柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
司馬遼太郎さんの『風塵抄』に、「呼び方の行儀」という一文がある。 (1987年(昭和62年)12月7日の日付の産経新聞に掲載。) この年、7月には、ロッキード事件の判決、10月には株式市場が大暴落している。 もっとも、下落率14.9%だったというから、昨年の暮れから今年に掛けての大暴落に比べれば、まだ益しと言うべきか。 いずれにしても世の中騒然。 そんな時に書かれた「呼び方の行儀」に、多少安心感を覚えるのだ。 冒頭に、「さん」の敬称を使ったが、広島出身の私には、どうも、この「さん」がシックリ来ない。 長岡では、普通は「さ」、「様」に当たるのが「さん」だそうだ。 これは、三河からの伝統であるらしい。 しかし、広島県人の習性が抜けないのか、「さん」は女の人に対する敬称なのだ。 もっとも、これは我家に限られるのかもしれない。 例えば、自分を「僕」というと、叱られたものだ。 余り「僕、僕」と言い過ぎると、倉の中に閉じ込められた。 どうも、父方の伝統らしい。 言葉は、正確に使えという儒教的教えである。 そんな訳で、意識しなければ、男子には「君」を使う。 ところが、これが不評である。 新潟に来て四半世紀が過ぎるのだが、今もって、敬称の使い方に迷ってしまう。 敬称だけではない。 「呼び方の行儀」に書かれている相手の呼称にも戸惑いを覚えたものだ。 例えば、親族の呼称だが、何処そこの伯父(叔父)さんと、住む場所を冠して呼ぶ。 後になって、これが災いする。 家族・親族向けに家史を書いているのだが、苗字を忘れていることがあるのだ。 と言うよりも、在所の呼称と苗字を混同しているのである。 しかも、家系が複雑なので、敬称・呼称が混沌になる。 中国には、こうした親族関係を明確に表す漢字がある。 例えば、「舅父」は「配偶者の母の兄弟」のことを表し、「妗母」は「母の兄弟の配偶者」を謂う。 こうなってくると、頭の中が混乱する。 民法では、親族を「6親等内の血族および配偶者と3親等内の姻族の総称」とするのだが、実際には、そうも行かない。 従兄妹同士や又従兄妹、あるいは従兄妹半の婚姻もある。 昔は、生活空間が狭かったから、尚更のことで、兎に角、関係が明確でない限り、親族で年上であれば、余程年齢が離れていなければ、皆「兄さん、姉さん」なのだ。 ところで、ここで使う「さん」は、他人に対する敬称の「さん」とは異なるように思える。 優しさを感じるのである。 もっとも、私の場合、余り交流がないと、「おじ様」、「おば様」と呼ぶ。 意識して呼ぶのではなく、そうなってしまうのだ。 そういう意味では、「さん」は、日本独特の敬称だ。 優しさもあれば、当たり障りの無い表現でもある。 「本音と建前」、「菊と剣」、ルース・ベネディクトではないが、日本人の精神構造を集約した言葉である。 先日、友人が、「年下の自分に手紙が来た。 「貴兄」という敬称に驚いた」と言う。 「どういう意味だろう」と聞かれたので、儀礼としての敬称だと応えた。 実は、私もよく使う。 相手が自分に無いもの、あるいは優れたものを持っていると認識すれば、自ずから敬意が生まれる。 例え年下でも、自分よりは優れているのだから、人生という学塾の兄弟子である。 故に、「貴兄」なのだ。 恐らく、友人に手紙を書かれた人も、同じ思いが有るのではないだろうか。 まあ、そんなことを考えると、差し詰め私なんぞは、自分のことを「愚弟」と結ばなければならない。
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Best regards 梶谷恭巨 吉村昭の歴史小説に『長英逃亡』という作品がある(先回紹介)。 勿論、人間としての高野長英を描く最高の作品だと思う。 しかし、江戸後期・幕末の蘭学・洋学の人脈を知る上で非常に参考になる作品でもある。 以前、長岡藩の九里(くのり)氏についてインターネットで調べたことがある。 その過程で、侠客・博徒のデータベースがあるのを発見した。 よく調べられたものだと感心した。 これによると、新潟(越後)で幕末・明治に名の残る博徒数の数が、およそ80。 多さにも驚いたのだが、そのネットワークが全国に及んでいることにも関心を持っていた。 侠客としての観音寺一家は、4代続いたとある。 さて、観音寺久左衛門だが、調べてみると、彼を主人公にした小説があった。 中島欣也著『戊辰任侠録』だ。 幸い古本があった。 早速購入。 読んでみると面白い。 『長英逃亡』では端役だが、こちらでは主役。 しかも、中島氏の調べである。 観音寺久左衛門は、通り名。 本名は、松宮雄次郎、観音寺は住した村の名前で、『長英逃亡』では出雲崎とあるが、これは別邸があった為でだろう。 観音寺村は弥彦に近い与板藩領、そこに本宅があったのだそうだ。 松宮氏の祖先は、源頼朝の家臣を開祖とする豪族で、代々久左衛門を名乗り、観音寺村に住したと云う。 主人公である松宮雄次郎直秀は、十代目・久左衛門。 裕福な家であったようだが先代である九代目・久左衛門は、松宮氏中興の祖といわれ、近隣に富豪として知られていたそうだ。 十代目は、そうした財産を背景に生まれた所為か、学芸にも秀で、特に絵を能くしたそうだ。 『長英逃亡』にも、そのことが書かれている。 この久左衛門が、博徒の大親分、しかも子分が数千人いたと言うのだから驚きである。 因みに、九代目・久左衛門のころから、弥彦神社の大祭の時、定例の花会が開かれたそうだが、関東・東北・中部一円の親分衆が参集したという。 兎に角、エピソードが多いのだ。 例えば、大前田栄五郎や国定忠治などが登場する。 ただし、古文書などでは皆「久左衛門」を名乗るので推定十代目であるそうだ。 因みに、私事だが、我家の場合、代々新左衛門と新右衛門を交互に名乗った。 その十代目・久左衛門が、会津藩の要請により、兵を募り、最後には一隊を率いて北越戊辰戦争を戦っているのだ。 そして、最後は、会津藩の降伏を期に、米沢藩に降伏し、後に許されて観音寺村に帰郷している。 この辺りの事情は、『戊辰任侠録』を。 前置きが長くなってしまったが、観音寺久左衛門に様々な人間関係の接点を見るのである。 例えば、久左衛門の参謀格に二人の人物がいる。 一人は、水戸浪人の斉藤新之助、もう一人は、元村上藩士の剣客・遠藤改蔵である。 この組み合わせ、何処かに見たような既視感がある。 生田萬に対する驚尾甚助と鈴木城之助だ。 鷲尾は、尾張浪人の神道無念流の剣客であり、鈴木は、元水戸藩士、共に三条の大庄屋・宮島弥五兵衛(三条の一部は柏崎・桑名藩領、宮島あるいは宮嶋氏は柏崎の出身とか)を介して、生田萬を知り、盟約を結んでいる。 横山健堂の『大塩平八郎と生田萬』によれば、鈴木は、藤田東湖の徳川斉昭擁立運動にも参加したとある。 藤田東湖は、斎藤弥九郎とは、岡田十松門下で神道無念流を共に学んでいる。 因みに、『戊辰任侠録』では、遠藤改蔵の流派が明確に書かれていないが、長沼庄兵衛の門人とあり、また、長岡藩の篠原伊左衛門を上げて「彼もまた神道無念流の斎藤弥九郎に学び」とあるから、神道無念流であったことが推測できるのである。 高野長英も神道無念流とは縁が深い。 「蛮社の獄」の遠因となる「尚歯会」のメンバーには、岡田十松門下の江川太郎左衛門(英龍)、渡辺華山、斎藤弥九郎水が加わっているのだ。 因みに、『広辞苑』によれば、「尚歯会」の「尚歯」は、『礼記』が出典、「歯」は年齢、「尚」は、(たっとぶ意)老人を尊敬することある。 (岡田十松の門人には、他に、先の藤田東湖、武田耕雲斎、水戸浪人の芹沢鴨、新見錦や新撰組の永倉新八などがいる。) しかも、入牢中、またその後の上足柄郡潜伏中の世話をするのは、江川英龍の命を受けた斉藤弥九郎であり、その配下あるいは門人なのである。 お気付きだろうか、神道無念流が、随所に登場してくるのだ。 当時の学者や医師は方外の人、それに、剣客も主を持たない浪人が多く、勿論博徒は法外の人なのである。 身分制度が曖昧になった江戸後期から幕末、こうした人々が、それぞれの社会の枠組みを結びつける一種の接着剤的存在ではなかったのか。 少々趣は異なるが、ふと堀田善衛の『路上の人』が思い浮かんだ。 昔は、社会の階層や枠組みを人が繋いでいたのだが、現在は、メディアやネットワークというリヴァイアサン(旧約聖書に登場する海の怪物、巨人。 トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』がある)が、相互に遠ざかっていく階層や枠組みを細い糸で繋いでいるのだと。 観音寺久左衛門は、天変地異、人心の荒廃、グローバル化する世界情勢、動乱の世の中に咲いた仇花か。 彼は、それでも戊辰戦争を生き抜き、故郷・観音寺村に隠棲した。 明治3年、大河津分水の工事の時、県への出仕を要請されたが、「会津の殿様が謹慎中、しかも自分は賊軍で戦った罪人である」と固辞し、佐幕・会津藩、あるいは自分の時代であった江戸時代に義理を通しているのである。 Best regards 偶然に、『田原坂』という再放送のドラマを見る。 少々異論を唱えたい。 何が異論か。 歴史を人の結びつき、すなわち「人間関係」から求めると、不可解な状況が見えてくる。 その契機となったのが、吉村昭著『長英逃亡』だ。 高野長英が「蛮社の獄」で永牢になる直接の原因は、水野忠邦による「天保の改革」ではなく、鳥居耀蔵の排洋学の思想にあるように思える。 何故に、敢えて「思想」かといえば、鳥居耀蔵の父親・林述斎の存在があるからだ。 林述斎は、江戸後期における幕府儒学の総元締め、しかも、親藩・美濃(岐阜)岩村藩・松平家の三男である。 林家は、周知の通り、林羅山を祖とし、幕府学問の長、大學頭(だいがくのかみ)、すなわち昌平坂学問所・「昌平黌」(しょうへいこう、湯島聖堂)のトップを継承する。 例えば、赤穂義士の処遇・処分について、荻生徂徠との対立で有名。 また、「寛政の異学の禁」にも関係する。 しかし、その学問の系譜は複雑だ。 林述斎の門弟・佐藤一斎は、後の明治維新にも深く関係する山田方谷・佐久間象山・横井小南の師でもあるのだ。 そして、当時の武家としての素養・兵学は、山鹿素行に連なる。 冒頭に戻ると、所謂「維新の元勲」には、暗黙の了解があったのではないかと思うのだ。 歴史に残る革命を成功するためには、単なる志あるいは熱意とか情熱では解決できない問題がある。 冷徹な計算あるいは論理の組み立てが必要だ。 敵を受け入れる寛容の精神も必要だが、その寛容の背景には、大局を見た計算があるのではないか。 シェークスピアではないが、「人生は、目くるめく夢舞台」。 少々のインシデント(予想外の突発事)があったとしても、それはそれ、舞台の上ではアドリブも。 しかし、舞台は変わらない。 ストーリーも、その演者にも、観客にも夢舞台。 明治の動乱を治めるためには装置が必要だったのではないだろうか。 しかも、身を犠牲にして、切るべきものを切らなければならない。 その立役者は、大物で無ければならない。 それが、西郷隆盛だったのではないか。 西南戦争における西郷の行動あるいは在り方を見ると、大久保との暗黙の了解があったのではないかと思えるのだ。 先に揚げた『長英逃亡』に見える人脈の広がり、長英を匿う、それらの人々の信義。 高野長英という偉大なる個人ではなく、何かしら大きな枠組みに踊る人々の姿が見えるのである。 ただ、現在にそれを求める そんなことを考えると、西南戦争が、また別なものに見えてくるのだが。 Best regards 先日、長岡インターネットを訪ねた時、何の話がきっかけか美術の話が出た。 ふいと思い出したのが、武石弘三郎のことだ。 新潟の人なら、ご存知のことと思っていたが、余り知られていないようだ。 武石弘三郎は、明治10年(1877)7月28日、新潟県南蒲原郡中之島村長呂(長岡市中之島)の生まれで、昭和38年(1963)5月11日に没している。 東京美術学校の開設が明治22年(1889)であるから、前後の関係から東京美術学校彫刻科第一期生として入学したのでっはないだろうか。 一級下に高村光太郎(1883-1956)がいるが、年齢的には、武石が5歳年長。 『談話筆記』の「美術学校時代」にこの事が書かれている。 この随筆から、もう少し引用すると、塑造科の教師は、長沼守敬(もりよし、1857-1942)で、「伊太利(イタリー)からかえって日本でさかんに銅像の研究を進めておられた。 長沼先生の教室には武石弘三郎さん一人で、先生一人生徒一人の教室を覗きながら羨ましく思った」とある。 (青空文庫に高村光太郎の「美術学校時代」が収録されている。 参考までに。) 武石弘三郎と、後に関係が深くなるのが、森鴎外で、当時、美術学校で「美学」を講義していたそうだ。 実は、作品の流れから、武石弘三郎を各界の名士に紹介したのは、同郷とも言える石黒忠悳と考えていたのだが、平成15年度の静岡県立美術館の年報に、「森鴎外と美術-彫刻家・武石弘三郎への肖像彫刻斡旋を通じて-」と題する研究発表が、堀切正人氏によって行われていた。 敬意を払い、研究の趣旨を簡単に引用する。 「森鴎外日記をもとに、当時の鴎外の政治活動と、武石への肖像彫刻斡旋とをクロノロジカルに付き合わせることによって、鴎外における国家と個人の関係を探り、さらには明治、大正時代における社会と芸術の関係の一面を浮かび上がらせようとするものである。」 非常に興味深いテーマだが、入手するには時間が掛かりそうだ。 武石弘三郎は、卒業後と思われるが明治30年(1897)に、高村光太郎、白井雨山、渡辺長男らと、「青年彫塑会」を結成している。 その後、明治34年(1901)から明治42年(1909)ベルギーのブリュッセル王立美術学校に留学している。 (この間、藤島武二らと、ヨーロッパを周遊しているようだ。) 帰国後は、文展で活躍している。 その辺りから、一気に肖像彫刻の制作が増えている。 一覧表を作ってみると、1911年(2)、1912年(4)、1913年(3)、1914年(8)、1915年(9)、1916年(6)、とまあ、こんな具合だ。 調べた範囲では、約90点の作品があった。 (簡単に作った一覧表なので、漏れがある。 もう少し纏まったら紹介する。) この肖像彫刻の人物がすごい。 当に、各界の名士のオンパレードである。 それに、時代を代表する彫刻家であったことを物語るのだろう。 例えば、藤島武二は、武石弘三郎の肖像画(神奈川県立近代美術館蔵)を描いている。 また、鹿児島との縁も深く、門人には、西郷隆盛像(鹿児島城山)や渋谷ハチ公銅像(初代)などを制作した安藤照(1915-1945)がいる。 履歴をもっと詳細に調べたいのだが、作品の記録があるのに、経歴が良く分からない。 例えば、堀田大学の父・堀田久万一との関係があるのだが、詳細が不明。 故郷の中之島に若宮神社があり、その狛犬を制作しているのだが、他に、兄の武石貞松と堀田久万一の友情を表す「友情の双像碑」があるそうである。 機会があれば調べたいところだ。 その他、新潟県あるいは長岡に所縁の人々の肖像彫刻も多数制作している。 余り知られていないというのが不思議である。 広島にも縁が深い。 中学・高校時代、間違いなく目にしているはずなのだが、「世界平和記念聖堂」のレリーフの模型を作成したのも武石弘三郎なのである。 この模型を基に、実際のレリーフを制作したのが、円鍔勝三(広島県御調郡河内村、今の尾道市御調町)・坂上政克なのだ。 因みに、欄間彫刻(レリーフ)の構想を纏めたのは、今井兼次である。 いやはや書いていくと止め処が無い程のエピソードがある。 しかし、武石本人に纏わるエピソードが少ない。 文献資料の端々に、制作者と依頼者の関係が見え隠れするのだが。 長くなってしまった。 また、何か見つけるとことが出来たら、書くことにしよう。 Best regards |
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誕生日:
1947/05/18
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よろず相談家業
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河井継之助記念館友の会会員
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