柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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(22)他人の技能を見出すは容易ならず、附佐藤某女の咏歌(詠歌)と野津中将(鎮雄)文藻(続き)

 又明治維新の戦争と、十年西南役とに、驍名高きありし故、陸軍中将野津鎮雄君(野津大将の兄)が陸軍省の局長たりし時より、余はよく交りあり、君の勇武なるは常に知る所なりしが、君の文藻に至りては、さしたる事なしと思惟し居たるに、明治八年佐賀役の時、余は久留米に居り、一日官用ありて博多に至りしに、野津中将(其頃は少将なりしと覚えたり)博多に在り、此役に死せり小林中尉の墓に詣でんとて同行をすすめられしゆえ、共に馬を併(ナラ)べて箱崎松原の埋葬場に至りて、墓標に花水を供して帰りがけに、野津君は一首出来たりと申されしゆえ、何がと尋ねしに、

 思きや箱崎山の松が根に、君を残して帰るべきとは

と口吟まれしには余は一驚を喫したり、暫くして是は真に貴君の詠なりやと尋ねしに、君笑を含み、「君は余を馬鹿によるぜ、余は中々歌よみだよ」と申されし、其後君も余も熱海の温泉に浴せし時に、夜来雪ふりて四山皆白く座敷をたて込めて火鉢を擁し居たるに、君は余の座敷の戸を開きて入来られ、今朝は寒くて兎猟にも行かれぬ、君は詩でも作られよ、余はうたでも詠で復た君を驚かさんなどと戯れつつ、出来た出来たとて硯箱を引寄せ、在合(アリアワセ)の半切に、

 埋もれぬ物こそなけれ降る雪に、梅が香のみは埋まれざりけり

と書かれしに、余閉口して一詩も成らざりし、余は久しく交りても数年の後に、君の此文藻あることを見出したり、世人は野津鎮雄君の驍名は知るも此文藻をば知らざる人多かるべし、君の事に付いては世に紹介したき話も頗る多し。

 評曰、先生人を見るの明人、皆其照々たるを称するも、尚此事あり、一見他人を下視する輩深く警(イマシ)むべき也。

(注)野津中将(鎮雄): 天保6年9月5日(1835年10月26日) - 明治13年(1880年)7月22日、鹿児島市高麗町に薩摩藩士・野津七郎の長男として生まれる。 通称、七左兵衛。 父・七郎は、同藩折田家から出て野津家を継いだが、鎮雄・道貫兄弟が幼い時に死去。 兄弟は、親戚などに寄食し、鎮雄が郡山中村の書役の職を得てから同居した。 以下経歴:
慶応3年(1867)11月、倒幕の密命により薩摩藩兵上京の際、小銃五番隊長。 弟・道貫は、小銃六番隊軍監
慶応4年(明治元年)1月3日、鳥羽伏見の戦で、最初に発砲し、戦端を開いたのが野津兄弟の小銃五番、六番隊と云われる。 道貫は、此の時、六番隊長・市来勘兵衛の戦死により隊長に昇格。 以降、中仙道から江戸へ、更に、総野、白河、二本松、会津を転戦。 道貫は、この間、宇都宮で大鳥圭介の幕軍との闘いで負傷。
明治4年(1811)7月28日、兵部権大丞、大佐
明治5年9月2日、陸軍省築造局長、少将
明治6年3月31日、同第四局長(工兵関係)
明治7年4月12日、兼、熊本鎮台司令長官代理
明治7年11月27日、免兼
明治8年6月23日、熊本鎮台司令長官、免第四局長
明治9年6月13日、東京鎮台司令長官
明治10年2月27日、征討第一旅団司令長官
 西南戦争、兄弟共に田原坂で激戦す。 道貫は、征討第二旅団参謀長・大佐)。
明治10年4月、凱旋
明治10年11月20日、中将
明治11年12月14日、中部監軍部長
明治13年7月21日、没
明治13年7月25日、正三位贈
(注)文藻: 文才
(注)野津大将: 天保12年11月5日(1841年12月17日) - 明治41年(1908年)10月18日)、野津道貫、通称、七次。 野津鎮雄の弟。 以下、経歴(以前については、野津鎮雄の項、参照): 
明治4年7月23日、陸軍少佐
明治7年1月14日、大佐
明治7年1月15日、近衛参謀長心得
明治10年2月19日、征討第二旅団参謀長
明治11年11月20日、陸軍省第二局長(歩兵騎兵関係)、少将
明治11年12月14日、東京鎮台司令長官
明治12年9月25日、東京鎮台司令官(兵制の改変による)
明治17年2月16日、大山陸軍卿外遊随行
明治17年7月7日、子爵
明治18年1月25日、帰国
明治18年5月21日、中将
明治18年5月21日、広島鎮台司令官
明治21年5月14日、第五師団長(広島)
明治27年6月12日、動員下令(日清戦争)
明治27年12月19日、第一軍司令官
明治28年3月18日、大将
明治28年5月9日、凱旋
明治28年8月5日、伯爵、功二等
明治28年11月9日、近衛師団長
明治29年5月10日、東京湾防禦総督
明治29年10月14日、東部都監
明治33年4月25日、教育総監
明治33年12月8日、兼議定官
明治37年1月14日、軍事参議官
明治37年6月30日、第四軍司令官
明治39年1月12日、軍事参議官
明治39年1月31日、元帥
明治40年9月21日、公爵、功一等
明治41年10月6日、大勲位
明治41年10月18日、没、(68歳)、正二位
(注)明治八年佐賀役: 「明治八年」は、記憶違いか。 「佐賀の乱」は、明治7年(1874)の事。 年表的には、2月1日の憂国党の小野組強談判に始まり、3月1日に鎮圧、4月13日に江藤眞平の処刑に終わる。 鎮圧の契機となったのが、野津鎮雄少将指揮の東京鎮台砲隊と大阪鎮台二個大隊を基幹とする政府軍の総攻撃だった。 尚、この事(石黒と野津会合)が、明治8年であるとすれば、政府軍がその年も未だ、戦地に駐屯していたということだろうか。
 このエピソードは『懐旧九十年』の「佐賀出征、野津鎮雄少将の詞操」にある。 これによると、石黒忠悳は、軍医長として明治7年3月に参戦し、久留米に陣中病院を設けている。 その時、地形から水害を予想し、病院の移転を建白して、病院を移動している。 後に、この事が幸し水害を免れたと書いているが、筑後川の水害年表(インターネットに掲載)によれば、明治7年(1874)8月27日に、「大風・洪水」とあり、三潴(ミズマ)郡一帯が甚大な被害を受け、死者500人、負傷者800人、人家倒壊・流出約20000戸、救助民約11万5千人とある。 文中、「建白して二ヶ月ばかり」とあるから、建白したのは、6月という事だ。
 また、久留米滞在中に、「両三度高山彦九郎の墓を参詣しました」とあり、その後に、博多の病院を訪ねた時に、野津少将を訪問している。 この事から、佐賀の乱後、かなりの期間、戦後処理の為、政府軍が駐屯し、陣中病院が継続したのだろか。
(注)熱海の温泉に浴せし時: 『懐旧九十年』によると、この時、「伊藤博文公夫妻や野津氏夫妻も来ておられ」とある。 明治10年には西南の役があり、野津鎮雄は明治13年7月に死去しているから、梅の開花の時期を考え、明治11年12年あるいは13年の二三月頃の事であろうか。
(注)半切: 書道に使う半紙。

 当時の軍人には、武弁一点張りではなく、文章・文学の素養があったようだ。 日露戦争で有名な広瀬武夫中佐や乃木将軍なども、その一人だろう。 余談だが、福沢諭吉の自伝『福翁自伝』に、緒方洪庵の敵塾時代の師弟関係が書かれている。 当時の師弟関係は、単なる師弟と云うより、親子関係に近いものがあったようだ。 こうした師弟関係が、その後の姿勢に現れるのだろう。 福沢諭吉が自伝を書いた時代、既に過っての師弟関係は既に失われていたとある。 ましてや今の時代、こうした人間味のある師弟関係など望むべくもないのだが、矢張り憧れを感じるものだ。 案外、職人の世界が世情に上るのは、こうした心情的背景があるのかも知れない。

Best regards
梶谷恭巨

 このところ、明治前後の文献など手当たり次第読んでいる。 とは言うものの、どうも体調の宜しきを得ず、あれを読まねば、これを読まねばと思いのみが先行するばかり。 まあ、それでもと、気を取り直して、拾い読み。 有名なものは、この際、飛ばし、日記とか覚書に目を通す。 その一つが、福沢諭吉の文集である。

 そして、面白いと思ったのが、『覚書』だ。 何と言うか、本音がキラリと光るのが愉快なのである。 例えば、その冒頭の一文がある。 それを引用してみよう。 以下、原文(『福沢諭吉選集』、岩波書店第12巻)。

 「有名有用の人物が出来ても、兎角、其生まれ故郷にては之を軽蔑するの風なり。 西洋諸国にては此事如何。」

 現在から見れば、全く逆の感があるが、その時代背景を知る上で、この一文は重要である。 例えば、「故郷に錦を飾る」という言葉がある。 また、「錦(にしき)を衣(き)て夜(よる)行くが如(ごと)し」とは、『史記』にある楚の項羽の言である。 漢文が教育の基本に在った江戸時代、それが、明治になると、福沢諭吉に言を借れば、逆転しているのである。 これは、どういうことだろう。 因みに、この『覚書』は、明治8年9月頃から書き始め、明治10年辺りまで書かれたもののようだ。 同書後記によると、この頃は、『学問のすすめ』が14冊まで刊行され、『文明論之概略』の就筆が終わり、読書思索に専念していた時期だそうだ。 

 確かに、出身地で苦労し、後に成功した人に対し、一種の「やっかみ」、あるいは嫉妬心があることは事実だろう。 しかし、そんな場合でも、余所者から、その人を批判されると、寧ろ擁護するのが常ではないか。 してみると、成功して故郷に錦を飾らなかったことが、「軽蔑の風」を生んだのであろうか。 また、これは、福沢諭吉自身に限定された感情なのか。

 長年、柏崎や長岡近隣の先人の足跡を追ってきたが、多くの場合、地元の人々が、そうした先人の存在さえ忘れられている事実にしばしば遭遇する。 30年以上新潟県に住んでいるが、依然として余所者である自分の感覚からすると、実に不可思議なのである。 例えば、柏崎を例に挙げれば、フランス文学者である杉捷夫や政治学者である蝋山政道などが揚げられる。 杉捷夫の父・卯七(日本石油研究所初代所長ほか)は山口県の出身ということもあるのだろうが、蝋山家は、柏崎大洲で古くから越後のちりめんを扱った大問屋(売り子の総元締め)であり、後に、高崎に造り酒屋の株を買い、祖父母を残し高崎に引っ越すのだが、子供たちは、大洲小学校で学び、旧制柏崎中学を卒業しているのだ。 因みに、蝋山政道は、一般的には、高崎に引っ越したから高崎出身ということになっている。

 こうしたことが(忘れられている事実)、「軽蔑の風」に当たるのだろうか。 若しそうであるならば、地域の衰退の原因であるとも考えられるのだが。

 単に、『覚書』の冒頭の文のみから想像するには短絡に過ぎるのかも知れない。 しかし、これが冒頭に書かれているのである。 私事だが、旧制中学の校長の足跡を追う上でも、このことは重要である。 羽石重雄は、後に故郷である福岡の庄村に帰るのだが、その後の消息が掴めない。 それどころか、現在、福岡に羽石という姓さえ未だ見つけていないのである。 各地の旧制中学の校長を歴任して、故郷に帰えれば、一般的な感覚として、それなりの尊敬を得、それなりの地位に就き、家系が末代まで続くものと考えていたのだが、さて、どうしたものかと思案する。 因みに、もう一人の旧制長岡中学校長である橋本捨次郎は、学習院教授、旧制松山高等学校長を歴任し、神奈川県の葉山を終の棲家としたそうだが、葉山町などに問い合わせても、記録を発見することが出来なかった。 彼の場合、滋賀県彦根の出身だが、捨次郎の名前から推測すると、長男ではないことから彦根には戻らなかったのかも知れない。

 本当は、『覚書』に見られる福沢諭吉の諧謔的な表現の面白さと時代を感じさせない内容の愉快さを紹介する積りが、思わぬ方向に展開してしまった。 ただ、当時の生まれ故郷の「軽蔑の風」については、現在をも観て、検証する必要を感じたのである。

Best regards
梶谷恭巨

謹賀新年

 今年も、易を立ててみた。 結果、震(下)巽(上)、益(風雷益)の卦が出た。

 益は、往くところあるに利(ヨ)ろし。 大川を渉るに利ろし。
 彖(タン)に曰く、益は、上を損して下を益す。 民説(ヨロコ)ぶこと彊(カギ)りなし。 上より下に下る、その道大いに光(アキラ)かなり。 往くところあるに利ろしとは、中正にして慶びあるなり。 大川を渉るに利ろしとは、木道すなわち行なわるるなり。 益は動きて巽(シタガ)い、日に進むこと彊(カギ)りなし。 天は施し地は生じ、その益すること方なし。 およそ益の道は、時と偕(トモ)に行なわる。

 象に曰く、風雷は益なり。 君子もって善を見ればすなわち遷(ウツ)り、過ちあればすなわち改む。
 益は益すの意。 上卦初爻(コウ)の陽を損して陰とし、下卦初爻の陰に益して陽とする象であり、人事をもって言えば、上、君を損して下の民を益する象。 下厚ければ上もまた安らか、故に行って事をなすによろしく、大川を渉るがごとき大事を行うにもよろしい。

 [彖伝]益は、上を損して下を益することであり、このようにすれば民のよろこびもかぎりない。 上より下に下るのであるから、その道は大いに光明である。 往くところあるに利ろしきというのは、二と五が中正だから慶びが生ずるのである。 大川を渉るに利ろしというのは、木道(ボクドウ、巽は木、震は動く、木が動くとは、舟をしたてて川を渉る象)が行われるからである。 益とは動いて(震)巽(シタガ、巽)い日ごとにかぎりなく前進することである。 天は施し地は生ずるという働きによって、万物を増益することは際限がない。 すべて物を益す道は、その然るべき時機に応じて行われるものである。

 [象伝]風(巽)と雷(震)のあるのが益である。 風雷相い助け相い益することの卦象にのっとって、君子は善を見れば遷ってこれに従い、過ちがあればこれを改める。

*以上、岩波文庫、易経(下)より。

 一昨年が革「澤火革」、簡単に言えば盛りを過ぎて変革の時、昨年が賁(ヒ)「山火賁」で、地道にてくてくと歩くという意味合いがあり、先ずもって、当を得た卦であったといえる。 毎年、卦を立てるのは、湯浅の祖父以来の伝統だが、祖父の没後、話しは聞いていたが、中断していた。 自分は、高校時代から、その話を聞き、何時しか毎年の恒例として易断を行うようになった。 メルマガ『柏崎通信』に恒例として掲載し始めたのは、2、3年前かと思うが、先人の経験と智慧、疎かには出来ないと、先の卦を振り返って思うのである。

 ただ、これも解釈の問題である。 故に、特にコメントは書かないが、皆さんの指針となれば幸いである。

Best regards
梶谷恭巨

 特に何をした訳ではないのだが、カウンターが狂ってしまった。 管理者に問合せをしている。 回答は来週になるだろうが、どうも、このブログ・サイトには問題があるのかもしれない。

Best regards
梶谷恭巨
 
追伸: 投稿して記事を確認したら、カウンターが正常に戻っていた。 杞憂だったのかも知れない。

 そもその発端である柏崎での横山健堂と杉卯七との三者会合の話題である「大塩平八郎と生田萬」の事については、別に書いている。 因みに、この時の事情を横山健堂は『大塩平八郎と生田萬』と題し雑誌『日本』に掲載した。 また、文中には、この会合の趣旨を羽石重雄の柏崎中学校長就任と杉卯七の日本石油勤続25年を記念して会合したと書いている。 この詳細に関しては『柏崎通信』に掲載している。 ただ、その後の取材から、新たに発見したことがあるのだが、それは別項にて。 ただ、人脈を追うと、前任の校長である高宮乾一(赴任先、熊本の明善中学校)との関係が推測され、それぞれの前後の人事関係を集材するが、今のところ資料による裏づけを得ていない。

1915 大正 4     45 新潟県 新潟県立柏崎高校第四代校長
 ■新たに判った事実: 柏崎中学第二代校長・高宮乾一は、何と!明治30年7月、文科大学国史科で同期卒業なのである。
 ■『東京帝国大学一覧』では、東京出身とある。 そこで、第一高等学校の卒業名簿を調べたが、見当たらない。
 ■高宮乾一は、大正元年10月11日、離任、福岡県立明善中学校(久留米、現福岡県立明善高等学校)校長に転任している。
 ☆羽石重雄の前任校長・元田竜佐は、長岡中学第20代校長に転任
1917 大正 6     47 新潟県 新潟県立長岡中学第22代校長
 ☆時代が前後するが、明治30年前後、「仙田楽三郎」が長岡中学校第12代校長に就任している。 「仙田楽三郎」は、戊辰戦争当時、長岡藩士、苦学の末、教育会の重鎮をなすのだが、詳細不明。 ★仙田楽三郎については、別項を設ける。
1918 大正 7 12 6 48    
1919 大正 8 4   49 長野県  
1920 大正 9 5 31 50 長野県 長野県立松本中学校第四代校長
1921 大正 10     51   大正10年度から、羽石重雄松本中学校長が「育英事業給貸費生詮衡委員」をつとめた。
1922 大正 11 1 9 52 長野県 始業式で校長訓話
1923 大正 12 3 10 53 長野県  
1923 大正 12 6 28 53 長野県 東京朝日新聞から甲信越野球大会の勧誘状が来たが、今春の中学校長会議によって謝絶。
1923 大正 12 9 1 53 長野県  
1924 大正 13 6 3 54 長野県 私立夜間松本中学校、市立松本女子職業学校校舎で開校式、元諏訪高等女学校長・河野齢蔵が校長に就任。
1925 大正 14     55    
1926 大正 15 4   56 長野県 私立夜間松本中学校長、松本中等学校長羽石重雄が兼務
1926 大正 15 12 25 56 長野県  
1927 昭和 2     57 長野県 松本中学校校長退任、最後の任地になったようだ。
1928 昭和 3     58    
1929 昭和 4     59    
1930 昭和 5 11 17 60 長野県 羽石校長に引退の意ありと聞き、相談会総会を開き留任運動を起こすことを決定、幹部4名即日出県
1930 昭和 5 11 28 60 長野県 羽石校長退任
1932 昭和 7          
1935 昭和 10       福岡県 昭和10年の「福岡電話局電話番号簿」に記載がある。 晩年、父・藤次郎の家督を継ぎ、帰郷したと思われる。

Best regars
梶谷恭巨

 



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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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