柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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教員時代(岩国中学校まで)
 岩国中学校長、辞任後の二年間不明。 ここに、高宮乾一との関係を推測しているのだが、資料が無く未検証。

1897 明治 30     27 長野県 長野師範学校、教諭、離任年次不詳
1898 明治 31     28 大阪府 大阪府立第二中学校(現、大阪府立三国丘高等学校)教諭(歴史と英語を担任)
 ☆長崎中学の資料に教頭であったとの記載があるが、三国丘高校の資料室に問合せた結果、それらしき記載がないとの回答。 ただ、面白い事実が判った。 府立二中も初代校長・有馬純臣が、第五高校(熊本)時代、羽石重雄は学生として在籍。 その影響が大であったようだ。 特に明確な記載はないが、有馬純臣校長が、羽石重雄を招聘した可能性が大きい。 ★有馬純臣については、別項を設ける。
1899 明治 32       長崎県 長崎県立島長崎中学校に赴任したことは判っているが、資料の入手が困難で未確認。
1900 明治 33     30 長崎県 長崎県立島原中学初代校長に転任
1904 明治 37 10 12     初代校長・雨谷羔太郎が死去、塚本又三郎が校長に就任した。
 ☆塚本又三郎は、東京帝国大学理科大学化学科卒業し、熊本県済々黌から転任、図書主任、寄宿舎舎監を勤め、雨谷校長の補佐役であった。 明治38年8月24日付けで、仙台の第二高等学校教授に転任。
1905 明治 38     35 山口県 山口県立萩中学第三代校長に就任
 ☆初代校長・雨谷羔太郎は、明治4年、水戸に生まれ、第一高等学校から東京帝国大学文科大学史学科を卒業、第四高等学校教授を務め、大学院に進み、19世紀自由主義、国民主義、社会主義を研究、明治32年9月18日、萩中学校校長に就任した。 明治37年10月12日、腸チフスのため、34歳の若さで急死した。
1908 明治 41 11 23 38   寄宿舎で集団暴行事件が起こり、翌42年4月に辞任
 ☆第4代校長・村上俊江が、熊本県立八代中学校校長から転任した。
1909 明治 42     39 山口県 岩国中学第三代校長に就任
 ☆岩国中学初代校長「橋本捨次郎」は、滋賀県出身、明治31年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業後、石川県で最初の教職に着いたが、直に岩国中学、長岡中学第16代校長、第八高等学校教授、学習院教授、松山高等学校校長を歴任する。
 ☆萩中学校長・村上俊江は、東京帝国大学文科大学哲学科卒業、山口中学で国木田独歩を同窓、東大では、高山樗牛、桑木厳翼、杉敏介と同窓。 萩中学辞任後は、東京成城中学校主事、大正末に、高知県立高知城北中学校校長を勤めた。 尚、村上俊江は、松蔭の研究家として有名だった。
1914 大正 2 2   43   離任。 (校長排斥運動に依願退職か)


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梶谷恭巨

 東京帝国大学文科大学国史科卒業まで。

1870 明治 3 2 6 0 福岡県 旧黒田藩士の子として、福岡県早良郡原村字庄出身に生まれる。 (黒田家分限帳に記載が無い)
 ☆父は、「藤次郎」と思われる。
 ☆明治25年12月の脩猷館々友会第一回報告によると、住所が、福岡県早良郡庄村百廿九番地になっている。
1888 明治 21     18 福岡県 修猷館中学に入学(修猷館の史料を読むと、当時の学制で期間が3ヵ年であるところから推測)
1889 明治 22          
1890 明治 23          
1891 明治 24 3 24 21 福岡県 「軍隊投石事件」が発生、館長(校長)・尾崎臻(いたる)が引責辞任し、教頭であった「仙田楽三郎」が館長事務代行に昇格し、翌25年、福岡県立伝習館中学校長に転任 (仙田楽三郎については、現在調査中だが、断片的足跡が判っている。)
1891 明治 24     21 福岡県 修猷館中学(第3回)卒業
1891 明治 24     21 熊本県 第五高等学校(熊本)入学
 ☆本科第一部(文科)第三回卒業生、同期8名、この中に「広田直三郎」という人がいるが、昭和6年(1931)、東京鉄道中学(現、芝浦工科大学)第五代校長と同一人物か?
 ☆修猷館同窓会誌『館友雑誌』第一号の論説に『須ラク其義務ヲ全ウスベシ』を寄稿。 因みに、同じに論説に『遺伝ノ説』と題して関豊太郎が寄稿している。 関豊太郎は、宮沢賢治の盛岡農林時代の恩師であり、その後も大きな影響を与えた人物。
 ☆当時の学校長は、講道館の加納治五郎であり、後に書くが、羽石重雄が赴任する大阪府立二中の初代校長・有馬純臣は、加納治五郎の弟子(講道館)で、加納治五郎が第五高校校長に就任する際、招聘した人物。 このほかに、ラフカディオ・ハーンも招聘しており、羽石重雄は、有馬純臣とラフカディオ・ハーンの影響を受けたことが推測される。 ★この件についても、別項を設ける。
1894 明治 27 9   24 熊本県 第五高等学校(熊本)卒業
1897 明治 30     27 東京都 東京帝国大学文科大学国史科卒業

 付け加えるべき詳細があるのだが、容量オーバーのため削除。

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梶谷恭巨

 

 羽石重雄の年譜を作ってみた。 旧制中学の三次元的ネットワーク図を模索しているのだが、こちらは未だ時間が掛かりそう。 取敢えずは年譜を。 未完成だが、『坂の上の雲』で、司馬遼太郎は時代が変わった、あるいは人が変わったと云う。 私自身も同様な視点に立っているのだが、最も重要なのが、その変革期の人材を教育した人々の履歴にこそ、キーワードがあるのではないかと考えている。 旧制中学の校長の足跡を調べ始めて、既に十年、羽石重雄は同時代にあって遅いスタートの人。 故に、彼を軸として、その足跡を追うのだが、最近何かしら日本沈没に至る道筋が見えてきたの観がある。

 さて、そこで年譜を貼り付けたのだが、容量オーバーで掲載することが出来ない。 未完成だが、ご希望の方があれば、配信するので、お知らせを請う。 尚、出来るだけ分割して掲載する。

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梶谷恭巨

 

 原武先生から羽石重雄に関する資料が届いた。 一つは、脩猷館館友会第一回報告の名簿である。 これで、羽石重雄の原籍が判った。 福岡県早良郡庄村百廿九番地である。 そして、彼が第五高等学校(熊本)時代に、館友会に寄稿した論文『須ク其義務ヲ全スヘシ』である。 この論文は、明治27年7月31日の脩猷館同窓会『館友会雑誌』第一号に記載された記事で、羽石重雄が五校卒業(24歳)の年に書かれている。 青年・羽石重雄の人となりを知る上で重要であろう。 そこで、少々長くなるが、その全文を紹介する。 尚、原文は漢字カタカナ混じり文であるが、カタカナは平かなに変え、旧仮名遣いは現代文に、旧漢字は出来るだけ現漢字に、また段落には句読点を加えた。

『須ク其義務ヲ全スヘシ』 在熊本 羽石重雄
 人は社会に立つや数多の義務を有す。 而して其義務を全うしてこそ真の人間とは云うべけれ。 君には到忠の義務あり、父母には尽孝の義務あり、師には報恩の義務あり、朋には以信の義務あり、凡て是等の義務は人類相互の関係を結び付くる一個の條紐にして、社会の秩序を維持するの要素なり。 何とならば、若し人類社会より此義務なるものを解き去るには、君臣父子師弟朋友等の関係、全く杜絶し社会の秩序も悉く廃滅に帰する疑なし。 嗟(アア)義務ちょうものの人類社会に及ぼす影響の重、且つ大なる。 深く考えべきかな。 我同朋四千万人の今日、日本帝国に立つや到忠尽孝の観念は須臾(シュユ、わずかの間)も離れざるももの如し。 換言せば君観に対する義務は決て之を忘却せざるなり。 此れ我国の特有性にして、蓋(ケダ)し古来忠孝の二字を以て愛国の精神を涵養せしに由るならん。 然れども近来泰西(西欧)の文明(物質的)を輸入するに及んで、義務なるものの勢力大に削減したるの観あり。 何とならば(君観に対する義務は暫く之を措き)、師に対し、朋に於ける其他社会諸般の事物上に於て義務ちょうものは、大に軽視せらるるの傾あればなり。 一言以て之を掩(オオ)へば世澆季(セギョウキ、人情が薄れ、道義が乱れた末の世)の三字を以てせんか。

 社会の上流に立て国家に為すことあらんと欲するの士は、大に顧思遠慮(振り返って思い将来を考える)せざるべからず義務ちょうものの、其国民に視倣さるるの軽重如何は、其社会の現象に如何なる影響を及ぼすものなるか。 而して又如何にせば其国民をして義務ちょうものを重大視せしむべきかを探究せさるべきかをす。 余は曩(サキ)に我館友会の設立に際し、斯(カ)く義務ちょうことに付て、卿が感ずるところ有りし。 今回更に館友会雑誌の発兌(ハツダイ、発刊)を見るに及んで、吾人の本館に負う所以(ユエン)並に師友会員の間に存する義務は、余をして已(ヤ)むなく箇の如き愚説を陳(ノ)ぶるの必要を感ぜしめたり。

 古者師弟の間、一種特別の関係存するありて、束脩(授業料)以上、子弟の師に対するの道は殆どん(?)慈子の厳父に於ける観ありし。 其朋友間にありても愛情敬礼の常に存するありて、決して今日に於けるが如き状態にはあらざりしなり。 宜なり師の道を伝うる所以のもの、子弟は之を学び之を行う所以のものなり。 今日師弟朋友相互の関係を見るに少し膨大に之を伝えば、師は芸を売るの商人にして、子弟は之を買うの徒たるのみ。 朋友は只だ同職者の仲間のみ。 而して学校は之を売買するの市場に過ぎず。 噫(アア)此薄情!冷膽(レイタン)! 何の然らしむるところか。 義務を軽視し過るの致すところに非らざるなきを得んや。 時勢の已むを得ざるに出ずると云うと雖も、世澆季に陥り去るを思い来らば、誰か為めに長嘆大息なくして已んや。

 余は親愛なる会員諸君に曰う、吾人は我脩猷館に負うこと大なり。 五年に星霜蛍雲の功を積みたる。 本館は実に吾人の一大恩人なることを記憶せよ。 吾人が己に中等教育を終えたる一個人として、社会に立つことを得るは館の賜なることを忘れなよ。 然り吾人は館を思うこと切なり。 而して斯る規模宏大なる完備せる学校が旧藩主黒田家によりて創設せられ、其意たる、蓋し我々子弟を育成し国家有用の人物tpなすに在りを思い出でては、我々の本館に負う所以は層一層深きを覚ゆるなり。 吾人は斯く本館に負う所以を以て将(マサ)に如何すべきや。 会員諸子が有為の人物として、社会に立つ国家に尽すあるは、館設立の趣旨に戻らず、館に酬(ムク)ゆる所以、是より大なるなかるべし。 然れども、本館をして、将来益(マスマス)隆盛に維持し完全無欠の学校となし、他日、有用の人物をして続々此館より輩出せしむべきの義務は、実に吾人に存すを信ず。 吾人は已(スデ)に、如此一大責任を此館に負う。 館運の一盛一衰、学事の一伸一縮に関し袖手傍観することを得べけんや。

 吾人は又、師に負うことの大なるを思わずんばあらず。 我々が曽(カッ)て館に在るの日は、一二の教師に対しては、或は不懣(満)懐(イダ)くこと無きにしも非ざりしも、今日より之を回想せば、師諸子は実に我々を愛すること深かりし。 今日に於て初めて知る。 曩(サキ)に師の偶々我々を譴責することありしは、真に吾人を思うの深きに出ることを、又信ず師諸子は実に道を伝うる所以の人にして、決て芸を売るの人あらざりしことを。 吾人は師に負うこと亦た大なり。 而して之に報ぜんには宜しく曽て其受くるところを服膺(フクヨウ)し、以て之を学び、之を行う所以の人たれ。 而して将来、此館の為に拮据(キッキョ、貧しくて苦しい生活)勉励、尽くすところあるは、又師に対するの義務を全するに外ならざることを記憶せよ。

 余は又会員諸君に謝す。 生存館の日は誘掖(ユウエキ、人が物事をするとき、先に立ってすすめ、脇から助ける)懇導の労を執られ、魯鈍の余をして卒業の幸を得せしめられたるを。 而して、数多の会員中先後に卒業せられたる諸君には、未だ曽て一語を交えざる人もあるべきも、同じく藩主の徳澤を蒙り、同窓の下に学んで蛍雪の功を積み、等しく本館に負うて将来共に倶(トモ)に館の為めに力を尽さんとするもの、豈(ア)に只だ道路の人にして已まん。 况(イワ)んや生が日々切磋せんところの教室は、又諸子が日々鍛錬せしところの教室なり。 生の用いし所の机卓は、又諸子の用を達せし所のものなり。 諸子が周旋遊戯せられし運動場にては、生も亦曽て奔走闘技でしなり。 然らば則(スナ)ち、生が会員諸子に対する所以は、単に同館卒業者たるの故を以てするのみに止まらんや。

 吾人已(スデ)に本館に負う重大なり。 又師友に受くる軽小ならず。 何を以て義務を尽さん、何を以て此責任を全うせん。 而して之を尽し、之を全うするは、実に我館友会の起りたる趣旨にて、之れあるが為めに微力ながらも直接に本館に尽すことを得るは何よりの幸なり。 而して、又師友一堂の下に相会して已往を語り、将来を戒め、共同事を為さば、其楽き思、半ばに過ぐるあらん。 而して自他を裨益する又鮮少にあらざるべし。 余は会員諸子が常に本館に負う所以を銘肝し終始一徹誠意を以てし、益々館の隆盛を企図せられんことを冀望(希望)して已まざるなり。 茲に会運の旺盛に伴い雑誌誕生の佳晨(ケイシン、よきあした)に逢い、之を祝すると同時に之を保育するの任、亦吾人にあるを以て、吾人の負担益大なるを思い、聊々所感を草し敢て諸子に告ぐ。

 以上。 尚、これに対するコメントは、ブログの容量を超えそうなので、別に掲載する。

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梶谷恭巨

 以前から探していた羽石重雄の最後の任地である旧制松本中学(松本深志高等学校)の校史『長野県松本中学校長野県松本深志高等学校九十年史』をやっと入手できた。 残るのは、後三校、「長崎中学」、「島原中学」、それに発端でもある「長岡中学」の校史となった。

 先ず、松本中学の校史によると、松本中学を退任したのは、昭和2年ではなく、昭和5年の誤りだった。 訂正する。

 さて、そこで新たに判明したのは、次の事跡である。

○大正10年度から、羽石重雄松本中学校長が「育英事業給貸費生詮衡委員」をつとめた事。
○大正15年4月、私立夜間松本中学校長を兼務
 校史に次のような記述がある。 以下、本文カタカナの部分は平かなに、旧仮名遣いは現代仮名遣いに一部変更した。
 この夜間中等学校に松本中学校校舎を提供し、校長を兼ね教諭の交流を深くしたのは、羽石重雄校長であった。 したがって、後に、「夜間中学校の如きは、地方には殆んど類例なき時に当って、率先創立したものであったが、漸次盛大に赴き、今日では他より来って範を取るという状態になったのも先生先見の明と云わざるを得ない」(『交友』75号、昭和6年1月1日、「羽石先生を送る」)と評され、また、「先生、見識高邁、夙に推されて市教育会に長たり。 屡々会員を派して各地を視察せしめ、名家を聘(ヘイ)し学理を講じ、理論と実際との調和を謀り研鑽せるを以て、市教育の進歩発展特に著し。 宜なり、全国に先じて此地に夜間中学校の設立せられたること、蓋(ケダ)し偶然にあらざるなり」(武居東一郎、「送辞」、『交友』同前)とも云われているのである。
○昭和5年、退職に経緯
 校史に次の記述がある。
 羽石校長は、「厳粛そのものゝ如き風貌」、「教うるに懇、諭すに淳、用うるに信、而して公私相弁ずるに厳」(岩垂肇「羽石先生を送る」『交友』同前)、「慈愛の情深く生徒を見ること恰(アタカ)も我が子の如」(武居東一郎、同前)く、全校深く敬慕した。 五年十一月進退に道を開いて辞表を提出したとの噂に驚いた相談会幹部は「極力校長留任につとめること」を決し、「寝食を忘れ」て奔走を開始、十七日には第一時に講堂において相談会を開き、満場一致留任運動を可決、相談会長松森正義等幹部四名が出県して陳情歎願することを決め、学校の諒承を得て急遽長野に赴き、まず先輩片山昇(第二五回、明治三七年卒、当時長野師範学校長)を訪問、その斡旋で階川学務部長に直接面会することを許されて縷々(ルル)陳情した。 学務部長は生徒代表の「意気ある純情を汲み十分認め」てくらたが、時既に遅く断念、松中の将来を深く頼んで辞去した。
 翌十八日相談会開催、昨日の顛末を交友に報告、交友もこれを了承し「この際子弟のの道としても先生を涙をのみ送ること」とした。
 十二月八日講堂において離任式。 「最後の壇上に立たれ涙を流」す校長。 式後生徒によりる送別会を開催。 「交友幾人かの熱ある涙の送別の辞にさしもの広き講堂の涙にうる」んだ。 一〇日「松中第二の恩人羽石校長」は東京経由で郷里福岡県に向かった(『昭和五年度相談会記録』)。
 相談会長松森正義・矯風会長山田正彦は、職員代表とともに塩尻まで見送ったが、山田は「いざとなれば慣れにし十年の間離別の情湧然として禁じる能わず。 殊に夫人の涙眼を以て我等を見し、未だ眼裡に歴然たり」と記している(昭和五年度矯風会記録』一二月一〇日の条)。

 これを読んで、思い浮かべたのは『Goodbye Mr.Chips』である。 それはさて置き、羽石重雄は、在任中の凡そ10年間を大過なく務めていることが判る。 これは前任の三人の校長が、何らかの事件・問題に係っているのと大きな違いがある。 羽石重雄が、岩国中学で排斥運動により依願退職し、空白の二年後、柏崎中学に赴任した事情を考えると、丸みが出たというか、教育に対する姿勢の変化があったのではないかと考えられる。

 また、離任の月日から推測して、福岡で何かが起こり、帰郷を決意したのではないだろうか。 そうすると、明治27年7月に死去した「羽石藤次郎」(明治22年、原村村長)は、父ではなく、祖父であった可能性がある。 推測だが、福岡県早良郡原村の羽石家の家督を相続したのが、離任の事由であったのではないだろうか。

 いずれにしても、羽石重雄の人物像が何かしら見えてきた。

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梶谷恭巨



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