柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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読者各位

 現在、『柏崎通信・資料編』に、桜痴居士(福地源一郎)著『もしや草紙』の第五回まで、および、安藤紫陽・箕輪撫鬣共著『名士の父母』(東京・文武堂、明治36年)の一部、第九章、「小金井良精の母」を掲載しました。

 未だ掲載回数が少ないので、検索エンジンでヒットしません。 このリンクから入れます。 興味ある方に一読して頂ければ、幸いです。

 尚、掲載の体裁など思案中です。 ご意見を頂ければ、猶幸いです。 宜しく。

Best regards

梶谷恭巨

 

 梶谷さんからブログの制作者として行間をあけるように直してくれとのことでしたが、

このブログ行間を開けるようにはできていませんので、フォントを「MS Pゴシック」から「ヒラギノ角ゴ Pro W3」に変更すると微少ではありますが若干行間が開くように感じます。

「MS Pゴシック」でのテスト

 畳数にて申さば、凡(およ)そ十二畳ほどの座敷にて二階の巽角(たつみかど)。 尤(もっと)も外部(そと)は煉瓦造の西洋家(や)なれど、内部(うち)の造作は西洋三割日本六割支那一割と云う折衷主義にて、即ち主人の居間なり。 水戸マーブル(茨城県真弓山産の大理石「寒水石」、水戸藩の御用石だったそうだ)の爐板(マントルピース)の上に薩摩焼の花瓶(かへい)一対を左右にならべ、(牡丹の花盛りに蝶が舞い遊びたる横浜仕込の絵付なり)、中央には瑞西(スワイス、スイスの事)名物の置時計。 

「ヒラギノ角ゴ Pro W3」でのテスト

 畳数にて申さば、凡(およ)そ十二畳ほどの座敷にて二階の巽角(たつみかど)。 尤(もっと)も外部(そと)は煉瓦造の西洋家(や)なれど、内部(うち)の造作は西洋三割日本六割支那一割と云う折衷主義にて、即ち主人の居間なり。 水戸マーブル(茨城県真弓山産の大理石「寒水石」、水戸藩の御用石だったそうだ)の爐板(マントルピース)の上に薩摩焼の花瓶(かへい)一対を左右にならべ、(牡丹の花盛りに蝶が舞い遊びたる横浜仕込の絵付なり)、中央には瑞西(スワイス、スイスの事)名物の置時計。

 ブログって、もともとWebのログなので、ハッキリ言ってテキストファイルとおなじ様なもの、 「ワード」などの印刷ソフトやDTPなどの印刷の版下ソフトなどでは微妙な行間などの微調整が求められますが、行間とかあまりログに対して求められていません。                           xize minlang

 配信読者は、既に、ご存知の如く『柏崎通信-資料編』の配信を始めました。 これをブログ上にも公開しましたので、お知らせします。 アドレスは下記の通りです。 左のリンク先にも表示してあります。

  http://qkasiwazakitusin.blog.shinobi.jp/

 この『柏崎通信-資料編』は、江戸後期、明治・大正期の文献・資料の電子化を試みたものです。 多くの方が既に行われている部分もあるので、独断と偏見で、自分の関心のある資料・文献の中、著作権保護下に無く、且つ関心のあるものから試みる心算です。 今回は、福地桜痴の『もしや草紙』を何回かに分け掲載します。 尚、拙文、注釈など附けていますが、お気づきの点があれば、コメントを。

  尚、調べていたら、次のサイトに『柏崎通信』が紹介されていましたので、参考までに。 名称は「Technorati」、さて、どのようなサイトなのか? 「About us」によれば、「グローバルなオンライン会話の収集、構成、配信」サイトとあります。 因みに、そのアドレスは次の通り。

  http://technorati.com/tag/%E5%8F%B2%E5%AD%A6

Best regards
梶谷恭巨

 

 蝋山政道について、少々訂正する必要がある。 杉捷夫と大洲小学校での件である。 何処に書いてあったのか思い出すのに時間が掛った。 杉捷夫の『人の影・本の陰』であることに間違いはないのだが、父親についての節にもない。 大抵付箋を入れているので、何処かにあるとは思っていたが、彼方此方に入れていて、一々確認していた次第である。

 在ったのは、「私の人名簿から」という章の「小山長四郎さん」という節だった。 この小山長四郎いう人は、蝋山政道の弟(四人兄弟の末っ子)で、群馬県の松井田に養子に行かれたので、小山姓になったそうだ。 蝋山家は、祖父の代まで六代続く、刈羽郡大洲村中浜(現、柏崎市中浜)の越後上布や縮緬を扱う行商の元締めだったそうだ。 それが、先に書いたように親の代に、造り酒屋の株を買い高崎に出た。 小山長四郎氏は、その高崎で生れ養子に行かれたようだが、その後、高崎に移りったのか、1980年代まで美峰酒類という会社の社長だった。 文才が有ったようで、『風灯』とい自伝的小説を同人誌に連載され、後にそれが私家本として出版されている。 少し調べてみたら、美峰酒類の現在の社長は、太刀川氏とあり、長岡の十日町に支社があるとのこと。 名前からして、あるいは長岡に新潟支社があることから、長岡との関係の深さも感じる。

 蝋山家の四兄弟は、皆、大洲小学校に通うのだが、先の事情で、高崎に移った。 しかし、長男である政道を除き、大洲で健在であった祖父の元から大洲小学校に通っている。 記憶違いしていたのは、この点である。 杉捷夫の兄と蝋山政道の末弟・小山長四郎とが同級生だったのだそうだ。 杉捷夫は、二級下で、兄の親友でもあった小山長四郎のことをよく記憶しているとある。 杉捷夫は、父の転勤で直江津に移り、高田中学に一年通った後に、柏崎に戻り、柏崎中学を卒業している。 年齢からすると、卒業は大正9年辺りか。 (父の友人であった羽石重雄は、既に長岡中学に転出している。) 蝋山兄弟の次弟・三弟は、既に柏崎中学を卒業しており、件の小山長四郎は、高崎中学に移っていたとある。 因みに、杉捷夫は、その後、三校(京都)から東京帝国大学に進学した。

 とまあそういうことなのだが、杉捷夫も書いている様に、人間の縁とは不思議なものだ。 氏の言を借りると、「私の人名簿は蜘蛛の巣のようにふしぎな縁の糸で綴り合わされている」と。

 序でだから書いておくと、杉捷夫の祖父・杉隼雄は、「典型的な下級武士、奇兵隊の小隊長として蛤御門の変に参戦したという。 どういうわけか、維新後は、軍人にならず、さっさと辞職、下男ひとりを相手に毎日海釣りをして暮らしていたらしい。 明治七年八月末、台風の季節に舟で沖へ出て遭難、下男の遺体はあがったが、祖父は行方不明。 祖母は十六の歳に嫁に来て翌年父が生れたというから、二十そこそこでやもめになったわけ。 三つになる男の子ひとりをかかえてのやもめ暮らし、下級武士の藩禄公債の額など知れたものだから、それでも奨学金も受けたものと思うが、ふしぎにそのような育ちを感じさせるふんい気は家の中になかった。 せいぜい祖母が孫たちに食物を粗末にしないしつけをしてくれたことくらい。 熱心な門徒だった祖母の極端な殺生嫌いには恐らく、祖父の劇的な死が反映していたのかも知れない。」と書いている。 (『人の影・本の陰』、岩波書店、1983年刊から引用)

 戊辰戦争の時、長州の主力は、北越戦争に参戦している。 もしかすると、杉隼雄もこの戦に従軍していたのかもしれない。 その子が、柏崎を発祥の地とする日本石油の技師として、半生を過ごすのであるから、人の繋がりは、当に蜘蛛の糸の如く絡みあっているのかもしれない。

Best regards
梶谷恭巨

 

 先日(3月30日)、長岡中央図書館に「小野塚喜平次と広瀬武夫」について問合せした。 その回答が、4月2日に寄せられた。 それによると、辞典的なものを除けば、「小野塚喜平次」に関する文献は、『越佐が生んだ日本的人物』第2集(新潟日報事業社)と『小野塚喜平次 人と業績』(南原 繁ほか著 岩波書店 昭和38)の二冊があるいう。 その中に、両者の出会いは、明治28年東京帝国大学法科大学政治学科卒業の同級生によって結成された「二八会」のメンバー、すなわち同期生の矢作栄蔵の紹介によるものとあるとの回答だった。

 紹介を依頼した文献の数が、これほど少ないとは予想していなかった。 そこで、というよりも、そんな事もあるだろうと予測していたので、「日本の古本屋」サイトで文献を探していた。 どういう訳か、概してプレミア付きではないかと思われるほど高価である。 柏崎市立図書館にも在るとの事なので、それも検討したが、往復のバス代が400円。 必要な箇所がどれ程ある判らない。 一日仕事では終わらないだろうと判断し、最も安価なものを探し購入することに決めた。 幸い2件のヒットがあったのだが、一方は売り切れ、やや高いもう一方を購入した。 その本が先週末に届いた。

 改めて、書誌情報を確認すると、著者は三人だった。 いずれも、小野塚喜平次の門下であり、政治学の世界では著名な南原繁、蝋山政道、矢部貞男の三人である。

 少々横道に逸れる。 この著者の内、蝋山政道は柏崎の出身だ。 一般には、高崎とされるのだが、蝋山家は、柏崎では有数の「ちりめん問屋」、すなわち「越後のちりめん問屋」なのである。 精確なことは失念したが、杉卯七を調べている時、その長男であるフランス文学者・杉捷夫だったと記憶するのだが、大洲(おおづ)小学校で同級生だったか、兄と同級だったようだ。 (調べていると先に進めないので、間違っていれば後に訂正する。) 蝋山政道の父親の代に、当時の情勢から判断してか、越後ちりめんの将来を見切ったのか、群馬県高崎の造り酒屋の株を買い、一家総出で高崎の移住しているのである。 尚、蝋山政道は、戦後の政治学の指導者の一人であり、オピニオン・リーダーの一人でもあった。

 私事だが、大学時代の恩師、ホームルームの担任でもあった岡義武先生が矢張り小野塚門下で、政治学科であった自分は、蝋山政道については、当然のことのように知っていたのである。 ところが、新潟に来て、その名に接することがほとんどなかったのである。 これには驚いたものだ。 しかも、柏崎の人は全く知らないようだ。 (勿論、私の知る範囲のことだが。)

 まあ、それはさて措くとして、広瀬武夫との出会いは、当に偶然であったようだ。 『小野塚喜平次 人と業績』から引用してみよう。

 「先ずたまたま上野公園を散歩中、この[信頼すべき友人]の戦死を号外で知り、しばらく呆然として経っていたという前置きで、自分が広瀬君と知るようになったのは、矢作栄蔵君を介してであったといっている。 広瀬と矢作は、講道館でも柔道の旧友で、矢作から小野塚のことを話したらしい。 明治二十九年三月十四日に、広瀬からの招きで、彼が矢作と横須賀に行ったのが、彼と広瀬との初対面であったが、彼は初対面の広瀬に、[敬慕の念を抱いた]といっている。 当時広瀬は大尉で、水雷艇第十八号の艇長だった。」 『小野塚喜平次人と業績』(岩波書店、昭和38年刊)、出典『軍神広瀬中佐』(博文館、明治37年刊、「小野塚法学博士談」として「信友広瀬武夫君」)

 一週間後、広瀬は上京したとき、小野塚を訪ね、矢作を加えて学士会で夕食を共にしている。 『広瀬武夫全集』の書簡集に記載はないが、その後、書状を頻繁に往復しているようだ。 何が、この親交の原因なのであろうか。 小野塚喜平次は、身長五尺一二寸(155cm前後)の短躯で、決して健康に優れていたとは言えない。 しかし、気性はどちらかと言えば激しい方で、長岡中学時代、自由民権運動に没頭し、校長排斥運動を起こし、その責任を取って退学したほどである。 虚弱、短躯であることに対するコンプレックスと生来の敵愾心が、広瀬に対する一種の憧れを生んだのであろうか。

 ところで、小野塚喜平次の性格の一端を覗かせる記事がある。 明治44年、実業之日本社刊『優等学生勉強法』に、自身の中学時代の政治熱について語ったものだ。 人となりを理解する上で参考になる。 以下、少々長くなるが、その一部を紹介しよう。

 『学生時代よりの十大勉強法』の中の「政治熱の為に良習慣を打破った」と題する節から。 「次いで尋常中学に移ったが、数学は依然優秀であるので特に数学科の出席を免除された為に、自分の好む所の学科に向て精力を傾注することが出来た。 中学では英語の方に趣味を有ちて特に勉強したが、折角学んだる漢学の方は自然等閑に附せられて仕舞うた。 之れは今日大に後悔する所で、折角貴重なる時間と労力とを割きて学修せる学術を中途にして放擲するは不利益千万の話である。」とあり、更に、 「併し私の精力集中主義にもなかなか消長がある。 其折柄世間では政治熱が勃興して余勢は延いて乳臭少年輩に迄及んだのである。 当時私は十四五才であったが遂に腕を扼して政治論を蝶々喃々(ちょうちょうなんなん)する様になった。 果ては学業に荒んで(すさんで)徒らに自由の民権のと口角泡を飛して天晴大政治家になり済した(なりすました)。 此時代は確に私の学生生涯に於ける危機であったと思う。 其れに制度が改正されて従来の如く学業の成績に依て一躍して下級より上級に飛越すことが出来なくなった為に、自然勉強の刺激物が消失し、且つや自分の好む所の英語の適当の先生を得ることが出来なかった等の為に勉強心が漸く衰へて来た所へ、政治熱に浮かされたものであるから尋中時代に於ける学業の成績は、小学時代に比して痛く劣った居つたのである。」 (原文に忠実に書いたので、読み辛い部分があるかもしれない。)

 小野塚喜平次は、先の通り、校長排斥運動に係わり、退学上京するのだが、依然として政治熱はあったようだ。 引用の次の節に、一校入学後として、「益友の切諌に依り迷夢を破る」と題する文が続く。 長くなるので、要約すると、生涯の友人となる同郷の棚橋寅五郎の忠告で、無事一校を卒業し大学に入学したとある。 この棚橋寅五郎という人は、年齢は上だが、長岡中学を中途退学し、上京、小野塚と同じ共立学舎で学び、明治26年、帝大工科大学応用化学科を卒業、後に今の日本化学工業を創立した人である。

 ただ、同文の中で、小野塚喜平次は、「この間に於いて機に触れ時に乗じて私に向て勉強する様にと熱誠を以って忠告して呉れた益友は当時第五高等学校に在った今の工学博士棚橋寅五郎君其人である」とあるのだが、五校の第一回卒業生がでるのが、明治25年であるから、これは小野塚喜平次の記憶違いなのかもしれない。 また、職員録にも記載はなかった。

 以上のように、小野塚喜平次という人は、虚弱・短躯な秀才を思わせる反面、心底には政治熱で勉学を忘れるほどの激情を秘めていたと言えうるだろう。 結果として、それが政治学を目指す要因になるのだが、この心情が広瀬武夫との交流に繋がるのではないだろうか。 極論だが、当初には、縁の薄かった軍との接点を求めていたのかもしれない。 何しろ、明石元二郎陸軍大佐を始めとする、当時の軍諜報活動は、英国をして世界最上級と評されたほどなのである。 言い換えれば、当時、軍ほど国際情勢を把握していた機関はないのである。 政治学者として、小野塚喜平次が、交際情勢を把握することを目指すのは必然的帰結であろう。

 しかし、それも接するうちに変化したのかもしれない。 何しろ、広瀬武夫を評して、先掲の『小野塚法学博士談』では、「無類の勤勉家」、「義務心に富む」、「無類の仁者」、「極くまじめな人」、「勇敢仁慈」、「品行方正」など、べた褒めなのである。

 こうして調べていくと、人の繋がりが予想以上に広がっていく。 今回の話も、更に広がっていく予感がある。 事実そうなのだが、また次の機会に。

Best regards
梶谷恭巨

 



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