柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
[46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56]

 昨年の中越沖地震以来、女房殿の老父母宅で晩飯を食するのが慣例になった。 そこで、昔話を聞くのが楽しみでもある。 義父の家、若井氏は、代々越後杜氏。 何時の頃から越後杜氏が生まれたのかが、今回のテーマである。 以下は、その聞き書きであり、憶測である。 歴史的事実とは、少々異なるのかもしれない。

 先ず、話に出てくるのが、徳川家康の十六神将の一人・榊原康政の話である。 義父は、先代、あるいは、それ以前からかもしれないが、上州(群馬県)の館林の造り酒屋、ぶんぶく茶釜で有名な「分福」酒造の杜氏を務めてきた。 その館林の初代藩主が、榊原康政なのである。 義父の話によれば、榊原氏移封の際、酒造りの職人集団、杜氏を伴ったのだそうだ。

 そこで、榊原氏移封の来歴を見る。 榊原氏は、上州館林(1590-1643)の後、奥州白河(1643-1649)→播州姫路(1649-1667)→越後村上(1667-1704)→播州姫路(1704-1741)→越後高田(1741-1871)に移封されている。 義父の話に従えば、これらの各地に榊原流酒造技術が伝播したことになるのだろう。

 最近、元新潟県醸造試験場長で、「久保田」で有名な朝日山酒造の工場長、嶋悌司氏が本を出版された。 その嶋先生の話によると、新潟の酒は、他の地域とは造り方が違うのだそうだ。 曰く、「端的に言えば、新潟の酒は、冷蔵庫で酒を造るようなもの」なのだそうだ。

 少々説明が要るだろう。 もう20数年も昔の話だが、新潟県醸造試験場の場長だった嶋先生から相談を受けた。 当時、造り酒屋が存亡の危機にあった。 杜氏の後継者が居ないのである。 このままでは新潟の酒造りが途絶えてしまうという危機感があったのだろう。 嶋先生は、模索された。 その一つの結果が「赤い酒」なのである。 そして、もう一つが酒造技術のデジタル化なのだ。 白山の試験場を訪ねた時、熱くその危機感を説明された。 「梶谷君、酒造工程のデータをコンピュータで何とかならんか」 同じ醸造でも、我家は醤油の醸造である。 多少の知識があったのが幸いした? 長岡から直接、試験場に行ったのだから割と早い時間だった。 話が延々と続いた。 酒造りの基本から越後の酒の特質まで、まさに講義である。 結局、何日か通うことになった。 まだPCが出始めの時代だ。 「先生、理論的には可能ですが、今のPCでは難しい」、「技術は進歩する。 出来ない事があるものか。 勉強しろ。」と、まあ、そんな具合だ。 中略。 結論を急げば、造り酒屋の若手や跡継ぎにコンピュータを教えろと言うことになった。 実際に、講習会をしたのかどうか、記憶が定かではないのだが、先生曰く、「予算がない。 金がない。 俺の造った赤い酒がある。 あれなら何本でも君に進呈するから持って行け」だ。 これには、流石に閉口した。

 余談が長くなったが、兎に角、新潟の酒の造り方は、他と違うのだそうだ。 当時は、まさか越後杜氏の娘と結婚することになるとは思ってもいなかった。 友人で仲人役の医師・O君と「娘さんを貰い受けたい」と若井の家を訪ねた時、酒を持って行ったくらいなのだ。 女房殿曰く、「あんたら、馬鹿と違う。 杜氏のところに酒を持っていく人がありますか」だ。 まあ、そんなこともあり、義父から酒造りのイロハを習うことになったのである。 勿論、私の関心は、製造工程よりも、その歴史なのだが。 因みに、自然発酵の酒を造ることが出来るのは、義父の他、数少ない杜氏のみとか。

 話を戻す。 姫路には長いこと通った。 機会がある度に、姫路の酒造りの話を聞いた。 姫路の酒は、灘や伏見の酒とは違うのだそうだ。 義父の話からも、嶋先生の話しからも、そのことが窺える。 職人気質の義父は、酒の話になると、先ず、榊原康政のことを話すのである。 義父の弟子は、全国に散らばる。 シーズンが来ると、大袈裟に言えば、各地から新酒が届く。 もっとも、酒の味の判らない私には、「味の判らない奴に飲ませたのでは、勿体無い」と言う。 それでも、一口は味わって飲めとすすめるのだが。

 榊原康政と酒の関係、他では先ず聞いたことがない。 ただ、江川太郎左衛門と家康の関係に、酒が出てくる。 江川氏は、徳川以前から家伝の酒を造っていたそうだ。 御大(おだい)の方は、江川家の養女として、家康に入室している。 その縁が、江川の酒にあったとか。 もしかすると、その流れが、榊原康政に繋がるのかもしれない。 それが、上州館林、奥州白河、播州姫路、越後村上そして越後高田に伝わり、今の新潟の酒造の源になったとすれば、興味津々の話である。

Best regards
梶谷恭巨

 久々に神道無念流に係わる記事に出会った。 明治から昭和初期に掛けて出版王と云われた博文館の創始者・大橋佐平が、剣術を学んでいたことは知っていたが、神道無念流であったことは知らなかった。 大橋佐平の伝記、坪谷善四郎著『大橋佐平翁伝』を読むと、そのことが書かれている。 少々長いが、その部分を引用する。

 「安政四年藩の剣客野口鉄弥、江戸から帰り来り、剣法を藩士に授けた。 鉄弥は藩士野口豊之丞の次男で、つとに江戸に出で、剣客斎藤弥九郎に就きて学び、その塾頭となり、今は藩主に招かれて帰り来たのだ。 翁(大橋佐平)の家は久しく野口氏と相識れる故、翁は親しく鉄弥に就いて剣法を学んだ。 その頃士人で無くして剣法を野口の門で学びしは、唯翁一人であった。 当時野口門下の高足には、三間正弘、野村貞、篠原六郎、根岸信五郎等がある。 三間は後に憲兵大佐(憲兵司令官、石川県知事等となった)野村は海軍少将(二十七八年戦役[日清戦争]に高千穂艦長として殊勲を立てた)となり、根岸は明治の剣客として聞こえた人だ。」

(注)
○三間正弘: 三間市之進のこと。 長岡の三進といわれ、秀才の誉れが高かった。
○野村貞(ただし): 戊辰戦争では河井継之助と共に榎峠で戦った。 山本五十六の親戚(従兄?)に当たる。 以下、『帝国海軍提督総覧』から引用、「旧名を萩原貞之丞といい、維新後、長岡藩が最初に海軍に送った軍人だった。 スケールがきわめて大きく、かつ底なしの酒豪といわれた。 日清戦争では高千穂の艦長をつとめたが平常はすべてのことを当直将校、航海長にまかせきる放胆型。 黄海海戦では第一遊撃隊二番艦として勇戦した。」 明治32年1月呉鎮艦隊司令官、同年、5月4日没、享年55歳。
○篠原六郎: 詳細不明

 問題は、根岸信五郎である。 根岸信五郎は、後に「有信館」を創設、神道無念流第六代宗家を名乗る。 さて、この「第六代宗家」が何処に由来するのかが、よく判らない。 上記の引用によれば、根岸信五郎は、野村鉄弥から神道無念流を学んでいる。 その後、江戸に出て、斎藤弥九郎の練兵館で修行し、免許皆伝を受けているのだが、評伝としては最も詳しいと思われる木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』には、多くの紙面が割かれていない。 むしろ、数行あるかなしかである。 また、二代目・斎藤弥九郎が、奥州を回り、越後に来訪する際も、長岡には寄っていないのだ。 明治以降、斎藤弥九郎家は、江川太郎左衛門の関係から政治の世界に深く関与していくのだが、もしかすると、三代目辺りから、剣道の世界との関係が希薄になったのかもしれない。

 一方、根岸信五郎は、明治以降廃れていく剣道の再興を図り、晩年は、初等・中等学校での武術の正規科目化運動を展開している。 因みに、『幽芳録』と云う本があるが、そこに、武術が正規科目になった時、根岸信五郎が各地の教員に対して行った講演録等が掲載されている。 それによると、当時の国会議員にも働きかけているのだが、議会提案から法案が実現するまでに、十数年を要したそうだ。 いずれにしても、今の剣道の基礎を確立した人なのである。 しかし、男子には恵まれなかったようで、娘婿に、後の中山博道を迎えている。 しかし、中山博道の兄が死に、家督を継ぐことになり、離縁となっているのだ。 ただ、不和とか不都合があったわけではない。 事実、有信館と神道無念流宗家を継がせているのだ。

 長岡は、剣道の盛んなところだ。 その背景には、根岸信五郎の存在があると思われるが、盛んな反面、その歴史については多くが知られていないようだ。 残念である。

 明治以降、武術は廃れ、新潟・柏崎とも縁の深い男谷精一郎の門人、剣客・榊原健吉等は、激剣興行などして、糊口を凌いだ時代である。 武術を初等注等学校の正規科目にする運動は容易なものではなかったはずだ。 そんな状況にあって、根岸信五郎が、運動していくためには経済的背景が必要であったのではないか。 推測の域を出ないが、野口鉄弥の下で、神道無念流の同門であった大橋佐平の存在が見えてくる。

 また、生田萬の同志、神道無念流の鷲尾甚助(尾張)や鈴木城之助(水戸)とのミシング・リングに繋がるのではないかとの期待もある。 ただ、天保と安政、次代の隔たりがありがあることも事実だ。

 それにしても、剣道はしても、剣道の歴史を知らないという風潮は残念である。 幕末維新、剣道あるいは剣法の果たした役割は、想像以上に大きいのだが。

Best regards
梶谷恭巨

 春の嵐である。 気温も相当に低い。 夕食の時、女房殿の故郷である上越市吉川町の話が出た。 裏のハウスの青菜が成長してトウが立ちそうだと義母がいい、家では使いきれないから吉川町に持っていこうかと云うのである。 吉川町でも、山の尾根に近い若井の家辺りは、この時期でも1mを越える雪が残っているそうだ。 何度か行ったことがあるが、それも肯ける。 頚城平野が一望に望めるほどの高地にある猫の額ほどの平地に、家々が身を寄せ合うようにあるような場所だ。 女房殿が、高校の時、一家を挙げて柏崎に下りてくるのも道理である。 ここ数年は雪も少なかったが、どうも今年は様相が違うようだ。 矢張り異常気象の所為であろうか。

 朝のニュースで、諸物価の高騰を採り上げていた。 特に小麦の高騰が目を引いた。 オーストラリアでは、小麦農家の5%が、廃業に追い込まれているそうだ。 水の確保が難しく、農地は干上がり、砂漠化が進んでいる。 インタビューに答えた農民は、ここ6年は、満足な収穫がほとんどないと嘆いていた。 矢張り異常気象の影響なのか。

 思い出すのは、オーストラリアで米作を試みた日本人のことである。 高須賀穣という。 1906年のことだ。 随分昔になるが、TVの特集で見たことがある。 単に日本人的発想から水稲を試みたのではない。 荒涼たる荒地を見て、水稲以外にありえないと感じたと云う。 試みは、灌漑から始まったそうだ。 水不足ばかりではない。 時として洪水も起こるのである。 初めて収穫を得たのは、数年後、豊作になるのは、更に10余年の歳月を要した。

 確かに水稲は効率的な農業とはいえないかもしれない。 換金作物を大規模に栽培すれば、ハイリターンが期待できる。 しかし、そこに潜むのはハイリスクでもある。 オーストラリアは、遺伝子操作による作物の改良を禁止してきた。 それが、解禁になった。 灌漑に強い小麦の遺伝子操作による品種改善が進められているそうだ。 一方で、環境問題を唱えながら、一方では、環境にやさしい農業が、人間の欲で廃れていく。 何たる矛盾か。 人間社会にもそれが言える。 今日から後期高齢者医療制度が変わるそうだ。 一部を除けば、高齢者は追い詰められる。 グラミー賞を受賞したペルーの黒人女性歌手、スサナ・バカがいった。 「アフリカでは、老人のことを歩く図書館という」と。 先人の叡智を省みなければ、国は滅び、自然は人間に逆襲する。 吹きすさぶ春の嵐に、何かしら不安を覚える。

Best regards
梶谷恭巨

 三井の総帥・益田孝翁が、佐渡の生まれであることは知っていたが、改めて『自叙益田孝翁伝』を読んでみると、単純に佐渡の出身、三井の総帥では片付けられない。 家系そのものが、幕末維新史に深く関係しているのである。

 益田家は、上州の医家の出で、翁の五代前から佐渡金山の地役人を勤めた。 曽祖父の時、佐渡奉行の信頼が厚く、以後、祖父・父共に目付役に就いている。 父親・鷹之助が出色の人で、漢学はもとより、歌にも優れ、算盤・和算を得意とし、またお玉が池の玄武館・千葉周作に一刀流を学び、免許皆伝を受けている。 これだけの才人、目に止まらぬはずは無く、地役人から幕府直属の役人になり、函館奉行支配調役下役に抜擢されている。 その後、池田筑後守(姫路)の渡欧使節団の随員に選ばれ、フランスに渡る。 この時、益田孝翁も、父親の従僕として渡欧しているのだ。 (パリで撮った親子の写真が残っている。)

 維新後、一時期、福沢諭吉の書記をしたことがあり、慶応義塾の最初の規則は、益田鷹之助が書いたのだそうで、福沢諭吉が、後に、益田孝翁にお前の父親が書いたのが未だ残っているとよく言ったそうだ。 鷹之助は、仕事の関係から江川太郎左衛門の役宅に行き来があり、特に、江川家手付(家老職に相当)の柏木修蔵と親交があり、柏木修蔵が福沢諭吉と昵懇であったことから、書記の職を得たそうだ。 因みに、柏木修蔵は、神道無念流の斎藤弥九郎の高弟の一人だった。 また、斎藤弥九郎も江川家手代であったのだから、この辺りの人間関係は追及すると別な局面が見えてくるのかもしれない。

 いずれにしても、益田孝翁を追いかけようと思っていたのが、むしろ、翁の父・鷹之助に興味が湧く。 翁の贔屓目も有るのかもしれないが、人の関係を見ていくと、どうも只者ではない。 地役人から最下級の幕府役人になったというだけでは、その後の履歴に疑問が残る。 しかし、何しろ文献が少ない。

 益田孝翁にしても、明治までの履歴に意外性を感じる。 例えば、翁は、麻布の善福寺(アメリカ公使館)で外国方通詞(見習いのようなものだったらしい)をしている。 当時の公使は、タウンゼント・ハリスだ。 しかも身近に接しているのである。 ハリスに対する評価は、敬愛と云うほどに高い。 特に、唐人お吉の話などは出鱈目だと、憤慨しているのである。

 益田孝翁は、フランスから帰国後、ナポレオン三世が派遣したフランス軍事顧問団の洋式訓練に参加し、後には騎兵隊を指揮している。 大鳥圭介のように江戸を脱出はしなかったようだが、勝・西郷江戸城明け渡し談判が成功するまでは、一戦を覚悟、死も厭わなかったと語っている。

 しかし、どうもこの辺りの時期は、人びとの思惑が錯綜し、人間関係も一筋縄では追いかけることが出来ない。 維新史を研究するためには、年表的な事実ではだめだというのが実感。 個々の人間関係を地道に追いかけていかなければならない。 益田孝翁の物語が、それを物語っている。 滅多矢鱈に人名が出てくる。 それに、諱があり、通称がある。 『自叙益田孝翁伝』は昭和14年に発刊されているのだが、当時の人には、その人名も周知のことだったのだろう。

 実は、益田孝翁の後継者であった団琢磨暗殺事件(血盟団事件)と、我家には多少の因縁が有る。 団琢磨氏の後継者になったのが、大叔父・佐々木哲二なのだ。 これにも諸説あり、柏崎では史料・文献の入手が困難。 子供の頃聞いた記憶と父が残した記録が有るが、不確かなことが多く、家族・親族向けにのみ連載を書いている。

 ただ、ここ数年、江戸後期から明治にかけて追いかけていると、どうもこの時代が、現在を考える上で、最も重要な時代ではないかと思えるのだ。 朝のNHKの番組『まちかど情報室』で、日本でも自分史あるいは家系図に関心が高まっているとか。 自分史用ソフトとか行政書士による系図の作成などがあるようだ。 少なくとも、四代あるいは五代前くらいまでなら、今でも調査は可能だ。 子孫のためにも、何かの形で、ご先祖のことを残しては如何だろう。

梶谷恭巨

 『柏崎通信』と題しながら、しばらく柏崎から遠ざかっていた。 そこで、柏崎に纏わるエピソードを。

 河井継之助の小千谷談判は周知のことだが、その相手である官軍軍監・土佐の岩村高俊と柏崎の関係に面白い事実を見つけたのである。 出所は先回にも引用した入澤達吉著『伽羅山荘随筆』の中の一文「河井継之助の最後」の文末に書かれている。

 岩村高俊の兄・道俊は、会津征討越後口総督・仁和寺宮に従って、柏崎に至った。 そこで、弟の高俊に出会う。 土佐を出てから一度も合う機会がなく、道俊は、既に弟・高俊は死んだものと思っていた。 それが、思わぬ所でバッタリと出会い、お互いに抱き合って再開を喜んだという。

 それまでの岩村家の家紋は菊の紋であったが、以前から、菊のご紋では恐れ多いと家紋を変えることを考えていたそうだ。 そこで、柏崎の出会いを奇貨と、「抱き柏」の紋を作り、これを家紋としたと云うのである。 因みに、「抱き柏」の紋を調べてみると、この家紋を使用したのは、岡山氏、森氏、金子氏、長田氏、吉田氏、後藤氏などが上げられるが、特に有名なのは、阿波徳島藩蜂須賀家である。 また、神紋としては、石川県楢本神社、寺紋としては、京都市正法寺、円通寺があるようだが、岩村家の家紋としての「抱き柏」は見当たらない。 故に、柏崎再開を記念して「抱き柏」を家紋としたこと事実だろう。

 しかし、今ひとつ推測の輪を広げると、長岡藩牧野氏の家紋が「三つ柏」であり、柏崎が戊辰北越戦争の最初の橋頭堡でったことも、家紋とした理由になるのではないだろうか。

 また、これは以前にも紹介したことだが、大山巌(通称・弥助)が柏崎市滞在中に生まれたのが、次男(長男が急逝したため嗣子となる)「柏」である。 星新一が、考古学・人類学を通して大山柏と親交のあった小金井良精についてかいた『祖父・小金井良精』にも、この時のエピソードが紹介されている。 ただ、大山柏が、明治22年6月2日に誕生しているところに興味が有る。 明治天皇の北越行幸が明治11年、東郷平八郎の新潟訪問が、明治39年である。 この間、品川弥二郎や大隈重信らが、柏崎を訪問したことを伝聞しているのだが、詳細は未だ調べていない。 今後の課題としたい。

 考えて見れば、戊辰戦争当時、岩村兄弟も大山巌も、20代の青年である。 今の年齢から比較することは出来ないが、柏崎での戦闘は、青年の心に強烈な印象を与えたに違いない。 それが、家紋や子息の命名に大きな影響を与えてのではないだろうか。

 尚、以前に書いた大山柏に関して誤謬があった。 考えてみれば当然のことだが、大山巌の夫人が、会津藩国家老の山川大蔵の末妹・捨松であるから、柏崎在陣中に大山柏が生まれる訳はないのである。 訂正して、お詫びしたい。

Best regards
梶谷恭巨

 



カウンター
プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索