柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 羽石重雄先生を追いかけて、既に、数年になる。 出逢いは、旧制県立柏崎中学(現、新潟県立柏崎高校)の初代校長として赴任されたのと、同時に、旧山口高校(所謂、旧制山口高校とは異なる)で同級で日本石油初代技師長・研究所長であった杉卯七(日本フランス文学会の確か第三代会長、杉捷夫の父)の日本石油在籍25周年記念を祝い、矢張り同級生であったジャーナリスト・作家・大学教授であった野村健堂が柏崎で祝宴をあげ、その会話から生田萬の話に及んだ様子を、『大塩平八郎と生田萬』という小文にまとめ、『日本』という雑誌に掲載したことに始まる。

 当時、生田萬を調べていたのだが、むしろ、この三人の出逢いに興味を得た私は、それぞれの経歴などを追いかけていった。 野村健堂は、当時から文筆家としての名声を得ており、文献も多い。 また、杉卯七についても、子息が有名なフランス文学者・杉捷夫氏であることから、その著作『人の影・本の陰』に行き当たり、その中で父・卯七のことを書いているので、ある程度の経歴を知ることが出来た。 しかし、羽石重雄については、詳しい文献がない。 そこで、先ず柏崎を基点に、その後任地・旧制長岡中学、前任地・旧制岩国中学と、輪を広げ、最後の任地が、旧制松本中学であることを確認した。 ところが、岩国中学の前任地が良くわからない。

 そこで失礼とは思いながらも、現・山口県立岩国高校に電話したのである。 偶然にも、当時の校長先生とお話しすることが出来たのが幸いした。 それによって、岩国中学時代における羽石校長排斥運動なるものの存在を知ったのである。 この経緯については、以前書いたことがあり、ブログ『柏崎通信』にも掲載した。 しかし、その時点では、前任地が九州であったことしか分からなかった。

 その後、機会あるごとに調べてはいた決定打がない。 そこで、全く荒唐無稽とも思われる仮設を立ててみたのである。 夏目漱石が、旧制長岡中学と関係が深いことは、周知の事実である。 例えば、『野分』の主人公・白井道也は、帝大時代一級下の坂牧善辰だと云う。 この辺りについて以前書いているので省略するが、要は、戊辰戦争で敵対関係にあった薩摩と長州との間に、旧制中学校長を介した人事の交流があったことに興味を引かれたのである。

 未だ未整理の状態なので、今回は、新たに判った事実を覚書的に書いておきたい。

 先ず、旧制松本中学(現、長野県立松本深志高校)に事実の紹介を依頼した。 以前も連絡したことがあるのだが、その時点では、新しい事実を見つけることが出来なかったのだが、今回は、松本深志高校教頭・五味千万人先生のご好意で5件の資料を頂くことができた。 感謝。 それによると以下のような事実がある。

資料(1) 『平成20年度松本深志高校学校要覧』、「本校の沿革」から
大正9年5月、羽石重雄、第4代校長
大正11年、新たに現行校歌募集制定、作詞・4年生、松原威雄、作曲・東京音楽学校教授、岡野貞一
同年11月 同窓会館兼頌徳文庫完成
大正15年4月、私立夜間松本中学(大正13年6月、開校)と校舎共用、松本中学校長が校長を兼務
昭和2年4月、「松本市立松本夜間中学」と改称
昭和3年6月、創立時から勤続の小使・上条仙太郎死去校葬
昭和4年11月、創立45周年記念式典
昭和5年11月、校舎所在地一帯史跡保存区域指定、羽石校長退任

資料(2) 『会員名簿2006』(深志高校同窓会発行)、「旧職員(松中)」から
羽石重雄、校長、大正9年-昭和5年、修猷館、熊本五高、東京帝大文科国史(30)、長野師、大阪、長崎、山口(長)、長岡中、福岡県早良郡

資料(3) 『九十年史(昭和44年発刊)』(深志高校同窓会発行)、「松本中学校教職員群像とその影響、第三章 大正期、4」から
羽石重雄校長期、大正九年度(就任年月)9年三月、(氏名)羽石重雄、(受持学科)修身、(役職)校長、(卒業学校)東京帝国大文科大学国史科、(族籍)福岡県士族、(生年月日)明治三年二月六日、(前任地)新潟県長岡中学校長、(離任地)空欄、(離任年月)昭和五年十一月

資料(4) 『深志百年史(昭和53年発刊)』(深志高校同窓会発行)、「第九章恩師追懐」(652ページ)、筆者・池上隆祐氏(故人) 少々長いが、深志高校の先生に関連部分を抜粋していただいたので、その部分を。 羽石校長の人となりを髣髴させる文章である。 尚、この池上隆祐氏は、民俗学者である池上氏であるようだ。 柳田國男との接点もあり、『石』という著作がある。 興味を引く人物であり、今後の課題としたい。

 「羽石重雄校長(大9から昭5在任) - 入学当時の校長は創立以来たしか三代目の高橋先生であったが、私が親しく御目にかかり、今考えれば冷汗ものの小生意気な理屈を申し上げたのは四代目の羽石校長先生であった。 ハイシというのでハイシハイシ歩めよ小馬という童謡から子供らしい連想からであろうが、馬という綽名をつけられた。 羽石先生は(生?、判読不可)顔も長顔であった。 その長顔を上下に二分するように天神髭をはやしておられた。 先生は仙骨をおびた風格をもっていて、私の話を黙ってきいた後、まあ概ね君のいう通りだろうなあと悠然としてかのひげをひねっておられた。 その超然たる態度に小生意気な私も負けたなあなどと一種の口惜しさと尊敬の念をまぜ合せたような気持ちで引き下がって来た。 先生は古い時代の東大の哲学科の出身であった。 この校長先生始め私の思い出の中には意外に多くの諸先生の顔が今も懐しく思い出される。」

 以上が、松本深志高校教頭・五味先生からFAXで頂いた資料である。 改めて感謝の意を。

 これらの資料に関する分析は、後に書くとして、この資料から、羽石先生が、福岡県出身であることがわかった。 また、修猷館高校の前身である福岡藩校「修猷館」出身であることも判明した。 そこで、改めて、山口県立岩国高校に問い合わせをした。 前回お話した校長先生は既に離任されており、羽石校長に関する件の「排斥事件」に関してご存知の先生も居られない。 そこで、山口県立図書館を紹介された。 膨大な資料に埋没しているに違いない。 次に紹介いただいたのが山口大学である。 事情を説明し、『柏崎通信』ブログ版を紹介したところ、ご親切に回答の電話を頂いた。 そこで、矢張り出てきたのが、「修猷館」である。 松本深志高校の五味先生から頂いた資料によると、母校である「修猷館」で教鞭をとられた記録がないのだが、山口大学・松岡先生によると、「修猷館」に3年在籍との記録があるそうだ。 会話の中で聞いたことなので、詳細を確認できないのだが、この在籍が、学生としてなのか、教師としてなのかが不明である。

 個人情報保護法以来、百年に近い昔のことも調べ難くなった。 その為、断片を繋ぎ合わせて行くか、仮説を立てて地道に立証していかなければならないのが現状だ。 しかし、明治期、恩讐を越えた教育における教育人事の交流は、現在の我々に何かしら教えることがあるのではないだろうか。

 私事であるが、私の弟の妻は松本出身、私たち夫婦の仲人は福岡県立伝習館高校の出身である。 また、仕事の関係で福岡と縁が深い。 現在、柏崎在住だが、広島出身である私には、羽石先生との接点がない。 しかし、これも何かの縁、関連学校の出身者の方にご協力をお願いできれば幸いである。

 尚、上記資料から「羽石」の呼び方について解答を得た。 実は、「ハネイシ」なのか「ハイシ」と呼ぶべきか確信がなかったのである。 因みに、「羽石」姓を、静岡大学人文学部言語文化学科・城岡研究室の姓名データベース(全国電話帳)から調べたところ、3685位、840件の登録があるそうだ。 また、自分の持つ全国電話帳
データベースによると、松本市内に1件の登録があった。 電話で確認したところ、羽石重雄先生とは関係ないとのことであった。 呼び方は、「ナネイシ」とのこと。 因みに、福岡県には登録がなかった。 

 次回は、資料を整理し、羽石先生のその後の足跡についても、触れてみたい。 もっとも、それ以前に、ミッシングリングを探さなければならないのだが。

 最後に、松本深志高校の五味先生、山口大学の松岡先生に、改めて感謝を。
 
Best regards
梶谷恭巨

 

 新しい仕事をする場合、必ず、その仕事の内容や歴史的背景を調べることを習慣付けている。 今回の仕事は、昔接した若い栄養士の卵たちや先生たちのことを思い出させた。 既に20年余りの歳月が経っているのだ。 前回(627号)、石黒忠悳と日本赤十字の関係について触れたのだが、矢張り、その『懐旧九十年』に栄養学に関する面白いエピソードがあったので紹介する。
 
日本で最初に西欧的栄養学を学んだのが、何と森鴎外なのである。 『懐旧九十年』、第五期「兵部省出仕から日清戦争まで」、第十八「グラント将軍来朝と兵色問題」にその記述がある。 これによると、事の始めは、山県有朋(陸軍卿)が、紀州出身の津田出(いずる)を陸軍少将として招聘し、会計経済のことを一任したことにあるようだ。 明治6年(1873年)、会計監督長に就任し、陸軍省第五局長(後の経理局)を兼務している。 余談だが、後に、芝五郎を援助した野田豁通が、この職(会計局長兼会計監督長)を継承している。

 この時、旧陸軍の給与規則が統一されている。 因みに、当時の給与は、一日白米5合と5銭であったそうだ。 その後の経緯は省略するが、当初から兵食の問題が議論されていたようだ。 例えば、当時のこと、一人扶持との比較があったようだ。 一人扶持は、玄米5合だったそうだから、白米5合は、相当な改善である。 しかし、このことが結果として「脚気」問題を生むのである。 この問題には、徴兵制も関係する。 武士階級ではなく、特に農民出身の兵士は、下級武士階級出身者よりも食生活においては、潤っていたのである。 機会があれば、この辺りの事も紹介する。

 また、こんなエピソードもある。 兵食をパン食に統一すると言うのである。 特に、薩摩出身の将校が盛んに提唱したそうだ。 しかし、現実的に見れば、原料である小麦を生産しない日本では不可能な議論である。 しかし、「脚気」問題も絡んで、その事を科学的に実証する為に、森林太郎(鴎外)が、ドイツ留学を命じられるのである。 森林太郎は、帰国後、陸軍軍医学校で、兵士を用いて兵食調査の実験を行う。 また、同じく留学していた谷口謙(内科医、第7代、旧軍医学舎を入れると、第10代校長)排泄物の調査をさせ成分分析検査により、栄養摂取の衛生学的結論を得ているのである。 因みに、石黒忠悳は初代陸軍軍医学校長、森林太郎は、第4代校長である。 尚、校長の代数に関しては、旧軍医学舎と、校長ではなく「校長心得」も計算に入れた。

 いずれにしても、明治初年から日清戦争・日露戦争辺りまでは、兵站問題と兵食および衛生問題は、軍隊の運用あるいは作戦における重要事項であり、そのトップ人事も重要視されたのだが、それが、大正から昭和にかけて、何故に軽視されるようになったのか、全く疑問である。

 栄養学の問題は、本来の学問として、現在も軽視される傾向にあるのだが、老齢化・少子化の時代、さらに景気が低迷から混迷に陥ろうとする時代、見直されるべき分野ではないだろうか。 何しろ、「食足りて礼節を知る」のが、人間なのだから。

Best regards
梶谷恭巨

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 またしても、大地震が発生した。 今世紀最大の預言者と言われる「エドガー・ケイシー」は、日本沈没を予言していることをご存知だろうか。 もっとも、ケイシーが、日本沈没を予言した1998年は、とうに過ぎているはのであるのが。

 予言は、さて措くとして、報道によれば、この地域で大規模な地震が発生したのは、今から120年前のことだそうだ。 そこで、日本の天変地異年表を調べてみる。 しかし、今回の地震の発生した岩手・宮城県境辺りには、それらしき記録が無い。 ただ、明治21年(1888)、7月15日、磐梯山噴火の時事を見ることができる。 小磐梯山は、この噴火で完全に崩壊、大規模な土石流(岩屑流)が発生し、秋元・細野・雄子澤の三村が全滅し、461人の死者を記録している。 (岩波の日本史年表では、死者444人。) これで出来たのが、秋元湖と檜原湖だそうだ。 この年、新聞の写真掲載が始まっている。 また、正岡子規と関係の深い陸羯南(くが・かつなん)が、『東京電報』を創刊したのは、この年の4月9日であり、『東京朝日新聞』が創刊されたのが、7月10日だった。 磐梯山噴火のニュースは、これらの新聞によって大きく報道されたことだろう。

 そこで、その年の10年前後を見る。 遡ると、明治15年(1882)7月25日、沖縄の那覇・首里一帯で強い地震があり、余震42回が記録されている。 その後、明治17年にトカラ列島の諏訪之瀬島が大噴火の記録がある。

 次に、それ以降を見ると、明治22年7月28日、熊本市を中心に大地震があり、倒壊239戸、半壊236戸、死者20人、負傷者54人の記録があり、同年8月3日に大きな余震が発生している。 これを期に、遠地地震観測が始まっている。 明治24年(1891)10月28日、濃尾地方を震源地とする大地震があった。 この地震は、震度6だが、揺れは全国に及んでいる。 被害は甚大で、岐阜・大垣・名古屋などで、死者7273人、負傷者17,175人、全壊142,177戸、半壊80,324戸、橋梁10,392、堤防7,177ヶ所が破損、10,224ヶ所で山崩れが発生している。 3日間で、烈震4回、強震40回、更に翌年も余震が続き、被害が出ている。 この大地震のためか、翌明治25年、震災予防調査会が発足する。

 更に、天変地異年表を追って行くと、その後、明治26年(1893)5月19日、福島県と山形県の県境、吾妻山が噴火している。 翌年六月20日、東京・神奈川で大きな地震、併せて31名の死者。 同年10月22日、庄内平野で大地震、死者726人、全壊3,858戸、半壊2,397戸。 更に翌年、明治28年2月5日、蔵王山爆発、明治29年(1896)6月15日、三陸地方に大津波が発生、流出9,879戸、倒壊1,844戸、6,930艘の船が被害、死者26,360人、負傷者4,398人の大被害を受けている。

 次に発生したのが、三陸大津波と同年に発生した秋田・岩手県境の大地震だ。 明治29年8月31日に発生している。 どうも、コメントされたのは、この大地震のことではないだろうか。 天変地異年表によれば、揺れは広範囲で観測されたが、被害は、山間部の狭い範囲に集中し、死者209人、負傷者779人、全壊5,792戸、半壊3,045戸、山崩れ9,899ヶ所の記録がある。

 ざっと記録を辿ってみたが、その多さに驚くのである。 兎に角、数年をおかず、日本の何処かで大地震が発生している。 これでは、日本沈没も、まんざらあり得ないと言えないのではないか。

 ところで、天変地異は、自然災害ばかりではない。 疫病の流行による死者の多さにも驚くのである。 参考の為に、列記してみよう。

 明治15年(1882)初夏から秋にかけてコレラが流行、死者33,784人(東京、5,076人)、記録は無いが、1885年には、コレラ・赤痢・腸チフスが流行し、翌年には、天然痘と腸チフスの流行で、死者およそ3万人。 明治23年(1890)には、インフルエンザとコレラが流行、死者35,227人。 明治24年、天然痘が流行、死者33,779人。 明治26年、天然痘と赤痢が流行、前者の死者が11,852人、後者が41,283人。 明治29年、赤痢と腸チフスが流行、赤痢の死者22,356人、腸チフスで9,174人の死者を出しているのだ。

 先の震災による被害と平行して、疫病が流行し、多大な死者を出しているのだ。 先回紹介した人口の推移からも判るように、僅か10乃至20年の間に生じた天変地異による死者の数は、半端ではないのである。

 これらの天変地異を、歴史的事実と比較すれば、歴史の別な側面が見えてくる。 政局が不安定な時代、人々の目は、自ずから天変地異に向いたのではないか。 対応を間違えれば、命取りになりかねない。 しかし、反面、既に始まっていた民権運動の激化を沈静させる効果があったのではないだろうか。 特に、東北(新潟を含む)の旧奥羽越列藩同盟に参加した諸藩の人士は、民権運動を第二の、しかも、今度は自分たちが中心となる維新と考えていたようだ。 河西英道著『東北-つくられた異境』『続・東北-異境と原境のあいだ』に、当時の東北人のことが書かれている。 民権運動と共に盛り上がっていた政治意識が、どこか中途半端に終わる(?)という感覚を覚えるのは、もしかすると、天変地異が背景にあったのではないだろうか。

 余談だが、小金井良精は、三陸大津波の後、現地を訪れている。 医者の目から見た被災地は、後々まで記憶に残ったようだ。 明治の医学界を先駆者となった、同郷の石黒忠悳、長谷川泰、良精夫人の兄・森鴎外、下って、長谷川泰の弟子である野口英世や入澤達吉らに影響を与えたのかもしれない。

 災害史は、災害そのものの影に隠れて、それが、社会や政治に与えた影響については、余り語られていない。 天変地異は、人間の心理にも影響を与える。 その心理は、少なからず社会や経済にも波及する。 災害史の権威といえば、北原糸子氏くらいしか思いつかないのだが、研究者のみならず、われわれ一般も、もっと災害史に目を向けるべきではないのだろうか。

Best regards
梶谷恭巨

 マルサスは、『人口論』で、「人口は、制限されなければ幾何級数  的に増加する。生活資料は算術級数  にしか増加しない。多少なりとも数学を知っていれば前者の力が後者のそれに比してどれほど大きいものか、直ぐにも理解できるであろう。」と述べている。

 そのことが、直接、歴史的人口問題に興味を持った理由ではないが、最近の報道を見ると、気になる問題である。

 さて、前回の続だが、その後、データを探し、関連するものをまとめてみた。 といっても、単なるデータの収集で、そこから、何らかの結論を導き出すに至っていない。 ただ、前回書かなかった英国と日本と関係の深いオランダ(和蘭)のデータが興味深い。

 1820年から1920年までの、日本・英国・米国・オランダと参考までに中国のデータを比較してみた。 意外だったのは、英国の人口が、1820年以降、日本の人口を越えることがないという事実だ。 そこで、国力を表すGDPに付いて調べてみた。 ただ、単純にGDPを比べても意味がない。 そこで、「Per Capita GDP(一人当りのGDP)」を比較してみた。 以下、その後の推移を表にすると次のようになる。

 

1820

1850

1870

1890

1900

日本人口

31,000

32,000

34,437 

40,077

 44,103

(PC)

669

679

737

1,012

1,180

(GDP)

20,739

 21,732

25,393

 40,556

52,020

英国人口

21,239

27,181 

31,400

37,485

41,155

(PC)

1,706

2,330

3,190

4,009

4,492

(GDP)

36,232

63,342

100,180

150,269

184,861

米国人口

9,981

23,580

40,241

63,302

76,391

(PC)

1,257

2,178

2,599

3,644

4,091

(GDP)

12,548

42,583

98,374

214,714

312,499

中国人口

381,000

412,000

358,000

380,000

400,000

(PC)

600

600

530

540

545

(GDP)

228,600

247,200

189,740

205,379

218,154

和蘭人口

2,333

2,333

3,610

4,535

5,142

(PC)

1,381

2,371

2,757

3,323

3,424

(GDP) 

4,288

7,345

9,952

15,070

17,604


  また、下表は、2003年のデータ。 参考までに。

 

2003

日本人口

127,214

(PC)

21,218

(GDP)

2,699,261

英国人口

60,095

(PC)

21,310

(GDP)

1,280,625

米国人口

290,343

(PC)

29,037

(GDP)

8,430,760

中国人口

1,288,400

(PC)

4,803

(GDP)

6,187,983

和蘭人口

16,223

(PC)

21,479

(GDP)

348,464

 どうもメールに書くには重すぎつテーマになってきた。 何れまとめて論文にするつもりだ。 今回は、単にデータの紹介になったようだが、最後に、何故、この問題を採り上げたのかを書いておきたい。

 つまるところ、現在のテーマは、近代史の中に現在に通用するヒントがないかと言う事なのだ。 専門の研究者でもない私が言うのもおこがましいが、現在のように大量の情報が氾濫する時代、そこで発生するリアルタイムの、あるいは数年のスパンのデータをどうこうこねくり回しても、形が見えないのである。 しかし、歴史を追い求めると、一種のデジャヴ(既視感)を感じるのである。 強いて言えば、遡行性デジャヴである。 歴史の中に、「あれ、この状況は現在に似ているのではないか」と。

 幕末以降から明治後期に至る歴史の中に、特に、それを感じる。 しかも、それが一種の予言的様相を示していると感じるのだ。 歴史は、つまるところ、人間関係という社会的場が織り成す事象の連続体ではないだろうか。 そこで、最初は、明治維新の背景をなす学問的ネットワーク、次の明治維新を主体的に推進した下級武士階級の背景でもある武道のネットワーク、そうした人間関係を追いかけて行くと、社会的事件や事象が、様々な人間関係と微妙に絡み合っていることが判ってくる。

 そこで、更に当時の状況をマクロ的に見て行くと、対外関係の問題に行き当たる。 以前、紹介したことがあるが、で、川勝平太・早稲田大学教授は、綿の貿易にヒントを得て、『文明の海へ』や『文明の海洋史論』を展開した。 英国東インド会社の取引伝票を調査する内に、短糸綿と長糸綿の取引の状況の中に、近世・近代の文明あるいは文化に大きな影響を与える要因があったのではないかと云う。 しかも、それが、産業革命にも影響するというのである。

 19世紀は、何かしら全てものが一斉に開花したの感がある。 大いなる疑問だが、その一因に人口問題があるのではないかと考えるのだ。 勿論、その背景には、ジャガイモのような新大陸からの新しい作物や農業技術の進歩がある。 食料の増産が、人口を増加させる土壌を形成した。 しかし、そのことが逆にアイルランドの大飢饉の要因にもなっているのだ。 その結果、新大陸への世界的な人口の移動が生じる。 米国の人口・GDP・Per Capita GDPは、その事実を物語る。

 先にも書いたように、結論を得た訳ではない。 しかし、英国の急激なる海外進出が、冒険商人的重商主義に起因したものではないことは事実だろう。 それでは、19世紀、大英帝国が絶頂期に至る、その要因は何だったのか。

 話が広がり過ぎてしまった。 もう一度、原点である地方の問題に返ると、どうも、19世紀の世界の動向は、戦後の歴史における地方の動向に似たものを感じるのである。 今のところ、単なる憶測にしかすぎない。 むしろ、論理の展開に無理があるのかもしれない。 ただ、何かしら、直感に触れるのである。 田舎が衰退すると、社会そのものが衰亡するのではないかと。

 まあ、狂人の戯言である。 ご容赦。 しかし、それにしても、食糧サミットの行くへ、今後どのように進展して行くのだろう。

Best regards
梶谷恭巨

 村松剛著『醒めた炎』は、黒船来航(853-54)から始まるのだが、その前提として、当時の人類学的、民族学的、あるいは地理学的な背景を紹介している。 その中に、当時のアメリカの人口に関する記載がある。 また、当時の世界が日本をどのようにに考えていたかが書かれている。

 驚くのは、黒船来航時のアメリカの人口が、約2000万人であったということだ。 このデータの出所を確認しようと、インターネットで調べてみたが、今のところ、それらしきデータが見つからない。 しかし、1900年以降の人口推移が見つかった。 そこで、先ず、その推移を紹介しよう。

1900年、約7500万。 19200、約1億600万。 1940年、約1億3200万。
1960年、約1億8000万。 1980年、約1億2600万。 2000年、約2億8100万。

 因みに、日本の人口は、1860年(明治元年)、3402万人、
1900年(明治33年)、4385万人、1925年(大正14年)、59,737人
1950年(昭和25年)、8320万人である。

 この人口推移から推測すると、黒船来航時のアメリカの人口が、2000万にだとしても不思議ではない。 ただ、実質的にアメリカの人口が2000万人だったかというと、果たしてどうだろう。 何しろ、この時期、カリフォルニアやテキサス合併など、国土自体が拡大し、当然人口も増加しているはずだが、国勢調査などで人口が把握されている訳ではない。 ある程度把握されていた主要都市の人口の累計から、2000万という数値が推測されたのではないだろうか。 因みに、少々時代が遡るが、ジャガイモの病気発生により、所謂「アイルランドの大飢饉(The Great Hunger)」が起こる1845年から49年以降、アイルランド移民が急増している。

 ただ、驚くのは、日本の人口の方が多いことだ。 未だ調べていたいのだが、西欧列強の人口推移と比較すると、もっと面白いことが判るのかもしれない。

 余談だが、当時、世界は日本の人口を過大評価していたようだ。 マルコ・ポーロの『当方見聞録』に始まる「黄金の国・ジパング」の伝説が、未だ各国の冒険者たちの間には生きていたようであり、また、イエズス会の報告書などから、日本は、金銀銅やダイアモンドさえ産出する宝の国と信じられていたというのである。 それ故、人口も、中には、1億以上であると、各国の新聞などが報道していると云うのである。

 さて、問題は、この人口の膨張である。 学校で習う歴史には、この人口推移のことが書かれていただろうか。 歴史を見る場合、どうしても今の感覚から見てしまう。 恐らく、ブローデルが、歴史を地誌・地理的に捉えることを提唱するのは、こうした背景があるのかもしれない。 人口の推移という視点から歴史を見た場合、歴史が別のものに見えてくるのだ。 しかも、何かしら危機感を伴って。

 ただ、西欧と日本の場合には、相違が感じられる。 西欧に比べ、明治維新以降、日本の人口は、それほど急激に増えていないのだ。 西欧の人口の推移には、産業革命の影響が顕著に見られる。 英国では、「囲い込み運動(Enclodure Movement)」、そして、アイルランドの場合は、大飢饉が併進し、「農民追いたて(Eviction)」が、農村の風景を急変させ、人口の都市集中化が急進するのである。

 この背景には、日本が藩幕体制と云う一種の連邦国家であったことがあるのではないか。 廃藩置県により、藩の色彩は薄れたとは言え、やはり県そのものに、依然として自立性が存続した。 それが、人口の推移に現れている。 例えば、新潟県の場合、明治21年(1888)の人口統計を見ると、総人口約4000万人に対し、第一位で166万人であり、東京の約135万人より多いのである。 因みに、当時の上位10位までを上げると次の通り。

(1)新潟県:166万人、(2)兵庫県:151万人、(3)愛知県:143万人、
(4)東京府:135万人、(5)広島県:129万人、(6)大阪府:124万人、
(7)福岡県:120万人、(8)千葉県:115万人、(9)長野県:110万人、
(10)岡山県:105万人。
 以下、100万人以上の県も上げると、
(11)静岡県:104.84万人、(12)埼玉県:104.24万人、(13)熊本県:104.15万人である。

 人口が急速に都市に集中し始めるのは、明治後期から大正時代ではないだろうか。 大正9年(1920)のデータを見ると、総人口が約5600万人で、東京が一位になり人口が約370万人に急増している。 新潟県は、この時点で、7位に落ちているが、それでも人口は、約177万人である。 総人口に対する比率は、明治21年が、新潟4%、東京3%であり、大正9年が、新潟3%、東京6%であるから、間違いなく急速な都市集中化が起こっているのだ。

 因みに、ニューヨーク州の人口を見ると、1900年が総人口約7621万人で、約727万人(9%)(ニューヨーク市は、344万人)で、1920年が総人口1億602万人に対して約10348万人(9%)(同、562万人)である。 また、参考までに、ニューヨーク市の人口推移を上げると、次の通りである。

1790年約3万人強、1800年約6万人、1810年約10万人、1820年約12万人強、
1830年約20万人強、1840年約31万人強、1850年約52万人弱、
1860年約81万人強、1870年約94万人強、1880年約120万人強、
1890年約151万人強である。

 今回は、ここまでに。 今日、朝は6時からクリーンデーでゴミ拾い。 その後、地区の運動会があり、出かけなければならない。 まあ、そんな訳で、この続は、次回に書きたい。 (丁度、フジTV系列のニュース番組で、人口問題、食糧問題を取り上げていた。 衆議院議員の渡辺恒三氏が、マルサスの『人口論』を引用して、食糧問題に警鐘を鳴らしていた。)

Best regards
梶谷恭巨

 



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