柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 羽石重雄について、少年期の一部に未だ不明な点があるのだが、修猷館以降の足跡がほぼ判明した。 覚書を兼ねて、その辺りのことを書いて見よう。 その前に、先ず判明した事実は次の通り。 (尚、この文を書いた後、新たに判明したことがあるので、修正加筆する。)

○羽石重雄は、明治3年2月6日、旧黒田藩士の子として、福岡県早良郡原村字庄出身に生まれる。 (今のところ、この程度しか判明していない。)
○明治21年(18歳)、修猷館中学に入学(修猷館の史料を読むと、当時の学制で期間が3ヵ年であるところから推測)
○明治24年(21歳)、修猷館中学(第3回)卒
 ☆同年3月24日、「軍隊投石事件」が発生、館長(校長)・尾崎臻(いたる)が引責辞任し、教頭であった「仙田楽三郎」が館長事務代行に昇格し、翌25年、福岡県立伝習館中学校長に転任 (仙田楽三郎については、現在調査中だが、断片的足跡が判っている。)
○明治27年(24歳)、第五高等学校(熊本)卒
 ☆本科第一部(文科)第三回卒業生、同期8名、この中に「広田直三郎」という人がいるが、昭和6年(1931)、東京鉄道中学(現、芝浦工科大学)第五代校長と同一人物か?
 ☆修猷館同窓会誌『館友雑誌』第一号の論説に『須ラク其義務ヲ全ウスベシ』を寄稿。 因みに、同じに論説に『遺伝ノ説』と題して関豊太郎が寄稿している。 関豊太郎は、宮沢賢治の盛岡農林時代の恩師であり、その後も大きな影響を与えた人物。
 ☆当時の学校長は、講道館の嘉納治五郎であり、後に書くが、羽石重雄が赴任する大阪府立二中の初代校長・有馬純臣は、嘉納治五郎の弟子(講道館)で、明治24年、嘉納治五郎が第五高校校長に就任する際、招聘した人物。 このほかに、ラフカディオ・ハーンも招聘しており、羽石重雄は、有馬純臣とラフカディオ・ハーンの影響を受けたことが推測される。 ★この件についても、別項を設ける。
○明治30年(27歳)、東京帝国大学文科大学国史科卒
○同年、長野師範学校、教諭、離任年次不詳、
○明治31年(28歳)、大阪府立第二中学校(現、大阪府立三国丘高等学校)教諭(歴史と英語を担任)、長崎中学の資料に教頭であったとの記載があるが、三国丘高校の資料室に問合せた結果、それらしき記載がないとの回答。 ただ、面白い事実が判った。 府立二中も初代校長・有馬純臣が、第五高校(熊本)時代、羽石重雄は学生として在籍。 その影響が大であったようだ。 特に明確な記載はないが、有馬純臣校長が、羽石重雄を招聘した可能性が大きい。 ★有馬純臣については、別項を設ける。
○明治33年(30歳)、長崎県立島原中学初代校長に転任
○明治38年9月2日(35歳)、山口県立萩中学第三代校長に就任
 ☆寮で集団暴行事件が起こる。
○明治42年4月(39歳)、岩国中学第三代校長に就任
 ☆岩国中学初代校長「橋本捨次郎」は、滋賀県出身、明治31年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業後、石川県で最初の教職に着いたが、直に岩国中学、長岡中学第16代校長、第八高等学校教授、学習院教授、松山高等学校校長を歴任する。
 ☆大正2年2月8日(41歳)、離任。 (校長排斥運動に依願退職か)
○空白期間(新任地を探していた模様)
○大正4年4月(43歳)、新潟県立柏崎高校第四代校長
 ■新たに判った事実: 柏崎中学第二代校長・高宮乾一は、何と!明治30年7月、文科大学国史科で同期卒業なのである。
 ■『東京帝国大学一覧』では、東京出身とある。 そこで、第一高等学校の卒業名簿を調べたが、見当たらない。
 ■高宮乾一は、大正元年10月11日、離任、福岡県立中学明善校(久留米、現福岡県立明善高等学校)校長に転任している。
 ☆羽石重雄の前任校長・元田竜佐は、長岡中学第20代校長に転任
○大正6年11月(45歳)、新潟県立長岡中学第22代校長
 ☆時代が前後するが、明治30年前後、「仙田楽三郎」が長岡中学校第12代校長に就任している。 「仙田楽三郎」は、戊辰戦争当時、長岡藩士、苦学の末、教育会の重鎮をなすのだが、詳細不明。 ★仙田楽三郎については、別項を設ける。
○大正9年5月(49歳)、長野県立松本中学校第四代校長
○昭和2年5月(56歳)、松本中学校校長退任、最後の任地になったようだ。

 以上、羽石重雄の略歴であるが、ここからも判るように、旧制中学(修猷館)を卒業した年、既に21歳なのである。 入学までの事情が不明だが、明治初年に生まれたことを考えると、廃藩置県やその後の事情から、旧藩士の窮乏の結果が、遅い出発の原因になったことが推測される。 黒田藩分限帳などが閲覧できれば、もっと詳しい事情が判るのだが、何しろ遠隔地のこと、協力者でも見つけなければ、調査は困難だろう。

 ただ、新生修猷館の設立の経緯、すなわち旧藩主・黒田長溥が金子堅太郎に、旧藩士救済の相談から修猷館再興の経緯を考えると、羽石重雄が、その年齢にも拘らず、相当に優秀であったことが推測される。 その意味でも、幼年期・少年期の事情には興味を抱くのだが、先の通り、調査は容易ではない。

 府立二中時代の調査から、第五高等学校時代の断片が見えてきた。 そのキーパーソンが、有馬純臣である。 有馬純臣は、嘉納治五郎の講道館に六番目に入門している。 三番目が「越前丸岡藩主・有馬道純の長男・純文(子爵)であることから推測すると、有馬純臣は、名前からも、旧丸岡藩士であり、藩主家とは近い関係にあることが推測される。 有馬純臣は、先にも書いたように、嘉納治五郎が、第五高等学校校長に就任する際、教授として招聘している。 担当科目は、理財・法学通説、それに英語である。 この担当教科の組合せは異例だろう。 また、嘉納治五郎は、この時、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も招聘している。 担当科目は、英語とラテン語。 修猷館が、授業を英語で行ったことを考えると、羽石重雄は、英語力、また年齢からも注目される存在であったに違いない。 このときに出来た師弟関係が府立二中に継承されるのである。 それにしても、嘉納治五郎やラフカディオ・ハーンとの関係が出てくるとは予想もしていなかった。 驚きである。 益々興味が湧く次第だ。

 次に、仙田楽三郎についても、興味ある事実が判ってきた。 仙田楽三郎が、明治17年6月、長崎中学(現、長崎県立長崎西高等学校、ただし、この系譜は他校にも繋がるとか)の初代校長に就任していたことが判明した。 しかも、長崎県有志教育会の初代総代で、評議員をしているのである。 仙田楽三郎は、長岡出身、明治12年7月卒業の東京大学予備門・理科志望の33名中に名前がある。 記載には、理科大学とあるのだが、東京帝国大学理科大学の明治15年以降の卒業生名簿に名前が見当たらない。 何らかの事情で、大学を中退したのではないだろうか。 しかし、確かに理科大学に在籍したのではないかと思われる査証として、明治18年の長崎県有志教育会の設立総会で、その詳細は不明だが、科学の実験を公開しているのだ。 これらの記事は、長崎大学医学部の『長崎医学も百年』に記載がある。 興味ある人物だ。

 一人の校長の足跡から、人のつながりがここまで広がるとは、予想もしていなかった。 今回追いかけている校長、羽石重雄、仙田楽三郎、橋本捨次郎は、皆、新潟県立長岡中学で校長を歴任した人々である。 仙田楽三郎が明治初期から中期、羽石重雄が明治中期から大正時代、橋本捨次郎も羽石重雄と同時代といえるのだが、年齢から考えると、その足跡は、大きく異なる。 未だ整理して纏める段階にはないのだが、急速に変化する時代の中で、それぞれが、信念と情熱を持って、草創期の教育に取組んだ姿は、その後の歴史あるいは現在にも通じる何かを物語っているように思える。 その辺りの解明が今後の課題である。

 以上、覚書を兼ねて、羽石重雄の足跡を紹介した。 何かの参考になれば幸いである。

Best regards
梶谷恭巨

追伸: ご協力頂いた各校同窓会の方々に感謝致しております。 今後も、宜しくご教導頂ければ幸いです。

 小野塚喜平次は、長岡の生んだ日本を代表する政治学者であり第11代東京帝国大学総長である。 そして、広瀬武夫は、「荒城の月」で有名な豊後(大分県)の竹田藩(岡藩)の藩士の子として生まれた日露戦争で旅順港閉塞の英雄、軍神として有名である。 また、司馬遼太郎の『坂之上の雲』では、秋山真之の親友として描かれている。

 「ある旧制中学校長の足跡」を調べている段階で、羽石重雄が旧制大阪府立堺中学(現、大阪府立三国丘高校)の教頭であったことは既に書いた。 その初代校長だった有馬純臣が第五高等学校(熊本)教授時代、大きな影響を受け、それを慕うように堺中学に奉職した事を知った。 その後、三国丘高校の深田先生から情報が届いた。 そこで、有馬純臣という人物に興味を持ち、先ず第五高等学校から調べていくと、当時の校長が加納治五郎であり、有馬純臣は、講道館に6番目に入門した弟子であり、加納治五郎に招聘され第五高等学校教授になっていることが判った。 また、このとき、招聘された一人にが小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがいる。

 この辺りのことは先回書いたので、詳細を省く。 さて、この関係を辿り、講道館の門人を当たって見ると、広瀬武夫がいることが判った。 広瀬武夫は、司馬遼太郎が、軍人としてよりも文学者になっていれば、文豪になっただろうと評するほどの人物だ。 随分前に、そのことを知り、『広瀬武夫全集』を購入していた。 購入当初は、彼の詩文とロシア留学生当時(後に駐在武官)のことに興味を持ち、その辺りの事のみを読んだのだが、改めて、書簡集など読んでみると、小野塚喜平次宛の書簡が目に付いたのである。 しかも、13通。 これは全書簡中でも、親族以外に宛てた書簡の中では最も多い。 しかも、明治31年の書簡が初出であり、37年3月8日の旅順港閉塞に対する祝詞に対する礼状で終わっている。 因みに、広瀬武夫が戦死するのは、同年3月27日のことであった。 小野塚喜平次と夫人併記の書簡もあり、家族ぐるみの付合いが推測される。 しかも、小野塚喜平次は、明治32年9月にロシアまで訪ねているのだ。 予断だが、駐在武官になった頃、一時期、小村寿太郎が駐在ロシア公使を勤めている。

 長岡市刊行の『ふるさと長岡の人びと』でも、このことが取り上げられており、その表現を借りれば、「親友」とあるのである。 小野塚喜平次の妻は、同郷とも言える海軍軍医総監・石黒忠悳の長女・孝であり、海軍との繋がりも想定されるのだが、石黒忠悳の『懐旧九十年』にも大正13年の『耄録-况翁閑話後編』にも広瀬武夫に関する記述はないのである。 この他に、年代が違うのだが、明治34年刊の『况翁閑話』と『况翁叢話』にも記載がない。 となると、この関係は、何処から始まったのだろう。

 広瀬武夫の父・重武は、岡藩勤皇派として活躍した人物であり、戊辰戦争にも参加している。 維新後は、裁判官として、飛騨高山などあちこちと転勤しており、広瀬武夫は、上京した際、父の盟友であった山県小太郎宅に寄宿している。 調べると、山県小太郎は、会津藩降伏の時、軍曹(当時の軍曹は、下士官というよりも将校)として会津若松城明け渡しに立ち会っている。 そうなると、賊軍であった長岡・牧野藩との間には確執があったことも推測されるのだが、書簡中、そんな様子はないのである。

 しかも、広瀬武夫は、芝新銭場にあった「攻玉社」に学び、明治18年に海軍兵学校に入学しているのだから、学校での小野塚喜平次との接点がない。 因みに、小野塚喜平次は、明治28年東京帝国大学法科大学政治学科の卒業であり、その後、大学院に進み、明治30年にドイツ・フランスに留学している。 この年3月、広瀬武夫は、海軍軍令部に出仕、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主役の一人・秋山真之と麻布霞町の上村翁輔大尉の留守宅に同居している。 そして、5月には、軍令部諜報課員転補され、翌月には、ロシア留学命じられ、8月横浜を出帆、神戸港に寄航の後、9月にマルセイユに到着、パリ・ベルリンを経由して、ペテルスブルグに到着している。 狭い留学生世界のこと、この間に、パリかベルリンで知り合い、意気投合したのかもしれない。

 今のところ確たる資料がないのだが、明治31年1月4日の年賀状は、ハイデルベルク在住の小野塚喜平次に当てたもので下記の通りだ。

 「謹賀新年 併せて平素の疎懶(そらい)を謝す。 明治三十一年一月四日 在露都 広瀬武夫」とあり、追伸として、「東洋風雲漸く急なり。 形勢如何に変ずべきか痛心の至に之有り候。 御同窓落合君には御世話に相成り居り候。 同君健在せり、御放念あれ。」と続く。 (原文はカナ漢字文、一部漢文。)

 ここに登場する「落合」とは、小村寿太郎と共にポーツマス条約の折衝に当たる外交官「落合謙太郎」のことで、確かに小野塚喜平次と法科大学政治学科で同級、明治28年に卒業している。

 こうして書いて行く内に思ったのだが、これはどうも諜報機関に関係するのではないかと思い始めているのだ。 少々話が込み入って来た。 もう少し調べて見ることにする。

 ところで、夏目漱石は、広瀬武夫の漢詩を『艇長の遺言と中佐の詩』という評論の中で酷評している。 また、『それから』の十三の八では、軍神といわれた広瀬武夫も、この頃では、名前も聞かないと云い。 「ヒーローの流行廃(はやりすたれ)はこれ程急激なものである。 と云うのは、多くの場合に於て、英雄(ヒーロー)とは其時代に極めて大切な人という事で、名前丈は偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。 だから其大切な時期を通り越すと、世間は其資格を段々奪いにかヽる。 露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だろうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。 世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対して現金である。 だから、斯う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行われてゐる。さう云う訳で、代助は英雄(ヒーロー)なぞに担がれたい了見は更にない。が、もし茲に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄(ヒーロー)になった方が長持ちする。 新聞は其方面の代表的事業である。」と。 (夏目漱石全集から引用)

 さて、こうなると益々混乱する。 先にも書いたように、司馬遼太郎は、『広瀬武夫全集』上巻の巻末に特別エッセーとして、『「文学」としての登場』と題する小文を書いているのだ。 夏目漱石の頃、2000通以上書いたといわれる広瀬武夫の書簡や筆まめだったといわれる位に書き残した手帳や手記などは、公開されていなかっただろう。 その事が広瀬武夫の漢詩に対する酷評の原因なのだろうか。 しかも、先の通り広瀬武夫と秋山真之とは親友の間柄であり、正岡子規と秋山兄弟の関係から、もしかすると面識があったのではないかと、憶測さえするのである。 しかし、いずれにしても、漱石と司馬遼太郎の評価の相違は、何なのだろうか。 これまた課題である。

 有馬純臣の柔道の話がここまで広がってしまった。 因みに、有馬純臣は、元治元年、越前丸岡(五万石)藩士の子として生まれている。 明治維新で藩主家とともに上京し、学習院に入学。 卒業後、学習院に奉職。 明治23年に教授、海軍大学校嘱託柔道教授を兼務し、明治25年に加納治五郎の招聘により、第五高等学校教授に就任している。 講道館入門者中、確か四人目が主家11台当主・有馬純文だから、また学習院に入学していることから、主家と近い一門だろう。 『柔道大意』という著作がある。 加納治五郎の意を汲み、柔道の教科書として書かれたものである様だ。 本文・付録あわせると、400ページに及ぶ大作である。 柔道に関心のある人には、お薦めの一冊。 PDFで約23M弱だが、ご希望の方があれば、添付して送付する。 ただ、23M弱のファイルの添付の受信が可能であればなのだが。 勿論、近代デジタルライブラリーでも閲覧が可能である。

 長文になってしまった。 ご容赦。

Best regards
梶谷恭巨

 

  さて、先回も書いたように、頼山陽の王陽明評の漢文が続くのであるが、旧漢字であり、印字が潰れていて、判読困難なところがあるが、読めるところを拾い読みすると、「陽明良知良能、立論雖逈(迥の俗字)異、究帰一轍、・・・・(陽明の良知良能、立論ははるかに異なると謂えども、究めて一轍に帰す。・・・)」とあり、要するに、「王陽明の良知良能は、論理上は大いに異なるが、帰結するところは同じである」というようなことが書かれていると推断するのである。 また、次に、鍋島閑叟(かんそう、直正)の漢詩を引用して、「百年学術推元○、万世英雄見守仁(○のところが不明だが、学問が求めたものは元は同じで、英雄は、仁がどれほど守られているか見ているものだ、という意味にでもなるのだろうか。 七言絶句あるいは律詩であろうから、対句の部分があれば、○も判読できるのだが)」と謂い、王陽明を適評していると述べている。 以下、その続き。

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 則ち(すなわち)、此(この)陽明を河井君は信用されて政治上に利用したので、陽明は裏面には仏学、表面には儒学、良知良能を唱えて、実際に之を応用して物に応じて変を制して、所謂(いわゆる)仏のように座禅するものとは違うのでありますが、故に宸濠の乱(明朝時代の寧王・朱宸濠の乱、1519年)を平らげたと云う人であります。 其(その)陽明を河井君は信仰されて居られた。 我日本帝国に於いて、従来、陽明学者は沢山ある。 例えば、中江藤樹、熊沢蕃山-此(この)人は備前の芳烈公(岡山藩初代藩主・池田光政)に使えて政治に與った人である。 其他、近来に至って、佐藤一斎、大阪で乱を起こした大塩平八郎の如き色々ありますが、凡そ(およそ)日本に於いて陽明学を政治上に本統に利用した人は河井君より外にない。 実に氏は天下の豪傑である。 私は寡って(かって)河井君の友人なる小松彰と云う、一時米商株式取引所の頭取をした人で信州松本の人であるが、河井君の女郎買の先棒をした人である(拍手大喝采)、此(この)小松と云う人は私が小林雄七郎君と一緒に尋ねた時、小松君の云うに、「おまえの国には、えらい人がある。 河井継之助、鵜殿団次郎、象山(佐久間象山)門下の二虎なる小林虎三郎、小藩から人材が出た。 其中(そのなか)でも、就中(なかんづく)、河井君はえらい人である。」 我々の同郷であるが、実に、あの人はえらい人である。 どうも我々が見る所に依ると、新旧薩長内閣諸公の内で河井君のような、則ち政治上に雄才を有して居る人は一人もないと明言された。 それで私は斯う(こう)いうことを尋ねた。 「小松さん、今、河井さんが存命であったら、どうでしょう。」 「丁度、明治元年、旧藩の周旋掛をして京都に出て居りました。 そこで政府に建議をして、河井君と鵜殿君とを参与に御採用あれと云う建議をした処が、直に太政官に於いて採用されて、それから紹状を遣らう(やろう)と云うときに、河井君は会津に與して(くみして)、王師に抗した。 又鵜殿君は幕府の末路に於いて御目付役をして、幕府の勝安房君と一緒に周旋すると云う為め遂に水泡に帰したのは、実に残念でありました。」、「どうですか、小松さん、もし存命でありましたなら内閣大臣中如何なる所に最も適当するか」と問うた所が、小松君曰く、「されば、河井君として現内閣にあらしめたならば、どの所にも適するけれども、特に、先生は外務卿として適当であろう」と云われた。 私は、其の当時のことを思い出して、「ああ云う人が外務卿でありましたならば、彼の一本足の大隈伯(伯爵)が外務大臣として、条約改正をしようとした類ではない。 外国人と雖も(いえども)、河井君には戦慄するに相違ない。」 (喝采) 其の後に、大阪の外山脩造君が上京になりましたから、氏に面会して、「どうだろう。 外山君、小松君は、河井君を外務卿として適任と申されたが、我々の考えでは、大蔵卿が最も適任であろうと思う。 何となれば、七万七千石で借金だらけの一小藩を僅か三年の間、政権を執って、米六万石、金三十八万両も出来たのであるから、あの先生の働を以って、経済の要衝たる大蔵の実権を握らしめたならば、此貧乏なる日本は忽ち(たちまち)金持になるであろうと云うた」、(拍手喝采)、と申した所が、氏も夫れは(それは)、或いは、貴様の言う通り、大蔵卿が適任だろうと申された。 実に、先生は天下豪傑の士である。 嘗て(かって)私が或る北越人の相会しました一席に於いて、河井君の書かれたました一幅を見て記憶して居る夫れ(それ)は、上野の桜雪寮で見たのでありますが、其詩は、「此処青山可埋骨、白髪問人羞折腰(後段、文字つぶれで推測、ここに青山あり、骨を埋めるべし、白髪にして、人に問うは、腰を折るの羞じ(はじ)なり、とでも訳すのであろうか)」と云う詩であります。 実に、あの先生の剛毅勇邁磊磊落落たる風采を見る様ではありませぬか。 (喝采) 斯う(こう)云う、即ち政治上に於いては、我が北越にエライ豪傑の士が傑出したのであります。
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 少々読みに難いかも知れないが、出来るだけ原文を忠実に写した。 尚、旧漢字、旧かな使いなど、読み難いところは、現代文に直したところもある。 また、漢詩については、必ずしも正確な読み方ではない。 適切な訓読があれば、ご教授願いたい。

 因みに、ここに登場する小松彰および鵜殿団次郎の略歴は次の通り。

小松彰(1842-188): 詳細は不明だが、明治23年(1890)に建立された「故長岡藩総督河井継之助君碑」の裏面に、建立に尽力した人々として、名前がある。 「松本藩士、久美浜県(久美浜代官所支配地および丹波の旗本領、現京都府京丹後市久美浜町に県庁が置かれた)・生野県(生野代官所支配地および播磨の旗本領と大名の飛び領、現兵庫県朝来市に県庁が置かれた)の権令(兼務)、豊岡県(現兵庫県豊岡市と京都府の一部、旧豊岡藩陣屋跡に県庁が置かれた)権令、後に県令とあるそうだ。 また、明治六年、内閣法制課長との記事もあった。
 尚、先回紹介した外山脩造の名前も、同碑にある。 また、題字は黒田清隆、碑文は三島毅。 序に、三島毅について:
三島毅(1830-1919): 備中松山藩士、名は毅、字は遠叔、号を中洲。 最初山田方谷の門下に学び塾頭なる。 次いで伊勢の津の斎藤拙堂に、更に昌平黌の佐藤一齋・安積艮齋に学び、後に(安政6年、1859)山田方谷も学頭をした藩校有終館の会頭となる。 維新後は、漢学塾二松学舎を開くと伴に、東京高等師範学校教授、東京帝国大学文科大学教授、明治29年東宮侍講、宮中顧問官などを歴任した。 現二松学舎大学の創立者。 河井継之助が、山田方谷を訪ね、入門したのが、安政6年であるから、継之助との関係は深い。

鵜殿団次郎(1831-1868): 長岡藩士、藩校・崇徳館で学んだ後、江戸に出て洋学を学ぶ。 勝海舟に認められ幕臣・蕃書調所教授、目付に登用される一方で、河井継之助と伴に藩政改革に尽力するが、38歳の若さで死去。

 先回に続き、長谷川泰が、河井継之助について語った部分を紹介した。 勿論、これが、済生学舎の北越人懇親会で述べられたことは事実である。 それ故、身贔屓なところもあるが、概して、河井継之助の人となりを勇弁に語っていると思う。 ただ、面白いのは、陽明学と仏教との関係を述べているところだ。 実は、今まで、こういう見方をしたことがなかった。 「良知良能、知行合一」 考えて見れば、確かに仏教に通じるものがある。 否、寧ろ、根源は同一であると言うべきなのかもしれない。 また、これは憶測にしか過ぎないが、長谷川泰が設立した医学校を「済生学舎」と命名した背景には、師である佐藤尚中が、自身の医学私塾を「済衆精舎」と称したことがあり、その出典は不明だが、無量寿経に、「広済衆厄難、 開彼智慧眼、 滅此昏盲闇、 閉塞諸悪道(広く衆の厄難を救済し、彼の智慧の眼を開かせ、この昏盲の闇を滅して、諸悪の道を閉塞する)」とあるところから、仏教との関係を推測できるのかもしれない。 いずれにしても、今まで余り考えていなかった仏教の拘わりについて、改めて調べる必要があるだろう。

 未だ書くべきことがあるのだが、長くなったので、続きは次回に。

Best regards
梶谷恭巨
 
  長谷川泰(たい)について調べていた。 そこで、面白い記事を見つけたので紹介する。 その前に先ず、長谷川泰について説明する必要があるのだろう。 詳細は別の機会として、彼は「済生学舎」の創始者として有名である。 門下から、野口英世が出たことでも知られている。 長谷川泰は、天保13年、現在の長岡の生まれた。 その後、佐倉の順天堂・佐藤尚中(佐藤泰然の女婿、佐藤泰然の実子は松本良順)で医学を学ぶ。 同門、同郷に石黒忠悳がいる。

 まあ、それは措くとして、今回の話は、長谷川泰が、明治27年1月30日、済生学舎北越人懇親会の席上で行った演説の内容である。 因みに、この演説には速記者がいたようだ。 当時既に、速記法研究会なるものがあり、その会員が速記して、書籍として発刊しているのである。 速記法研究会が、既にあったことも驚きなのだが。

 さて、その中で、先ず越後出身の勤皇の志士について語るのだが、その後に、河井継之助に言及している。
 勤皇の偉人として本間精一郎について語った後、「ほかに豪傑は沢山ありますが」と前置きして、「旧長岡藩の河井継之助君のことを申しましょう」と続け、「我々の見る所に依ると天下豪傑の士である。 実にあの人はえらい人であったのであろうと思われる。 氏は戊辰の役に、明治元年に佐幕の方針を採られて全く方向を誤られたのは実に我々は遺憾の訳であるが、しかしながら当時の事情があったかも知れませんから、その辺のことはもうしませぬが、もし氏をして三藩に産ましめたならば、氏は必ず天下の大政を握り総理大臣になって天下を握り廻したに相違ない」と話し、友人である外山脩造の話を紹介している。

 外山脩造は、長岡の生まれで、清河八郎に学んだ後、昌平黌学問所に入っている。 戊辰戦争では、河井継之助の下で戦い、明治になってからは、継之助の遺訓を守り、官界・日銀に席を置くが、後に実業の世界で活躍(阪神電鉄社長など)、衆議院議員など勤めた人物。 また、阪神タイガーズの生みの親とも言われている。

 少々長くなるが、その部分を紹介する。 尚、印字の劣化などあり読み難い。 多少の間違いがあるかもしれないがご容赦。 また、旧漢字・旧仮名遣いは現代文に改め、句読点を付け加えている。

 「今から37年前で、丁度、私が18のときでありましたが、河井君と合わして遣ろう(この部分欠落しているが前後の関係でそういう意味と推測)というので、夏でありました、往きました、丁度、蚊帳のありましたときでしたが、蚊帳の内で面会しました。 先生はひっくりかえって、肴は沢庵、酒は大山だ、一杯飲めと云われた。 顔を見たら二重(?)で眼光炯炯、人を射ると云う有様であったように記憶して居るが、実に先生は智力勇弁あらゆる豪傑の(不明、資か?)を皆完備して居った人であると信じる。 武勇があり智力があり智略があり勇弁であり、智力勇弁あらゆる豪傑の資格を具えた人である。 先生は陽明学者であったが、あれだけの備えを鶏を割くに牛刀を用いると云うようなもので、長岡の如き小藩備に氏の力の一部分を用いたのでありますが、経済点と云い兵備改良の点と云い総の点に於いて、えらいものである。 もし先生が三藩に産まれたならば必ず総理大臣になって政権を握て居る人に相違ない。 要するに先生が、その天性の英傑の才を十分に実際に働き得るように養成した原素は何んであるかと云えば陽明学であると思う。 大層、陽明を信用されて、又一方に於いては宋の李忠定を信用して李忠定の文集を買うことが出来ぬので写したのであるが、--との時分には幕府の儒官でなければ持って居ない。 氏は古賀謹一郎の塾に居って写して読んだ。 李忠定を信用されて政治上にも之を利用した。 あわし、元は陽明学である陽明学と申すものは、私が申すとも御承知であろうが、悪く利用すると大変であるが、能く(よく)利用すると、宜い(よろしい)陽明学は則ち(すなわち)仏学であるが、表面を儒学にして奥の院は仏学である。 頼山陽が王陽明の伝習録の・・・・」とある。

 尚、李忠定については詳細を知らない。 ただ、『頼山陽先生書後』(頼山陽著、児玉慎・士敬編)の第二冊に「書李忠定公集鈔」という段があり、要約すると、清の鄭板橋が、英雄の読んだ書つて、李忠定を上げているので、姫路の河合氏の山黌に蔵書があるのを知り、訪ねて筆写したが、全部が写せず、惜しみながら帰ったとの記事がある。 漢文なので読み間違いがあるかもしれない。 ご容赦。 とまあ、江戸末期・幕末に、それ位に李忠定公集が関心を呼んでいたのだろう。

 尚、河合氏とは、姫路藩酒井家の名家老といわれた河合寸翁のことで、「山黌」とは、寸翁が開いた私塾、所謂「山の学校」、仁寿山黌のこと。 寸翁の史料に、頼山陽を一時期招聘したとある。 また、姫路神社境内には、寸翁を祀った「寸翁神社」がある。

 以下、頼山陽の王陽明評が漢文で続くのであるが、何しろ印字がつぶれて読み難い。 この部分は、頼山陽の文献から探すことことにして、更に、この河井継之助に関する文章を続けたいが、長くなる。 それに、字が小さいこともあり、虫眼鏡で読んでいるから、涙目が一層激しくなって、疲れてしまった。 そんな訳で、続きは次回に。

 ところで、この『同郷人の団結』は、僅か13ページの小冊子である。 そこに登場する人物は、すべて長谷川泰の同世代人だが、『長岡の人々』や『長岡歴史事典』に記載のない人々もあるのである。 速記録なので、文脈も乱れているが、それでも、その晩の雰囲気を伝えている。 同時代人が語ったところに、臨場感があるのだろう。 ところで、明治時代、維新の事情を忘れないためにもと、各地で「史談会」が開かれたが、それらの史料も、現在、閲覧あるいは入手することも難しい。 しかし、こうした同時代人の言葉にこそ、歴史的事実とは異なる真実を伝えるものではないだろうか。 心情・感情の問題である。 歴史は概して、その時代の人々の心を伝えない。 歴史書を読む我々は、現代の感覚で評価し、現在の心情で共感し、あるいは反感を持つこともある。 してみると、矢張り、その時代人の感覚あるいは感情を知るには、その時代人の言葉で語られる物語を知る必要があるだろう。 歴史学とは、年代記的歴史的事実と同時代人の感覚感情、それに生活史あるいは時代背景との三者の上に成り立つものではないだろうか。 こう考えると、歴史小説の意義は大きい。

 余談だが、中国では今、山岡荘八の『徳川家康』がブームだそうだ。 ベストセラーランキングの上位(確か三位だったか)にあり、700万部が売れたという。しかも読者層は、ほとんどが、若者・学生・若手の経営者とだと聞く。 因みに、日本では、1000万部以上が売れているそうだが、街頭インタビューで、この本の存在あるいは徳川家康に関心のある人は、ほとんど居なかった。

 尚、長谷川泰は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』あるいは『峠』にも登場する。 以前、『柏崎通信』に、彼あるいは石黒忠悳について書いたこともある。 『ある旧制中学校長の足跡』の調査から、関連する人物を追いかけていくと、思わぬところで、思わぬ人物との関係に遭遇する。 まさに、この世は「スモール・ワールド」であると実感するのも、こんな時だ。 日常の世界でも「6次の隔たり」という経験則があるが、歴史の世界にも、時空を越ええた「6次の隔たり」のようなものがあるように思える。

 またしても余談だが、当時の「修身」の教授内容は、官の意向とは別に、歴史の側面、すなわち個人に纏わる事例などを主たる教材としていたことを考えると、西欧的歴史観に違和感を持った、現場の教育者の苦肉の策だったのではないだろうか。 例えば、最近判ったことだが、羽石重雄は、大阪府立二中時代、英語と歴史を担当しているのである。 この、国史科出身の学士が、歴史と英語を教えているのだ。 実に興味深い。 その影響は、初代校長である有馬純臣だと聞くが(羽石重雄の五校時代の担任)、実は、有馬純臣自身、第五高等学校で、理財・法学通説・英語を担任していたのである。 因みに、当時の第五高等学校学校長は、講道館の加納治五郎であり、有馬純臣は、六番目に入門した門弟だった。 加納治五郎は、学校長になったとき、彼を呼び、また、ラフカディオ・ハーンを松江中学から招聘しているのである。 この辺りの事情も面白い。 機会があれば、書くことにしよう。

Best rgards
梶谷恭巨
 
 最近、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」をよく利用する。 しかし、問題もある。 最も不便なのが、通常のPCの場合、全体表示にすると、文字が小さく、原本自体が劣化しているため、コピーの品質が悪く、ほとんど読めないことだ。 そこで、それをダウンロードして、印刷することになるのだが、ここにも問題がある。 一回に10コマ」しかダウンロードできないのだ。 結果として、10コマずつダウンロードしたファイルを結合しなければならない。 この作業が、馬鹿にならない。 相当に時間がかかる。
 
 例えば、『東京帝国大学一覧』などは、年次が新しくなるほどページ数が増え、結合ファイルを作るまでに2・3日掛かることもあるのだ。 ただ、こうした公文書などは、必要な部分が限られているため、部分的にダウンロードすることで事足りる。 しかし、書籍になると、そうも行かない。 全てのファイルを結合するのだから、その時間と労力たるや、押して知るべき。 兎に角、厄介な作業である。 加えて、印刷も大変である。 両面印刷するのだが、トナーの残量と紙のことを心配しなければならないのだ。
 
 何度も、こんな作業をしていると、嫌気はするは、面倒くさくもなるのである。 ただ、慣れが、多少は問題を解決する。 とまあ、こんなことの繰り返しで、幾つかの書籍をPDFに統合した。 もっとも、テキスト・ファイルではないので、問題の箇所を検索することは出来ない。 一々、机上検索を行う訳だ。 それでも、読み辛い画面を拡大しながら探すよりは効率的だ。
 
 ところで、こうした書籍のほとんどが、著作権の保護下にはないのだ。 (因みに、著作権に関する記載は、書誌情報にある。) 以前にも書いたが、こうした書籍には、実に面白い記事がある。 恐らく、復刻版を出せば、相当な費用が掛かるだろう。 しかし、統合したPDFファイル形式なら、作業に掛かる労力と時間や必要な場
合は印刷の経費で済むだろう。

 
 実は、今、そうしたライブラリーを作ろうと思っている。 少なくとも、「近代デジタルライブラリー」閲覧の煩わしさは解消できる。 そうなれば、多少とも明治や大正時代の文献にも日が当たる。 出来ることなら、グーテンベルク・プロジェクトのように、テキスト化したいのだが、それは個人レベルでは出来ない相談。 大学などが進めているが、遅々として進展しないのが現状である。
 
 と言う訳で、「柏崎通信明治大正デジタルライブラリー」なるものを計画している。 取り敢えず、既に紹介した文献のように、関心を引いたものを中心に、ファイルの結合を行う予定だ。 例えば、未だ紹介していないが、「金子堅太郎」に関する文献や明治人物誌、三流週刊誌的スキャンダル集などなど。 確かに傍系の文献や書籍が多いのだが、これが意外に面白い。 (主流の文献は、復刻版が出版される。 しかも、とても手が出せないくらいに高価になって。) 「近代デジタルライブラリー」の日々更新しているので、素材には事欠かない。
 
 関心のある方は、知らせて欲しい。 このプロジェクトに参加して欲しいのである。
 
Best regards
梶谷恭巨
 
 


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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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