柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
[42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52]
  旧制高等学校を調べていたら面白い本に行き当たった。 それが、明治33年に出版された『藩閥之将来』という本だ。 著者である外山正一(まさかず)は、旗本で、幕府講武所歩兵指南役を勤めた剣客・外山忠兵衛正義の、(名前からして)、恐らく嗣子として生まれた。 後に、勝海舟の推挙により英国に留学、一旦帰国して官途にも就くが、ミシガン大学に入学して、哲学と科学を学び、帰朝後は、東京帝国大学の最初の教授になった人物である。 井上哲次郎と伴に、『新体詩抄』を著している。 尚、この『藩閥之将来』が発表された年に亡くなっているから、この本が絶筆になるのかもしれない。

 世の中には、時を越え場所を違えても、同じ発想する人がいるようだ。 未だ全文を読んでいないので、その意図するところを明確に書くことは出来ない。 しかし、教育に関する統計的に道府県別データを基に論理を展開しているのである。 (実のところ、文脈から結論が予見できる。 それに、当時の文学博士の論文としては、正鵠を欠くように思えるのだ。 兎に角、当時のカタカナ漢字入り混じり文で、且つ、印字が劣化しているので読み難い。 勿論、小生の眼も年齢相応に衰えているのだが。 まあ、それでも、虫眼鏡を頼りに読み進めている。)

 そこで、紹介したいのがのデータなのだ。 その一が、『道府県別中学生徒人員及人口千分比例』である。 補足によると、明治31年10月調査、人口は明治30年12月末の内務省調査とある。 以下、データは、上位5位の道府県だが、東京を省く。

生徒数: 大阪(2,255)、福岡(2,374)、熊本(2,236)、新潟(1,869)、山口(1,838)
千分比: 大分(2.2)、奈良(2.0)、高知(2.0)、佐賀(2.0)、山口(1.9)、熊本(1.9)
      因みに、新潟は(1.1)、広島は(1.0)
別調べ: 佐賀(2.4)、大分(2.2)、奈良(2.0)、高知(2.0)、熊本(2.0)
      因みに、新潟は1.1)、広島は(1.0)

 次に、『各高等学校予科生徒道府県別人員表』は、次の通り。 但し、第一から第五高等学校及び山口高等学校別の表記だが、その合計のみを紹介する。 (人数のみ。 表に年度の記載なし。)

生徒数: 山口(201)、福岡(163)、佐賀(119)、新潟(103)、熊本(103)
      因みに、広島は、59名。

 とまあ、こんな具合に続くのである。 (東京帝国大学については、以前紹介している。)

 さて、これから何が導き出されるのだろう。 それは楽しみに置くとして、もう一つ興味あるデータが紹介されているのだ。 それが、『文学生及武学生道府県別人員多寡ノ順序』である。 ここでも東京は別格であるため、東京出身者を除く。 (武学生とは、士官学校・兵学校生徒のこと。 因みに、東京は、文学生(1,271)、武
学生(321)ともにでダントツである。)

文学生: 福岡(387)、山口(363)、新潟(307)、兵庫(印字落で不明)、静岡(233)、佐賀(232)、長野(229)、熊本(228)、愛知(222)、と続く。 因みに、広島は東京を含めれば23位で、143名だ。
武学生: 鹿児島(210)、佐賀(204)、山口(156)、石川(135)、高知(101)、愛知(92)、静岡(90)、熊本(89)、広島(87)、長野(78)、と続き、新潟は、三重県と同じ21位(東京を含めて)で、41名なのだ。

 さて、このデータから何が読み取れるのだろう。 現時点では、諸氏の判断あるのみ。 ただ、明治30年辺りから、教育に対する考えが変化すると考えるのだが。 いずれにしても、旧制中学の校長の足跡を基準にすると、何かしら面白い結論が出そうな期待がある。

 実は、先回書いた「修身」についても、面白い事実が判ってきた。 矢張り、現在の感覚や戦前のそれとは、似て非なるものなのである。 それは、復の機会に書くことにしよう。

Best regards
梶谷恭巨 
 
 このところ、持ち時間が少なくなったと感じることが多い。 今週の初め、羽石重雄先生の足跡の中で、記録として追い易い、最後の部分がある程度確認できた。 勿論、修猷館までの空白の部分があるのだが、果たしで見つけることが出来るのだろうか。

 さて、草創期の学制あるいは校長の足跡を、兎に角も、望見できる足場につけたと感じている。 そこで、思うのが、経済と同様に、教育にも「波」あるいは「循環」があるのではないかと考えるのだ。

 先ず、第一の波は、江戸後期に訪れる。 門戸は狭かったとはいえ、膨大な情報量が、旧来の学問の世界に浸透していく。 「折衷学」という学派の成立が、それを物語っているのではないだろうか。 「折衷学」は、言い換えると、「実学」を意味する。 (陽明学の別な表現と考えることが出来るのかもしれない。) 新しい価値観あるいは価値基準が生まれようとしている時代だ。 片山兼山、細井平洲、山田方谷などが、それに当たる。 年代順では、片山兼山が熊本藩で、細井平洲は米沢藩で、山田方谷は備前松山藩で、それぞれの手腕を発揮する。 余談を書くと長くなるが、歴史的には表舞台に登場することの少ない片山兼山が、遠山家(金四郎)の支援で学塾を開いたことは、「折衷学」の時代背景をよく表しているのではないだろうか。

 さて、次の波が「蘭学」の時代に始まる。 既に、「折衷学」の時代にも蘭学の影響はあったのだが、医学が求心力となって、「蘭学」の勃興を見るのではないか。 東京帝国大学が正式に開校し、卒業生を輩出する以前の中学校長や教師には、蘭学の影響を感じるのである。 当時の混乱は、文献の調査を困難にしている。 その辺りの校長の足跡が、どうしても収集できないのだ。 (在住地や経済的問題もあるのだが、言ってみても仕方ないこと。 デジタル化が、各大学や図書館で進めば、もっと調査し易いのだが。)

 例えば、「羽石重雄」の場合、明治3年の生まれである。 修猷館を卒業するのが、明治24年7月だ。 すなわち、21歳の卒業なのである。 因みに、岩国中学校長の橋本捨次郎は、明治31年帝国大学文科大学史学科を卒業し、明治33年、26歳の若さで初代校長に就任している。 また、長岡中学校長就任が明治39年だから、32歳なのだ。 羽石重雄と比べると、その年齢差には関心が湧く。 言い換えれば、草創期の校長・教師の年齢、学歴、身分、出身地など、当に、ごちゃ混ぜの状況なのだ。 また、同様に生徒の年齢差も、相当にあったのではないか。 こうした年齢差の問題は、価値観あるいは価値基準の相違を伴い、その後の足跡に影響を与えているようだ。

 それを裏付けるように、当時の中学校では、様々な事件が起こっている。 羽石重雄が在学中の明治24年、権威に対する反抗心(反骨心)の表れとも見える「修猷館軍隊投石事件」、引責辞任の原因となった明治39年の萩中学「寄宿舎内集団暴行事件」、そして、大正2年には、「校長排斥運動」で岩国中学を依願退職しているのだ。 直接関係はないのだが、羽石重雄が明治33年に初代校長として就任した長崎県立島原中学でも、つい先日、島原高校同窓会から頂いた資料に「校長排斥運動」の記載があった。 それによると、明治39年9月、「信頼の厚い先生の転任が相つぐことに端を発した校長への不信が広がり5年生の代表らが五十箇条の排斥理由書を作成して校長に手渡す」とある。 (尚、各校で起こった「校長排斥運動」については、似たような理由もあるのだが、各校で事情が異なる場合もあり、もう少し調べた上で改めて書きたい。)

 限られた史料から判断するのは、慎重を欠くとの指摘を受けるかもしれないが、行き着くところで、何らかの事件が起こっているのも事実なのである。 そこで、思い出すのが、漱石の『坊ちゃん』である。 調べた範囲で、事件と時代背景を勘案すると、若き教師と帝大出の校長、藩校時代からの校風の影響下にある生徒たち、三つ巴、四つ巴の価値に対する相克が推測される。

 混乱あるいは動乱の時代、行動規範あるいは価値規範が錯綜する。 しかし反面、将来に繋がる道に対する選択肢が模索され、様々な芸術や文化、あるいは学問や技術を生む。 春秋戦国時代の「百家争鳴」、ルネッサンスといわれる暗黒の時代には、ダヴィンチやラファエロ、エラスムスやトマス・モア、ラブレーやモンテーニュなど、当に「千家動鳴」の時代なのだ。 維新前後の時代も、同様な時代ではなかったか。

 否寧ろ、西欧の眼から見れば、一種の実験の場ではなかったか。 江戸末期、明治維新、明治初期の西欧人士の著作の中に、そんな感慨を見るのである。 何だか、自立型循環環境の中で、明治という時代がどのように変化していくのかと観察する西欧の眼を感じるのだ。

 話が横道に逸れてしまった。 話を戻すと、生徒による様々な事件の背景に、国家としての基盤が固まっていく過程に、親たちから聞いた維新の志士たちの冒険談が、あたかも御伽噺の如くなって行く空しさあるいは寂寥感のようなものを感じていたことがあるのではないだろうか。 憧れが妬みや反発に換わることは多いものだ。 生徒の文集の中に、「ハイカラな先生へ憧れ」を書いたものがある。 それを言った生徒に、教師は、「諸君も勉強せよ。 そうすれば、金時計も金鎖も夢ではない。」といったと云う。

 もしかすると、このときに生まれた現状に対する不平不満、反発の心、あるいは立身出世至上主義が、後の日本の道を決定したのかもしれない。 事実、草創期の校長・教師が一線を引く頃には、学校の様相も変わっているだ。 先に上げた校長たちもそうだが、山本五十六が、唯一師と仰いだ「本富安四郎」や漱石の『野分』のモデルといわれる坂牧善辰のような強烈な個性の教師や校長たちが影を潜めているのである。

 そして戦争、戦後の混乱期、また夢が生まれる。 団塊の世代は、その夢物語あるいは復興ロマンを聞いて育った。 しかし、自分たちが、そのロマンを実現する社会は、とうに消滅しているのである。 しかも、受験戦争。 生徒・学生の一斉蜂起とも思える学生運動もまた、明治教育の草創期における様々な事件に重なるのである。

 ここには矢張り「波」がある。 あるいは「循環」があると考えるのは短絡だろうか。 身近な世代の歴史には、依然として踏み込めない領域がある。 ならば、それ以前、少なくとも四世代以前、あるいは百年前の時代を改めて見ようと思うのである。 この時代なら未だ追いかけることが可能なのだから。

Best regards
梶谷恭巨
 
 
  丁度、入試の時期で、学校などへの問合・回答も一休みの状態である。 そこで、近代デジタルライブラリーの文献をあれやこれやと探していると、意外に面白い資料に行き当たるものだ。 「ああ、この人、こんな所に関係があったのか」とか、まあ、そんな具合だ。

 羽石重雄の足跡も、福岡・修猷館以降については、残すところ長崎県立島原高等学校への問合せの回答待ちだ。 そこで、傍系の事実関係を資料に求める。 面白いことに、修猷館の同窓会誌『館友会雑誌』の第一号の論説に寄稿した「高槻純之助」という人物を追いかけていたら(羽石重雄も第五高校在学中に寄稿している)、思わぬ人物に行き当たった。 すなわち、長岡では有名な「橋本圭三郎」である。

 何と、明治23年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を件の「高槻純之助」と同期で卒業していたのである。 橋本圭三郎の名前は、日本石油・第二代社長(山田又七の後、宝田石油社長)として、また、宝田石油と日本石油の合併を画策した立役者としては、記憶にあったが、その詳細な経歴については知らなかった。 そこで、長岡市の発刊した『ふるさと長岡の人々』と『長岡歴史事典』を改めて読んで見ると、記載に誤りがあることが判った。 同書には、法科経済学部卒とあるのだが、先にも書いたように、『東京帝国大学一覧』によれば、当時、「経済学部」というものはなく、法科大学政治学科の卒業なのである。 学制の変遷期でもあり、もしかすると、経済学部なるものが存在した時期があるのかと、在籍期間を遡って調べてみたが、参考科とか一部・二部・三部という分類はあるようだが、特に経済学に拘わる記載がない。 下って、明治44年の卒業生名簿まで確認したが、矢張り「法科大学政治学科」だった。 まあ、重箱の隅をつつくようなことなので、特にどうとも思わないが、資料を追いかけていると矢張り気になるものだ。

 ところで、経済学科が分離独立したのは何時のことか調べて見た。 明治44年には、法科大学に経済学科がない。 そこで、大正以降と調べると、大正元年(1912)に経済学科の名前が登場している。 更に、経済学部が独立した時期を求めて見ると、大正8年(1919)、分科大学制度が廃止され、学部制が導入されると同時に、経済学部が登場している。

 それは措くとして、長岡と福岡との関係があったことに興味が湧く。 当時の教育人事には、人間関係が相当に影響している。 例えば、漱石の『野分』のモデルといわれる「坂牧善辰」は、長岡中学の後に、鹿児島県の中学校長を歴任した後、三条中学校長に就任するとき、当時の部下を引き連れて帰郷しているのである。 良くとも悪くとも取れるのだが、何処か米国の猟官制度(スポイルズ・システム)を思わせるところがある。 特に、草創期においては、強い権限を持ち、教育に対する見識あるいは意識の高い、そして何よりも情熱を抱いた若い校長には最適の時代だったのかもしれない。

 ところで、当時の東京帝国大学とは如何なるものであったのだろう。 その基本となる資料『東京帝国大学一覧』は、明治19年から発刊されている。 そこで、丁度、明治19年の『日本全国民籍戸口表』が閲覧できるので、当時の人口を見てみると、人口が 38,276,376 であり、戸数が 7,727,610 であることが判る。 この数値
を念頭において、東京帝国大学の明治24年における在校生数・1,377を比較すると面白い。

 「各府県別学生生徒人員数表」が残っているので、入学者数の多い順に紹介する。
(注) 数値は、明治24年の在籍者数、人口、戸数は明治19年。 在籍者数については、明治24年から一覧表が作られているので、それを採用した。 それ以前は、名簿から一々拾わなければならないのでご容赦。 その内に、その表を作る予定。

明治24年: (総在籍者数は、1,377名)
(1)東京府、207、 1,314,477 、 315,116
(2)石川県、65、 739,306 、 156,285
(3)福岡県、55、 1,148,528 、 213,245
(4)静岡県、50、 1,002,693 、 192,665
(5)新潟県、47、 1,626,495 、 305,098
(6)長野県、43、 1,057,536 、 217,939
(7)岐阜県、42、 886,062 、 179,732
(7)山形県、42、 717,252 、 115,250
(7)兵庫県、42、 1,471,976 、 319,933
(10)山口県、40、 899,523 、 186,718

 となっている。 数値をどのように判断されるかは皆さんに任すとして、年代毎の在籍者数の変遷は、時代背景を考えると興味深い。 以下、明治44年までの順位と在籍者数を5年毎に紹介する。 年の下の数値は総在籍者数。 各府県の後の数値は各府県毎の在籍者数。 少々見難いかもしれないがご容赦。

   明治25年、  明治30年、  明治35年、   明治40年、   明治44年
   (1,366)、   (2,237)、   (3,522)、    (5,398)、     (5,187)
(1)東京府(195)、東京府(291)、 東京府(487)、 東京府(747)、 東京府(674)
(2)石川県(77)、 福岡県(108)、 山口県(154)、 新潟県(226)、 福岡県(179)
(3)新潟県(53)、 山口県(106)、 福岡県(140)、 福岡県(199)、 熊本県(178)
(4)山口県(52)、 石川県(79)、  新潟県(136)、 愛知県(178)、 新潟県(177)
(5)福岡県(46)、 新潟県(76)、  長野県(111)、 長野県(173)、 愛知県(174)
(6)鹿児島県(42)、愛知県(72)、  三重県(101)、 山口県(160)、 長野県(165)
(7)静岡県(42)、 佐賀県(72)、  静岡県(101)、 岡山県(157)、 岡山県(155)
(8)兵庫県(40)、 鹿児島県(67)、 佐賀県(98)、 宮城県(155)、 兵庫県(149)
(9)長野県(37)、 長野県(60)、  熊本県(96)、  山形県(154)、 山形県(149)
(10)岐阜県(36)、高知県(60)、  山形県(88)、  兵庫県(145)、 静岡県(135)

(注)尚、明治38年の記録がない。 これは、日露戦争の影響と思われる。 尚、24年から拾うつもりが、25年から5年おきになってしまった。 ご容赦。

 以上の様に数値だけでも、当時の時代背景やら力学関係が見えてくるのだが、これを各大学学科毎に調べて見ると、もっと明確な地図が出来る。 繰り返すが、「なるほど、あれはこの人間関係が影響しているのか」と。 明治期における東京帝国大学の歴史は、というよりも、そこで出来上がった人間関係は、単なる大学の歴史ではない。 その後の日本を物語る指標でもあり道標でもある。 同様に、その人間関係に連なる中等教育における人間関係も、重要な歴史的ファクターであるに違いない。

 『柏崎発、学際ネットワーク』で、江戸後期における学者間の系譜あるいは師弟関係を追い始めて今に至るのだが、ここに至って、改めて歴史が人間関係の時空間的、否多次元的連続体であることに思い至る。

 昨今の事件や状況を見るに、人間関係あるいは信頼関係の欠如が、その要因ではないかと考えられるのだが、諸兄は如何ように思われるだろうか。 キルケゴールの研究者として著名な大谷愛人氏は、その著書『倫理学講義』の中で、従来の歴史分類に対し、倫理学的歴史分類として、現在を「バブルの時代」と定義している(『倫理学講義』の発刊の1994年当時)。 当に、その時代、歴史そのものに非連続でも生じたような印象を受けるのである。 特に、「個人情報保護法」が成立し、匿名性が日常になって以来、人間関係が希薄になったと感じるのだが。

 先にも書いたように、戦前のというより、草創期の東京帝国大学で生まれた人間関係は、その後の歴史に大きな影響を与えているに違いないのだ。 それは、地方における草創期の中等学校についても言えるだろう。 その人間関係、あるいは、そこに実存した人々の足跡は、現在を生きる我々の最も身近な必然性あるいあは「Sollen(存在理由)」に連なるものではないのだろうか。

 と、まあそんなことを言っても、路傍の傍観者である自分が言えば、戯言と笑われるだろう。 それでも、こんなことを続けるのは、そこにある面白さなのだ。 思わぬ出会いは、快い。 思わずニタリ。 愉快になる。 中世の昔に思いを巡らすのも楽しいかもしれないが、もっと身近なところを散策するのも一興かと。

Best regards
梶谷恭巨
 
 過って「修身」という学科があった。 そのこと自体は、歴史的事実として捉えていたのだが、明治期における「修身」という学科が、その後の国家主義的教育としての修身、あるいは、それ以前の儒学における修身とは、異なるのではないかという疑問が生じた。  

 明治・大正期、旧制中学で「修身」を担当したのは校長だった。 そこで気になって、「修身」というものを追いかけてみた。 明治初期、廃仏毀釈が起こり、仏教と同様に儒学も、その嵐に巻き込まれているのだ。 その一例が、明治20年刊の『修身稚話』に見られる。 著者は、生田万三。 この人物の足跡については未調査だが、その文脈を求めると、その苦労の程が知られるのである。 詳細は措くとして、儒学とか、仏教とか、外来とされた既存の倫理観あるいは道徳観をストレートに書けなかったのか、西欧の人物談や文明開化の事例など引き、従来の儒学的仏教的道徳観を曖昧にしているとしか思えないのである。 

 これは、ある意味では、第二次世界大戦にいたる国家主義的思想とは、全く別の道筋を示しているように思える。 言い方を変えれば、西欧に追随しようとした明治初期とも異なる、寧ろ懐古的なニュアンスさえ感じる。 そして、その融合を模索したグローバルな発想が見えるのである。 先にも書いたように、直接的には書けない仏教的あるいは儒教的倫理観あるいは道徳観が織り込まれていると感じるのだ。

 幸いなことに、当時(明治30年前後)の国史科あるいは史学科出身者の著作の何冊かを「近代デジタルライブリー」で読むことが出来る。

 そこで、旧制中学の校長の話に戻るのだが、多少の例外はあるとして、草創期の校長の出身学科が国史科あるいは史学科でる場合が多いことに気付いた。 例外としては、山口県立萩中学第二代校長・塚本又三郎の出身が、東京帝国大学理科大学化学科の出身だが、殖産興業を国策とした時代背景を考えると、これは寧ろ例外中の例外ではないだろうか。 事実、転任地は、仙台の第二高等学校であり、教授に就任しているのだ。

  但し、飽くまでも自分の調べた校長の範囲であることを強調しておく。 全国の中学校長の足跡を追いかけるには、余りにも時間が掛かりすぎる。 何しろ、羽石重雄の足跡を追いかけるだけでも数年を要し、しかも依然としてミッシング・リンクが残っているのだから。

 以前にも書いたが、羽石重雄の周辺には、いつも何らかの事件が起こっている。 当時の同窓会誌の文集(思い出の記)など読んで見ると、修身の授業内容が、当時の生徒にとって、「ハイカラ」に過ぎたといった感想があるようだ。 具体的なことは判らないが、授業の内容そのものは、古今東西の歴史や人物を事例に、「修身とは何か」を語られたらしい。 ただ、歴史の授業は別にあった訳だから、寧ろ「人物史」的色彩が強かったのではないだろうか。 

 話が前後するが、国史科あるいは史学科出身者の著作を見ると、東西の分離がないように思える。 というのも、史学科であるが故に、東洋史あるいあは西欧史に関する著作があるのではなく、日本史に関する著作もあり、寧ろ「比較史」的ニュアンスがあるように思える。

 羽石重雄の卒業した明治30年、橋本捨次郎の卒業した明治31年当時、文科大学学長は、井上哲次郎(福岡県出身、1855-1944)である。 井上哲次郎は、ドイツ観念論哲学を日本に移入し、日本観念論哲学を確立したことでも知られている。 詳細は措くとして、着目するのは、従来の儒学思想を西欧哲学的手法によって解明しようとした試みである。 すなわち、『日本朱子学派之哲学』、『日本陽明学派之哲学』、『日本古学派之哲学』の三部作が、これに当たる。 そこで、この井上哲次郎の影響を考えるのだ。 特に、羽石重雄は、同郷福岡の出身である。 当人の回想録などが伝わっていないので、推測の域を出ないのだが、後に、文科大学で同期(史学科)であった萩中学の初代校長を務めた雨谷羔太郎(こうたろう)の引きがあり、第三代校長に就任する経緯を考えると、師弟間、同期あるいは同窓間の相互影響を推測することも可能だろう、否、大いにあったと考えるのが妥当だろう。

 こうした経緯を考えると、中等教育草創期における「修身」が、一種実験的に行われたのではないかと推測されるのである。 そこで、思い至るのが「事件」である。 明治末期といっても、生徒の親たちは、維新前後の儒学教育の世代であり、維新やその後の混乱期を経験したに違いない。 それに学校には、旧藩校の伝統を受け継いだ校風があったはずだ。 その中に、新しい教育理念を持った校長が就任し、「修身」を教授することになった。 生徒は、家庭、社会、そして学校という三つ巴の価値観の相克に晒されたのではないか。 それが、様々な形態であれ、生徒たちの心情の発露として現れたのではないか。

 斯く言う私は、当に団塊の世代の先端に位置する。 戦前の教育を受けた親の世代、急速に変わり行く社会、そして学校では、民主教育を担うと称する教師たち。 そこで育った団塊の世代が経験したのは、世界にも類を見ない学生運動の嵐なのだ。 どこか、時代を超えた類似性を感じるのである。

 当時における「修身」が何であるかの結論を得た訳ではない。 しかし、「修身」が、時代におけるキーワードであることへの確信は強まるのだ。 「修身」という教科書は存在するが、その「修身」で何が教授されたのか。 当時の最高学府の出身者であり、最先端の学問の指導者あるいは研究者にもなり得たのが、中等教育の校長である。 その担当するのが、「修身」なのだ。

 ある校長の足跡を追いながら、その果たした役割の大きさにも拘らず、事実関係でさえ追うことの難しさを感じている。 それぞれの学校では、それぞれの歴史観に基づき、それぞれの学校史を、区切り毎に発刊されているだろう。 出来ることなら、その歴史を面にまで広げて欲しい。 草創期には、校長・教員の全校的移動があった。 その点と線を面に広げれば、また別の世界が広が来る。 重人主義とでも言うべき、人間味のある暖かい世界かもしれない。 人間関係の希薄した今こそ、地方あるいは地域発信の最も取組み易い身近な試みと思うえるのだが。

 余談。 最近では、「個人情報保護法」の影響から同窓会名簿など作らないのだそうだ。 どうやって連絡を取るのかと聞くと、集まったとき、お互いに携帯電話の番号を交換するという。 同窓会誌など、どうやって発行するのだと尋ねると、昔の同窓会名簿や同窓会誌に記載の著名人に連絡を取り、了承を得て、記事にするそうだ。 これは当たり前のことだろうが、中には、断られるケースも多々あると云う。 何とも、せちがない世の中になったものだ。 実は、こうしたことが、百年も昔の事実関係でさえ追求を困難にする要因になっている。

Best regards
梶谷恭巨

  地元の図書館に行けば閲覧も可能なのだが、参考資料として使うには、心もとない。 そこであちこち探していたのだが、「日本の古本屋」サイトで、やっと昭和35年刊の柏崎高校『回顧六十年』を見つけることが出来た。 在ったのは、何と水戸市の書店。 その本が、今日届いた。 一読して、大きな間違いがあることに気付く。 羽石重雄は、旧制柏崎中学の第四代校長だったのだ。

 思い込みである。 と言うのも、横山健堂の『大塩平八郎と生田萬』という小論に、横山健堂が、「羽石重雄君の柏崎中学校長就任と杉卯七君の日本石油在職二十五周年を記念して、柏崎に会す。 .....」との記載があり、そこでどういう訳か、初代校長就任と思い込んだ始末だ。 時代を考えて見れば直にでも判りそうなことなのだが、その後の調べで、学制の変遷や分校からの独立などあり、何処かに初代校長との記事があったと、更に思い込んでいたようだ。

 因みに、柏崎中学は、新潟県立高田中学の分校として明治33年に創立、明治35年に高田中学より独立している。 初代校長は、渡辺文敏は、新潟第二師範学校教諭から高田中学に転任、柏崎分校主席教諭として赴任、明治46年新潟県立新発田中学校長に転任、その後明治45年に仙台第二中学校長に転任している。 尚、年譜には、「前校長渡辺文敏(新潟中学校長)仙台第二中学校長に転任、送別会を催し(新潟市に於いて)新潟柏中会を設立」とあり、新潟中学校長も歴任しているようだ。 柏崎中学離任時には、転任反対運動、県への請願などしたとあるから、よほど人望の篤い人であったようだ。 また、第二代校長・高宮乾一は、同年、福岡県立明善中学(現、県立明善高等学校)校長に転任している。 ここでも、福岡のとの関連があり、縁の深さを感じるのである。 更に、第三代校長・元田竜佐は、大正3年に長岡中学校長に転任とある。 因みに、羽石重雄は、その後に長岡中学校長を勤める。

 羽石重雄先生は、『回顧六十年』によると、大正3年3月1日に着任、大正5年11月に離任、同月29日、告別式(当時は、離任式のことを、そう呼んでいたようだ)とあり、長岡中学に栄転とある。 しかし、校長、職員、卒業生の「思い出の記」が掲載されているのだが、校長に関しては、昭和35年当時存命の方のみ記載で羽石先生に関する記事は無い。 また、職員の部も同様。 卒業生の部の羽石先生在籍当時を読んで見るが、名前が出てこない。 これには、少々落胆する。

 ただ、出身地の詳細が判った。 福岡県早良郡原村字庄とある。 現在の早良区原1丁目から8丁目辺りにだろう。 奇しくも、修猷館高校の近隣である。

 ところで、この沿革史年表を読んでいくと、結構面白い記事があった。 先ず、着任の年(大正4年)9月3日、南極探検で有名な白瀬中尉が来校し、経験談を講話しているのである。 また、この年、新潟医専が創立され、その記念陸上大運動会が開催され、二名参加し、好成績を収めたとある。 前後の年譜を読むと、柏崎中学は運動が盛んで、特に剣道と柔道が強かったそうだ。 因みに、講道館柔道の石黒敬七は、大正中期の卒業生。

 また、この『回顧六十年』を読んで見ると、当時の校長が全国区で転任していることも興味深い。 教員も同様なのだ。 どうもこの背景には、教育の地域格差対策があったようにも思える。 卒業生の文集、第20回卒業生(大正12年卒)で、東京家庭裁判所兼地方裁判所判事だった森口静一氏の回顧談に当時の東京高等裁判所長官の談話があり、そのことが書かれている。

 そのほか、修学旅行が毎年各学年別に行われていることにも驚く。 遠隔地ではないのだが、県内を旅行している。 しかも、道中徒歩の区間がかなりある。 その所為か、生徒も夏休みともなれば、一週間程度の徒歩旅行に出かけていたようだ。 文集の中に、友人と旅行した冒険談があり、そこで帝国大学の学生と知り合ったなどあり、当時の生徒あるいは学生気質の一端を窺わせる。 一時期の生徒・学生諸君の間にも卒業旅行が流行ったが、最近はどうなのだろう。

 この関連、更に調べて見ることにしたい。

 余談、私事であるが、私の姓「梶谷」は柏崎では、1軒あるいは2軒あるほどの珍しい名前だが、『回顧六十年』の年譜に「梶谷」の名前があったことには驚いてしまった。 明治33年の創立時の教員は僅かに5名だが、その中に博物学を担当した「梶谷才吉」という教師いた。 この先生、大正2年に退職しているのだから、12年間勤めたことになる。 羽石重雄着任の前年度だ。 博物学のほか、担任不在の年度、数学も教えている。 詳細な記載が無いので、如何なる人物か判らないが、転任地の記載が無いところを見ると、定年退職かもしれない。 もしそうであれば、柏崎に晩年を過ごしたのかも知れない。 全く奇縁である。 因みに、梶谷の姓は、海運に関連した苗字で、私の出身地である広島に何軒かあるが(親戚が多い)、他に多いところとしては、福井県だ。 データベースで調べると、全国で1326位、登録件数は3234件。 羽石も珍しい姓だが、こちらは、3685位、登録件数は、僅かに840件である。 この中には、「ハネイシ」と呼ぶ姓もあるから「ハイシ」という姓はもっと少ないだろう。 (尚、このデータは静岡大学人文学部言語文化学科・城岡研究室の労作「日本の姓の全国順位データベースによる。)

Best regards
梶谷恭巨
 


カウンター
プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索