柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
人は、もう一歩というところで立ち止まる。 その先にある風景の展開を知らずに。 先回まで、といってもブログ版に於ける問題だが、福岡の三校、修猷館・明善館・伝習館について、諦めきれずに調べていた。 それは、久留米の明善館の校史のみ入手していなかったからでもある。 時間が経つと人も変わる。 門前払いの学校も、何回か問合せをしていると、母校の歴史に関心のある先生に出会うことがあるのだ。 公立の場合、母校の教師になる人は意外に少ないのかも知らない。 まあ、それはさて措き、久留米の明善館に何度目かの問合せを試みた。 いい具合に、話が通じ、母校に詳しい丸山猛教頭先生と話すことが出来た。 そこで、意外な事実に遭遇したのである。 高宮乾一が柏崎中学から明善館に赴任した事は既に書いた。 その前後の経緯を確認したいのである。 結論からいうと、「貴方がお調べの高宮校長の前任は、新潟の人ですよ」と。 「えー!」 明善館第五代校長・金沢来蔵、大正元年10月11日着任、大正六年5月8日離任。 転任先は、新潟県立高田中学なのである。 資料がFAXで届く。 (ここで訂正すべが、「明善館」ではなく「明善校」とのこと。) 冒頭に書いた様な事情を諒解して頂いたのか、十ページ以上の文献が届いたのだ。 読んでみると、出身が高田あるいは現在の上越市なのである。 そして、その後任が、柏崎中学から赴任する高宮乾一校長なのだ。 さて、金沢校長だが、明善校に大変貢献された人物であるようだ。 といのも、在任中の功績が九項に亘って記載されている。 その幾つかを抄訳して紹介する。 ○全国中学校中十指の中の地位に至り、地方人の輩出の門を開いた。 「明治四十二年秋、丹毒により九州医科大学病院に入院、一時は危篤におちったが、幸いにして回復したれども、以来健康旧に復せず、幾分音声も阻害され、医者から転地療養をすすめられ、又郷里の実家の事情もあった、帰郷することになり新潟県高田中学校校長として転任した。 その転任を惜しんで、福岡県教育会久留米支部では惜別の宴を設けて感謝状を贈り、又伯爵有馬頼萬は感状及び記念品を贈ってその多年にわたる育英の功績をたたえた。 惜別(明善校を去るに臨んで) それにしても、新潟と九州の繋がり、どう云う事であろうか。 特に、福岡の名門三校が、皆繋がってしまったのには驚いてしまう。 それに、柏崎中学が高田中学より独立後、上越は又別の系譜にあるのかと考えていたのだが、そうではない事が分った次第である。 Best regards どうも、ブログ版と配信版『柏崎通信』との間に乖離が生じたようだ。 このところ、表などを使っているので、それをブログに貼り付けたところ、容量オーバーになってしまった。 そこで、四回に分けてアップロードした。 それもあるのだが、ブログのエディタを使うと、一時的保存が出来ないので(保存は、即アップロード)、メールのエディタで一旦保存し、それをまたブログのエディタで修正する、といった全く非合理的なことをしているのである。 そんな事も重なって、ブログ版では、当たり障りの無い内容をアップするのだが、ML版は非公開のこともあり、大分、本筋から離れた方向に行ってしまった。 そこで、テーマを変更したいのである。 というのも、本来追求していたのは、明治期、特に中等教育草創期の問題である。 校長の足跡で、ある程度の情況が把握できた。 次に目指したのは、その校長たちが如何なる教育を受けたか、あるいは、その時代がどのような時代であったかと云う事である。 偶々、漱石が、五校時代、羽石重雄の母校である修猷館を視察していた。 しかも、福岡県内でいえば、久留米の明善館、柳川の伝習館も視察し、その報告書を書いていたのである。 但し、時期はずれるのだが、羽石重雄、その修猷館時代の恩師でもあり、長岡中学の先任の校長でもあった仙田楽三郎、柏崎中学の先任校長である高宮乾一が、これら三校に関係しているのである。 当時の資料が乏しいことも手伝い、漱石の報告書を渡りに舟と、飛びついてはみたのだが、どうもいけない。 自分としては、寧ろ、大学の先輩である伝習館初代校長の立花政樹に関心がある。 いずれにしても、当時の教育界は、非常に狭い。 そこで、漱石については諸賢にお任せして、柏崎・長岡から始まった不思議な縁の繋がりを視点に、草創期の中等教育に主眼を置く次第である。 以降、表題も、ブログ版を含め変更する予定である。 ところで、先に挙げた「立花政樹」を、仙田楽三郎との関係から見ていたのだが、意外な事実に遭遇した。 立花政樹は、明治24年9月3日、私立山口高等中学校の教授に就任しているのである。 そもそもの発端である「柏崎に於ける三人の会合」の登場人物、売れっ子のジャーナリストで文筆家の横山達三(健堂)、日本石油初代技師長の杉卯七、そして柏崎中学校張の羽石重雄の関係には疑問点があった。 その後の調べで、横山・杉の関係は、山口高校にあり、東京帝国大学で、横山と親しかった羽石が加わることが分ってきた。 しかし、現在の山口大学の前身である「山口高等学校」の在籍者、明治24年7月卒(一期生)5名、明治25年13名、明治26年10名、明治27年13名中に、(これ以降では、大学の卒業年次と合わなくなる)、横山達三と杉卯七の名前は無いのである。 そこで、数年前、山口大学に問合わせて見たのだが、矢張り卒業生名簿に無いとの回答だった。 ただ、その時、山口高等学校以前から私立の山口高等学校という学校あり、そこではないかとのアドバイスがあった。 その後、教育委員会や図書館などに問合せては見たのだが、よく分らない。 それが、最近になって、立花政樹の履歴の中に、「私立山口高等学校教授」の記載を見つけたのだ。 私立時代の伝習館校長兼教諭に着く、明治25年10月25日までの約一年間だが、私立山口高等学校で教鞭を取っているのである。 詳細は不明だが、丁度、横山と杉の在学期間に重なる部分があるのだ。 全く無作為に調べているのではないが、目的の部分を読み終えて、序でに、その前後もと調べてみると、思わぬ所で思わぬ事に出会うものだ。 そんな経験が何度かある。 世の中、もう一歩先に進むと視界が開けるものなのだろう。 無駄と思って諦めると、損をするとは、この事かもしれない。 Best regards 前回の続き。
着目するのは、「哲学科」である。 漱石が卒業し大学院に入学した翌年(明治26年)には、一挙に19名が「哲学科」(撰科・哲学科には15名)に入学する。 更に、翌々年の明治27年には、18名(撰科、13名)が入学する。 (ただ、この年には、国史科(15名、撰科2名)と史学科(16名、撰科2名)も多い。 因みに、この年、共に柏崎中学校長を勤める事になる羽石重雄と高宮乾一が、また生田萬について書く事になる横山達三(健堂)が国史科に、羽石重雄の前任萩中学の校長である雨宮羔太郎が史学科に在籍している。 この時代は何とも複雑である。 国策・外交は英国に近づき、国体や軍制はドイツ的立憲君主国を指向し、学問的には、医学や哲学がドイツ、政治理念は英米的で、国文学や漢学も盛んになり、外国語・文学では英国に重きが成される。 兎に角、資料を読みながら、また書きながら、考えてしまうのである。 前回の続き。 以下、教授陣の表である。 前回の続き。
(注)毎年、一年から三年までのカリキュラムが決定されているのだが、草創期の所為か、年毎に内容が変化している。 (注)期間については、一年が三学期であることから、一学期を(1)とした。 次に、当時の教授陣を見てみよう。 便宜上、漱石が三年次の明治25年度の人事表を採用した。 またしても、このブログの限界を越えたようだ。 保存しようとしたら「文字数が多い」というエラーがでた。 そんな訳で続きは次回に。 Best regards
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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