柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 随分前、柏崎の番神堂を訪ねたことがある。 番神堂は、日蓮宗の三大聖地の一つとして有名だが、その寺の入口にある大きな石碑のことについては、皆さん余り気を止めないようだ。 私が気になったのは、その石碑のことだ。 記憶が定かではないのだが、その石碑が関矢孫左衛門の顕彰碑だったと記憶するのだ。 (間違いであれば御容赦。)

 関矢孫左衛門は、後に紹介するように、現在の柏崎市新道の飯塚家から現・魚沼市並柳の関矢家に養子に入った。 幼年時には、藍澤南城の最晩年に「三余堂」で勉強した。 関矢家に養子に行くのは、関矢家の前当主・徳左衛門が、矢張り、藍澤南城の門人であった縁であろう。

 その関矢孫左衛門が、石黒忠悳が片貝村池津の石黒家を継いで初めて出来た親友なのだ。 石黒は、そのことを『懐旧九十年』に、懐かしげに書いている。 結びつけたのは、「尊王攘夷」思想だ。 若い二人(共に、二十歳前後)は、越後一円の私塾を訪ね、同志を求めている。 三余堂にも来ているのだが、南城先生は既になく、代替わりしていた(娘婿・朴斎の代)。 軽くあしらわれたようだ。 序でに言えば、話を聞いてくれたのは、柏崎の原修斎と粟生津の鈴木文台の二人だけだったとか。

 この辺りから、路が分かれるのかもしれない。 しかし、青春の思い出、半世紀以上後になっても、石黒忠悳には貴重な想い出だったようだ。

 大橋佐平が、明治18年に『北越名士伝』を著し、関矢孫左衛門に付いて書いている。 それを入院中の暇に任せて打ち込んでみた。 まだ、検証はしていないのだが、取り合えず、少々長くなるが、それを紹介する。 (『北越名士伝』は、明治18年、大橋佐平51歳の時、長岡の大橋書房(越佐新聞社、子息・新太郎)から出版。 巻頭が、勤皇の志士・本間精一郎、巻末が河井継之助。 大橋佐平の思想の一端が窺える校正になって居る。 この辺りも興味深いが、それは又別項で。)

以下、原文。 但し、印字の不明瞭な部分があり、そこは、■を入れ、推測できる部分は()内に書いた。 また、原文でルビがないところには、()内に読みを入れた。 
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 関矢孫左衛門君、幼名は猶吉、後正人と改む、通称孫左衛門、忠靖又は恭卿と号す、刈羽郡新道村飯塚七十郎の第四子也、弘化元年一月を以て生る、後越後魚沼郡並柳村関矢徳左衛門に養わる、因て其の姓を胄(チュウ、よつぎ、ちすじ)す、関谷氏は元と藤原秀郷に出ず、秀郷数世の孫、関忠員(タダカズ)なる者、始て越後に移り、関矢氏と称す、世々郷族たり、君性豪岩、幼より人に異なり、長ずるに及んで奇行多し、窃(シソカ)に幕府の専横に■(よる)王室の式微を歎ず、慶応乙丑の年、長谷川鉄之進の米澤藩に使いするや、帰途越後に来り、細かに長土西藩の情勢を説き、勧るに勤皇の事を以てす、賊徒探りて之を知り、遂に関門を四境に置き、道路之が為梗塞す、君乃ち鉄之進を其の家に匿し、相謀て奥羽北越の景勢を長藩に報ず、又有志の徒と屡々米澤を往復し。大いに計画する所あり、蓋し草莽の徒事を謀る、力微にして成すあるに足らず、雄藩に依て其の力を仮に如(シ)かずとせしが故なり、翌丙寅の年、村松藩七士を殺す、七士は勤皇正義の士、奸党の為め忌まれて茲に至る、時に志士多く会津藩に悪まれ、村里の安処するを得ず、君乃ち脱走奔命の士を其の家に会し、笠松健吾、松山一郎をして二毛に入り、深く有志の徒に交らしめ、又高橋竹之介をして奥羽に至り、専ら其の山川風土人情を探知せしむ、竹之介南部仙台に至て帰る、慶応三丁卯の年、将軍徳川慶喜大政を奉還し、諸藩に令して命を俟(マ)たしむ、君等之を聞き以為(オモエ)らく、二百余年兵馬の権、一朝にして之を捨つ、天下の勢、寔(マコト)に然らざるを得ずと雖も、豺狼(サイロウ)不逞の徒、或は変を起し乱を煽するなきを保せず、今に及んで宜しく之が備を為すべきなりと、則ち同志を瓜生村に会し、松田秀次郎、高橋竹之介をして京師に至り、私(ヒソ)かに謀議する所あらしむ、明治戊辰の年、京師果して変あり、君桜井省吾と将さに京に入らんとす、頚城郡今町に到りて同志に会す、適々(タマタマ)竹之介京より帰り、北陸道鎮撫先鋒の書を奉じて来る、乃ち共に与に転じて下越に至る、此時に方(アタ)り、会津藩兵を越後に出し、新発田村上松村の諸藩を劫(オビヤ)かし、転(ウタ)た猖獗(ショウケツ)たり、君等乃ち坂谷村池浦某の家に会し、旗号を作り、金穀を集貯し、滞留する事数日、相謀って曰く、烏合の兵能(ヨ)く賊の鉾に当るに足らず、而して王師の到る将さに近きにあらんとす、今の策を為す、止(タ)だ各々力を竭(ツク)して同志の士を募るにあるのみと、於是相散じて専ら士衆を糾合せんと欲す、此年三月、鎮撫使総督の宮越に下り、営を高田に置くの説あり、君等同志り共に将さに結装して発せんとす、然れども総督宮到らず、各藩名代人を召て路を中山道に取り、遂に江戸に出ず、有志の徒皆失望慷慨せざるなし、而して賊軍の勢威益々熾(サカン)なり、翌四月大音龍太郎鎮将府の命を以て越に入る、君則ち同志に代り、単身江戸に到らんとす、十七日程(テイ)に上(ノボ)る、別を其の母に告げ、心生きて還らざるを期す、依て相対して泣く、母妻共に能く見る事能わず、君の柏崎に至るや、賊兵街に充ち、厳に往来を誰何す、翌日鯨波に到り、舩(フネ)を傭い、辛うじて高田に出で、室幸次郎の家に泊す、止る事二日、賊兵の挙動を窺う、時に賊軍富倉峠を超え、信州飯山に出で、復た兵を分て本道を警(イマシ)む、君乃ち高田を発し、関山に至り、賊の邏兵に捕えらる、然れども百方他なきを陳す、賊其の行李を解き、身体を検するに共に異状なし、乃ち之を放つ、君漸くにして虎口を脱し、松代の軍に投じ、越後の景勢と其の心事を以てす、先是同藩士馬場要人越に来り、屡々我が同盟に逢う、即ち共に昼夜兼行して東都に出ず、街■(ガイク)寂寥、平日熱鬧(ネツドウ、ルビには「ネツトウ」とあるが? 人が込み合っている様)の状を残さず、宿を求むれども殆んど得ず、遂に清崎藩邸に宿し、大音龍太郎を彦根藩邸に訪い、倶に四條鎮撫督府の陣に至り、具(ツブサ)に越の形情を陳し、且つ曰く、列藩賊焔を消する事能わず、闔国(コウコク)将さに鬼蜮(キイキ、ルビには「キコク」とある? 陰険な人の例え、『詩経』)の有たらんとす、敢て請う王師之れを欽定せよ、義兵の挙は則ち某等亦謀ある所あるべしと、事総督大府に聞れ、菊章の大隊旗を賜う、偶々松田秀次郎、二階堂良硯亦会す、君乃ち二人を提(チッサゲ)て、旗章を奉じて国に帰る、閏四月巡察使大音龍太郎を上州権田村に訪い、同国各藩の兵を会して三国嶺の賊を撃ち、捕獲頗る多し、君又先鋒と為て越に入らん事を請う、故あって果さず、既にして松代に赴き、■(鎮)するに義挙の方策を以てし、軍器を得し事を謀り、乃ち郡奉行成澤某の書を得て帰る、此時に方(アタ)りて王師既に越に入り、柏崎、雪峠、小出島等に転戦す、而して松代の軍小出島に在り、君乃ち行て軍資粮食を謀議し、郷党壮士三十二名を募りて一小隊と為し、以て松代の軍に加わる、二十村栃尾口を守り、賊兵と半■(蔵)金村に戦、之を破て軍を進む、時に松田秀次郎等兵を与板城に挙げ、方義隊と称す、乃ち隊を合せて与板山を守り、塁を賊軍に対し、砲撃絶ゆる■(こと)なし、七月君仁和寺宮に謁し、錦袖の符印を賜はる、是より称して親兵と云う、八月五頭山を守り、尋て亀田に屯す、九月総督府の命に依り、村上口に進み、庄内鶴ヶ丘城に入る、此行隊名を撰んで居之隊と名く、十月校内より凱旋し、芝田に止まり、屯陣を命じられ、翌十一月更らに加茂を守衛す、明治二己巳の年五月、水原府下守衛を命ぜらる、十一月太政官達あり、隊中三十歳以上を解き、以下悉く兵部省に隷せしむ、翌三年一月、君水原を発し、三小隊を率い、中山道を経て東京に入る、先是松田秀次郎京に在り、君代りて其の兵を管し、清水邸に屯す、二月隊名を廃し、北辰金革二隊と合し、第三遊撃隊と称し、取締に任ぜらる、四月駒場野に於て演習す、聖駕臨して式を行い、勅語天杯を賜う、五月皇城平川御門を警衛し、尋て田安御門を守る、九月兵部省賞与あり、金五拾円を賜う、翌月隊を解て家に帰り、明治五年八月柏崎県第十四大区小九区戸長に任ず、此際屡々地租改正の議に参じ、昇等任命少からず、九年更らに第十四大区長に任ず、十年二月地租改正の事畢(オワ)り、賞詞を賜う、此の年西南の変起る、六月君職を辞し、軍に従う、先是君朝旨を奉じ、数次説て従軍を願わしむ、懇篤具(ツブ)さに至る、募る所凡(オヨ)そ七十余名、君之を率て京に至る、発するに臨み、県令永山盛輝勗(ツト)むるに国歌を以てし、以て其の行を壮(サカン)にす、七月三等少警部心得を命ぜられ、新撰旅団第六大隊第三中隊長に任ず、幾くならずして賊徒誅に伏し、君亦隊を解き国に帰る、十月地租改正御用掛を命ぜられ、翌年一月に至て之れを辞す、九月聖駕北巡の時に際し、長岡行在所に於て謁見を許さる、蓋し君国事に尽すの精、終に天朝に達して然るなり、十一月長岡第六十九国立銀行を創立するや、君撰ばれて其のトと頭取と為り、十二年四月郡区改正の挙あるに及び、遂に北魚沼郡長に任ぜらる、十五年十月、南魚沼郡長を兼ね、翌年二月兼官を免ず、君資性豪活、夙(ツト)に国事を以て憂とす、又事に幹たるの才あり、今北魚沼郡長たるや、属僚を統うる規率あり、甚だ苛察ならずと雖も郡治大に張り、衆皆悦服す、君又鰥寡(カンカ、男やもめと後家女)孤独を扶助し、志士の後家貧しき者あれば、■傾けて之を救う、而して金を醵(キョ)し公益を謀る事少からず、賞賜を得る事前後数十回に及ぶと云う。
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以上

 尚、この文章に関しては、注釈など付け、後に『資料編』に掲載する予定。

Best regards
梶谷恭巨

 『况翁閑話』を『柏崎通信-資料編』に第五回(資料18)まで掲載した。 資料編は、基本的に総てブログ版『資料編』に転載しているのだが、何しろ、『資料編』への訪問者が少ない。 今日の時点で、157。 今年の4月から始めた訳だから、これも仕方ないとは思っているが、矢張り少々残念である。 そこで、資料についても、特に『况翁閑話』は、注釈とコメントが多いので、本編にも掲載することにした次第である。

 さて、そこで、『况翁閑話』だが、初回には、博文館の坪谷善四郎による『緒言』を省略していたのだが、それも掲載すべきと判断し、加筆修正して、改めて掲載する。 とうのも、当初は、『况翁閑話』を石黒忠悳を知る上での、単なる資料と考えていたのだが、注釈などしていく内に、維新前後から明治末までを知る上に於て、これが極めて優良な資料であると思うに至ったのだ。 となると、矢張り、博文館の大橋佐平・新太郎親子と坪谷善四郎との関係も重要になる。 石黒忠悳は、殊に郷土意識の強い人で、大橋佐平が博文館を創業し、後に、「日本の出版王」とまで云われるようになった背景には、石黒忠悳の多大なる影響があったと考えられるからだ。 例えば、大橋図書館の設立などある。 尚、坪谷善四郎に関しては、『况翁閑話』の第一回に若干の注釈を載せた。

『况翁閑話 附况翁談片』-緒言

 人の世に立ち、志を成す頼る所あるなり、其所頼なくして立世成志する者古来稀なり、明治維新は志士風雲に乗ずるの時期、而して此に三拾四年、其間世に立ち志を成し名を一世に揚げたるもの幾千百、然れども仔細に其出所を尋繹すれば、曰(イワク)藩閥、曰夤縁(インエン)、此二に頼らざるものは私に其技術を鬻(ヒサイ)で以て之に頼るものなり、彼の聳肩謟笑(ショウケントウショウ)以て上長の歓を迎え姦商と結託して上長の財を殖し、酒楼に随伴して愛妓を妁(シャク)し、以て身を立て栄を得る輩に至ては此に列するに足らざるなり、何をか藩閥と謂う、身雄藩に生れ若くは身を雄藩に投じ、藩威を負うて進み、同藩旧故の元老に頼て、身を立る者是なり、何をか夤縁と謂う、元老若くは豪富の子女を納(イ)れ、其姻戚となりて縁を求め身を頼るもの是あり、何をか技術を鬻で之に頼ると云う、碁奕書画謡舞歌曲を巧にし、若くは愛妾狎妓(アイショウコウギ)の病疾を療(イ)し、以て権家豪紳の歓を迎うる等、其他此類皆是なり、如此の世に立ち身を一介の書生に起し介然自立、藩閥なく夤縁なく又一点技術を私鬻するの媚侫(ビネイ)なく全く身を職事に尽し、遂に藩閥元老輩に信敬せられ、職事を以て外国の識者に賞賛せられ、身健(スコヤカ)に名盛なるに、方(マサ)て断然冠を挂(カケ)て栄を後進に譲りたる者、况翁石黒男(男爵)を除て亦誰かるや、蓋し男の脳髄常に冷静大事に対して動くことなく、小事に応ずるに忽(ユルガセ)にせず、平常の談片語屑洋々旨味滋(シゲ)し、太陽記者此に見あり、明治三十一年より同三十二年に亘れる間、時事に応じて談話せらるゝものを得る毎に、之を世に公にし積て数十に至る諧謔の間、憂世警人する所深し、所謂身厳密に在て尚毎に国を憂うるものか、海舟伯(伯爵)、既に白玉楼に帰り、雪池(ユキチ)翁亦尋て逝矣、警世の語を聞くこと稀なり、幸に况翁在るを以て世未だ寂寥ならざる也、男(男爵)翁と称するも齢(ヨワイ)未だ耳順に達せず、世人尚翁に望む所あるなり、此編宜しく男の実歴談及况翁叢話と併せ見る可きなり。 明治三十四年十月 坪谷善四郎謹識

(注1)夤縁(インエン): 「夤」とは、①つつしみおそれる「夤畏」②のびる(延)、連なる、からみつく。 このと事から、「夤縁」とは、「しがらみ」とでもいう意味になるのだろう。
(注2)聳肩謟笑(ショウケントウショウ): 肩を聳やかし、疑って笑う
(注3)媚侫(ビネイ): こびへつらうこと。
(注4)太陽記者: 坪谷善四郎のこと。 『太陽』は、博文館が、日清日露戦争間に創刊した雑誌の一つ。 明治28年1月創刊(月一回)、明治29年1月より月二回、同33年1月1日より月一回、昭和3年2月第34巻第2号にて終刊。 (坪谷善四郎編著、昭和7年刊『大橋佐平翁伝』の復刻版参照)
(注5)白玉楼: 唐代の詩人・李賀の故事から、文人・墨客が死後に行くといわれる楼閣にこと。
(注6)雪池(ユキチ)翁: 福沢諭吉のこと。

 「緒言」からも窺えるように、况翁・石黒忠悳(タダノリ)は、実に波乱万丈の人生を生きた人である。 さて、最初の出会いは何処だったろうと振り返ってみると、どうも司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』であったように思う。 その後、越後の医療史など追う中で、どうしても気なる存在が、石黒忠悳だった。 『懐旧九十年』を読んで、年表的に知っていた人物像が、一挙に人間味を帯びてきた。 何故、これだけ面白い人生を歩んできた人が、小説にならないのだろうとか。 そこで、近代デジタルライブラリーなどで、石黒忠悳に関する文献を収集してみた。 その一つが、『况翁閑話』である。 ざった眼を通してたときには、それほどの関心を引かなかったのだが、改めて、資料編として採り上げてみると、時代背景についても、そうなのだが、文脈の裏にある深さを感じた。 そこで、『柏崎通信』の本編に掲載する事にした次第である。

 いずれにしても、歴史はパッチワークに似ている。 様々人間模様を継ぎ合わせていくと、全く別な世界観が広がる。 旧制中学の校長の足跡の一段落とは言えないのだが、もう一つの軸として、况翁・石黒忠悳を採り上げてみたい。 さて、どのような展開になるのやれ、はたまた、他の軸との関係や如何に。 広くなり過ぎた人間模様の大海に飲み込まれてしまうのかもしれないのだが。

Best regards
梶谷恭巨

 「明治期における英語教育」に、夏目漱石の『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』を紹介した。 ブログ版では、(2)と(3)に当る。 それに、珍しくコメントがあった。 「原武哲」という人である。

 早速、指摘された部分など訂正・加筆して、御礼のメールを出した。 その後、メールの遣り取りがあり、紹介された書籍『喪章を着けた千円札の漱石-伝記と考証』など、いつものパターンで入手・購入した。 先週末、その本が届き、一読して驚いてしまった。

 何と、原武哲氏は、『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』を現在の熊本大学で発見し、『漱石全集』のそれに注釈された、当のご本人なのである。 そこで先ず、前掲著書にある略歴を紹介する。

原武哲(はらたけ さとる)
1932年5月14日、福岡県大牟田市生まれ。 福岡県立明善高等学校、九州大学文学部国語国文学科卒業、明善高校、浮羽高校などの高校教諭を経て、1985年4月より福岡女学院短期大学助教授、教授。 1994年一年間、中国吉林省長春市の吉林大学外国語学院日本語系客員教授を勤める。 2000年4月より、福岡女学院大学非常勤講師。 中国吉林省徳恵市に原武哲希望小学校を創る。 日本近代文学会員、日本社会文学会員、西日本国語国文学会員、解釈学会員、森鴎外記念会員。 主な著書は『夏目漱石と菅虎雄-布衣禅情を楽しむ心友』(教育出版センター、1983年12月10日)など。 尚、前掲『喪章を着けた千円札の漱石-伝記と考証』は、笠間書院2003年10月22日刊である。

 また、2003年頃の先生の作なる毎日新聞筑後版連載(50回)『夏目漱石をめぐる人々』も紹介された。 メールの文面中、毎日新聞久留米支局に問合せすれば本文のコピーが入手できるかもしれないとのお奨めがあったので、駄目もと電話したところ、スクラップしてあるので、FAXで送るとの回答を得た。 結果、50ページに及ぶFAXが二日に亘って伝送されてきた次第である。 ファインモードだから、長時間掛った訳だ。 毎日新聞久留米支局には、感謝したい。

 さて、元々漱石を追及していた訳ではないのだが、原武先生の著書、メールを拝読して、「明治期に於ける英語教育」の一端が明確になると共に、捜していた福岡の修猷館、明善校、伝習館の教員の履歴が更に明確になった。 また、時代はずれるのだが、羽石重雄の五高時代のことも類推を可能にした。 則ち、当時の師弟関係が、現在の我々が想像する以上に緊密であり、濃厚であり、また、学友との関係も同様に、生涯に亘るものだという事である。 これは、文豪としての漱石が、という事ではなく、当時の社会一般に通用する事であるようだ。 更にいうなら、当時の人々が、人間関係を如何に重視していたかが窺えるのである。

 維新を経験した人々が、明治も中期・後期になると、「最近の若い者は」と、現在と同様に嘆息する文献によく出会う。 しかし、それでも、漱石の時代には、師弟関係や友人関係が、今以上であり、寧ろ生活の一部になって居るの観さえあるのだ。 このことを、漱石の著名な研究者である原武哲先生から知りえた事は、今後の展開に影響するだろう。

 いずれにしても、このことが励みになったことは事実である。 反面、書くことの怖さと、責任の重さを痛感したのも事実なのだが。

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梶谷恭巨

 なけなしの金を叩いて、竹越与三郎著『二千五百年史』を購入した。 明治・大正期の名著と云われたが、反皇国史観から、戦時中は発禁処分を受けた。 この本に関しては、以前、紹介した事があるのだが、ご記憶にあるだろうか。 日清戦争後から続く動乱の時期、著者・竹越三叉(与三郎)は、西園寺公望の懐刀と言われて、日本近代史に大きな影響を与えた人物と云われる。 彼は、新潟とも無縁ではない。 詳しい事情は措くとして、柏崎の近隣、柿崎の出身と言っても差し支えない関係にある。 竹越三叉の影響は、今のところ確証は無いが、小野塚喜平次の門下である蝋山政道にも影響を与えているのではないか。

 序でに言えば、この本、近代デジタルライブラリーからダウロードできる。 ところが、トナーが不足状況で、この大書をダウンロードして、印刷するより、最廉価本を入手する方が得策だった。 入手先は、北海道は札幌の古本屋。 古本屋との付き合いも半世紀に及ぶと、その古本屋の姿勢が見えてくるものだ。 今回の本には、付箋などあり、これが教科書として使用された形跡がある。 ところが、意外だったのは、付箋代わりに使用されたものだ。 ひとつは、本社が京都市にある「ナガサキヤ」という菓子屋の北海道地区北海道営業所のスタンプがある「マロンの秘密」、「旬栗にフランス製菓技術との結晶です」、「栗はそのまま喰べるのが一番おいいしいとはかぎりません」、・・・・・・など。 そのケーキに添付されたカードなのである。 因みに、挿入されていた箇所は、「物部中臣両氏の大敗」だった。 次にあったのが、「電信電話料金領収書」のはがきである。 時は、出納消印から昭和52年9月10日。 これは、「血族を重んずる古風」にある。 だから何? と言われても仕方ないが、初版が明治29年に出て以来、改定と版を重ねて、大正の末年に出版された800ページに及ぶ大書の中にあったことに驚くのである。 余談だが、この本、古本としては相当に傷んでいるが、価格と送料を合わせて1450円で購入。 どうも、最近は、1000円が目安で、それ以上の本を買うことが出来ない。

 三叉・竹越与三郎については、ウィキペディアにも紹介があるので、省略するが、竹越家は柿崎の出身であったことは保留しておきたい。 これは、その当時に於ける酒造業にも関係する。 詳しい資料がある訳では無いが、長年(代々)、越後杜氏を勤めていた義父の話によると、関東一円の杜氏の90%が、越後出身者であったとか。

 本題に戻る。 実は、この本に着目したのは、幕末に関する記述である。 最初の出会いは、生田萬。 それが、書かれているというので、その箇所を確認する為に購入した。 ところが、本文中に発見できないのである。 検索の対象は、天保の飢饉だ。 漢文読下し調の文章だから、字義の裏を読む必要がある。 以前に紹介したときには、孫引きだったので、その点に疑問があった。 生田萬に関する部分、注釈にあったのである。 曰く、「天保八年六月、越後柏崎に一揆三千人起る。大塩の徒と称するも三十余人之が首領たり。日ならずして平ぐ」と。

 確かに、実際の生田萬の乱とは異なるようにも思える。 首謀者と云われるのは、僅かに数人である。 しかし、この時、三條の宮嶋氏に累が及んだと謂う形跡を見ない(調査不足なのかもしれないが)。 しかも、事を起こすに当って、何ゆえに、生田萬の居住地である柏崎ではなく、三條を基点として、しかも、舟行し荒浜に上陸、距離にしても二三里はある桑名藩の陣屋に向うのか。 それに、生田萬の平田塾同門でもあり、盟友でもある諏訪神社宮司の樋口英哲(出羽)などが参加したという文献を見ないのだ。 (生田萬を柏崎に招聘したのは樋口英哲。) これは、どう考えても不思議である。

 これ等から推測すると、竹越三叉が、大塩に与した首領30人と書くのは、必ずしも不思議ではないのである。 しかも、彼は柏崎とも縁の深い人物なのだ。 明治も後期とは言え、彼が充分な確証も無く、注釈を加えるはずも無いのである。 寧ろ、読む者にとって、本文に暗に示す内容より、注釈が目に付くのが、読者の常ではないだろうか。

 とまあ、こんな事から推測すると、「生田萬の乱」、全く視点を変えた解釈が必要なのではないだろうか。 何しろ、歴史的事実として簡単に扱われているにしては、多くの史書に登場しているのも事実なのだ。

 生き様は様々だが、時の流れと共に、記憶から遠ざかり、その源流すらも不明になるのが昨今。 しかし、大河の源流を求める番組が多く放映される。 さて、この歴史的「光行差」、時の流れに乗る「舟」から観る風景と、岸辺から見る「舟」のある風景、この相対性をアインシュタインは何と言うのだろうか。 ところで、思いついた「歴史的光行差」、これは行ける。 確かに、歴史認識の問題点は、「光行差」なのかも知らない。

Best regards
梶谷恭巨

 先ず、前回の紹介した「金沢来蔵」先生が「帰郷することになり新潟県高田中学校長として転任した」と『明善校九十年史』にあるところから、金沢先生の郷里を高田と考えていた。 ところが、その後の調査で、出身地が村上であることが判った。

 さて、金沢来蔵先生であるが、2005年に発刊された『村上高等学校百年史』によると、「安政五年(1858)に村上本町で生まれ、藩校克従館で学び、明治八年新潟英学校入学、上京して漢文学を修業した。 明治二十四年山梨県尋常中学助教諭をふり出しに、滋賀県、愛知県、熊本県などで教鞭をとり、明治三十三年熊本第一中学校長心得、明治三十八年久留米中学明善校校長、大正元年高田中学校長、退職後に村上中学へ迎えられた。 既に六十歳であった」とある。

(注)藩校克従館から新潟英学校: 明治初期官立の英学校が、東京・大阪の他、長崎、広島、愛知、新潟、宮城の各県に設立されるが、東京が大学予備門に、大阪が大阪専門学校に編入改変される以外は、西南戦争による財政難で廃止されている。 詳しい経緯が未だ不明だが、結果として、進学を断念し、漢文学修業と謂う表現になたのではないだろうか。
(注)金沢先生が、滋賀県の中学に赴任されていることから、山口県岩国中学(現、県立岩国高等学校)初代校長・新潟県長岡中学第十六代校長・橋本捨次郎との接点が窺える。 岩国中学は、明治33年、山口県尋常中学岩国分校から独立、その初代校長に就任したのが、橋本捨次郎だった。 橋本捨次郎は滋賀県の人で、着任当時、若干26歳、明治31年帝国大学文科大学史学科の卒業で、石川県金沢第一中学校に奉職後、岩国中学校長に就任している。 その後、長岡中学校長、大正2年第八高等学校(名古屋)教授(『岩国高校九十年史』では校長とあるが、恐らくこれは誤り、大正9年学習院教授に転任前の記録では、主任l教授とある)、学習院教授(訓育部長、一時休職)、松山高等学校校長(大正14年9月現在の『松山高等学校一覧』から記載がある)を歴任した。 尚、橋本捨次郎については、その後の調査でも判明したことがあり、別項を設ける。

 注目するのは、この金沢来蔵が、在任した中学校の歴史の中で、多くの紙面を割いて語られていることである。 例えば、初代校長などは、その履歴も詳しく書かれている。 しかし、履歴からも、当時としては異例の人物像が浮かぶのである。 先ず、先回紹介した通り中学明善校では、離別の和歌二首が掲載されるくらいであり、高田中学では、英才教育と奨学金の設立に尽力している。 先に引用したように、60歳で村上中学校長に迎えられる訳だから、高田中学での実績が大いに評価され、定年後に招聘と解釈できるのではないか。 当時としては異例という他ない。

 村上高等学校史の表現によれば、下記のような回顧談があり、我々団塊の世代の受験戦争を髣髴させるものがあるのである。

 曰く、「両方のポケットに英和辞典と和英辞典を入れて置きなさい」と言われました。 また、学校の雨天体操場には英語の格言や漢字、和歌、古今の金言などが大洋紙に書いて張り出され、それが定期的に張り替えられました、と。

 曰く、授業のたびに入試問題のプリントが配られ、うまくできないと、「それでは落ちますよ」とやられるように変ってきました。 上級学校へ行かない生徒はどうしても疎外されがちで、そこにだんだんと不満が生じたようです、と。

 また、『二十年史』(大正八年)には、「高等学校入学志願者のみを以て特に一学級を編成し、受験課目につき準備教育を施したたり。 五年の学科目中には高等学校入学試験には関係なきもの多く且つ五年の課程以外のものにも準備を要するもの多きため欠席者続出せらる。」とあり、当時の受験事情が、今と殆んど変らないことが推測されるのである。

 この意味は大きい。 その後の歴史にも多大な影響を与えたことが察せられるのである。

 『村上高等学校百年史』は、更に続ける。 すなわち、「金沢校長は、高田中学でも英才教育を進めたが、同校では、大正十四年に、成績による組分けの廃止、対外試合を禁じられて解散した野球部の復活を要求して、学園騒動が起きている」と。

 これは当に「学生運動」あるいは「反体制運動」の序曲ではないのか。 確かに、この辺りから時代は大きく変って行く。 次回は、他校の歴史と比較して、学校・生徒の情況などに論を進める予定である。

Best regards
梶谷恭巨



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