最貧の生活を送り、機会を得て幼年学校に入学するまでの経緯は、涙なくして語れない。 酷寒の地で、満足な衣服もなく、履物さえもなかったという。 武士の子としての自覚の薄れそうになる時、父親から叱咤され、改めて武士であることを意識したそうである。 必ず、会津藩の受けた言われなき汚名をを雪辱しようと。 因みに、斗南藩の極貧の生活から脱却する機会を得たのは、青森県の給仕に採用された時、大参事であった野口豁通(ひろみち)との出会いである。 縁とは不思議なもので、石光真清とは、縁戚にあたるようだ。

 思うに、武士道精神、その背景にある学問的素養、そこにある透徹した倫理観と使命感が、時代を明確に認識する慧眼を培ったのではないだろうか。 また、武士道の精神が背景にあったからこそ、恩讐を越えた人間関係の形成が可能であったのではないだろうか。 江戸中期に生まれる実学、例えば、折衷学の系譜が幕末に至り日本的陽明学や蘭学・洋学として結実する。 ここには、形式美としての武士道があるのではなく、知行合一の精神を背景とした武士道の姿がみえる。 幕末維新の立役者の多くが、方外の学問であった医学を志し、後に、それぞれの分野を開拓した背景には、幕末に生まれ明治に引き継がれた新しい武士道の系譜があったのではないだろうか。

 歴史の中に人の繋がりを求めると、歴史の別な姿が浮かび上がる。 拝金主義に陥った今の世の中を見るにつけ、芝五郎翁のことば、「この戦は負けです」が、ちくりと心を刺す。 歴史が今を見る鑑であるならば、その鑑は、歴史的事実あるいは時系列に従った教科書的歴史ではなく、人の繋がりの基に成り立った歴史であることを、痛感するのだが、さて、今の世に、そのことをどれほどの人が認識しているのやら。

Best regards
梶谷恭巨

 先回(539号)「解剖学者・小金井良精から思いは巡る」で、北京原人の頭骨化石の捜査にあった梛野巌(いつき)について書いた。 この時点では、小金井良精との関係を甥とのみ書いたのだが、詳しいことが判ったので追記する。 (以下、敬称略。)

 梛野巌の父・梛野直(ただし、1842-1912))は、長岡市堀金(旧山古志郡堀金村)に生まれ、長岡藩医・梛野恕秀の養子となり、江戸、長崎遊学後、緒方洪庵の適塾(適々斎塾)に入門している。 戊辰戦争後帰郷し、小林虎三郎や三島億二郎の知遇を得て、国漢学校の教授をするが、廃校、一時期新潟病院に在籍するが、上京して東京医学校で改めて医学を学び、後、長岡会社病院の初代院長に就任している。 恐らく、この時の縁で、小金井良精の妹・保子(長女)と結婚した。 その長男が、梛野巌である。

 余談だが、小金井良精の日記、明治40年代は、良精にとって大変な年であったようだ。 41年1月、鴎外の弟・篤次郎死去、その剖検に立ち会っている。 42年1月、橋本節斎に嫁いでいた末妹の玉汝死去。 7月、長男・良一が東大医学部に入学、梛野巌が第四高等学校に入学。 翌43年7月、ベルリン大学百年祭に出席のため渡欧、この年、医学部門日本代表としてベルギーのブラッセルで開かれた「放射線電気学会万国会議」に出席。 他の部門からは、中岡半太郎も出席。 因みに、この会議は、キューリー婦人が名誉会頭で開催された。 年末に帰国。 翌明治44年4月、在職25周年の祝賀会が行われている。

 これも余談だが、小金井良精夫人・喜美子(鴎外の妹)は、鴎外に似て文筆の才能があったようで、多くの文章を残している。 その内の一つ『ちまき』のなかで、「婆々会」なるものに言及している。 戊辰戦争で辛酸をなめ、故郷長岡では生活も侭ならず、上京したk長岡藩士の婦人たちの集まりである。 最初は、男の会もあったようだが、長続きせず立ち消えたようだ。 婦人たちは、月一回、持ち回りで集まったようである。 そこに牧野婦人と人が登場する。 河井継之助の妹・安子(あるいは、八寸)である。 その部分を引用してみよう。

 「牧野の未亡人は、気性の勝った人のせいか、顔も若々しく、まだ白髪もない。 五人のうち最年長なのだが、いちばん若々しくみえる。 肉づきもしっかりしていて、黒紋付の羽織で、あらたまったあいさつをなさる姿は、男っぽいところがある。 北越の俊才といわれた河井継之助の妹だけのことはある。」 更に続く。 牧野婦人の娘、継之助の姪の話である。 少々長いが、引用する。

 「牧野さんの娘の政枝さんは、この会のだれもがほめる。 維新の戦乱のあと、学問をこころざした。 ひとに笑われながら、そのころはじまった小学校へ、十八歳で入学した。 七つ八つの子供たちにまざって、いろはを習った。 さらに、高等師範学校まで出て、教師になった。 (段落) 父の死んだあと、成長した弟の学費を補助し、大学を卒業させた。 それから弟に家事を託して渡米した。 官費ではなく、苦学だったため、多くの年月をかけて学び、帰朝した。 ほうぼうの学校から、引っぱりだこである。 若くみえるが、もう五十近いはず。 弟はいま地方づとめとなり、政枝が母の世話をしているのである。」 因みに、長岡藩士・牧野(正安)婦人の長男・欽太郎(あるいは、金太郎)は、十日町村における山県狂介(有朋)隊との戦いで戦死している。 以上、星新一著『祖父・小金井良精の記』の中に収録された小金井喜美子の『ちまき』(抄)からの引用。 尚、星新一(親一)の父・星一は、福島県の現いわき市の出身、星製薬、星薬科大学の創設者で、小金井良精の次女・せいと結婚している。 星新一が生まれたのが、曙町であることを考えると、一時期同居していたのであろう。 因みに、曙町の屋敷は、500坪(借地権を所有)あったそうだが、経済的に逼迫した時、50坪の借地権を売却したそうである。

 これは、小金井良精宅で開かれた「婆々会」でのエピソードだが、小金井良精を介して参加していた喜美子の兄が、戊辰戦争の序幕である浜田(石見)口の戦いで、逸早く、大村益次郎の率いる長州軍に参軍した津和野藩の森林太郎(鴎外)の妹である事に、何かしら因縁めいたものを感じるのである。 後の長岡中学の校長の話にも通じるのだが、昨日の好敵手は、今日の親友とでもいうのだろうか、幕末・明治の歴史を散見すると、随所に似たような状況が見えるのである。

 補足より、余談めいた話が多くなったが、最近の二世社会を見ていると、人脈の把握が、現在を知る上で如何に重要かを改めて思うのである。

Best regards
梶谷恭巨

 

 小金井良精(よしきよ)といっても、今の人は、ほとんど知らないかもしれない。  この人は、日本初の解剖学教授(今の東大医学部)である。 また、比較解剖学(他の動物との比較)、更に、我国における人類学を確立した人物でもある。 この様に書いても、その人物像はイメージされないだろう。 幕末・明治の人脈を追いかけていることは既に書いた。 時代を前後しながら追い求めている。 その過程で、登場したのが小金井良精だ。 (以下、敬称略)

 簡単に、人間関係を紹介しよう。 小金井良精は、幕末、安政5年(1858)、長岡藩士・小金井良達の次男とし生まれている。 戊辰戦争の戦乱に巻き込まれ、一家が仙台に落ち延びた頃、10歳であった。 母親は、「米百表」の病翁・小林虎三郎の妹である。 また、再婚の相手が、森林太郎(鴎外)の妹である。 SF作家の星新一の母方の祖父にあたり、星新一は、『祖父・小金井良精の記』を書いている。

 小金井良精は、筆まめな人であったようで、ほとんど毎日、日記をつけていたそうだ。 その日記に、明治の東京の変遷の模様あるいは風物詩が書かれている。 子煩悩で家庭的、しかもドイツ留学時代に身に着いたのか、頑固なまでに規則的な生活をおくった人であるようだ。 休日や暇な時間が出来ると、子供あるいは家族を伴い、東京の郊外を、と言っても今の感覚で言えば、山手線の環内なのだが、散策している。

 明治15年当時、日本の人口は約3000万人、それが、10年後の25年頃には、4000万人に達している。 明治初期には未だ残っていた江戸名所百景に描かれた風景は、この10年間に大いに様変わりし、小金井良精の散策のコースも、次第に足を延ばすことになった様子が、窺える。 変わったのは、風景ばかりではない。 人情も変化している。 

 小金井良精の終の棲家となる、確か文京区曙町(Googleマップで調べる牛込曙町)の家は、旧旗本土井家の屋敷の借地権を購入し、既にあった旧家屋に増築を重ねたものだそうだが、当初は、敷地の境界が松並木だったそうだが、その後、老松が枯れ、生垣を作ったそうだ。 ところが、時代を追うにして、盗難が相次ぎ、無粋なとたん塀を作ったというから、治安も悪化していったことが伺われる。 もっとも、凶悪犯というのではなく、家人が気付き、騒ぎになると、逃げたそうだから、こそ泥程度ということだろう。 しかし、風物詩が廃れ、人情が希薄になっていく様が、何とも、物悲しい。

 それでも、この小金井良精という人は、善人説の人だろうか、取り立てて苦情など日記に書いていないのだ。 それどころか、人への気遣い、人の世話と、何とも人情家なのである。 戊辰戦争で辛酸をなめた経験が、そうさせたのかもしれない。 その小金井良精が、嘆いていることがある。 学生たちが勉強しなくなったことや、医学生としての使命感を持たなくなったことだ。 何時の世も同じことなのか。

 いずれにしても、小金井良精は、解剖学のみならず、人類学、更に、考古学(当時は人類学の一分野だったのかもしれない)の世界に深く関与していく。 例えば、こんなエピソードがある。 西郷隆盛の従弟であり、日露戦争で偉勲を立てた大山巌(公爵)の長男・柏(かしわ)との出会いである。 大正の11年頃から親交があったようだ。 歳の差は、30歳。 その後、人類学の調査行などに同行している。 大山柏は、当時、陸軍の軍人で比較的閑職に就いていたようだ。 趣味が、人類学・考古学なのである。 少佐に昇級するとき、大山柏は、小金井良精に相談している。 陸軍を辞めて学問の世界に進むべきか否かと。 小金井良精は、学問に進むことを薦めているのである。 大山柏は、その助言に従い、陸軍を辞し、大山考古学研究所を設立、慶応大学で講師にもなっている。 この人脈が、大谷瑞光の探検へも繋がるのである。 また、北京原人問題にも。

 所謂、「北京原人化石紛失事件」は、日中戦争の激化により、周口店で発見された北京原人の化石を北京の協和医学院からアメリカに輸送する際に起こった。 今もって、その行方はわからない。 この捜索に協力したのが、当時、北支派遣軍の軍医部長であった梛野巌(いつき)だ。 梛野巌は、明治24年(1891)、長岡に生まれ、旧制長岡中学、第四高等学校を経て、東大医学部(東京帝国大学医科大学)を大正5年(1916)に卒業し、陸軍の軍医となるが、その後、大学院で内科学を学び、ドイツ・アメリカ駐在軍医官、更に、スイスのチューリッヒ大学で、脳病理学を研究するなど、軍医としては、異色の経歴の持ち主である。 詳細は不明だが、梛野と言う姓から見て、河井継之助とも縁が深いのではないだろうか。 因みに、継之助と深く変わる梛野嘉兵衛は、継之助の妻・すがの実兄である。 この様に、小金井良精に始まった我が国の解剖学は、その後の人類学や考古学、あるいは民俗学へと発展していく。 (この件に関しては、次回、補足する。)

 余談だが、少々私事を。 昔、人類学や民俗学に興味を持ち、その方面に進もうと考えたいた時期がある。 丸善から可也の書籍や文献を取り寄せた。 言語学にも興味を持った。 ソシュールやウィットゲンシュタインとの出会いも、その頃である。 若い頃、事業に失敗し、当時集めた書籍や文献は、ほとんど手放したのだが、何冊かを持ち続けた。 その中の一つ、「Reallexikon Der Germanischen Altertumskunde」の分冊が2冊ほど残っている。 「ドイツ古代学百科事典」とでも言うのだろうか。 小金井良精のことを知り、その本があることを思い出した。 今では、すっかりドイツ語を忘れてしまい、単語を追う程度のことしか出来ないが、図画を見れば、その当時のことが思い出される。 因みに、何故、こんな本を書くことになったかといえば、当時、欧州中世叙事詩、例えば、『ベイオウルフ』、『エッダ』『オシアン』、下っては、『ニーベルンゲンリート』や『ローランの歌』のロマンティシズムに興味を持ち、読み漁っていた時期だったからだ。 余談だが、『オシアン』はアイルランド、言い駆ればケルトの代表的な叙事詩、それが、『平家物語』の無常観に通じる。 アイルランドは、今も親日的な国だと聞く。 もしかすると、情感的底流の中に通じるものがあるのかもしれない。

 それが、40数年の時を経て、小金井良精によって蘇って来た。 小金井良精は、留学時代、アルザス・ロレーヌのストラスブルグ(当時は普仏戦争に勝利したドイツ領、スタラスブール)大学で学んだ時期があり、フランス語も堪能だったそうだ。 読書も医学書に止まらず、広範囲に及んだと云う。 汽水域のようなストラスブルグが、医学を越えた人間学へと小金井良精を導いたのかもしれない。

 それにしても、歴史を時代人の視点を介して見れば、全く異なった世界が広がるのである。 その視点を通し、様々な人間像を知ることは、否、体験することは、何と楽しいことか。 それに何よりも、多くの教訓を得ることか。 中学一年生の息子の教科書を見る時、殺伐とした教科書的歴史の中に、画一化し、荒廃していく小金井良精が生活した変遷する東京の風物詩が重なって見えるのである。

Best regards
梶谷恭巨

 

 久々に、このシリーズを書く。 ただ題名を変える必要に迫られている。 柏崎発が、中越、否、越後に拡大されたのである。 その最大の理由は、明治以降の教育史を追いかけたことに始まる。 そのキーパーソンの一人が、羽石重雄、旧制柏崎中学の初代校長である。 羽石重雄、杉卯七、そして、その存在を顕した野村健堂の小論を読んだことに発端がある。 すなわち、『大塩平八郎と生田萬』だ。 大正時代に発行された雑誌に寄稿された小論である。

 この三人は、ともに山口県出身、旧制山口高校が設立される前の山口高校で同級であったようだ。 三人が柏崎に集まるのは、杉卯七が、日本石油勤続25周年を、羽石重雄が、柏崎中学校長に就任したことを祝うために、黒頭巾こと野村健堂が誘って柏崎に会合したことであるようだ。

 注目したいのは、羽石重雄と杉卯七である。先ず羽石重雄から見ていくと、先任地・山口県の旧制岩国中学から、2年間のブランクの後、柏崎中学校長に就任するのである。 その後、長岡中学、最後の任地、松本中学までは辿ることができる。 ところが、岩口中学校長に赴任するまでの経緯が不明なのだ。 現岩国高校に確認したところ、面白い話を聞いた。 岩国は吉川氏、すなわち毛利藩の支藩である。 質実剛健をモットーとした藩校の伝統を持つ。 柏崎の維新史にしばしば登場する近藤芳樹とも縁が深い。 その岩国中学で、羽石重雄は排斥運動にあっているのだ。 聞くところによれば、明治の典型的な紳士の服装、チョッキに納めた金鎖の金時計、そのハイカラな洋装が、質実剛健の校風に合わなかったのか。 最上級生の5年生が反発した。5名だったと云う。校長排斥運動が起り辞任するに至るのである。

 傍線を引く必要がある。友人である杉卯七は、柏崎、日本石油の技術者として来柏する。 その経緯も複雑だが、卯七の父親は、奇兵隊に所属し、戊辰戦争を転戦している。 詳細は不明だが、柏崎・長岡あたりで戦ったことが推測される。 例からみれば、明治政府の高官になる事もできたはずだ。 ところが、隠棲し、趣味である釣りに出て行方不明になっているのだ。 その子息である卯七が柏崎に来るのである。 因みに、卯七の子息・捷夫(としお)は、日本フランス文学会の会長に就任するのだから面白い。

 さて、羽石重雄に話を戻すと、岩国中学辞任後、柏崎を経て、長岡中学の校長に就任してるのである。 興味を持つのは、岩国中学との関係である。 実は、岩国中学から長岡中学に赴任するのは、羽石重雄だけではない。 夏目漱石の『野分』の主人公のモデルといわれる坂牧善辰の後任の校長が、岩国中学から赴任する橋本捨次郎なのである。 これを偶然の一致と見ることができるだろうか。

 中島欣也著の『明治熱血教師伝』という本がある。 そこに描かれているのは、長岡と薩摩の校長人事の交流の経緯だ。 本富安四郎と坂牧善辰が主人公である。 「和同会事件」で、坂牧善辰が長岡中学を去ることになるのだが、この経緯を考えると、あることに想像の羽が伸びる。 漱石の『坊ちゃん』である。 坂牧善辰は、漱石の一級後輩だったようだが、当時のこと、浅からぬ親交があったはずだ。 漱石の書簡集に、それが見える。

 そこで空想の輪を広げると、岩国中学の羽石重雄の金時計事件、それに坂牧善辰の「和同会事件」、これらを足して二で割れば、何かしら『坊ちゃん』の場面が思い浮かぶのである。 しかも、確認は取れていないのだが、羽石重雄の前任地は九州なのだ。

 何ヶ月か前、卒業生である友人の紹介で長岡高校の和同会館を訪ねた。 事前に羽石重雄校長のことを問い合わせしていた。 資料館を見学した後、事務局に立ち寄り、その話をすると、事務の女性が問合せのことを記憶していた。 その為か、友人の存在の為か、歴代校長の写真を拝見することが出来た。 そこには、予想とは少々違うのだが、古武士然とした羽石校長の肖像があった。 人があり歴史がある。 感慨、沸々と湧く思い。 不条理のニュースばかりの世の中に、先人の眼光が目映く思えた。

Best regards
梶谷恭巨

 義父宅での食事の時、彗星が異常に明るくなるというニュースがあったことを知った。 確かめてみると、1つではなく2つの彗星が、急激に光量を増大させていることが判った。 6乃至7等星代だったスワン彗星が4等星、17等程度であったホームズ彗星が、約40万倍の2等星代に大バーストしたというのである。 (残念ながら、義父宅からの帰りに空を見上げてみたが、確認は出来なかった。)

 昨年あるいは一昨年読んだエリック・コタニことNASAの近藤陽次博士の『Supernova』という小説を思い出した。 確かシリウスのαだったかが、超新星化し、その宇宙線の嵐が地球を直撃するというストリーだ。 それに、ディスカバリーCHだったか、ヒストリーCHでは、20世紀最大の預言者と云われるエドガー・ケーシーの特集を放送していた。 更に、ハインリッヒの法則を地でいくような不祥事の連続。 その上、株式市場がある。 何だか、全てが終末論を暗示しているのではないかと感じるのである。

 ゴールドラットは、その作品の中で「マーフィーが現れる」という表現をしばしば使っている。 「マーフィーの法則」のマーフィーである。 「起こる可能性があるものは、いつか起こるものだ。」 「巧く行かない可能性があるものは、矢張り巧く行かないものだ」など、言われて見れば、そうかもしれない経験則が、当にマーフィーの法則の如く、世の中に広まった経験則だ。 ゴールドラットのいう「マーフィー」は、ボトルネックの発生とか、システムの中に必然的に生じる問題点あるいは不具合というような意味でだろう。

 今の状況は、社会というシステムで発生した小さな問題点、例えば、小さな倫理的欠如が蓄積され、それがシステム全体に影響を与え始めた結果といえるのではないだろうか。 小さな善意は足が遅い。 反して、小さな悪意は足が速い。 足の速い悪意を先頭にすれば、足の遅い善意との間は益々広がっていく。 弱者の問題を先ず考えなければ、強者との格差は急速に広がっていく。 言い方は様々だが、要は、社会というシステムには、利益を生むための様々なテクニックが適用できないのではなく、適用されていないのである。 例えば、トヨタの工程管理の一つ「看板方式」がある。 先の工程の状況(進捗状況)を後の工程に「看板」に書いて知らせ、 後の工程の進捗を調整する。 何故、こうした方法が社会には適用されないのか。 甚だ疑問である。

 「看板方式」は、多くの事を示唆している。 見方を変えれば、歴史の先頭に立つ現在の人々が、過ぎ去った過去へメッセージを送る、あるいは、将来の人々へメッセージを残すという「フィードフォワード」ではないだろうか。 「過去にメッセージを送る」という考えは、論理的におかしいと思われるかもしれない。 しかし、過去の人々には、将来の人々に託した思いがあったはずだ。 親が子に託すように。 それに応えることが、あるいは、恨み言でもかまわないが、それを伝える、言い換えれば、先人の思いを確認することが必要ではないか。

 歴史は、人の連鎖でもある。 完成品が何か判らない生産工程に似ている。 トヨタには、エマージェンシー・ストップが工程の中に組み込まれていると云う。 それぞれのワークセンターには、その為のボタンがあるそうだ。 そのボタンが押されると、全工程が停止する。 その間に、問題が発生したワークセンターの障害を解決
し、他のそれぞれのワークセンターでも、再開時の調整を行うそうだ。 余談だが、最近では、こうした情報も中々入手できない。 情報公開が優先された時代(そんな昔のことではない)、それを公開した人がいるのだ。 少々仕事に関係することもあり、それをダウンロードしておいた。 その後、ある法律の成立後、探してみたが既に消滅していた。 実に不可解な現象である。 数値的データあるいはFACTは、情報公開という原則の下に公開される。 ところが、その本来の主役である人間的要素は、闇の中に葬られたのである。

 以前にも書いたが、現状を知ろうと思えば、少なくとも2世代60年(もっとかも)は遡る必要がある。 そこか一つ一つの足跡、むしろ痕跡というべきかも知れないが、それを辿らなければ今を状況を把握することが出来ない。 (権威ある期間であれば、そんな必要はないのかもしれないが。) すなわち、ヒューマン・ファクターを考える限り、過去に遡り、現在に至り、そこから先のことを推測することになるのである。 当に「フィードフォーワード」ではないか。 予測した訳ではないが、3年前までの5年間、そうした情報を収集した。 可能なものは、必要と思われる個人データも追求した。 記憶と思考の構造も、実は、変更したのである。

 話が、2つの彗星の話から思わぬ方向に展開したが、シューメーカー彗星群の木星への衝突を思い出して欲しい。 ジュピターは、第二の太陽になる可能性を持っているのだ。 影響は広範囲に及び、半年間も続いたといわれる衝突の痕跡は、太陽にも影響を及ぼす。 2つの彗星のバースト、彗星の出現は、中国的革命思想、すなわち循環する自然、昔から天変地異あるいはシステムの大変革をもたらすと云われるのだから。 因みに、ハレー彗星だったか、小学生の時に見た、その姿は、美しさとともに、何かしら不安を感じさせたものである。

Best  regards
梶谷恭巨



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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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