柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 近代デジタルライブラリーをあちこちと訪ねていると思わぬ発見がある。 羽石重雄と同年(明治31年)卒業生を一人ひとり確認していたら、直接関係があるのではないが、明治末期から大正にかけての陽明学の熱烈な信奉者・石崎東国著『陽明学派の人物』という本に出くわした。

 旧制中学校校長の足跡を追いかける契機となった「生田萬」について、特に目的も無く検索した結果だ。 記載の章題は「奉天命誅国賊・生田萬先生 -落し文」と、何とも過激な章題である。 まあ、この辺りの文献は、数年前に色々集め読んだ経緯があるので、ざっと流して読んだのだが、偶々、「嗚呼無隠居士」と題する次の章に、見慣れた名前が見えた気がした。 まさかと思い読んで見ると、矢張り河合継之助の名前がある。

 この本が大正元年に出版されているから、恐らく明治末期と推測するが、当時、『少年読本』という本(雑誌)があったそうだ。 これも推測の域を出ないが、この『少年読本』は、長岡出身の出版王・大橋佐平の起こした「博文館」で、明治20年を契機に多数の雑誌(日本之○○シリーズ、例えば、『日本之少年』(明治22年12月創刊))などが出版され、一種の雑誌ブームに火が着くのだが、そうした雑誌の一つではないだろうか。

 さて、内容だが、その著者・戸川残花が『少年読本』第三篇に河合継之助の事を引用しているのだそうだ。 これも又引用だったようで、出典は、「近刊の読売新聞の名流随筆」とあり、作者は鈴木三郎とあるそうだ。 かいつまんで書くと次の通り。 原文を引用する。 尚、仮名遣い、句読点など、読みにくいので手直し、旧仮名遣いは現代に、また、難字に関しては、読みを加えた。

 余談だが、戸川残花も興味深い人物である。 江戸末期、五千石の旗本・戸川家の養子になり、14歳で彰義隊に加わる。 維新後、大学南校、慶応義塾に学び、明治7年に洗礼を受け、伝道師として布教活動に勤めている。 実に興味深い。

****** 以下、『陽明学派の人物』より。 (因みに、著作権の保護期間は満了。)
 四十余年間に於ける師友はたんとあるが、其(その)中に河井の様な人物は無い。 其(その)容貌風采いまも目に見え言語は耳膜に響き居る様だ。 英雄豪傑の人を感化薫陶する力は実にひどいもである。 河井が己れに教えたる語に、
 一、無くてはならぬ人となるか、有りてはならぬ人となれ。 沈香もたけ、へもこけ。
 一、牛羊と為て人の血肉に化せずんば豺狼(サイロウ、やまいぬとおおかみ)と為て人類の血肉を食い尽せ
 一、身を棺梛(カンナ)の中に歿し地下千尺の底に埋了したる以後の心に非ずんば、與(余)に天下の経綸を語るべからず。 道義道徳もそれからのことだ。
*******

  と。 この言、古賀謹堂の久敬舎で河井継之助が鈴木三郎によく語ったとあるのだが、これは筆者の誤認で、古賀謹一郎(茶渓)である。 恐らく、後に佐賀藩で活躍する伯父・古賀穀堂との混同が会ったのではないだろうか。 因みに、謹一郎茶渓の祖父である古賀精理は、寛政の三博士の一人でり、父・洞庵は、昌平黌・蕃書調所頭取など歴任した幕府の儒官で、『柏崎通信』に紹介した『おろしゃ文庫』全104巻は、林子平の『海国兵談』などに影響を与えることでも有名である。

 ところで、ここに登場する鈴木三郎なる人物には謎が多い。 詳細は省くが、その父は金沢藩・足利藩の藩医を勤めた家で、足利で生まれているようだ。 本姓は、鐸木という。 その後、学問を志し、江戸で学んだのが古賀家の久敬舎であり、河井継之助の他、朱子学の土田衝平が同宿であったとある。 当時の年齢は推測17あるいは8歳であったようだ。 (実際には、遊学の遍歴がある。) しかし、感化されたのは、河井継之助で、それが先の三か条に見える。

 水戸学の藤田東湖にも影響を受け、天狗党の乱に参加、結果として、お尋ね者になり、鈴木三郎も偽名の一つであったようだ。 いずれにしても、幕末の生んだ一種の異端児であったようだ。 それをして、河井継之助に心酔するのだから、河井継之助のカリスマを感じざるをえない。 これも一側面かと、改めて、若き日の、(と言っても敬舎時代は三十二あるいは三歳だが)、河井継之助を想うのである。

 動乱の世は、多くの英雄・英傑を生む。 歴史書は、権力に重きを置くが、志士の本質に真理探究の志があったことを忘れてはならないだろう。 明治前後は、当に中国の春秋戦国時代、百家争鳴を髣髴とさせる。 継之助の第三の言、「身を棺梛(カンナ)の中に歿し地下千尺の底に埋了したる以後の心に非ずんば、與(余)に天下の経綸を語るべからず。 道義道徳もそれからのことだ」とは、百年に一度の大恐慌と騒ぐ世に、一転の警告とも取れるのだが、さて如何なる解釈がされるのやら。

 河井継之助記念館友の会のメンバーである。 大抵の文献は読んだ積りだったが、『陽明学派の人物』における河井継之助に関する記事には、初めて遭遇した。 どうも、こんなことをしているから、歴史という無限地獄に陥るのかもしれない。 トインビーの『歴史の研究』の膨大さが、ふいと頭に浮かんだ。

Best regards
梶谷恭巨

 余談の追加: 筑波大学に「歴史地域統計データ」というデータベースがある。 これを参照したところ、明治19年の日本の人口が、男19,300,261、女18,850,956、合計38,151,217人であることが判った。 教育を考える場合、当時の社会的状況もさることながら、人口についても注目する必要がある。 以前にも紹介した時代別の人口には、思わぬヒントがあるように思える。 世界における人口の分布と我国の人口との比較、更に、社会資本あるいは社会的人的資本の比率は、その後の歴史にも反映されるのではないだろうか。
 
 
 
  羽石重雄先生の足跡を追う中で、もう一つのキー校である旧制岩国中学校が浮かんできた。 そこで、『岩国高等学校九十年史』を探し、幸運にも入手することが出来た。 それによると、前回紹介した通りなのであるが、誤記なのか少々事実と異なることが分った。

 以下、生年月日および東京帝国大学以前については資料が見当たらないので推測になるが、次のような足跡が確認できた。

生年: 岩国中学校長就任時(明治33年)に26歳であったことから、明治7年生(推測)
出身地: 滋賀県彦根
出身中学校: 滋賀県立彦根中学校(現、滋賀県立彦根東高等学校)
出身高等学校: 現在のところ不明。 三高、四高、八高など順次調べているのだがヒットしない。
出身大学: 東京帝国大学文科大学史学科(明治31年)
以下、赴任地
(1)石川県立金沢第一中学校(明治31年から明治32年) : 教諭
(2)山口県立岩国中学校(明治33年4月から明治39年11月): 校長
(3)新潟県立長岡中学校(明治39年11月19日から明治42年?)
(4)第八高等学校(明治42年11月30日現在): 生徒課課長、生徒監
  同、(明治44年11月から大正7年): 修身科、教授文学士
  同、(大正8年): 修身科、主任教授
  同、(大正9年)、転任
(5)学習院(大正9年9月4日): 着任、訓育部長、教授
  同、(大正11年7月20日): 休職、理由は不明
  同、(大正13年7月19日): 満期にて退官、高等官二等、従四位
(6)松山高等学校(現愛媛大学、大正13年8月15日): 着任、学校長
  (注)、大正14年7月現在の職員録に記載があるが、それ以前の資料が見当たらない。 また、退官の時期も同様に資料が無い。

 以上、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の各校の一覧によるもの。 また、第八高等学校すなわち名古屋大学図書館に問合せ、回答を得たものの詳細は不明だった。 また、学習院に関しては、自分の出身校でもあることもあり、問合せの結果、詳細な情報を提供頂いた。 感謝。 ただ時に、個人情報保護法により情報の提供は出来ないと断られたこともある。 どうも、個人情報保護法は、その運用において大きな誤認があるように思える。

 ところで、福岡県立修猷館高等学校の「Wikipedia」を見たところ、出身著名人の項に図らずも「羽石重雄」の記載があった。 何方が採り上げてくださったのか判らないが、注目を浴びなかった旧制中学校校長に、関心を抱いて頂いたことに感謝の言葉を。

 しかし、この旧制中学校長の足跡の旅、これ程拡大するとは思ってもいなかった。 ブログ版『柏崎通信』を久しく書いていなかったのだが、これも、思わぬ広がりのため、資料の収集に手間取った次第なのだ。 特に、当時の中学校で発生した事件、福岡修猷館の「投石事件」、山口岩国中学の「校長排斥運動」、新潟長岡中学の「同窓会事件」など、当時の学生気質や世相が反映され、実に興味深い。 明治中期から始まる中等・高等教育の歴史は、まさに教育における実験の場の感がある。 こうした時代のリーダーであった旧制中学校の校長の足跡に、もっと光が当てられるべきではないかと考えるのだが、柏崎という片田舎で調べていくには限界を感じる昨今だ。 心ある研究者の登場に期待したい。

 ところで、こうした教育界のリーダーの形成には、学校時代の恩師あるいは同級生や友人関係の影響があるはずだ。 そこで、橋本捨次郎の東京帝国大学文科大学史学科の同級生についても調べて見た。 同年の史学科卒業生(文学士)は、11名ある。 その中で、「近代デジタルライブラリー」で名前がヒットしたのが、5名あった。 橋本捨次郎に関しては、坂井雲舟著『訪問記』に寄稿文があるのみだったが、他の4名については、それぞれに著作があった。 多くは、専門である西洋史学関連、あるいは、その教科書の著作であったが、既に伝統のあった国史や東洋史と異なり、苦労のあとが見えるのである。 参考のために、この4名を挙げると、坂井健一(兵庫、15件)、広田直三(福岡、1件)、村川堅固(熊本、4件)、坂田厚胤(東京、1件)の4名である。 特に、坂井健一(訳)の早稲田大学における明治37年度講義録『ヘロドトス』は、我が国に於ける最初の翻訳ではないだろうか。 参考までに追記した。

Best regards
梶谷恭巨
 

 先日信州大学の土井先生から新たな情報を頂いた。 感謝。

 その後、羽石重雄が、在籍した当時の東京帝国大学文科大学国史科の教職員を個々に追いかけて見た。 その過程で、幾つかの面白い事実に行き当たったのだが、それはさて措き、我が国に於ける史料の電子化が如何に遅れているかを痛感した。

 因みに、東大には、「ASK」というシステムがあり、そこに質問を送ると、丁重なる回答を頂ける。 しかし、電子化のニュアンスが異なるのでは?

 ところが、米国の場合、グーテンベルク・プロジェクトによる大学間協同(コラボレーション)による電子化が進んでいて、思いもよらぬ日本関連の文献・史料あるいは書籍に巡り合うのだ。

 その一例が、「Nagaoka no Rekishi(『長岡の歴史』全六巻)」である。 ミシガン大学の図書館に、それを発見したのだ。 勿論、原本そのものは古本として入手が可能なのだが、何しろ高価である。 さて、そのミシガン大学における電子化された本なのだが、内容は二の次で、完璧なものではない。 というよりも、驚いたのが、反古の如き断片、敢えて言えば、テロップの如き有様なのだ。

 その経緯を紹介すると、羽石重雄との関係が強い「仙田楽三郎」を検索した結果なのだ。 文献として「仙田楽三郎」が登場するのは、長岡社(病院)設立に関与した人々の一人として書かれている件だ。

 言いたいのは、内容ではなく、ミシガン大学の図書館に、1968年刊の今泉省三著『長岡の歴史』が原文のまま電子化された史料として存在したということだ。 この文献に対する姿勢は何なのだろう。

 昨今、米国は、当に火の車の感がある。 しかし、そうなのだろうか? 二十年くらい前、初めてアメリカの大地を踏んだ。 ケネディ空港から都市部を抜け、ダイアロジック(現在は、インテルの一部門)の本社があったマウンテン・レイクのパシパニーに向かう国道(ルート66か?)に纏わる風景を眼にしたとき、「ああ、アメリカには勝てない」と痛感した。 アパラチア山脈の北端に当たるののだろうか、真っ直ぐな道が、丘陵という感覚を超えたパノラマを展開していく。 もしかすると、「展開」という言葉さえ超越しているのかもしれない。 何もない平原ではなく、起伏が延々と続く、その背景の中に片道三車線(四車線だったか?)の道が、地平線の彼方まで延びているのだ。 感動というより、恐ろしささえ感じた。

 何しろ、米国で最も古い大学のひとつであるニュージャージー大学の傍を通り、その時の不可思議な風景、商店街のウィンドウには鉄格子がはまり、浮浪者とも思える人々が右往左往している光景、どう考えても、「えっ! これが繁華街ですか」と、思わずボス・小森さんに聞いたくらいの場面だ。 その心象を引きずりながら、高速道にのり、また驚くべき風景に遭遇する。 日本ではとても車検が通らない車が何台の走っている様、「あんな車でもいいのですか」と聞く。 「梶、アメリカには車検はないんだよ」とボスに言われても、「ピント」こないのである。 そんな光景を眼にした後で、「よくもまあ」と感じるくらいの広大な空間的感覚。

 それに似た無力感さえ感じるデジタル化の大波をグーテンベルク・プロジェクトに感じたのだ。 慶応義塾は、日本でも電子化が進んでいる大学だ。 それでも、ミシガン大学には及ばない。 著作権の問題があるのかもしれないが、果たして、それだけの問題だろうか。

 国立国会図書館が、電子アーカイブを奈良(?)に造ってから何年たつのだろう。 一応、IDを持っているが、結論的に言えば、自由公開の部分は少ない。 むしろ、ほとんど当てにならないのだ。 イメージとして、上意下達的とでも言うのだろうか。

 我が国に於ける「図書館学」は、和田万吉に始まる。 慶応元年(1865)8月18日、美濃国大垣藩士の家に生まれ、東京帝国大学文学部国文科を卒業後、明治23年(1890)、図書館管理になり、その後、欧米の図書館あるいは図書館学を見聞習得し、図書館長として27年間勤めるが、関東大震災で図書館焼失、その責任を取って辞任。 国策もあったのか、その後、「図書館学」あるいは「書誌学」は、言論統制と絡み合い、筑波の図書館情報大学の設立まで、一種継子扱いの感があった。 (平成16年閉学、現在は筑波大学図書館情報専門学群) 偶々、この設立時(当時は短期大学)、縁あって、その経緯を知るのであるのだが。

 いずれにして、この情報に対する軽視。 それは、何を意味するのであろう。 因みに、日本では、作家協会から図書館の書籍購入に対してクレームがついたことがあり、現在も継続していると聞く。 この問題に対しても疑問符を投げかけるのである。 すなわち、グーテンベルク・プロジェクトの場合、著作権に係わらない文献については、無料であるが、著作権が継続する文献に関しては、ワンクリックで課金される。 但し、ユーザー・フリー、課金の分担は各大学から連邦政府に。

 要らぬことかもしれないが、グーテンベルク・プロジェクトは、二十数年前には、CDで配布されていた。 一種の協力金が必要だった(送料+実費)。 発足当時、そのプロジェクトの存在を知り、ミシガンかペンシルベニア大学に、アプリケーションを送付し、メンバーIDをもらった。 余談だが、CD配布時代からの全てのCDを所持している。 インターネットで公開されたとき、当時の幹事校(日本的表現)、シカゴ大学だったか、NYシティ大学から丁重なメールを頂いたのを記憶している。

 そんなことを考えると、矢張り、学際的ネットワークの必要を感じるのである。 (私自身は、その圏外にあるのだが。) 官に頼れば、勿論、官の協力も必要だろうが、至るところ青山ありではなく、「至るところ障壁あり」になるのかもしれない。 (何とかできないものだろうか。)

 パソコンが家電になった時代、蔦屋重三郎的プロジェクトを学際的に行う必要があるのではないだろうか。 (あおぞら文庫の存在は、措くべきもない事実なのだが。)

 ただ一言、言っておきたい。 コンピュータの世界に早40年、その世界の危うさは誰よりも知っているつもりだ。 しかし、それでも言いたいのである。 昔、司馬光の『資治通鑑』の和書に出会った。 司馬遷の史記に始まる紀伝体ではなく、史観を寧ろ人間においた史書である。 実は、この本、本家本元である中国では喪失していたと聞く。 戦乱の時代に消失したのか、あるいは清朝になって、その思想が認められなかったのか(陽明学が中国や韓国、すなわち儒教思想として係争されなかった?)、兎に角、無かったのだ。 明治になって廃仏毀釈の荒波が全国を襲ったとき(新潟県の場合は、佐渡を除き、仏光寺に関する史料があるが、大した影響はなかったようだ)、清国の本屋(書シン)が中国古典を大挙して買出しにきたそうだ。 ところが、辛亥革命から続く戦乱で、それさえも消失した。 戦後、もう一度、典籍復古の運動が起こり、横浜・神戸の中華街で高値を呼び、米一粒とでも交換できないかと旧(?)旗本の家から漢籍が放出した。 しかし、またしても意外、朝鮮戦争が勃発し、儒教国韓国の膨大な漢籍が焼失したのだ。 両班の崩壊である。 更に、それに追い討ちを掛けるように「文化大革命」がおこる。 当に、「焚書坑儒」、結果として古典文学はまだしも、歴史書である『資治通鑑』の原本は、なくなってしまった。

 そんな経緯から、原本に、当時、昭和40年頃、二千万円の価格がついた。 しかし、現実問題として、戦乱の世の中を何代も(司馬光は宋の人)経て、結果として皇室の図書館にしか存在し得ないと言われた『資治通鑑』、江戸初期刊の値段が高騰したのも頷けるのである。 (勿論、今では簡単に入手できるのだが。) デジタル化は、そんな史料集めを軽減してくれるのだ。 (記憶が定かではないが、確かこの話、梶山季之の『せどり公爵』にも書かれていたのではなかったか?)

 ただそれだけではないことも付け加える。 北海道大学の古賀洞庵の『おろしゃ文庫』全104巻、奈良女子大の近藤芳樹の『北陸廻記』など、思わぬ文献が電子化されている。 特に奈良女子大のアーカイヴは、現代語訳や注釈付だ。 そのご苦労に感謝したい。

Best regards
梶谷恭巨

 

 先日(12月16日)、長岡高校の同窓会・和同会館を訪問した。 同窓誌を閲覧するためである。 この史料に関しては、今しばらく検討する必要がある。 故に、後に報告することにしたい。 ただ、羽石重雄先生に関する新しい情報を得ることが出来た。

 羽石先生の長岡中学校長就任のおよそ20年前、長岡中学が、古志郡立長岡尋常中学の時代、初代校長に就任された仙田楽三郎という先生の存在がある。 仙田先生は、安政3年の生まれ、長岡藩士との情報がある。 また、先のように長岡尋常中学校長であったことを頼りに調べ結果、現在の福岡県立伝習館高校、旧制福岡県立伝習館中学(柳川藩の藩校・伝習館を継承)の第二代校長に就任されたことが判っていた。 そこで、伝習館高校に調査依頼をしたところ、明治31年から同35年まで在職、在職中の12月25日に死去されていることも判った。

 さて、これからが新事実なのだが、足跡を遡っていくと、驚いたことに羽石先生の出身校である「黒田藩校・修猷館」に行き着いたのである。 仙田先生は、明治22年10月から明治26年8月まで、修猷館で教鞭をとっておられたのだ。 記録には、教諭、後に教頭とあるそうだ。 仙田先生は、修猷館の後に、新潟県長岡の中学に転任と言う記録があるそうだから、それが古志郡立長岡尋常中学であることに間違いは無いだろう。 興味深い事実である。

 確証は未だ無いのであるが、黒田藩士の家に生まれた羽石先生が、仙田先生に習ったのではないかという推測が出来るのだ。 その推測を広げていくと、羽石先生が、現在の山口県立岩国高校の前身である旧制養老館中学の校長に就任後、以前にも書いた「排斥運動」により退任され、二年の空白の後、新潟県柏崎市の現新潟県立柏崎高校の前身である旧制柏崎中学初代校長された経緯には、仙田先生の影が見えるのである。

 確実な年代を把握していないが、両先生の足跡を図式化すると次のようになる。

仙田楽三郎:
 長岡(安政3年(1856)、長岡藩士の家に生まれる)→???→福岡(修猷館教諭・教頭、1889-95)→長岡(長岡尋常中学校初代校長)→福岡・柳川(伝習館第二代校長、1898-1902)
羽石重雄:
 福岡(明治3年3月6日(1872)福岡県士族の家に生まれる)→(修猷館卒業)→山口高校(後の旧制山口高等学校とは別)→東京・第一高等学校→東京帝国大学・文科大学・国史科→長崎?(旧制長崎中学同窓会に確認したが不明)→山口・岩国(旧制養老館中学校長)→空白2年→新潟・柏崎(旧制新潟県立柏崎中学初代校長)→新潟・長岡(旧制長岡中学校第六代?校長)→長野・松本(旧制松本深志中学初代校長)

 因みに、東京帝国大学文科大学史学科の同級生は、7人。 『日本史研究者辞典』に掲載された同級生は、4名。 特に注目するのは、後に広島高等師範学校(現広島大学)の教授であった、姫路出身の重田定一(1874-1918)なのだが、45歳の若さで亡くなられた事は、国史研究の大きな損失であったとは、史学関係誌への追悼文である。

 この図式を見ると、仙田先生の教諭時代、羽石重雄は19歳から23歳であり、以前にも書いたように、修猷館が当時としては珍しい全授業を英語で行っていた事実と、授業に付いて行けず落伍者が多かったことから推測すると、年齢的におかしくはない。 しかし、推測は推測である。

 纏まった文を書いてはどうかという友人からの勧めもあるが、何せ遠隔地のこと、また、当時の研究者が少ないこともあり、調査が儘ならないのも事実である。 しかし、この人事交流の広域性には、当時の中等教育に対する理念の一端が現れているのではないだろうか。

 尚、史料の誤認、聞漏らしなどあるやも知れません。 ご容赦の上、ご指摘頂ければ幸いです。

Best regards
梶谷恭巨

 

 出来事が、歴史として語られるためには、どれ程の時間の経過が必要なのだろうか。 どうも、それぞれの文化によって、この概念は異なるようだ。

 以前、「遺品処分屋」なるビジネスが盛況だというニュースをTV報道で見たことがある。 確かに、日本の家屋は狭く、想い出には明るい面ばかりではないことも事実だろう。 しかし、全てを処分するというのは、どういうことなのだろうか。 この番組では、ある老婦人のケースが採り上げられていた。 生前、ご主人と旅行をするのが楽しみだったそうだ。 ご主人の趣味が写真で、こまめな人だったらしく、コメントを付した多数のアルバムが残されていた。 子供夫婦と同居することになり、家財を整理しなければならなくなったという。 しかし、それにしても想い出のアルバムまで処分するというのは、どういうことだろう。 事情はされ措き、事実上、ひとつの歴史が葬り去られたのだ。

 少々昔の話になるが、学生時代、一年ほど鎌倉に住んだことがある。 一の鳥居の直近く、静かであれば由比ガ浜の波音が聞こえる所だった。 ここから、目白に通っていた。 通学には二時間かかる。 事情があって、この地に住むことになったのだが、もうひとつの理由に、鎌倉の古本屋の噂を聞いていたことがあったからだ。 文化人や学者が多く、そうした人が亡くなると、大量の蔵書が売りに出されると聞いていたのだ。 こうした書籍が店頭に並ぶことは少ないのだが、古本屋と馴染みになれば、希少本も入手可能なのだ。

 当時、鎌倉駅の近くに三軒の古本屋があった。 通学路でもある。 ほとんど毎日のように立ち寄り、時には何冊かの古本を買った。 学習院の制服が印象に残ったのだろう。 (学生運動が盛んな時代、当時、学生服を着るのは運動部系の学生でも少なかった。) 主人と親しくなり、時には、「お茶を飲んでいかないか」と誘いがかかる。 古本屋は、概して暇な家業だ。 長話になる。 そんな時の会話である。

 「親爺さん、何であの先生の蔵書が売りに出るんだろうね」と聞いたことがある。 事情は様々だが、どうも相続税に関係があるようだと云うのだ。 鎌倉は地価が高く、相続税を納めるには、土地家屋を処分しなければならない、そうなると大量の蔵書が厄介になる。 寄贈すればよさそうなものだが、一括で受入れてくれるところも無い。 (必要な本ばかりを選ぶ訳には行かないということだろう。) そこで、一括して買い取ってくれる古本屋の出番になる。 結局、ある思想を持って集められた蔵書が散逸することになるのだが、古本屋のメリットは、その中に思わぬ掘り出し物があることだ。 例えば、日記。 著名人ならそれも然り。 しかし、著名人との交流があった人の場合、傍系の史料としての価値がある。 家人は、そのことをほとんど知らないのだ。

 因みに、司馬遼太郎は、日記の収集家としても知られていた。 出入りの古本屋に、日記なら何でも買い取ると言った話は有名だ。

 関西大震災の後、文化財保護のためのネットワークが作られた。 新潟でも、中越地震、中越沖地震の後、新大を中心に同様のネットワークが出来ている。 特に、紙である史料の被害は甚大で、その保護・保存は愁眉の急の感がある。 公的な歴史には語られない実際の生活史が、そこにある。

 見方を変えると、明治以前の史料は、意外に残っていると言うことだ。 当時の人々は、今書くものが伝承されることを明確に意識していたと言うことではないだろうか。 現在の歴史研究者は、それを発掘しているのである。 大福帳あり、覚書あり、証文あり、書簡あり、日記もある。 余談だが、書簡について言えば、本居宣長の書簡のことが有名だ。 本居宣長の書簡は、現在確認されるものだけで4000通に及ぶと言う。 これ程の書簡が確認されたのも、ひとつには本居宣長が、書簡の写しを常に残していたことであり、送り先の明細を記録していたことにある。

 こうして残された書簡が思わぬ発見に繋がることがある。 越後における写真術の嚆矢は、シーボルノトの弟子・越後(加茂)における蘭方は始めとも言われる森田千庵の弟・森田正治ではないかという話は以前にも紹介したことがある。 川本幸民(千庵の親友)の門人であった森田正治は、兄・千庵の越後への蘭方普及の意を呈して、柏崎に開業すると共に、蘭方医学を教授している。 一方で、川本幸民に習った写真術の普及にも努めている節があるのだ。 川本幸民との書簡の中に、それを匂わせる件がある。 この書簡のことを知ったのは、川本幸民の出身地である兵庫県三田市の広報だったろうか。 その後、柏崎で森田正治について調べたが、見つからない。 市内の写真館にも問合せしたのだが、写真術の歴史について知る人がいなかった。

 結論を言えば、記録が無いのである。 あるいは有ったかも知れないのだが、喪失したのではないだろうか。 記録は、時間の経過と共に史料になる。 記録した人にも、その意識が無かったのかも知れない。 しかし、後の人が、残された記録を単なる遺品、しかも紙屑視としか見ない短慮があったのではないだろうか。

 こうしたことを考えると、現在の記録が既に歴史の一端、すなわち現在史であることを認識することの必要性を痛感するのだ。

Best regards
梶谷恭巨



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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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