柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
マイクル・クライトン逝去のニュースが流れた。 66歳だったそうだ。 何かしら、ひとつの時代の終わりを感じる。 マイクル・クライトンの小説との出会いは、さて何だったろうか。 大抵の作品は読んだつもりだが、それでも既に入手不能のため未だ読んでいない作品がある。 故人を偲んで、読んだ作品を上げてみよう。 ただし、作品リストを見て年代順に列挙する。 (1)"Case of Need"、1968 まあ、こんなところである。 マイクル・クライトンの作品は、平易で理解しやすい英語だが、それでいてテンポが速い。 読者を飽きさせないのだ。 それに科学的知識に裏打ちされた作品には予見性があり、仕事の上でも役立つ作品だった。 その背景には、ハーバード大学で民族学を専攻し、交換留学生で英国に渡ったとき、エジプトの調査に参加して、人間を知らなければ、結局、人間のことは解らないと、ハーバード大学医学部に再入学したクライトンの姿勢がある。 兎に角、何かしら共感を覚えたのである。 例えば、最後の作品"NEXT"は、遺伝子工学を扱ったものだが、巻末に参考文献が挙げられているのもクライトンの特徴である。 その参考文献が役に立つのだ。 "Prey"の時は、個が集団になったとき、全く別な行動取るという「ワーム・アルゴリズム」について、調べたものだ。 更にいえば、彼の作品には、エンターテイメント性がある。 飽きずに勉強する方法を提言しているかに見えるのである。 今後、こんな作家が出るのであろうか。 それにしても残念である。 愛読書でもあり、英語の教材、否、師匠的存在でもあったのだから。 ご冥福を。 Best regards
渡部さんから返信があった。 携帯メールをほとんど使わないので、長文が何処まで有効なのか判らない。 そこで、ブログ本体に転載するのだが、個人情報のこともあり、取り扱いを危惧する次第である。 ただ、今回は、許容の範囲として、また渡部さんの便宜を考慮して、転載する。 以下、若干の修正を加えて、掲載した。 一つには、こうした調査の方法が家系を訪ねる人にとって有効かと考えたためである。 尚、「血統」という表現には何かしら非人間的ニュアンスがあるので「血脈」あるいは「家系」とすべきではないだろうか。 PCと携帯との通信なので、長文がかけませんので、出来るだけ短文にて回答します。 Best regrds 渡部恵様 新しい仕事をする場合、必ず、その仕事の内容や歴史的背景を調べることを習慣付けている。 今回の仕事は、昔接した若い栄養士の卵たちや先生たちのことを思い出させた。 既に20年余りの歳月が経っているのだ。 前回(627号)、石黒忠悳と日本赤十字の関係について触れたのだが、矢張り、その『懐旧九十年』に栄養学に関する面白いエピソードがあったので紹介する。 日本で最初に西欧的栄養学を学んだのが、何と森鴎外なのである。 『懐旧九十年』、第五期「兵部省出仕から日清戦争まで」、第十八「グラント将軍来朝と兵色問題」にその記述がある。 これによると、事の始めは、山県有朋(陸軍卿)が、紀州出身の津田出(いずる)を陸軍少将として招聘し、会計経済のことを一任したことにあるようだ。 明治6年(1873年)、会計監督長に就任し、陸軍省第五局長(後の経理局)を兼務している。 余談だが、後に、芝五郎を援助した野田豁通が、この職(会計局長兼会計監督長)を継承している。 この時、旧陸軍の給与規則が統一されている。 因みに、当時の給与は、一日白米5合と5銭であったそうだ。 その後の経緯は省略するが、当初から兵食の問題が議論されていたようだ。 例えば、当時のこと、一人扶持との比較があったようだ。 一人扶持は、玄米5合だったそうだから、白米5合は、相当な改善である。 しかし、このことが結果として「脚気」問題を生むのである。 この問題には、徴兵制も関係する。 武士階級ではなく、特に農民出身の兵士は、下級武士階級出身者よりも食生活においては、潤っていたのである。 機会があれば、この辺りの事も紹介する。 また、こんなエピソードもある。 兵食をパン食に統一すると言うのである。 特に、薩摩出身の将校が盛んに提唱したそうだ。 しかし、現実的に見れば、原料である小麦を生産しない日本では不可能な議論である。 しかし、「脚気」問題も絡んで、その事を科学的に実証する為に、森林太郎(鴎外)が、ドイツ留学を命じられるのである。 森林太郎は、帰国後、陸軍軍医学校で、兵士を用いて兵食調査の実験を行う。 また、同じく留 いずれにしても、明治初年から日清戦争・日露戦争辺りまでは、兵站問題と兵食および衛生問題は、軍隊の運用あるいは作戦における重要事項であり、そのトップ人事も重要視されたのだが、それが、大正から昭和にかけて、何故に軽視されるようになったのか、全く疑問である。 栄養学の問題は、本来の学問として、現在も軽視される傾向にあるのだが、老齢化・少子化の時代、さらに景気が低迷から混迷に陥ろうとする時代、見直されるべき分野ではないだろうか。 何しろ、「食足りて礼節を知る」のが、人間なのだから。 Best regards
日本赤十字奉仕団新潟支部柏崎分団の事業の一環として、産業大学の紅葉祭に参加した。 私自身は、平成18年の7月に、救急法救急員の認定を受けてからの参加だから、大した事業に参加していない。 特に、中越沖地震の際も、緊急連絡網が機能しない状況にあり、また、団員の多くが被災者であったこともあり、何の役にも立ったなかったという悔いがある。 そうした反省の意味もあり、今年度は、出来る限り奉仕活動に参加しようと考えている。 赤十字の活動を改めて書く必要はないだろうが、奉仕団の活動については、団員自身余り多くを知らなかったようだ。 私自身、驚いたのだが、新潟県における赤十字奉仕団の歴史は、今年で120年の長きにわたるようだ。 日本赤十字本社は、わが国における日本赤十字の事業全般を紹介する新しいDVDを作成し、新潟支部では、その活動をDVDにまとめた。 今年の指導員研修で、そのDVDが配布され、柏崎では産業大学の紅葉祭で初めて公開された。 さてそこで、120年の歴史について調べてみた。 120年前、すなわち1888年、あるいは、その前年に何が起こっているか。 新潟県の赤十字社に付いて考えるとき、先ず、思いつくのは、石黒忠悳の存在である。 石黒忠悳は、1917年(大正6年)2月21日、第四代日本赤十字社社長に就任、1920年9月4日に退任している。 その石黒忠悳が、森林太郎(鴎外)を従え、第四回赤十字国際会議に、日本代表として出席したのが、1887年(明治20年)の9月のことだ。 因みに、この時のオランダ代表は、彼のポンペである。 石黒忠悳の『懐旧九十年』によれば、この会議の二日目、某国の委員から「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する」という明文は、これを欧州以外の国にも適用すべきか、という議題が提出されたのだそうだ。 1886年(明治19年)、日本はジュネーヴ条約に加盟しており、その代表として出席している石黒忠悳は、憤慨する。 しかも、異議を唱える国が出なかった。 しかも、米国の代表、クララ・バルトン女史さえ、異議を唱えない。 そこで、ドイツ語に精通する森林太郎を通訳として、異議を申し立てているのだ。 以下、それを紹介する。 曰く「われわれ日本帝国の代表は本来赤十字事業なるものには、地理的もしくは人種的差別を設けるものではないと確信してこれに加盟し、ここに出席しているのである。 しかるに、かくの如き議が神聖なる議場に提出せられるとは真に意外である。 もしこの提案が議題となるならば、われわれは遺憾ながら議席を退くほかはない」と。 議場は騒然となる。 そこでオランダ代表のポンペが立ち、日本の文明国たる実情を主張し、ロシア代表などが同意を表明して、この議題は撤回された。 これが、国際会議で日本が認められた最初の場面だったのかもしれない。 余談だが、翌年(明治21年)10月、柏崎に日本石油会社が設立されている。 さて、新潟における赤十字活動だが、広報用に制作されたDVDによると、長岡病院が原点にあるようだ。 長岡病院の前身を「長岡会社病院」という。 戊辰戦争後の荒廃、疫病などで窮した住民の柏崎県に対する陳情で、明治6年設立されたのが「長岡会社病院」である。 三島億三郎が経営に当たり、梛野直(なぎのすなお)が初代院長に就任する。 この梛野直は、小金井良精の妹・保子と結婚している。 小金井良精については、以前書いた通り、母が小林虎三郎の妹・幸であり、最初の妻が森鴎外の妹・喜美子なのだ。 前後の事情を考えると、森鴎外(林太郎)の妹と結婚した経緯には、石黒忠悳の存在がる。 そこで、もう少し石黒忠悳について触れる必要があるだろう。 『懐旧九十年』によれば、日本陸軍の衛生部すなわち軍医の徽章を何にするかという問題が、明治五年に、松本良順(軍医総監)、林紀、および石黒忠悳の間で話し合われた。 結果、赤十字にすることがまとまり、山県有朋陸軍卿に申し出、陸軍省が太政官に提出したところ、宗教に関係があるという理由で却下された。 そこで、松本良順と相談、後に赤十字が各国同一になるだろうという含みから、赤十字から縦一字をとり、白地に赤横一線を徽章としたというエピソードがある。 赤十字の思想、博愛主義は、既に幕末期から普仏戦争における医療活動(アンリ・デュナン)の理念として知られており、戊辰戦争における医療倫理に大きな影響を与えている。 そうした背景の下、佐野常民がオーストリア公使となり、ウィーンに赴任、赤十字の存在を知り、陸軍省に詳細な報告を送っている。 また前後するが、普仏戦争のとき、大山巌が、フランスやスイスで赤十字活動を目撃し、その話を各界に伝えていた。 こうした事情から、石黒忠悳は、官方における赤十字社設立の指導的立場に立ち、民間の赤十字社の創立者の一人となっているのだ。 詳細を検証した訳ではないので、新潟県、特に長岡が赤十字活動の先進地であったという確証はないのだが、上記の背景から推測すれば、強ち誤りではないと考えるのだ。 昨日の紅葉祭で、DVDを見た団員がいう。 「こんな歴史があったとは知らなかった」と。 赤十字の人道活動は、単なる感情の発露ではない。 歴史に裏打ちされた確固たる信念があればこそ、危険さえ顧みない活動を可能にする。 上げれば様々な歴史的事実や人に纏わるエピソードは限りなくある。 今現在も、その事実やエピソードは蓄積されているはずなのだが、さて、その事実は、どれほど人に知られているのだろうか。 後世のためにも、残していかなければならないのだが。 Best regards
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77
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男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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