柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
現在でも英語教育が問題になる。 どうも期待通りに英語の教育効果が上らないと、よく聞くことがあるのである。 しかし、この問題は、今に始まった訳では無いようだ。 二回に亘って、漱石の「視察報告書」を引用したが、同じ漱石全集の25巻に『語学養成法』という小論が収録されている。 これは、明治44年1月1日および2月一日に『学生』おいう雑誌の2巻1号と2号に掲載されたものだ。 そこで、漱石は、最近(明治末期)、「一般に学生の語学の力が減じたと云うことは、余程久しい前から聞いているが、私も亦実際教えて見て爾(ソ)う感じた事がある」と云い、「それは何う云う原因から起ったのか」と疑問を呈しているのである。 私自身、長いこと翻訳の仕事などしていたので、その展開や如何と興味深々である。 漱石は、先ず、明治初期の語学事情を語るのである。 「我々の学問をした時代は、総ての普通学は皆英語で遣らせられ、地理、歴史、数学、動植物学、その他如何なる学科も皆外国語の教科書で学んだが、吾々より少し以前の人に成ると、答案まで英語で書いたものが多い」と。 時代はもっと遡るが、日本に於ける西欧式の学校として上げる事が出来るんは、ポンペの長崎医学伝習所(医学校)からではないだろうか。 勿論、シーボルトの鳴滝塾はあるのだが、学校教育と謂う観点からすれば、そう考えるのである。 例えば、ポンペの『日本滞在見聞記』の第二章の「私自身の活動について」によれば、ポンペの定めた「一連の講義課程」として、「物理学、化学、繃帯(ホウタイ)学、健康な人体の理学総論及び各論(生理学)、病理学総論と内科学、薬理学、外科学理論及び外科手術学、眼科学」とあり、時間があれば、「法医学と医事政策」まで講義するとあり、後には、今でいう「実験物理学」や数学を、更に、幕府の依頼もあり、「鉱物学と採鉱学」を導入しているのである。 この辺りになると、医学生以外の学生の参加が多くなり、後の長崎海軍伝習所の源になっていくのである。 そして、ポンペを助け、日本の近代医学、否、日本の近代教育を体系化していくのが、初代軍医総監となった松本良順ではないかと考えるのである。 当時の授業風景画が、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に活写されている。 当時の学生には、先ず言語障壁がある。 オランダ語の講義を聴き、それをノートに取る事は至難の業だ。 思案した松本良順は、下僕的存在であった島倉伊之助に講義を速記させる。 島倉伊之助、即ち、後の司馬凌海(リョウカイ)は、言語の天才と云われた。 彼は、ポンペの講義を、先ず漢文で速記する。 (言語の構造からいっても、これは妥当か。) それを、学生諸子が筆写し、読下し文にしたそうだ。 ポンペはポンペで、言語障壁を意識していたのであろう。 当時の授業は、午前二時間、午後二時間であったようだが、これは、ポンペ自身が学生たちの状況を見て決めたようだ。 また、それ故か、あるいは日本人の特性として、視覚教育が最適と考えたようだ。 オランダ商館の図書館には、当時の最新情報があったようで、特に、図式のあるものを教科書として撰んだようだ。 これは成功した。 先の実験に必要な機材が、当初は殆どなかったが、日本人は、それらの図式を参照にして、自作する才があったのである。 私見だが、これは今も同じで、公式には長々しい文章の提案書など好まれるのだが、実際には、図式にでもしなければ、ユーザーとの意思疎通が出来ないもの事実なのだ。 あるいは、英文のマニュアルを読訳する事が出来ないのに、コンピュータという現物とそのシステム概念図などあれば、例え新規のシステムでも自分のものにしてしまう特性を経験的に知っているのだ。 兎に角、この教授法の傾向は、明治初年まで続くのであろう。 ただ、注目すべきが漢文である。 要するに、古典中国文献を読む技術は、ミレニアムのオーダーで、日本の学問の基礎を形成しているのだ。 先に上げた語学の天才・島倉伊之助は、漢文を通じて、多言語にある言語の本質を理解していたと言うべきであろう。 何しろ、彼は語学環境としては後進地である佐渡の出身なのである。 その彼が、江戸に出て、松本良順の目に留まるのは、決して医学ではなく、語学の才能なのである。 さて、ここからも判るように、明治初期の学者、時には政策立案者は、近代西欧教育思想と、それを吸収する為の言語障壁を乗り越えた人々なのである。 すなわち、漱石が言う外国語による普通教育を経験した人々なのだ。 しかし、ここで、もう一つ言える事が、共通の言語基盤が存在したと云う事である。 ポンペは、何処まで日本に於ける教育事情を知っていたのか。 ポンペは、薬理学の手引書の作成を試みている。 しかし、危惧するところも多かったようだ。 出島の印刷所で印刷させてみたところ、思うようにはいかなかったようだ。 「出島の印刷所では主に日本人の見習い印刷工にやらさねばならなかったので、費用が高くつき、仕事もなかなか捗らず、ほとんど一年もこの本の印刷にかかった」と云う。 ところが、ポンペは知らなかったのかもしれないが、それは杞憂で、ポンペ自身は知らなかった(書いていない)が、あっという間に、日本全国に流布されるのである。 どうも、「見聞記」にあるように遅々として進まぬ出版に対する危惧を書く頃には、知らぬはポンペばかりなりの状況であったようだ。 この事は、種痘の伝達過程にも見える。 変遷する、あるいは「朝令暮改」のお上の意向を知る、当時の方外の人々、その代表である医師たちは、シーボルトの前例もあることなので、ポンペには類を及ぼさず、という意思があったのかもしれない。 漱石は、恐らく、そうした事情を述べているのではないだろうか。 明治も中期以降になると、(漱石は、井上馨が文部大臣時代を云う)、社会の見る目が変化する。 『柏崎通信資料編』に上げる『もしや草紙』が、当時の事情を物語る。 漱石は、この時期が、英語力あるいは外国語力の衰退の元と見る。 序でに言えば、この傾向に反発するのが、自由民権運動ではないのだろうか。 特に、その台風の目になるのが、越後である。 一般に、板垣退助や大隈重信が目に付くが、それを支えたのは、寧ろ、越後自由党の動向である。 何しろ、当時の越後は、人口で最多、納税額でも最高額、しかも、依然として北前、北方貿易に重きを成していたのである。 事実、北海漁業の中核を成すのは、柏崎は荒浜の出身の人々が築いた江差を始めとする北海道沿岸の漁業なのだ。 ところで、漱石は問う、外国語を学ぶ目的とは何かと。 外国人と、ペチャクチャと具にも就かない会話する事か。 漱石は、そんなことは限られたコトバで出来るとし、寧ろ、語彙や文法は、英国の一般庶民よりは日本の中学校の生徒の方が上と評価している。 今はどうか知らないが、我々団塊の世代は、よくそんな言葉を聞いたものだ。 余談だが、漱石・夏目金之助が、帝国大学文科大学の英文学科の二番目の卒業生であること御存知であろうか。 因みに、最初の卒業生(明治24年)は、伝習館初代館長である立花政樹である。 参考までに、履歴書を引用する。 但し、「他筆」とあるから本人が書いたものではないのかもしれない。 一 明治七年一月東京牛込柳町小学校入学同十年六月迄在学 それでは、漱石在学当時の状況は、どうだったのだろうか。 前回に続き、漱石の『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』(岩波書店『漱石全集』第26巻収録)を引用する。 凡例は、前回と同じ。 第三 久留米明善黌(福岡県久留米尋常中学明善校、現福岡県立明善高等学校) 第四 柳河伝習館(福岡県尋常中学伝習館、現福岡県立伝習館高等学校) (署名) 第五高等学校教授 夏目金之助 以上、二回に亘り、漱石の『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』(一部省略)を紹介したが、流石に漱石であり、短文ではあるが、当時の英語教育の模様が活写されている。 これから判ることは、当時の英語教育が必ずしも統一されたものではなく、各学校の方針あるいは各教師の意向によって、様々であることが見て取れる。 先々回の時点では、未だ漱石の「報告書」の存在を知らなかったこともあるのだが、当時の英語教育格差が単に人手不足のみに起因するのではなく、確固とした学校の教育方針あるいは姿勢に大きく影響されているのではないかと思い始めている。 特に、教師の履歴を求めてみると、その事が良く判る。 即ち、前後の履歴が明確であればあるほど、その学校の優位性が現れて来るように思えるのだ。 幸い手持ちの資料の中に、修猷館と伝習館の二校の校史があったので、それを頼りに各種資料をあったのだが、矢張り以前にも書いた様に、学校史と謂うものは、単に一校の資産ではなく、社会全体の資産として、何らかの形で統合管理すべきものではないかと考えるのである。 しかも、デジタル化の必要性を。 (梶谷注)として書いた内容には、「旧制中学校長の足跡」の取材で得た資料・情報を書き加えたが、これからも判るように、教育人事の交流は全国規模で行われているのだ。 恐らく、この事が、我国の教育の全体的底上げの効果を生んでいると考えるのである。 でなければ、地域格差は計り知れないものになったであろう。 しかも、調べていく過程では判ったのは、教育の全体的底上げ効果が、情報の共有によって齎されたのではなく、人事の交流という人間関係の形成によって醸成されているのではないという確信めいた思いなのである。 未だ研究の不足もあり、一片を採り上げて全体とみなす、という訳にもいかない。 しかし、現状では、その一片の積み重ねしかない。 さて、どうしたものかとは、最近の心境である。 今回のテーマは、羽石重雄縁の大阪府立第二中学の同窓会の関係者・吉田氏より端を発したものである。 感謝。 今後も、氏のような良き理科支社の出現を願って、明治期中等教育を追及していきたい。 Best regards 明治期の英語教育を考える上で、夏目漱石を抜きにしては語れない。 そこで、漱石の年譜を調べてみたところ、明治30年(1897)、漱石の第五高校時代に、佐賀県および福岡県の尋常中学校の英語授業を視察していることが判った。 また、その視察報告書が、『漱石全集』第26巻(岩波書店)に収録されていることも。 漱石は、明治30年7月9日、実父である夏目直克の逝去(6月29日)により、上京し、9月8日に熊本に帰っている。 その後、10月10日が五高の創立記念日であり、教員総代として祝辞を述べている。 さて、視察であるが、年譜によると次の通り。 明治30年11月8日、佐賀県尋常中学校 興味深いので、『漱石全集』第26巻(岩波書店)収録の「福岡佐賀二県尋常中学参観報告書」より抜粋して引用する。 尚、原文では「カタカナ漢字交じり文」であるが、カタカナは平かなに、また、旧仮名遣いは新仮名遣いにし、便宜上、句読点を附し、項目の区切りには「:」を付けた。 第一 佐賀尋常中学校(現、佐賀県立佐賀西高等学校) 第二 福岡修猷館(現、福岡県立修猷館高等学校) 長くなったので、今回は、ここまでとし、次回、久留米明善館及び柳河伝習館について引用する。 さて、上記二校に対する漱石の評価を比較してみると、前回書いた様に「修猷館」の英語教育に対する特異性が明らかであるが、詳細については、該報告書の引用完了後に。 Best regards ブログ『柏崎通信』、「羽石重雄に係わる足跡-覚書」に吉田さんという方からコメントを頂いた。 氏は、羽石重雄が、東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、短期間、長野師範学校に勤めた後、中等教育の出発点となった大阪府立第二中学校(現、大阪府立三国丘高等学校)の同窓会の関係者とのこと。 最初のコメントは、「嘉納治五郎」の「嘉納」を間違えていたことへのご指摘だったが、その後、二回目のコメントがあり、「明治期の英語教育について」というものであった。 そこで、そのことについて、少々触れておきたい。 羽石重雄が明治21年に入学した「修猷館」は、他の中学とは明確に異なる設立の経緯があった。 総ての学科を英語で教育していたのである。 そこで、『修猷館七十年史』から、開館時の黒田長溥(ナガヒロ、黒田家第十一代当主)の祝辞を引用すると次の通りである。 「今般英語専修の学校を設立するに遭い、先祖の遺志を継ぎ旧昔の情義を懐(オモ)い、之を修猷館と云う。 今日修猷館に於て儒学を教授せす、英語を専修せしむる所以(ユエン)のものは今我国の文運日々隆盛に向い、教育の方法は現に欧米諸国と其主義を同うし、制度文物従て旧套を守て自ら劃(ハカ)るべからざればなり」と。 興味深いので、開館当時の入学試験科目を上げる。 (1)修身: 論語、孟子 また、科目並びに教科用書は次の通り。 (1)習字: スペンサー習字帖 因みに、第一回の入学者数は、43名であり、職員は、隈本有尚館長の他、教員として神崎直三、松隈繁之助、書記として、米沢正三、大淵新三郎の5名であった。 また、当初の館則を上げると次の通りである。 (1)目的: 専ら英語を授け、其の他の高等専門学校に入るがため必須の学科を授く。 翌明治20年、学制が改正され、尋常中学の程度学科に準拠し、5年間の学科程度を3年で終了し、英語数学を主眼とし、漢文および歴史の内支那史以外は、総て英文原書を用いたとある。 これら事からも判るように、「修猷館」という学校は、当時としてもベラボウに難しい中学であったようだ。 事実、43名の入学者に対し、卒業したのは、僅かに4名に過ぎないのである。 参考までに、その後の卒業者数を上げると、第二回(明治23年)が16名、第三回(羽石重雄の卒業年次)が44名、第4回が24名なのである。 即ち、羽石重雄は、修猷館の三年間で、徹底した英語教育を受け、第五高等学校に入学しているのだ。 因みに、この時、修猷館から第五高等学校に入学したのは、9名だった。 修猷館での英語教育が、嘉納治五郎や有馬純臣に注目されたに違いない。 しかも、羽石重雄は、既に24歳である。 その事情はさて措き、この事が、大阪府立二中初代校長である有馬純臣をして、羽石重雄を招聘させたのではないだろうか。 ところで、吉田氏の指摘された明治期の英語教育だが、当時の大学卒業の教員は、英語教科を兼任することが多かったのは事実だろう。 明治中期、中学の教員が不足し、校長の重要なる仕事の一つが「教員の確保」であったようで、特に、大学卒業者は引っ張りだこで金の卵的存在であった。 また、30年代は、中学校新設ラッシュで、先ず分校に、そして本校として独立した。 一例として、柏崎中学の場合を挙げる。 ○明治33年、高田中学の分校として開校。 当時の陣容は、校長以下、教員6名、書記1名、校医1名とあり、その他に雇員1名とある。 また、入学志願者は166名、入学者数130名、3学級であった。 開校初年度の学科は、次の通り。 (1)兵式体操科(2)漢文地理(3)博物算術(4)英語(5)日本史国語 これから見ても、兼務が多いことが判る。 英語に関しては、当時の在校生の回想文が残っている。 それによると、開校当時、身の周りの物を英語で暗記することが授業だったようだ。 ところが、二年目、大学を卒業した先生に交代、発音が違うと記憶した単語全てをやり直しさせられたのだそうだ。 また、新潟から米国人宣教師が来校し、英会話も指導していたと云う。 ただ、柏崎は日本石油の発祥の地でもあり、米国人技師が2名いたようで、度胸試しに、話し掛けたというエピソードも残っている。 また、時に外国船が入港することもしばしば在ったようで、矢張り度胸試しで話し掛けたが、チンプンカンプンで全く理解できなかったとか。 もしかしたら、その船員、日本海貿易の関係からして、ロシア人であったのかもしれない。 英語もさることながら、他の教科の教員について調べようと思うのだが、ほとんど資料が無いのが実情である。 そこで、学校史や同窓会誌の論説や回顧文などを当たるのだが、これも中々難しい。 戦前あるいは戦後も30年辺りまでの資料に、若干教師の足跡を見つけることがある位なのである。 例えば、先に上げた開校二年目(明治34年)に着任された英語教師・岡本幸実先生は、回想文によると、大学の卒業で、教頭であったそうだ。 人の記憶と謂うものは、経済に絡むと鮮明に残るのか、この岡本先生の給与は、校長より高かったのだそうだ。 因みに、初代校長である渡辺文敏先生は、庄内藩士、新潟師範学校卒業後、高田中学柏崎分校の主席教諭として着任、教員は、初めの頃、新潟師範の同級生とか後輩が多かったようだ。 岡本先生については、調べてみるのだが、東京帝国大学一覧には名前が無い。 明治時代は、姓名が変わることが得てしてある。 いずれにして、回想では、先のように給料のことが書かれている。 小さな手掛かりだが、それを頼りに調べてみたい。 話が前後するが、当時の教師の給料は、非常に安かったのも事実だろう。 記憶を頼りに上げてみると、校長の給料が35円くらいで、一般の教員の給料は、学歴にも拠るが20円前後ではないだろうか。 但し、大学卒は、別格で、40円以上であったようだ。 そこで、先の逆転現象が生じるのである。 (記憶が曖昧なので、この話は、資料を調べて、改めて報告する。) 兎に角、明治の中等教育の草創期は、教員不足とも相俟って、相当に自由度が高かったようだ。 例えば、矢張り回想文に、教科書の選定で校長と対立し、啖呵をきって辞職した先生がいたことが書かれている。 もしかすると、各地で頻繁に起った校長排斥運動なども、この流れに沿うものなのかもしれない。 私事だが、昔、20年くらい前のことだったろうか。 ビジネス専門学校のコンピュータ関連の授業を受け持ったことがある。 開校当初で、教員の確保が出来なかったこともあるのだろうが、自分が担任した教科は、各コンピュータ言語を含めると10教科もあり、しかも併設の栄養士専門学校でも教えたから、授業の準備が大変だったことを思い出す。 学校は当に草創期、コンピュータは今ほど普及していない時代だ。 明治、中等教育の草創期と比べるべきもないが、自分の経験がイメージとして重なるのである。 いずれにしても、「明治期に於ける英語教育」は、当時の中等教育の実態を知る上で、キーワードになるのではないだろうか。 羽石重雄の取材も一段落し、その周辺を追いかけていたのだが、英語教育には特殊性があるので、存外追求し易いのかも知れない。 しかし、英語教育に関しては、第二次世界大戦の影響もあり、困難が予想される。 まあ、気長に取り掛かるしかないのであろうが。 Best regards 資料編に新しい記事を三回分掲載しました。 今回は、石黒忠悳の『况翁閑話』の三回までを掲載し、多少の注釈など加えています。 ご一読頂ければ、幸いです。 Best regards 梶谷恭巨
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プロフィール
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77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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