柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 現在でも英語教育が問題になる。 どうも期待通りに英語の教育効果が上らないと、よく聞くことがあるのである。 しかし、この問題は、今に始まった訳では無いようだ。 二回に亘って、漱石の「視察報告書」を引用したが、同じ漱石全集の25巻に『語学養成法』という小論が収録されている。 これは、明治44年1月1日および2月一日に『学生』おいう雑誌の2巻1号と2号に掲載されたものだ。

 そこで、漱石は、最近(明治末期)、「一般に学生の語学の力が減じたと云うことは、余程久しい前から聞いているが、私も亦実際教えて見て爾(ソ)う感じた事がある」と云い、「それは何う云う原因から起ったのか」と疑問を呈しているのである。

 私自身、長いこと翻訳の仕事などしていたので、その展開や如何と興味深々である。 漱石は、先ず、明治初期の語学事情を語るのである。 「我々の学問をした時代は、総ての普通学は皆英語で遣らせられ、地理、歴史、数学、動植物学、その他如何なる学科も皆外国語の教科書で学んだが、吾々より少し以前の人に成ると、答案まで英語で書いたものが多い」と。

 時代はもっと遡るが、日本に於ける西欧式の学校として上げる事が出来るんは、ポンペの長崎医学伝習所(医学校)からではないだろうか。 勿論、シーボルトの鳴滝塾はあるのだが、学校教育と謂う観点からすれば、そう考えるのである。 例えば、ポンペの『日本滞在見聞記』の第二章の「私自身の活動について」によれば、ポンペの定めた「一連の講義課程」として、「物理学、化学、繃帯(ホウタイ)学、健康な人体の理学総論及び各論(生理学)、病理学総論と内科学、薬理学、外科学理論及び外科手術学、眼科学」とあり、時間があれば、「法医学と医事政策」まで講義するとあり、後には、今でいう「実験物理学」や数学を、更に、幕府の依頼もあり、「鉱物学と採鉱学」を導入しているのである。 この辺りになると、医学生以外の学生の参加が多くなり、後の長崎海軍伝習所の源になっていくのである。 そして、ポンペを助け、日本の近代医学、否、日本の近代教育を体系化していくのが、初代軍医総監となった松本良順ではないかと考えるのである。

 当時の授業風景画が、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に活写されている。 当時の学生には、先ず言語障壁がある。 オランダ語の講義を聴き、それをノートに取る事は至難の業だ。 思案した松本良順は、下僕的存在であった島倉伊之助に講義を速記させる。 島倉伊之助、即ち、後の司馬凌海(リョウカイ)は、言語の天才と云われた。 彼は、ポンペの講義を、先ず漢文で速記する。 (言語の構造からいっても、これは妥当か。) それを、学生諸子が筆写し、読下し文にしたそうだ。

 ポンペはポンペで、言語障壁を意識していたのであろう。 当時の授業は、午前二時間、午後二時間であったようだが、これは、ポンペ自身が学生たちの状況を見て決めたようだ。 また、それ故か、あるいは日本人の特性として、視覚教育が最適と考えたようだ。 オランダ商館の図書館には、当時の最新情報があったようで、特に、図式のあるものを教科書として撰んだようだ。 これは成功した。 先の実験に必要な機材が、当初は殆どなかったが、日本人は、それらの図式を参照にして、自作する才があったのである。 私見だが、これは今も同じで、公式には長々しい文章の提案書など好まれるのだが、実際には、図式にでもしなければ、ユーザーとの意思疎通が出来ないもの事実なのだ。 あるいは、英文のマニュアルを読訳する事が出来ないのに、コンピュータという現物とそのシステム概念図などあれば、例え新規のシステムでも自分のものにしてしまう特性を経験的に知っているのだ。

 兎に角、この教授法の傾向は、明治初年まで続くのであろう。 ただ、注目すべきが漢文である。 要するに、古典中国文献を読む技術は、ミレニアムのオーダーで、日本の学問の基礎を形成しているのだ。 先に上げた語学の天才・島倉伊之助は、漢文を通じて、多言語にある言語の本質を理解していたと言うべきであろう。 何しろ、彼は語学環境としては後進地である佐渡の出身なのである。 その彼が、江戸に出て、松本良順の目に留まるのは、決して医学ではなく、語学の才能なのである。

 さて、ここからも判るように、明治初期の学者、時には政策立案者は、近代西欧教育思想と、それを吸収する為の言語障壁を乗り越えた人々なのである。 すなわち、漱石が言う外国語による普通教育を経験した人々なのだ。

 しかし、ここで、もう一つ言える事が、共通の言語基盤が存在したと云う事である。 ポンペは、何処まで日本に於ける教育事情を知っていたのか。 ポンペは、薬理学の手引書の作成を試みている。 しかし、危惧するところも多かったようだ。 出島の印刷所で印刷させてみたところ、思うようにはいかなかったようだ。 「出島の印刷所では主に日本人の見習い印刷工にやらさねばならなかったので、費用が高くつき、仕事もなかなか捗らず、ほとんど一年もこの本の印刷にかかった」と云う。 ところが、ポンペは知らなかったのかもしれないが、それは杞憂で、ポンペ自身は知らなかった(書いていない)が、あっという間に、日本全国に流布されるのである。 どうも、「見聞記」にあるように遅々として進まぬ出版に対する危惧を書く頃には、知らぬはポンペばかりなりの状況であったようだ。 この事は、種痘の伝達過程にも見える。 変遷する、あるいは「朝令暮改」のお上の意向を知る、当時の方外の人々、その代表である医師たちは、シーボルトの前例もあることなので、ポンペには類を及ぼさず、という意思があったのかもしれない。

 漱石は、恐らく、そうした事情を述べているのではないだろうか。 明治も中期以降になると、(漱石は、井上馨が文部大臣時代を云う)、社会の見る目が変化する。 『柏崎通信資料編』に上げる『もしや草紙』が、当時の事情を物語る。 漱石は、この時期が、英語力あるいは外国語力の衰退の元と見る。 序でに言えば、この傾向に反発するのが、自由民権運動ではないのだろうか。 特に、その台風の目になるのが、越後である。 一般に、板垣退助や大隈重信が目に付くが、それを支えたのは、寧ろ、越後自由党の動向である。 何しろ、当時の越後は、人口で最多、納税額でも最高額、しかも、依然として北前、北方貿易に重きを成していたのである。 事実、北海漁業の中核を成すのは、柏崎は荒浜の出身の人々が築いた江差を始めとする北海道沿岸の漁業なのだ。

 ところで、漱石は問う、外国語を学ぶ目的とは何かと。 外国人と、ペチャクチャと具にも就かない会話する事か。 漱石は、そんなことは限られたコトバで出来るとし、寧ろ、語彙や文法は、英国の一般庶民よりは日本の中学校の生徒の方が上と評価している。 今はどうか知らないが、我々団塊の世代は、よくそんな言葉を聞いたものだ。

 余談だが、漱石・夏目金之助が、帝国大学文科大学の英文学科の二番目の卒業生であること御存知であろうか。 因みに、最初の卒業生(明治24年)は、伝習館初代館長である立花政樹である。 参考までに、履歴書を引用する。 但し、「他筆」とあるから本人が書いたものではないのかもしれない。

 一 明治七年一月東京牛込柳町小学校入学同十年六月迄在学
 一 明治十年六月ヨリ神田区猿楽町錦華小学校ニ入学同十四年六月迄在学
 一 明治十四年六月ヨリ神田区一橋外東京府尋常中学ニ転学同十五年迄在学
 一 明治十五年ヨリ十六年迄麹町区一番町二松学舎ニテ漢学専修
 一 明治十六年ヨリ神田区私立成立学舎ニテ英語及ビ他普通学兼修
 一 明治十七年九月大学予備門ニ入学
 一 明治廿一年七月第一高等中学校予科卒業
 一 明治廿三年同校本科第一部卒業
 一 明治廿三年九月帝国文科大学ヘ入学英文学科専修
 一 明治廿六年七月文科大学卒業同月十日大学院入学ヲ許可セラル
 一 明治廿六年十月高等師範学校英語授業ヲ嘱託セラル一箇年金四百五拾円給与セラル
 一 明治廿八年四月高等師範学校英語授業ノ嘱託ヲ解カル同年同月大学院退学許可セラル
 一 明治廿八年四月愛媛県尋常中学校教員ヲ嘱託セラル月俸八拾円給与セラル
 右之通リニ候也
 明治廿九年三月
 北海道庁後志国岩内郡吹上町十七番地平民浅倉仁三郎方同居平民
 夏目金之助
 慶応三年正月生

 それでは、漱石在学当時の状況は、どうだったのだろうか。

 以下、図表を載せたのだが、どうも、このブログの限界を越えたようだ。 保存しようとしたら「文字数が多い」というエラーがでた。 そんな訳で続きは次回に。

Best regards
梶谷恭巨

 前回に続き、漱石の『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』(岩波書店『漱石全集』第26巻収録)を引用する。 凡例は、前回と同じ。

第三 久留米明善黌(福岡県久留米尋常中学明善校、現福岡県立明善高等学校)
(略)
(梶谷注)福岡県立中学明善校第二代校長(県立になって第六代校長、同窓会会長)・高宮乾一は、新潟県立柏崎中学第二代校長から、大正元年10月11日、中学明善校校長に転出、その後、大正6年3月2日、福岡県立福岡中学校初代校長。 福岡中学は、修猷館の寄宿舎の一部を借りて、同年4月1日開校した。 尚、高宮乾一は、明治30年7月、東京帝国大学文科大学国史科卒業で、羽石重雄と同期である。
一年級
課目: 訳読及び綴
用書: 読本
教師: 失名
生徒: 五十六名
教授法: 首(ハジメ)に単語に就き発音及び意義の復習を行い、次に訳読を授く、其方法は全く直訳にて「彼が彼の顔に於て落ちし」等の言語を用い、而る後、之を意訳す、故に音読直読[訳]意訳の三段落を通じて始めて日課を終るものなり
傾向: 生徒教師共に正則的方面に於て冷淡なるが如し
四年級
課目: 訳読
用書: 中外読本
教師: 稲津氏
(注)稲津雅通のこと。 文久三(1863)-昭和六(1931)年。 久留米市生れ。 慶応義塾卒。
生徒: 三十六名
教授法: 教師意義を講じ終って生徒質問を呈出す、一時間中生徒は単に教師の説を聞くのみ
傾向: 教科書比較的に難渋なるの感あり、参観の時、教師の講じたるは慥(タシ)か十七世紀以前の文学と覚ゆ、是生徒の輪講を試みざる源因なるべし、かゝる文章は高等学校の三年生と雖ども解釈しがたからんと思う、従って発音其他の点に於て殆んど注意を与うるの余地なからん
五年級
課目: 訳読
用書: 「クリミヤ」戦争記
教師: 松下氏
(注)松下丈吉のこと。 安政六(1859)-昭和六(1931)年。 久留米市生れ。 慶応義塾卒。 東京帝国大学予備門・日本中学を経て、明治27年2月明善校第三代校長、31年11月退職。
(梶谷注)長男が海軍中将・松下元、明治17年(1884)8月10日-昭和28年(1953)12月1日、少将・海軍兵学校校長の時、考案した「五省」は有名。
 一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿かりしか
 一、言行に恥づる勿かりしか
 一、気力に缺(か)くる勿かりしか
 一、努力に憾(うら)み勿かりしか
 一、不精に亘(わた)る勿かりしか

生徒人員: 三十名許
教授法: 不通行わるゝ処の輪講にして、且目立ちたる点なし
傾向: 五年生としては一般に学力不足ならが如し、然れども質問の夥多(カタ)なるより察すれば生徒はあながち不勉強なるにもあらざるべし(参観時間三十分許なるを以て精細に観察するを得ず

第四 柳河伝習館(福岡県尋常中学伝習館、現福岡県立伝習館高等学校)
(略)
(梶谷注1)『伝習館七十五周年記念誌』(昭和44年刊)によると、漱石視察の時(明治30年11月)、伝習館館長の席は空席で、教諭・西英盛が館長心得とある。
 西英盛は、明治5年山口県に生れ、同26年7月、山口高等学校本科第二部を卒業、同29年、東京帝国大学理科大学物理学科卒業後、福岡県尋常中学伝習館に教諭として採用され、同30年、館長心得、同31年4月、福井県福井尋常中学教諭を経て、同33年10月27日付で、第四高等学校教授として着任した。 大正14年3月退任、退任後も、一年間嘱託講師を勤めた。 『第四高等学校一覧』、『金沢大学資料館紀要』(4:1‐24、2006年3月)掲載の竹村松男著「保存された四高物理機器」を参照。
(梶谷注2)伝習館と修猷館の関係は深く、明治31年2月から3月まで、修猷館初代館長・隈本有尚(明治27年、修猷館館長再任)が、暫定的に伝習館館長心得を勤め、同年4月、修猷館で「軍隊投石事件」が発生した時(明治24年)の教頭であった仙田楽三郎が、新潟県長岡中学校長から伝習館館長に着任した。 『柏崎通信』の「ある旧制中学校長の足跡』シリーズで、この辺りの事情を書いている。
 仙田楽三郎は、新潟県長岡の出身、長岡藩士で、東京大学予備門理科志望を明治12年7月に卒業、東京帝国大学理科大学に進学するが、卒業者名簿に名前がない。 事情により中退したのかもしれない。 その後、長崎県長崎中学初代校長を勤め、修猷館教頭(一時期、館長代行)、新潟県長岡中学校長を経て、伝習館館長に就任している。
 余談だが、仙田楽三郎が第12代校長に就任した新潟県長岡中学の第15代校長・坂牧善辰は、明治23年7月第一高等中学校文科志望を卒業しているが、同期卒業者の一人が漱石・夏目金之助であり、『野分』のモデルと云われる。 また、長岡中学第22代校長・羽石重雄は、修猷館の第三回(明治24年)卒業生であり、当時の理科の担任が仙田楽三郎であった。
(梶谷注3)初代館長・立花政樹は、東京帝国大学文科大学英文学科を明治24年7月卒業。 英文科第一期唯一の卒業生であり、二年後の明治26年7月に第二期唯一の卒業生が、漱石・夏目金之助である。
(原武哲先生より)立花政樹に関しては、先生の毎日新聞筑後版『夏目漱石をめぐる人々』第29号から31号「立花政樹①から③」に詳しく紹介されている。 尚、前回にも書いたが、毎日新聞久留米支局のご好意により、同文を読むことができた。 感謝。
一年級
課目: 訳読及綴字
用書: 斎藤氏著第二読本
教師: 玉真氏(長く米国に遊学せる人)
(注)玉真(タママ)岩雄のこと。 明治五(1866)年、福岡県生れ。 29年6月アメリカ・ミシガン州アルビオン大学文学科卒。 30年3月より31年3月まで伝習館に在任。
(梶谷注1)『伝習館七十五年記念誌』によれば、嘱託とある。
(梶谷注2)近代デジタルライブラリーに玉真岩雄著『商業会話案内』(明治38年、興文社刊)の登録がある。 閲覧可。
 表紙の表題は下記の通り。
   『Guide to Commercial Conversation』
   I. TAMAMA. A.M. Ph.D.
   Professor of English in the Keio Gijuku Commercial Scholl,
   Author of "Practical Lessons in English Conversation"
 上記著作は、明治35年(1902)、興文社刊、成田山仏教図書館の蔵書目録に記載。
(原武哲先生より)玉真岩雄(1872年8月24日-1941年2月22日)、福岡県山門郡城内村鬼童町(現、柳川市)生。 伝習館、長崎加伯里学校(後に鎮西学館)卒。 明治24年より北米英領コロンビア州ビクトリア府専門学校、同25年9月米国ミシガン州アルビオン大学文学科入学、同29年6月卒。 テネシー州ハリマン市テンパランス大学大学院入学、同30年2月まで英文学専攻。 同年3月伝習館嘱託教員、同31年4月高地中学校教員、同33年4月静岡中学校教員、同34年慶應義塾大学勤務、大正8年3月辞職、拓殖大学、麻布中学校、東京殖民貿易語学校で教鞭、昭和8年3月~同11年8月まで東京府立高等学校、その後、東京保善商業学校の経営に当たる。
(梶谷注3)東京殖民貿易語学校・東京保善商業学校: 現・学校法人保隣教育財団・東京保善高等学校、1916年、安田財閥の安田善次郎の寄附により「東京殖民貿易語学校」が開校、校長、新渡戸稲造。 その後、経営が安田保善社に移り、1923年4月、保善商業学校新設、東京殖民貿易語学校を改組し、東京保善商業学校となる。
生徒: 六拾名許
教授法: 生徒は勿論日本語にて教科書を訳解し、教師も書中にある言語は日本語にて説明すれども「書を開く」「翻訳せよ」等の命令的の語は重に英語を用うるが如し
傾向: 一般の生徒の出来も教師の教方も可なるが如し
二年級
課題: 和文英訳
用書: 山崎氏著英語教科書
教師: 同志社卒業生某氏
(注)加藤延年をさす。 慶応二(1866)年福岡県生れ。 明治22年6月同志社英学校卒業。 28年4月より32年4月まで伝習館に在任。
(梶谷注1)『伝習館七十五年記念誌』によれば、雇教員とある。
(梶谷注2)熊本女学校の回顧文集(正式名称不詳)に、加藤延年の回顧文がある。 それによると、明治22年(1889)同志社卒業を、熊本英学校と熊本女学校の教員を兼務、担任課目は、地理・博物・生物・生理・理化・数学とあり、時には、週30時間以上の授業を受け持ったとある。 因みに、当時の月俸は15円、内5円を父親に送金していたようだ。 明治28年に郷里・柳川の教員となり、明治32年4月、同志社に転じ、以降23年間、同志社に奉職したとある。 また、熊本女学校時代、同志社理科学校に留学という記載が在るところから、専門は、寧ろ理科系であり、英語は専門ではなかったようだ。 また、初の本格貝類図鑑「原色日本貝類図鑑」の著者・吉良哲明氏が戦後発刊した貝類研究誌『夢蛤』の附録として、加藤延年著『貝類和名彙』があるのは、その査証ではないかと考える。
(原武哲先生より)加藤延年(1866年6月29日-1945年4月25日)、福岡県山門郡宮ノ内村(現、柳川市)生。 明治16年12月柳川中学校初等科(現、伝習館高校)卒、同17年9月久留米中学校(現、明善高校)に転じ、同18年2月京都同志社英学校に転じ、同22年6月同校普通科卒。 同22年7月~同28年4月まで私立熊本英学校教員。 その間、同24年9月~同25年2月まで同志社波里須理化学校に入学・修学。 同28年4月~同32年4月まで伝習館雇教員。 同32年4月同志社普通学校で、理科・地理・歴史を教え、昭和8年定年退職した。 同志社教会日曜学校教師、宗教教育に尽力した。 島津製作所博物顧問、平瀬貝類研究所研究員、岩倉の同志社高校に「加藤コレクション」を作った。
生徒: 五拾名内外
教授法: 教科書中にある和文を英訳せしめ順次に之を黒板に書かしめ之を訂正する
傾向: 此種の書を厳密に教授せば将来非常に利益あるべし、然し生徒の文章中文法の誤謬あるは問わざるも綴字の乱雑なるは二年級にして未だ英字を書するの時日短きが為か
三年級
課目: 和文英訳
用書: 斎藤氏著会話文法
教師: 農学士某氏
(注)水野喜太郎をさす。 慶応二(1866)年、北海道生れ。 明治20年7月、札幌農学校卒。 30年2月より31年6月まで伝習館に在任。
(梶谷注1)『伝習館七十五年記念誌』によれば、教諭とある。
(梶谷注2)1955年刊の水野喜太郎著『英文法-図解研究』という本があるが、同一人物であろうか。
(梶谷注3)『札幌農学校一覧』によれば、水野喜太郎は、北海道士族、明治20年7月卒業(第六期)、農学士とある。
(原武哲先生より)水野喜太郎(1866年9月1日-?)、北海道石狩国札幌郡苗穂村103番地、士族。 明治16年7月札幌農学校貸費生。 同20年7月卒。 同年同月北海道庁五等技手、同22年8月富山県尋常師範学校教諭心得、同23年4月同校教諭、同25年11月私立成城学校講師、同28年4月千葉県私立上埴生学館講師、同30年2月~同31年6月まで中学伝習館教諭。
生徒: 四拾名内外
教授法: 前と異なる処なし、但二年に在っては英訳を一々黒板に書せしめ、此級に在っては只生徒の口答に止まること多し、思うに二年級に在っては専ら文章を学び、此級にあっては会話を主とするにあるか
傾向: 然れども過半の生徒は教師の問に答え能わざるのみならず、会々(タマタ)ま答うるも誤謬多きこと甚し、以て生徒の余ろ英語に熱心ならざるを見るべし
四年級
課目: ユニオン第四読本
教師: 農学士某氏
生徒: 三十五名許
教授法: 先ず生徒をして輪講せしめ教師再び之を講じ、而る後、質問に移る、読方等正則的訓乱には余り意を用いざるに似たり
傾向: 注意すべきは生徒の発音よからぬことなり、又訳読の力も割合に進まざるに似たり

(署名) 第五高等学校教授 夏目金之助

 以上、二回に亘り、漱石の『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』(一部省略)を紹介したが、流石に漱石であり、短文ではあるが、当時の英語教育の模様が活写されている。 これから判ることは、当時の英語教育が必ずしも統一されたものではなく、各学校の方針あるいは各教師の意向によって、様々であることが見て取れる。 

 先々回の時点では、未だ漱石の「報告書」の存在を知らなかったこともあるのだが、当時の英語教育格差が単に人手不足のみに起因するのではなく、確固とした学校の教育方針あるいは姿勢に大きく影響されているのではないかと思い始めている。 特に、教師の履歴を求めてみると、その事が良く判る。 即ち、前後の履歴が明確であればあるほど、その学校の優位性が現れて来るように思えるのだ。

 幸い手持ちの資料の中に、修猷館と伝習館の二校の校史があったので、それを頼りに各種資料をあったのだが、矢張り以前にも書いた様に、学校史と謂うものは、単に一校の資産ではなく、社会全体の資産として、何らかの形で統合管理すべきものではないかと考えるのである。 しかも、デジタル化の必要性を。

 (梶谷注)として書いた内容には、「旧制中学校長の足跡」の取材で得た資料・情報を書き加えたが、これからも判るように、教育人事の交流は全国規模で行われているのだ。 恐らく、この事が、我国の教育の全体的底上げの効果を生んでいると考えるのである。 でなければ、地域格差は計り知れないものになったであろう。

 しかも、調べていく過程では判ったのは、教育の全体的底上げ効果が、情報の共有によって齎されたのではなく、人事の交流という人間関係の形成によって醸成されているのではないという確信めいた思いなのである。

 未だ研究の不足もあり、一片を採り上げて全体とみなす、という訳にもいかない。 しかし、現状では、その一片の積み重ねしかない。 さて、どうしたものかとは、最近の心境である。

 今回のテーマは、羽石重雄縁の大阪府立第二中学の同窓会の関係者・吉田氏より端を発したものである。 感謝。 今後も、氏のような良き理科支社の出現を願って、明治期中等教育を追及していきたい。 

Best regards
梶谷恭巨

 明治期の英語教育を考える上で、夏目漱石を抜きにしては語れない。 そこで、漱石の年譜を調べてみたところ、明治30年(1897)、漱石の第五高校時代に、佐賀県および福岡県の尋常中学校の英語授業を視察していることが判った。 また、その視察報告書が、『漱石全集』第26巻(岩波書店)に収録されていることも。

 漱石は、明治30年7月9日、実父である夏目直克の逝去(6月29日)により、上京し、9月8日に熊本に帰っている。 その後、10月10日が五高の創立記念日であり、教員総代として祝辞を述べている。 さて、視察であるが、年譜によると次の通り。

明治30年11月8日、佐賀県尋常中学校
同年、  11月9日、福岡県尋常中学修猷館
同年、 11月10日、福岡県久留米尋常中学明善館
同年、 11月11日、福岡県尋常中学柳河伝習館
同年、 11月23日、視察結果を『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』として、五高に提出している。

 興味深いので、『漱石全集』第26巻(岩波書店)収録の「福岡佐賀二県尋常中学参観報告書」より抜粋して引用する。 尚、原文では「カタカナ漢字交じり文」であるが、カタカナは平かなに、また、旧仮名遣いは新仮名遣いにし、便宜上、句読点を附し、項目の区切りには「:」を付けた。
 (注)は、『漱石全集』第26巻に記載された「福岡佐賀二県尋常中学参観報告書」の注解をそのまま引用した。 また、筆者の注釈については、(梶谷注)とし、赤字で表記した。

第一 佐賀尋常中学校(現、佐賀県立佐賀西高等学校)
(略)
四年級
課目: 訳読
用書: マコーレー著論文
教師: 専門学校卒業生某氏
生徒人員: 四十名許(バカリ)
授業法: 生徒をして数行を音読せしめ而る後、之を翻訳せしむ、夫より教師再び之を講ず
傾向: 教師生徒共に単に意義を解することのみを力(ツト)めて、発音法等に注意せざるが如し、又単語熟語等の暗誦を試みざるに似たり、用書困難にして此に及ぶの余裕なきか将(ハ)た此点に於て冷淡なるか
三年級
課目: 訳読
用書: 文部省会話読本
教師: 専門学校卒業生某氏
生徒: 四十名内外
教授法: 前に同じ
傾向: 此級に在っては四年級よりも少しは発音等に注意するが如しと雖ども、こは単に教師のみに止まり生徒は依然として冷淡なるが如し、且会話読本を用うるにも関せず其使用法は毫も会話読本の用をなさざるが如し、尤も他に会話の時間ありて之を補うが為か
二年級
課目: 会話作文文法
用書: 欠
教師: 平山氏(永く洋人に就て学びたる人)
(注)平山久太郎のこと。 文久三(1863)年福島県生れ。 慶応義塾正則科卒。 明治30年8月佐賀中学校教諭、33年4月宮城県第二中学校教諭。 32年10月9日付狩野亨吉宛書簡で漱石は平山の就職の斡旋をしている。
生徒人員: 五十名許
教授法: 生徒をして前回の英訳一二句を暗誦せしめ指名の上、之を講壇に上らしめ他の生徒に対して暗誦せる句を高声に誦せしむ(以上会話)、次に教師暗誦せる英語の続き一二句を日本語にて与え、生徒をして之を英訳せしむ、右終って生徒の英訳を黒板にて正し(以上作文)、而る後以上正たる英訳に就きて文法上の質問をなし、又此方面に向って新知識を授く(以上文法)
傾向: 教師は頗る正則的に英語の知識を注せんと企て、生徒の冷淡なるにも関らず、着々正則的に進歩するの見込みあり、且一時間内に在って会話作文文法の三科を教授するは諸科を融合して、打て一丸となすの便利あり、此方法因りて此師の授業を受けば少々なくとも、此諸科に対する知識は高等学校入学試験に応ずるに充分ならん

第二 福岡修猷館(現、福岡県立修猷館高等学校)
(略)
(梶谷注1)明治27年8月7日、初代館長であった隈本有尚が館長に再任、漱石視察当時、隈本有尚が館長であった。
(梶谷注2)『修猷館七十年史』(昭和30年刊)には、明治30・31年の記載がない。 即ち、漱石の視察に関する記述は掲載されていない。
(梶谷注3)その後、『修猷館二百年史』を入手、『七十年史』には記載の無かった漱石視察の詳細が掲載されている。
(原武哲先生より)隈本有尚については、先生稿の毎日新聞筑後版『夏目漱石をめぐる人々』第20回「隈本有尚①から③」に詳しい。 尚、毎日新聞久留米支局のご好意で、『夏目漱石をめぐる人々』の全文をFAXして頂き、詳細を知ることが出来た。 感謝。
二年級
課目: 訳読
用書: 読本
教師: 平山氏
(注)平山虎雄のこと。 福岡市生れ。 東京帝国大学法学部選科に二年間修学。 明治24年4月より昭和5年3月まで修猷館に在任。
(梶谷注1)上記「法学部選科」とあるは、「法科大学撰科」ではないだろうか。
(梶谷注2)『東京帝国大学一覧』(第11冊を参照)、第10章「分科大学通則」の第7「撰科規定」によれば、下記の通り。
第一條 各分科大学課程中一課目又は数課目を撰びて専修せんと欲し入学を願出つるときは各級正科生に欠員あるときに限り毎学年の始に於て撰科生として之を許可す
但課目に依り其一部を撰ぶを許可することあるべく又所撰の課目学年半途に始まるものなるときは其始業の前に於て入学を許可することあるべし
第二條 撰科生は英仏独の語学を撰ぶことを得ず、但所撰の課目を専修するに必要なるときは之を兼修することを得
以下、第九條までの規定があるが、省略する。
(原武哲先生より)「帝国大学法学部選科」と書いたのは、後の名称に書き換えたもので、正確に当時の名称でいえば、「帝国大学法科大学撰科」です。 東京帝国大学になるのは、京都帝国大学が設置された明治30年6月からです、とのこと。
生徒人員: 五拾名許
教授法: 最初に各節の冒頭に於て綴字及び発音の練習をなし、次に読方に移る、初め教師模範を示し、次に生徒一節宛(ズツ)之を練習す。 此(カク)の如くすること二回、初回は出来よき生徒よりし次回は下位の生徒に及ぶ、読方の教授法頗る厳格にして少瑕を寛仮せず、訳読の教授法も亦読方に同じく教師先ず一節を訳し上位の生徒、之に傚(ナラ)い、一巡の後、上位の生徒、之を復習すること一次にして終る
傾向: 全体の傾向は読方に重きを置きて厳に発音「アクセント」を練習するものの如し、故に生徒は此点に於て頗る進歩せるが如し、此級の生徒は中学に入りて始めて英語を学べるものなれども、他中学の生徒に比して少なくとも発音の点に於て優るべきを信ず、訳読も亦他と異にして生徒は自宅に在っては只復習するに止まりて、翌日の部分を下読するの労なきを以て自然と既に稽(ナラ)い得たる部分を反復するの余地あるべし
三年級
課目: 訳読
用書: 第四読本
教師: 鐸木(スズキ)氏(農学士か)
(注)鐸木近吉のこと。 明治29年5月より32年まで修猷館に在任。
(梶谷注)『札幌農学校一覧』によれば、鐸木近吉は福島県平民、明治24年7月卒業(第9期)、農学士とある。

(原武哲先生より)鐸木近吉は、(修猷館着任前)、明治24年9月から明治29年4月まで、仙台の東北学院で博物理科の教授(『東北学院七十年史』1959年刊)とのこと。
生徒人員: 四拾名許
教授法: 此級に在っては二年級と異にして生徒は各自下読の上にて教室に入る、而して指名せられたる生徒は一節位宛教科書を音読の上にて和訳す、而る後、教師又重ねて之を訳す
傾向: 此級に在っては二年生程発音法に注意せざるが如く教師生徒共に意義に重きを置くが如し
四年級
課目: 和文英訳
題目: 新艦進水式
教師: 小田氏(同志社卒業後米国に遊学せる人)
(注)小田堅立のこと。 旧名良平。 岡山県生れ。 同志社英学校よりアメリカのオハイオ州オブリン大学選修部修業。 明治22年3月より6月までと、29年5月より31年6月までの二回、修猷館に在任。
(梶谷注)岡山県商業学校初代校長(明治31年開校、現岡山県立岡山東商業高等学校)、明治35年、岡山市立商業学校(現岡山県立岡山南高等学校)初代校長兼務、岡山に於ける商業教育の先駆者の一人と云われている。 元治2年(1865)1月10日生-昭和19年(1944)5月26日没、旧姓・三宅。 岡山ペンクラブ編著『岡山人じゃが3 信念に生きる』、第二章「岡山県商業教育3人の先駆者」に採り上げられている。
生徒人員: 四拾名許
教授法: 生徒両三名をして自作の英訳を黒板に書せしめ教師之を批評訂正す、尤も生徒の困難を感ずべき単語字句は予め之を教うるものゝ如し、かく一遍訂正せる者を浄書の上、教師に呈出せしむ
傾向: 教師は常に英語を用いて殆ど日本語を雑(マジ)えず、生徒も亦力(ツト)めて英語を使用せんとするものの如し、文章は固より疵瘕(シカ)なきにあらずと雖ども中学四年生の文章としては大に観るべきものありと思考す
五年級
課目: 訳解
用書: 「ゴールドスミス」論文集
教師: 小田氏
生徒人員: 四十名許
教授法: 生徒順次に一節宛を和訳するの外は毫も日本語を用いず、教師生徒共に英語を使用するに熱心なるが如し、而して此時間は訳読の課に属すと雖ども実際は会話及び文法の授業となるものにて、現に五年級の英語は和文英訳を除くの外は皆此授業中に含まるゝものゝ由なり
傾向: 西洋人を使用せざる学校に於て斯くの如く正則的に授業するは稀に見る所にして、従って其功績も此方面に向っては頗る顕著なるべきを信ず

 長くなったので、今回は、ここまでとし、次回、久留米明善館及び柳河伝習館について引用する。

 さて、上記二校に対する漱石の評価を比較してみると、前回書いた様に「修猷館」の英語教育に対する特異性が明らかであるが、詳細については、該報告書の引用完了後に。

Best regards
梶谷恭巨

 ブログ『柏崎通信』、「羽石重雄に係わる足跡-覚書」に吉田さんという方からコメントを頂いた。 氏は、羽石重雄が、東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、短期間、長野師範学校に勤めた後、中等教育の出発点となった大阪府立第二中学校(現、大阪府立三国丘高等学校)の同窓会の関係者とのこと。 最初のコメントは、「嘉納治五郎」の「嘉納」を間違えていたことへのご指摘だったが、その後、二回目のコメントがあり、「明治期の英語教育について」というものであった。 そこで、そのことについて、少々触れておきたい。

 羽石重雄が明治21年に入学した「修猷館」は、他の中学とは明確に異なる設立の経緯があった。 総ての学科を英語で教育していたのである。 そこで、『修猷館七十年史』から、開館時の黒田長溥(ナガヒロ、黒田家第十一代当主)の祝辞を引用すると次の通りである。

 「今般英語専修の学校を設立するに遭い、先祖の遺志を継ぎ旧昔の情義を懐(オモ)い、之を修猷館と云う。 今日修猷館に於て儒学を教授せす、英語を専修せしむる所以(ユエン)のものは今我国の文運日々隆盛に向い、教育の方法は現に欧米諸国と其主義を同うし、制度文物従て旧套を守て自ら劃(ハカ)るべからざればなり」と。

 興味深いので、開館当時の入学試験科目を上げる。

(1)修身: 論語、孟子
(2)歴史: 皇朝史略、日本外史、史記、十八誌略(内二ヶ所半葉)
(3)文章: 正文文章軌範(一葉)
(4)筆算: 自(ヨリ)加減乗除、至(イタル)比例(四題)

 また、科目並びに教科用書は次の通り。

(1)習字: スペンサー習字帖
(2)綴字: ウエブスター綴字書
(3)読方: ウィルキンソン読本(1~4)
(4)訳解: ウィルキンソン読本(1~4)、パーレー万国史、スウィキントン万国史、グードリッチ英国史、グードリッチ米国史

(5)文法: ウィルキンソン小文法書、クワッケンボス大文法書
(6)講義: ブラキー「セルフカルチュア」、スマイルス「セルフヘルプ」、(ブラキーとスマイルスは講師名)
(7)算術: ヒンソン算術教科書
(8)台数: ツドハンター小代数書、ロビンソン小幾何書
(9)物理: スチュワード物理学書
(10)兵式操練

 因みに、第一回の入学者数は、43名であり、職員は、隈本有尚館長の他、教員として神崎直三、松隈繁之助、書記として、米沢正三、大淵新三郎の5名であった。 また、当初の館則を上げると次の通りである。

(1)目的: 専ら英語を授け、其の他の高等専門学校に入るがため必須の学科を授く。
(2)定員: 210名
(3)年限: 3年
(4)学期: 前学期9月22日から2月28日、後学期3月1日から7月31日

 翌明治20年、学制が改正され、尋常中学の程度学科に準拠し、5年間の学科程度を3年で終了し、英語数学を主眼とし、漢文および歴史の内支那史以外は、総て英文原書を用いたとある。

 これら事からも判るように、「修猷館」という学校は、当時としてもベラボウに難しい中学であったようだ。 事実、43名の入学者に対し、卒業したのは、僅かに4名に過ぎないのである。 参考までに、その後の卒業者数を上げると、第二回(明治23年)が16名、第三回(羽石重雄の卒業年次)が44名、第4回が24名なのである。

 即ち、羽石重雄は、修猷館の三年間で、徹底した英語教育を受け、第五高等学校に入学しているのだ。 因みに、この時、修猷館から第五高等学校に入学したのは、9名だった。 修猷館での英語教育が、嘉納治五郎や有馬純臣に注目されたに違いない。 しかも、羽石重雄は、既に24歳である。 その事情はさて措き、この事が、大阪府立二中初代校長である有馬純臣をして、羽石重雄を招聘させたのではないだろうか。

 ところで、吉田氏の指摘された明治期の英語教育だが、当時の大学卒業の教員は、英語教科を兼任することが多かったのは事実だろう。 明治中期、中学の教員が不足し、校長の重要なる仕事の一つが「教員の確保」であったようで、特に、大学卒業者は引っ張りだこで金の卵的存在であった。 また、30年代は、中学校新設ラッシュで、先ず分校に、そして本校として独立した。 一例として、柏崎中学の場合を挙げる。

○明治33年、高田中学の分校として開校。 当時の陣容は、校長以下、教員6名、書記1名、校医1名とあり、その他に雇員1名とある。 また、入学志願者は166名、入学者数130名、3学級であった。 開校初年度の学科は、次の通り。

(1)兵式体操科(2)漢文地理(3)博物算術(4)英語(5)日本史国語

 これから見ても、兼務が多いことが判る。 英語に関しては、当時の在校生の回想文が残っている。 それによると、開校当時、身の周りの物を英語で暗記することが授業だったようだ。 ところが、二年目、大学を卒業した先生に交代、発音が違うと記憶した単語全てをやり直しさせられたのだそうだ。 また、新潟から米国人宣教師が来校し、英会話も指導していたと云う。 ただ、柏崎は日本石油の発祥の地でもあり、米国人技師が2名いたようで、度胸試しに、話し掛けたというエピソードも残っている。 また、時に外国船が入港することもしばしば在ったようで、矢張り度胸試しで話し掛けたが、チンプンカンプンで全く理解できなかったとか。 もしかしたら、その船員、日本海貿易の関係からして、ロシア人であったのかもしれない。

 英語もさることながら、他の教科の教員について調べようと思うのだが、ほとんど資料が無いのが実情である。 そこで、学校史や同窓会誌の論説や回顧文などを当たるのだが、これも中々難しい。 戦前あるいは戦後も30年辺りまでの資料に、若干教師の足跡を見つけることがある位なのである。

 例えば、先に上げた開校二年目(明治34年)に着任された英語教師・岡本幸実先生は、回想文によると、大学の卒業で、教頭であったそうだ。 人の記憶と謂うものは、経済に絡むと鮮明に残るのか、この岡本先生の給与は、校長より高かったのだそうだ。 因みに、初代校長である渡辺文敏先生は、庄内藩士、新潟師範学校卒業後、高田中学柏崎分校の主席教諭として着任、教員は、初めの頃、新潟師範の同級生とか後輩が多かったようだ。 岡本先生については、調べてみるのだが、東京帝国大学一覧には名前が無い。 明治時代は、姓名が変わることが得てしてある。 いずれにして、回想では、先のように給料のことが書かれている。 小さな手掛かりだが、それを頼りに調べてみたい。 話が前後するが、当時の教師の給料は、非常に安かったのも事実だろう。 記憶を頼りに上げてみると、校長の給料が35円くらいで、一般の教員の給料は、学歴にも拠るが20円前後ではないだろうか。 但し、大学卒は、別格で、40円以上であったようだ。 そこで、先の逆転現象が生じるのである。 (記憶が曖昧なので、この話は、資料を調べて、改めて報告する。)

 兎に角、明治の中等教育の草創期は、教員不足とも相俟って、相当に自由度が高かったようだ。 例えば、矢張り回想文に、教科書の選定で校長と対立し、啖呵をきって辞職した先生がいたことが書かれている。 もしかすると、各地で頻繁に起った校長排斥運動なども、この流れに沿うものなのかもしれない。

 私事だが、昔、20年くらい前のことだったろうか。 ビジネス専門学校のコンピュータ関連の授業を受け持ったことがある。 開校当初で、教員の確保が出来なかったこともあるのだろうが、自分が担任した教科は、各コンピュータ言語を含めると10教科もあり、しかも併設の栄養士専門学校でも教えたから、授業の準備が大変だったことを思い出す。 学校は当に草創期、コンピュータは今ほど普及していない時代だ。 明治、中等教育の草創期と比べるべきもないが、自分の経験がイメージとして重なるのである。

 いずれにしても、「明治期に於ける英語教育」は、当時の中等教育の実態を知る上で、キーワードになるのではないだろうか。 羽石重雄の取材も一段落し、その周辺を追いかけていたのだが、英語教育には特殊性があるので、存外追求し易いのかも知れない。 しかし、英語教育に関しては、第二次世界大戦の影響もあり、困難が予想される。 まあ、気長に取り掛かるしかないのであろうが。

Best regards
梶谷恭巨

 資料編に新しい記事を三回分掲載しました。 今回は、石黒忠悳の『况翁閑話』の三回までを掲載し、多少の注釈など加えています。 ご一読頂ければ、幸いです。

Best regards

梶谷恭巨

 



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