柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 29日、嬉しいFAXが届いた。 以前に問合せしていた修猷館以前と退官後の羽石重雄の消息に関する回答が、福岡県立図書館から送られてきたのである。 実のところ、羽石重雄の取材に行き詰っていた矢先だった。 それがこの報せである。 久し振りに愉快になった。 捨てる神もあれば、拾う神もあるものだと。

 さて、このFAXは、f福岡県立図書館郷土資料課の松尾研一さんのご好意によるものと感謝している。 そこで、氏に謝意を表し、その全文を紹介する。 以下、原文。

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 羽石重雄氏の修猷館中学時代までに関する情報について
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【羽石家について】
(1)郷土関係の人物については過去からの累積を当館HPで福岡県関係人物検索として公開していますが、羽石姓は皆無です。
(2)回答資料1は慶長分限帳から明治初年分限帳まで翻刻され、巻末には人名索引もあり、1桁の石数から掲載されていますが、羽石姓は見当たりません。 しかし、士族イコール藩士をは限らないにではと思います。
(3)HP柏崎通信を見ると早良郡原村庄の出身ということで、電話帳ハローページ福岡市早良区・西区・中央区を見ますが一軒もありません。 参考資料1にも未掲載の姓です。
(4)回答資料2はもともと大正12年刊行のものです。 後編70Pに原村村長として【羽石藤次郎】明治22年4月就職、同27年7月死亡により退職、本籍原村庄。 前編56P、60Pにも明治22年町村制施行以前の副戸長、戸長として記載あり。 父親なり一族の方と思われます。
【羽石重雄氏について】
(5)若いときの情報ということなので不要と思いますが、回答資料3から昭和8年調べで「福岡市西ノ庄 文学士 羽石重雄」と記載されています。 回答資料4、5で自宅電話をお持ちになっています。 住所は「西庄四五」、職業は空欄です。
【回答資料】
1 『福岡藩分限帳集成』 福岡地方史研究会//編 海鳥社 1999.6  K283/5/フ
2 『早良郡誌』       福岡県早良郡役所//編 名著出版 1973.2  K226/4/サ
3 『菁莪 第28号』    修猷館学友会雑誌部//【編】 修猷館学友会雑誌部 1933/8  K375/264/Sセ
4 『福岡電話番号簿 昭和10年10月15日現在』 福岡電話局//【編】 刊 K694//Sフ
5 『福岡電話番号簿 昭和11年10月15日現在』 福岡電話局//【編】 刊 K694//Sフ
【参考資料】
4 『九州の苗字を歩く 福岡編』 岬 茫洋//著 梓書院 2002.12  K288//キ

 以上が現時点までの調査結果です。 あと好くし時間をいただき資料にあたり、ご報告します。

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 羽石重雄氏の修猷館中学時代までに関する情報について(その2)
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(1) 回答資料6の原村の項には23名が記載されており、4番目に「一○五 羽石重雄」と記載されています。 「一○五」はこの資料の最初の所得金高等級表を見ると九○○円の所得があったと見るようです。
(2) 回答資料7の原村の項には81名が記載されており、47番目に「○ 二四・○○○ 羽石重雄」と記載されています。 ○点の数字は地租額と凡例に書かれています。
(3) ここからは想像ですが、父(?)羽石藤次郎明治27年7月死亡により、重雄が相続したものと思われます。 戸長、村長を勤めた地主の家の跡取りであり、退職後は福岡の戻り、電話のある恵まれた暮らしをされたと思われます。
(4) 福岡県立図書館は昭和20年6月米軍の空襲により消失しています。 現在所蔵している資料は戦後の収集によるもので、十分納得いただける回答ができなく申し訳ありません。

【回答資料】
6 『福岡県一円富豪家一覧表』 福岡県名誉発起所//編 K283/6/Sフ 鶴久二郎 1973 明治33年調べ。 復刻版。
7 『福岡県早良郡糸島郡富豪一覧表』 福岡県名誉発表会//[編] 1898.7  K283/フ 明治31年編集

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 以上が松男研一氏から送られたFAXの全文である。 ここから判断するには限界があるが、しかし、当初、羽石重雄は、明治初期の激動の中で苦学して上級学校に進み、藩閥の中で教育を志したと考えていたのだが、どうも、そうとばかりは言えないのではないかという疑問が湧く。 それでは、何故、修猷館に入学したのか、また入学時の年齢が高いのだろうか。 それに、修猷館の設立主旨のひとつが、廃藩置県後の窮乏生活を送る藩士の子弟の救済と教育であった事としっくり行かないのである。 まあ、この辺りは、更に研究する必要があるだろう。

 ところで、羽石姓について調べてみると、静岡大学人文学部言語文化学科比較言語文化コース「城岡研究室」の「日本の姓の全国順位データベース」によれば、全国順位3685位、登録件数840である。 URLは下記。
 
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/kensaku.html
 すなわち、羽石姓は極めて少ない。 そこで、少々古いが手持ちの『全国電話帳データベース』で調べて見た。 当時は、羽石重雄が福岡に帰ったという情報がなく、最後の赴任地である松本市とそれぞれの赴任地を当たり、実は、何軒かに電話して確認した。 記憶に残っているのは、松本市に羽石姓が一軒あり、失礼とは思ったが、事情を説明してお話を聞くと、「聞いた事がない」との回答だった。 ただ、そこで判ったのは、「羽石」を「ハイシ」と呼ぶ姓と「ハネイシ」と呼ぶ姓があることだった。 何件かあったのだが、ヒットせず、挫折。 その後は、調べていないのである。

 まあ、そんな事があったので、退官後については未調査だった。 それが、この朗報である。 何かやる気が起った次第。 気を取り直して、「旧制中学校長の足跡」の取材を続けて行こうと思っている。

 最後に、改めて、福岡県立図書館郷土資料課・松尾研一氏に感謝を。

Best regards
梶谷恭巨

 前回まで、陸軍の脚気論は統一されていたと考えていたのだが、陸軍部内でも反論が有った事が判ったので、それを紹介する。

 緒方洪庵の孫・緒方銈次郎(ケイジロウ)の手記によると、洪庵の子息・惟準(イジュン)が、脚気の予防策として、「麦飯」の供給を実施し、好成績を上げているのである。 以下、緒方家五代目・緒方惟之(コレユキ)氏著『医の系譜』から、その部分を引用する。

 「父は近衛師団軍医長に転ずると、かねてからの持論であった兵士の脚気予防策として、麦飯の供給を実行して非常な好成績を挙げた。 大阪師団で行われた堀内利国(惟準の妹九重の夫)軍医監のそれとともに、軍事衛生に一大問題を提供したのであった。 父は全国の師団に麦飯の断行を強力に主張したが、同僚や衛生委員とは意見が合わなかった(惟之=当時は、脚気の原因がビタミンB1不足にあるとする惟準らの説と、細菌感染説が対立していた)。 とうてい素志を貫徹することができないと慨嘆し、数ヶ月かけて熟慮した末、潔く軍職を辞することを決意した。 そして行李を収めて懐しい故郷大阪の地に帰った。」

 尚、堀内利国については、下記のサイトが詳しいので紹介する。
 
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/siryo/horiuchi.htm

 こうして見ると、脚気論は、単に陸海軍の対立ではなく、矢張り、医学の本質論として、当時の医学者間で論争された事が判る。 因みに、堀内利国が大阪師団(第四師団)で麦飯(米麦混合)を実施したのは、明治17,8年頃の事であり、当時、問題の石黒忠悳は、明治17年(1884年、前年には、中央衛生会委員・日本薬局方委員)、東京帝国大学御用掛、翌年、内務省衛生部次長・検疫事務取調委員に就任している。 尚、石黒忠悳の役職の略歴を『柏崎通信デジタルライブラリー』の『况翁閑話』(16)に記載したので、参照されたい。

 これは、後の事になるのだが、長谷川泰が斉生学舎を設立する動機とも言える、官と民との対立の遠因ではないだろうか。

Best regards
梶谷恭巨

 脚気論争で石黒忠悳の『懐旧九十年』を挙げたが、後段の注釈を省いた と言うのも、長くなって容量を越えた為。 次回、注釈を加えるので、御容赦。

 尚、『柏崎通信-資料編』を『柏崎通信デジタルライブラリー』としましたので、関心のある方は一読の程。 何しろ、読んでくれる人が少ないので、やる気を無くしそうになっています。

 今は、石黒忠悳の『况翁閑話』をアップしていますが、デジタル化しておけば、皆さんの利用に便利かと思っている次第です。 プロジェクト・グーテンベルクに感化され、テキストで残すことを企図した次第。 一人では出来る範囲も知れていますが、マイクロフィルムあるいは原本を複写せいただけでは、研究には不便。 その意図をご理解して頂きたい。 デジタル化しておけば、検索が容易で、利用が簡単。 しかも、著作権の切れたものをアップしているのですから、参照に気を使うことがない。

 繰返しになりますが、参照の程、お願します。 

Best regards
梶谷恭巨

 

 先ず、前回で兵食の問題を揚げ、食習慣の相違により、西欧の軍隊には脚気が少なく、その為、脚気に関する研究が二次的であったと書いたが、訂正する。 と言うのも、ドナルド・キーン著『明治天皇』に脚気に関する記述があった事を思い出し、調べてみると、英国海軍では、既に、ビタミン不足が脚気の原因として、予防の為にライムジュースの摂取が必要と認識されていた、とあった。(『明治天皇』下巻第三十七章の注10)

 さて、それは措き、脚気論争は当時の日本医療界の姿勢をよく表していると思うのである。 それは、大村益次郎が軍制改革を試みる姿勢にも現れている。 世界に類を見ないのが明治維新前後の状況だ。 大体にして、医師が軍制改革を行う国なのである。 これが幸いしたのだろう。 兵食問題が、逸早く論議の対象になるのである。 そして、グラント将軍(大統領)をして、日本の兵食に対する賞賛を得るのである。

 また、次に揚げるように、明治天皇が明治10年に京都で脚気に掛かったことも、その後の脚気論争に影響を与えるのではないだろうか。 明治天皇は、その後も、気節の変わり目に何度か脚気の発作を起したが、明治15年の発作が最も激しかったようだ。 脚気調査会が生れる背景でもある。 ただ、着目したいのが、当時の医学者が一面的見方をしていない事である。 文中にある漢方医・遠田澄庵への諮問などは、その例であろう。

 私事だが、社会調査研究所で配属されたのが医薬情報システム部だった。 その頃、先輩であり友人である関野氏から、漢方のシステム化の話しがあった。 驚いたのは、漢方医学が実にシステマティックであたことだ。 神農以来の歴史、更には、三国志で有名な華佗の話。 明治の文明開化の時代、漢方にも目を向けた当時の医師たちの見識には経緯を評すべきだろう。

 序での事だから付加えると、社会調査時代、関野氏と『寒傷論』の読み会をした。 大抵は、居酒屋での事だったが、それでも、それなりのプログラムを作成した。 確か、小太郎漢方製薬のシステムに反映されたと聞いている。 その後、織田先生が漢方を取り入れ、特に内科の慢性疾患に処方していた。

 今日は定期の検診日だった。 二週間分の抗がん剤の料金が15000円。 これじゃあ、オチオチ癌にもなれない。 万年落選といっては失礼だが、その西川君も癌だという。 私よりも重症のようだ。 システム屋として、永年、医療の世界に関わってきた。 パラメディカルが軽視される日本である。 これからは、総体的な医療を考えなければならない時代だろう。 そうした事を考えると、明治の医学者の姿勢についても振り返って見る必要があるのではないか。 後に(注)に紹介する越後出身の池田謙斎の経歴などは、その冴えたるものである。 漢文を習い、剣法を習得し、兵学の為にオランダ語を学んで、最後には医学に到達する、その生き様には敬意を表さずにはいられない。

 余談だが、自分の好きな作家であるマイクル・クライトンは、ハーバードで先ず民俗学・人類学を学び、英国に留学した時、エジプトの発掘調査に参加した。 そこで彼が得たのは、人間を研究するには医学を学ばなければならないということだ。 結果として、ハーバードの医学部に再入学した。 彼の作品の魅力は、そんな彼の姿勢にある。 英語の表現は平易だし、現場主義的な発想は、緊迫感と共に、人間に対する真摯な視点を感じるのである。 昨年(今年だった?)の彼の訃報は、その作品を全て読んだと自負する自分に取って、他人事とは思われぬショックを与えた。 遺作になるだろう(最後に発表された)作品が、11月24日に発売される。 アマゾン米国の案内で、早速予約。 さて、どんな物語が展開するのか。 一つ付加えると、クライトンが「地下のドクター」という表現で、高度に先鋭化された医療技術をさせるのが、システム屋だと言っている。 自分がIEEEのEBMに籍を置いたのも、彼の影響なのだ。 無くなる寸前に、来日したことを知る人は少ない。 2mもある大男のクライトンが、ミステリーCHのインタビューに応えた。 最後に訪問したかったのが日本だと。 『インナートリップ』で、泰の仏教に見せられた彼が、結論として選んだのが日本とは。 考えさせられる事実である。

 大分、本論から逸れてしまった。 ただ、言いたいのは、それぞれが様々経緯から医学を学んだのが、維新前後の医学者だった事だ。 脚気論争が、単なる医学論的展開に終始する事に違和感を感じる。

 当時の医学が、人間学であった事を知る必要があるのではないか。 初期の段階、IBM165、先ず教えられたのは、当に人間学であった。 今、ITがバブル崩壊で低迷する。 それは、人間学を忘れたからではないのだろうか。 地下室に埋もれていても、今のこの世の中で、不可欠なのがシステム屋かもしれない。 その中で、医学を志す学徒が入れば、これほど幸いな事はないのだ。 どうも日本では、学際は縁遠い事実なのかもしれない。

 さても、要らざる事を長々と書いてしまったようだ。 この項、これで終りにしよう。 脚気論争については、もう一回だけ書く事にするが、それには暫らく時間を要す。 以上、以下、『懐旧九十年』を。

『懐旧九十年』 第七期 日露戦役以後 3 脚気調査会、軍医学校の寿像(後段略)

 脚気は我国に多く困難な病気でありますが、明治天皇陛下におかせられても、夙(ハヤ)くより夏期には御脚気の気味にて、御足の重倦を感ぜられたことがありました。 或る年、最も御傍近く召使われる一侍従が脚気にかかり漸次(ゼンジ)に重くなり、伊藤・池田両侍医の治療も効を奏せず、この上は速やかに高燥の地に転地するのほかなしと勧められたのを、更に漢方脚気専門医遠田澄庵(チョウアン)に診治を乞うたのでしたが、遠田君は転地の要なきを説いて家法の薬を以て治癒せしめました。 そしてこのことが、いつしか御聴に達したものと見えます。

注)伊藤: 伊東方成の事か、従三位勲一等宮中顧問官侍医頭 伊東方成の概歴
天保5年(1834年)12月15日(宮内庁記録)上溝久保(現相模原市)3599医師 鈴木方策の長男として誕生、番田の医師・井上篤斉に学び江戸に出て蘭医・伊東玄朴の象先堂に入門後、玄朴の養子となり文久2年(1862年)林研海と共に幕府最初の留学生としてオランダで医学を収め明治元年11月帰国、新政府に迎えられ、順次昇進、能く明治天皇の侍医を勤め更に再三渡欧して研鑽、大正天皇のご養育に献身、明治31年5月2日逝去、下谷天龍院に葬られる。 生家の土蔵は方成晩年の贈り物である。
(注)池田: 池田謙斎のこと。 幼名・圭助、天保12年(1841)11月1日、越後・蒲原郡西野(現・新潟市東区西野)の里正(庄屋)・入澤健蔵の次男として誕生、後に江戸で開業していた伯父の入澤貞意宅に寄宿、午前中に漢学を瀬川道元に学び、午後に剣を心形刀流の第九代・伊庭軍兵衛秀俊(没年から推定して)に学んだ。 また、当時の関東代官・竹垣三右衛門の子息・竹垣龍太郎にオランダ語を学び始める。 その隣家に引越してきたのが緒方洪庵だった。  当時、緒方洪庵は幕府医学所頭取で、学生はすべて医学所で学ばせる方針だった。 しかし洪庵は文政9年に急死、一旦、兄・恭平が郷里で開業したので、その手伝いの為、帰郷する。 その後、また江戸に出て医学所で学ぶが、新頭取の松本良順と合わず、緒方洪庵の子息・惟準にオランダ語を学ぶ。 この時、緒方洪庵の未亡人の勧めで、一旦、家格の関係から緒方家の養子になり、池田玄仲(多仲)の養子になる。 当時、圭助は兵学を学ぶ為、オランダ語を習っていたが、養子縁組を機に医学の道に進むことになる。 元々、入澤家が医者の家であった(親の兄弟4人が医者、兄弟も医者)ので、医学に進むことにそれほど違和感は無かったようだ。 その後の経緯を書くと長くなるので、省略する。
(注)遠田澄庵: 文政2年(1819年) - 明治22年(1889年)7月29日)は、幕末の漢方医。 幕府奥医師、名は景山、号は木堂、脚気治療の名手として知られる。

 しかるにまた一方では脚気は全く東洋の病で欧米人のかって知らざるところであるから、この治法こそは漢方医に限るという論を主張する者が続出するようになりました。 この時、陛下は大久保内務卿を召されて、近年脚気に斃れる者ようやく多いが、この病の治療法につき新、古、医方に託して研究せいむるようにとの御仰せであったので、内務卿は明治十一年東京府に命じ、脚気病院設立委員会を置き駒込に病院を設けたのでありました。

 私も当時『脚気論』という著書を公にしていたので、この脚気病院設立委員に選ばれ設立に力を致したのです。 病院の治療医院は新方では佐々木東洋・樫村清徳、古方では今村亮・遠田澄庵の四人でした。 しかし古方の両人の主張で、私が報告委員として全体の実況を厳正公明に報告するよう委託されたのです。 この病院の報告は年々内務卿の手を経て、陛下の御手許へ奉呈されましたが、その治療成績は古方より洋方がずっと好成績でした。

 しかし脚気の病原については諸説紛々として定まらず、従って正確なる治療法もなく、医学上一の難問題であり、軍隊においてもこの病のために支障を来たすこと少ないのです。 これが私などが前々から調査の必要を切論していた所以(ユエン)です。 しかるに明治四十一年に至り、寺内陸軍大臣は各著名の医学者を集めてこれを調査せしむるために、脚気調査会なるものを設けんとて、その会設立のことを内閣に進言されました。 すると徳大寺侍従長からこれに関して私の意見を徴されました。 明治天皇は、徳大寺侍従長を召され、内閣からここに脚気調査会設立の件が出たが、脚気については石黒がかって多年苦心しているから、この件について、同人の意見を内調してみよとの御主旨の仰せがあったとのことです。 私が陸軍現役を辞してからもはや十一年になるに、私が以前脚気のことを専心調べていたことを当時聞こし召され、それを御記憶あそばされて、このたびの仰せであるとは実に恐懼(キョウク)に堪えません。 私は衷心この挙に賛成の旨を述べ、徳大寺侍従長の命でその件についての意見を書いて差出しました。 その後数日にしてこの調査会は設けられたのです。 これも、明治天皇の聖慮の周密にわたらせ給い、御記憶の良き御ことを追慕し奉る一端であります。

 後段、略。

 ネットサーフをしていたら、明治に起った「脚気論争」の事が眼に入った。 要は、森鴎外脚気悪役論である。 そして、元凶は石黒忠悳にあるとする意見だ。 医学的問題は措くとして、明治の脚気論争は、果たして妥当な評価を受けているのだろうか。

 当時の医学研究と教育の状況を考えると、問題の発端は、必ずしも「脚気」の問題ではない。 それを裏付けるのが、後に紹介する石黒忠悳の『懐旧九十年』にある兵食に関する記述である。 我が国には、武士階級はあっても、平和の続いた江戸時代は、常備軍というものを持たなかった。 これは、集団行動としての問題点、特に兵站あるいは兵食の問題が重要視される事が無かったことを意味する。 世界史的に見ても、兵站問題が軍事学として採り上げられることは、ほとんど無かったといえるだろう。 兵站問題が、軍事科学として着目されるのは、米国の南北戦争後のことではないだろうか。 多くの兵学書で取り扱われたのは、戦略と戦術であり、弾薬や戦術機材の補給問題を除き、兵站、特に食糧問題は二次的問題だった。 要するに、南北戦争以前の戦争では、兵士の食糧は略奪によって、よく言えば現地調達によって賄われていたのである。

 明治になり常備軍が編成され、平時に於ける兵食問題が浮上する。 兵隊を集める為にも、十分な兵食は農民募兵の目玉なのだ。 腹一杯に食べる事が、農村出身の兵には魅力だったのだ。 最初は玄米で支給されたものが、白米に変化するのも、兵の出身者の多くが農家の次三男であったことに由来する。 農村出身者にとって、銀シャリをたらふく食う事が何よりのご馳走だったのである。 脚気問題が、後に大論争を惹き起こす原因の発端がここにあった。 集団一律の食事など、今までに経験した事の無いことだったのである。 結果として、軍隊内で脚気が多発する。 その原因が食事にある事に気付いたことが、脚気論争の始まりだろう。

 すなわち、脚気論争の功罪よりも、その過程を評価すべきではないかというのが私の意見なのだ。 結果として、海軍の高木兼寛に軍配が上るのは、飽くまでも結果でしかないのである。 石黒忠悳は、最も信頼する森林太郎(鴎外)を独逸に派遣する。 当時の医学の最先端に在ったのがドイツなのだ。 この選択に誤りは無いだろう。 しかし、脚気は日本の風土病と見られていた時代だ。 最先端のドイツでも、兵站としての食事問題は研究されていたかもしれないが、食生活の異なる欧米に脚気問題など存在しなかったに等しいのである。 寧ろ、食事問題、言い換えると、栄養学に着目した石黒忠悳や森林太郎、あるいは高木兼寛らの陸海軍の軍医達を賞賛すべきではないだろうか。 余談だが、栄養学が軍事科学の一分野として成立した事には着目すべきだろう。 今でも、米国における栄養学は、軍事科学あるいは宇宙工学の一貫としてNASAなどで研究されており、しかも、最先端を進んでいる。

 さて、そこで、先に書いた石黒忠悳の『懐旧九十年』から引用しよう。 特に、次に揚げるのが、北軍の将軍であり、大統領になったグラントに関わる記述で有る事が興味深い。 以下、原文(岩波書店、『懐旧九十年』)の全文をタイプしたものである。

『懐旧九十年』 第五期、18 「グラント将軍来朝と兵食問題」

 陸軍で兵食の定まったのは、山縣陸軍卿が紀州から津田出という人を招き、陸軍少将に任じて会計経済のことを一任し、委員を設けて出来上ったのが陸軍給与規則の始めで、すべての給与がこれで統一されたのです。 この時に食は白米六合に、金六銭となりました。 元来一人扶持といえば、玄米五合であるが、それを白米五合にすれば充分であるとのことであったが、私は、徴兵は農民が多く、農民は大食であって一時に減食すると力を減ずるからいけないと主張して、白米六合とし副食代も六銭としたのです。 陸軍の給与制度についてはこの津田少将は忘れてはならぬ人です。 その頃の将校の頭には栄養というようなことは頓となく、山地元治君なども早くより真に驍将であったが、どこまでも自分の元気一つで兵を率い、兵は常に困苦欠乏に慣れさせなばならぬというので、折々弁当なしで行軍させたことなどもありました。 晩年になって私に対し、兵食については昔随分無茶をやったが、あれは自分の無理であったと申されました。

 その頃、米国大統領グラント将軍が来朝せられたことがあります。 その時、陸軍では兵営だの練兵だのまで一覧に供したのでした。 私は接待員の一人でしたが、或る日、近衛の兵営にて兵の食物を見て、その簡易なるに驚かれ、親しく私にその栄養状況を質問されたから、私はその食物に含む栄養分量から、労力の程度等を委(クワ)しく話し、これまで幾度も西洋食に変革しようとの話もあったが、私は常に反対して来たことなどを話し、現在の兵食(米六合、金六銭)では決して十分とは申されぬから、いずれ若干の増額を要求して改正するつもりであると語ったら、将軍のいわるるに、数回練兵も見たし、また各個の運動も見たが、その作業といい、疲労程度といい、我が国の陸軍に比して大なる遜色もない。 しかも食料においては我が国の兵一人に費するところを以て、貴国の兵殆んど三人を養うことを得る勘定である。 それを国民の常食と違う西洋食に帰るなどということは、固より取るに足らぬが、この後経費の都合が出来て今日よりも改良するは宜(ヨ)いが、兵食を上進するということには十二分の考慮を要する。 何となれば、兵一般の望みは、先ず第一が粮食である。 ゆえに一度定めたる食費を一銭でも減ずるということには、大なる苦情を持来たすものである。 それは日々の給与金を減ずるの比ではない。 幸いに貴国ではこの食にも苦情もなく、また栄養にも不足ない以上は、兵食の費額を増すということは大いに考えねばならぬ大事である。 いわんや先日来聞くところによれば、なお増兵するの計画だとのことであるから、ここで誠心誠意自分の心持を述べると、懇々話されました。 その時、私もなるほど大兵政を統べた経験ある人は、兵を養うにも用兵経済にも秀でているものだと深く感心しました。

 その後、海軍で高木兼寛君の主唱で、パンを主とする洋食が採用せられ、陸軍でもこれに倣うべしとの論が出て来、殊に薩摩出身の将校によって盛んに唱導され、洋食・邦食の論議は一時非常に喧ましいものでした。 しかし私は断じて洋食論に譲らず、我が国は国初以来、邦食を以て人口繁殖して今日に至っている、これを改良するには吝(ヤブサカ)ではないが、そのどこが悪いか第一に長短を学問的に精査してその成績によって徐(オモム)ろに改善に進むべきである。 なお徴兵制度の下において、兵食を一般国民食と全く別に違わせるということは甚だ考えものである。 一朝、大兵を挙げる必要が生じた場合にも、食糧物資の調達に直に行き詰ってしまう。 パンの原料、その副食物等はともに今の現状では困難であるというような点で洋食論に反対し、一方また、兵食と我が国古来の食物との学問的研究のために軍医森林太郎君に独逸留学を命じ、当時世界的に有名であったフォイト博士に就いて栄養学の研究をなさしめた。 これが我が国における食物の近代的研究の始まりであります。 そこで森君が留学をおえて帰朝するや、直ちに陸軍々医学校で多数の兵士を用いて兵食調査の実験をなさしめ、同じく帰朝した内科専門の軍医谷口謙(ケン)君をしてその排泄物の検査をなさしめ、食物の単なる成分分析検査による化学的議論より更に歩を進めた栄養摂取の衛生学的結論を得たのでした。 かくして翻訳的な食物論ではなく、この我が国の実際を学問的に実験調査した結論によって、兵食は洋食とする必要なく日本食で何ら支障なきことを明らかにし、ここに陸軍兵食の根本原則を確立したのでありました。 この森軍医がすなわち後の軍医総監で、かの有名な文豪森鴎外博士です。 この検食記事は、我が陸軍々医学校業府にその初期における重要事業として記載せられており、その成績は今日でも引用せられる貴重な経験となっています。

 尚、次回、これに続いて関連する部分を紹介する。

 



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