柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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このところ、幕末外交史と語学教育について調べている。 明治中期以降の旧制中学の校長の足跡を追いかけていたが、情報保護の壁に当たり、思うような進展が無い。 そこで、本来の目的である当時の教育が、その後の日本に及ぼした影響と、それが今現在あるいは将来への指針となりはしないかと、幕末あるいは維新前後の状況を調べることにした。

 そこで興味を持ったのが、幕末外交しにしばしば登場するフランスの通訳官あるいは宣教師でもあるメルメ・カションという人物である。 しかし、この人物に就いての情報が意外に少ないのである。 カションについて単独に扱った本は、今のところ、富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』くらいしか見当たらないのだ。 益々好奇心が湧く。 そこで、この本を探し購入した。 横浜の有隣堂出版の680円新書版だが、プレミアが付いているのだ。 その最安値をさがした。 因みに、1000円。 著者である富田日本大学教授(昭和55年当時)も、フランス本国で、カションの事が殆ど知られていない事に驚いておれれた様だ。 もっとも、その後研究が進んでいることも事実なのだろうが。

 
富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』をやっと読み終わった。 この人物が、本国であるフランスで、何故注目されなかったのか、改めて疑問に思った。 当時のヨーロッパは、動乱の時代である。 普墺戦争(
1866)、その結果、プロイセンはドイツ連邦の盟主となり、普仏戦争で勝利して、ドイツを統一する。 しかも、ナポレオン三世は、メキシコでも戦っているのだ(18611871、マクシミリアンはナポレオン三世の弟)。 兎に角、ナポレオン三世は、帝国主義の権化であるような人物である。 結果として、第三帝政は、1871年のナポレオン三世の亡命によって終焉する。 故に、こうした背景を抜きにしては、カションの事を語れないと思うのである。

 それは、さて置き、カションの日本における足跡は、幕末史に大きな影響を与えたのではないだろうか。 ただ、残念なのは、富田氏の言うように、アーネスト・サトウと違い、日記などの文献資料が残っていないことである。 しかし、カションは、イエズス会派の宣教師であった訳だから、所属するパリの外国宣教会に定期的報告を送っていたはずであり、アイヌに関する書籍の出版や仏英和辞典なのどの編纂などしているのだから、筆不精という訳ではないと思えるのだが。

 ここで、少々長くなるのだが、カションの略歴を紹介しよう。 (富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』 より) 尚、関係者、例えば、アーネスト・サトウなどとの比較年表を作成中だ。 かなり面倒な作業なので、しばらく掛かりそうだが、随時紹介していく予定である。

1828年(文政11年)910日、フランスとスイスの国境に近いジュラ山脈の寒村、レ・ブーシューに生まれる。 
 その後、時期不詳だが、サン・クロードの神学校に入学。
1843年(天保14年)38日、フランス人フォルカード神父マカオに到着、この時、会計助役になる。
同年630日、アーネスト・サトウ、ロンドンのクランプトンに生まれる。
1844年(弘化元年)311日、アルクメール号で那覇に来航、フォルカード神父らと、以降に年間、聖現寺に幽閉
1846年(弘化3年)51日、フランス船サビーヌ号那覇に来航、フォルカード師の日本教区長任命を伝える。
 同年728日、フォルカード師、セシル提督のフランス・インドシナ艦隊に搭乗し、長崎港外に来航(フランス船の日本内地初来航)

1847年、薩摩藩士・岩切栄助、フランス語学習を命じられる。
同年、フォルカード師、香港で司教に就任、後、帰国する。
18485月、村上英俊、フランス語事始に取組む
185271日、パリ外国宣教会に入る。
1852711日、パリ外国宣教会神学校に入学
1853年(嘉永6年)63日、ペリー来航
1853521日、副助祭
1853718日、ロシアのプチャーチン、長崎来航
18531217日、助祭
1854年(嘉永7年)、村上英俊『三語便覧』を刊行
1854年(安政元年)33日、横浜で、日米和親条約調印
1854610日、司祭
18548月、下田で日英和親条約調印
18541221日、下田で日露和親条約調印
1855年(安政2年)226日、カションら那覇に到着、聖現寺で日本語を学習
18551015日、琉仏和親条約締結
同年、村上英俊『洋学捷径・仏英訓弁』刊行
1856年(安政3年)721日、アメリカ総領事ハリス、下田来航
同年、アーネスト・サトウ、ロンドン西北郊外のミル・ヒル・スクールに進学。
1857年(安政4年)118日、カション、病気療養の為、香港へ出発
1857年(安政4年)118日、蕃書調所、授業を開始
同年710日、日蘭修好通商条約調印
同年711日、日露修好通商条約調印
同年718日、日英修好通商条約調印
同年、村上英俊、『五方通話』刊行
1858年(安政5年)8月5日、カション、グロ全権の通訳として、下田に来航。
同年812日、カション、本牧沖に到着。
同年816日、カション、品川に上陸。
同年93日、江戸で、日仏修好通商条約調印、条約文にカション訳の片仮名文を添付。
同年329日、村上英俊、蕃所調所教授手伝いになる。
同年62日、長崎・函館開港
1859年(安政6年)810日、ベルクール総領事、カションと共に来日、江戸・三田の済海寺に公使館を開設。
同年922日、日仏修好通商条約批准書交換。
同年1125日、カション函館に赴任、称名寺に住す。
同年、アーネスト・サトウ、ユニヴァーシティ・カレッジに入学。
同年12月、蕃所調所で、フランス語学習あ建議される。
1860年(万延元年)33日、桜田門外の変
同年4月、蕃所調所で、小林秀太郎ら4名がフランス語学習を始める。
同年47日、ベルクール、代理公使昇任を幕府に通告
同年7月、カション、パリ外国宣教会より、ジラールに代わり、日本教区の長に任命されるが辞退。
1861年(文久元年)、暴漢に襲われるなど、身辺に機器を感ず。
同年6月、アーネスト・サトウ、外務省通訳生試験に合格。
同年8月、アーネスト・サトウ、領事部門の日本通訳生に任命。
同年10月、アーネスト・サトウ、ユニヴァーシティ・カレッジ卒業。
同年11月、アーネスト・サトウ、極東へ向け、サザンプトンを出航。
1863年(文久3年)1月、アーネスト・サトウ、上海到着。
同年4月、アーネスト・サトウ、北京英国公使館に到着。 中国語学習に専念。
同年815日(陽暦98日)、アーネスト・サトウ、横浜に到着。
1862年(文久2年)821日、生麦事件
同年12月、アーネスト・サトウ、ニール代理公使に随行して江戸に入府。
1963年(文久3年)夏頃、函館を去り、一旦、帰国
同年1月、高杉晋作らが、御殿山・英国公使館を焼討。
同年7月から8月頃、長州藩が、米国商船や仏国軍艦を砲撃。
同年72日、薩英戦争
同年8月、アーネスト・サトウ、薩英交渉の為、軍艦アーガス号で鹿児島へ。
同年914日、井上ヶ谷で、カミュ殺害される。
同年1229日、遣欧使節・池田筑後守長発ら、横浜を出航。
1864226日、岩松太郎(使節団目付・河田相模守家来『航海日記』を残す)、香港でカションと会う。
1864年(元治元年)322日、レオン・ロッシュ、横浜に赴任、カションを通訳官に任命。
同年74日、横浜鎖港談判の席上で、栗本鋤雲と再会
同年1110日、幕府、横須賀製鉄所の建設をロッシュに一任。 横浜仏語伝習所開設が建議される。
同年、村上英俊、『仏語明要』刊行
1865年(慶応元年)129日、幕府、横須賀製鉄所建設約定書をロッシュに手交。
同年36日(?)、横浜仏語伝習所開校
1866年(慶応2年)99日、カション、ラ・ブールドネー号で、横浜より帰国。
同年10月、ロッシュ、横浜仏語伝習所得業式に出席。 塩田三郎が、その時の祝辞を翻訳。
同年、カション、パリで『日本養蚕論』(上垣守国『養蚕秘録』の翻訳)、『仏英和辞典』刊行。
同年、カション、パリ外国宣教会を離脱。
1867年(慶応3年)111日、徳川昭武、パリ万国博覧会出席の為、横浜出航。
同年41日、パリ万国博覧会開幕。
同年411日、徳川昭武、パリに到着。
同年428日、徳川昭武、フランス皇帝・ナポレオン三世と会見、カション通訳として陪席。
同年9月8日、栗本鋤雲、マルセイユに到着。
同年113日、万国博覧会閉幕。
1868年(慶応4年)19日、カション、向山隼人正の送別会を欠席。
同年、村上英俊、『仏蘭西答屈智畿』刊行。
1868年(明治元年)315日、村上英俊、私塾・達理堂を開設。
同年516日、カション、栗本鋤雲の送別会に出席。
明治4年頃、カション、ニースで死去。

(注1)富田氏の年表は、少なくとも、日本国内に関しては、陰暦で書かれているようだ。
(注2)青字は、一般的歴史事件
(注3)赤字は、アーネスト・サトウに関して。
(注4)村上英俊: 1811年5月29日(文化8年4月8日)-1890年(明治23年)1月10日、下野国佐久山(栃木県大田原市)に生まれ、江戸で医学・蘭学を修めた後、信州松代に移住、佐久間象山の勧めで、フランス語を独習する。 松代藩主・真田家の後援を得て、江戸の松代藩邸に住み著作に専念。 明治18年には、レジョン・ドヌール勲章を授与。 年譜に就いては、上記年表を参照。(朝日人物事典参照)
(注5)栗本鋤雲: 1822年5月1日(文政5年3月10日)-1897年(明治30年)3月6日、名を鯤(コン)、号を瑞見、通称を瀬兵衛。 幕府の典医喜多村槐園(カイエン)の三男にうまれる。 昌平坂学問所で学び、後に栗本氏を継ぎ、奥詰医師になるが、1858年(安政5年)2月24日、蝦夷地・函館に赴任、カションと知り合う。 昌平坂学問所頭取、目付、横須賀製鉄所御用掛、外国奉行を歴任。 徳川昭武の補佐役として渡欧。 帰国後(1868年、明治元年)、1873年(明治6年)以降、『報知新聞』の主筆を務める。
 

 以上の様に、カションの幕末外交史での存在は重要である。 カション自身も、そう考えていたようだ。 結論的に言えば、比較年表から判断する以外にないように思える。 そこで、先にも書いたように、比較年表は作成中だ。 ところが、これが膨大になりそうなのである。 羽石重雄の年表まで含むと、幕末から昭和初期までになる。 比較する本も、『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』と富田氏の著作、それに渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』などを引きながら、登場人物をインターネットで検索している。

 長くなったので、今回はこの辺りで。 ただ、比較人物史は、歴史研究に於て意外に手薄な分野である様に思える。 これも、唯物史観の影響だろうか。 続きは次回に。

Best regards
梶谷恭巨 
 

 休刊状態で申し訳ありません。 このところ、薬の副作用の影響か、視力が極端に衰え、本を読むのも侭ならない。 メルメ・カションの記事も、メルマガ版には書いたのだが、事実関係を確認してからブログに掲載しようと思っていても、長時間文献などを見ていると、天眼鏡の助けを借りなければならなくなる。 ここ二週間は、薬の服用が無いので、続きを推敲しています。 そんな訳で、暫くのご容赦を。

Best regards
梶谷恭巨

 萩原延壽著『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』(第四巻『慶喜登場』、第五巻『外国交際』)で、興味ある記事に遭遇した。 すなわち、英語学校(English College)設立の問題である。 慶応3年(1867)429日、この日、将軍・慶喜と英国公使・パークスの内謁見(ウチエッケン、非公式の会見)が行われた。 そこで、慶喜から留学生の話が出るが、パークスは、経費と西欧文化普及の為には、留学の前に予備知識を授業する方が有効であるとして、「予備門」の設立を提案する。 (パークスは、この時、学校設立に関する清国の総理衙門の意見書の写しを提示している。) 慶喜は大いに大いに関心を示し、後日、具体的な話に展開する。 序に言えば、この時、パークスやサトウは、慶喜の人品・資質に大いに感銘し、英国外務省に対する公的報告書でも、慶喜を高く評価している旨、報告している。

 同年528日、江戸に帰ったパークスは、英語学校の設立に関する正式な援助の要請を老中・小笠原長行(ナガミチ)から受け、試案を作成している。 その概要を、萩原延壽(ノブトシ)著『遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄』(第五巻、『外国交際』)から抜粋する。

授業科目
(1)歴史、経済学、国際法
(2)英語、英文学、地理 
(3)数学、物理学、天文学
(4)工学
(5)化学
 「教師は、英国から大学を優秀な成績で卒業した者四名を教師として招聘し、そのうち校長をつとめるものが(1)を担当し、のこりの二名が(2)を、もう一名が(3)を教え、(4)は幕府が土木技師の雇い入れを計画しているので、これに教授の仕事を一任し、(5)はすでに幕府が雇い入れているオランダ人ハラタマ博士(Dr. Koenrand Woutler Garatamaに依頼するというものであった。 イギリスから招聘する四人の教師の報酬としてパークスが提案したのは、校長が年俸4800ドル(1200ポンド)、他の三名がそれぞれ年俸2400ドル(600ポンド)である。 ちなみに、通訳官サトウの当時の年俸は500ポンドであった(パークスよりスタンレー外相への報告、1867627日付)」 以上、科目は、箇条書きに、また便宜上、かな表記を漢字に、科目の数字に()を付けた。

(注)オランダ人ハラタマ博士: クーンラート・ウォルテル・ハラタマ(Koenrad Wolter Gratama)は、1831年4月25日にオランダのアッセンで十一人兄弟姉妹の末弟として生まれた。父は裁判官で後にアッセン市長にもなっている。ハラタマはユトレヒトの国立陸軍軍医学校を卒業後、三等軍医として一年間ネイメーヘンで軍務につき、1853年に母校である軍医学校の理化学教師となった。一方で、ユトレヒト大学の医学部、自然科学部に学生として在籍した。その間に二等軍医に昇格していた。
 1865年(慶応元年)の末に日本政府の幕府からハラタマに長崎分析究理所における理化学教師として招聘され、翌年4月16日長崎にしている。ハラタマの任務はボードウィンの下、養生所での調剤なども含めた病院の監督業務と、分析究理所での化学、物理学、薬物学、鉱物学、植物学などの自然科学の講義であった。その講義は医学所(精得館)の医学教育の基礎教育を担当する意味もあった。新たに設立された分析究理所の運営はハラタマに任された。ハラタマのオランダ語の講義は、随行する三崎嘯輔が通訳してほかの学生に伝えたと推測されている。この学生達の中に、後に日本の医学、科学の先覚者となる池田謙斎、戸塚静伯、松本圭太郎、今井厳などがいた。 (以上、長崎大学薬学部『長崎薬学史の研究』第二章「ハラタマの来日」から、詳しくは、
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp2/chapter2-1.html

 ハラタマ博士は、1866年から5年間、江戸幕府から明治政府へ移る激動期に日本に滞在し、1869年に理化実験棟をもつ学校「舎密(セイミ)局」を大阪城前に開設した。彼はそこで化学を講義し、オランダから運んできた試薬と実験器具を用いて化学実験を教えた。これによって舎密局は、講義と実験による本格的な近代化学を日本に最初に導入した記念すべき場所となった。(以上、ハラタマ・ワークショップ2009より、詳しくは、
http://www.chem.sci.osaka-u.ac.jp/gratama/index-j.htm

 また、同報告書で、大学に付いては、アイルランドの大学、特にダブリンのトリニティ・カレッジとベルファースト・カレッジ(通訳生・アストンの母校)を推薦し、「すぐれた人材を生み出しており、その教育課程は他の大学のそれにくらべ、海外では働く者に、よりふさわしくできているように思われる」と。 また「人物は絶対に紳士でなければならず、・・・・かれらがフランスから派遣されてくる人物に決して引けを取らないことを強く望む」と書いている。

 これに対し、スタンレー外相は、「要求しているレベルの大学卒業生は、イギリス本国とインドで良い就職の機会に恵まれている為、・・・・説得して日本行きを承諾させることが出来なかった」と返答している。

 しかし、この話は、幕府の崩壊によって沙汰止みになるのだが、軍関係を除けば、最初に登場する外国人お雇いの学校設立の計画ではなかったのではないだろうか。 また、後に、設立される「大学予備門」も、この辺りに原点があるのではないだろうか。

 加えて、ここで興味を引くのが、アイルランドの大学を推奨していることだ。 確かに、通訳生・アストンの母校にも関係するのかも知れないが、アイルランド独立運動が、ナポレオンの時代にも盛んであったことを考えると、何かしら背景を想像するが、その辺りの事情は、書かれていない。

 ただ、歴史上、お雇い外国人の系譜を辿る時、この「英語学校」設立計画の存在は興味深いことを付け加える。

Best regards
梶谷恭巨

 この記事は、配信版の『柏崎通信』(昨年12月4日、737号)に掲載したものだが、改めて適塾の出身者を調べていたら、思い出して、序の事だから、掲載しようと思った次第。 以下、その記事を紹介する。

 私の故郷である広島県山県郡安芸太田町(旧・加計町)は、今や典型的な過疎の町である。 しかし、昔から医療過疎という問題は無い地域だった。 歴史的社会的背景から不思議には思っていたのだが、特に気にも留めていなかった。 ところが、脚気問題で緒方惟準(洪庵の長男)を調べる序でに、曾孫である緒方富雄の『緒方洪庵伝』附録の適塾姓名録を調べてみると、何と、山県郡から適塾に入門した人物が二人も居るのである。
 一人は、小田松眠(安政3年10月20日入門)、もう一人は、今田隆軒である。 詳細は不明だが、小田松眠は、それこそ加計の人で、姓名録には小田松調の忰(セガレ)とある。 また、今田隆軒は、安政7年正月十九日、芸州山県郡とのみ記載。 いずれにしても、当時の状況を考えると、芸北から二人が適塾(適々斎塾)に入門していたという事実には驚くのである。

 そこで、当時の山県郡の状況を考えてみた。 山県郡は、主に太田川の流域に沿って発展した。 主な産業は、たたら製鉄、それに薪炭と材木の産地であった。 余談だが、戦国時代は、山陰・尼子氏の山陽への進入経路のひとつであり、「加計」の由来である「架け橋の戦」など、毛利氏との最前線だった。 更に、余談。 安芸の国の守護は、始め武田氏。 武田氏の所領は、最盛期、甲斐、常陸、それに安芸だった。 面白いのは、これ等の地に同じ地名があることだ。 しかも、その地域には金を産出する。 例えば、久慈、太田、山縣(山形)など。 常陸では、久慈川の上流に太田や山形があり、金砂郷は字の如く砂金を産出した。 広島では、太田川の上流が山県郡、久慈という地名もあり、勝草というところで金を採掘していたそうだ。 興味深い。

 手持ちの資料が無いので、詳しくは言えないが、芸州広島の太田川水系は、昭和の初期くらいまで、栄えた地域だったのである。 事実、太田川沿いには大きな家が多い。 随分昔の事だが、広島大学から調査団が来た事があるそうだ。 私の実家にも、名前は失念したが建築学の教授が調査に見えたことがあったそうだ。 その時、判ったのだが、家の構造が、表から見るより実際には大きいのだそうだ。 また、人の出入の多い土間や広間の構造と奥の座敷では、明らかに建築様式が異なると言われた。 水野忠邦の倹約令の影響とも言われている。 いずれにしても、大阪の適塾に入門者を出す程に、芸北の地は、豊だったということなのだろう。

 序でに言えば、私事だが、適々斎塾姓名録が書き始められた天保15年に、親族である広島草津の「西」の名前があった。 これも驚きである。 今その家系は、北海道札幌にあり、歯科医院を営んでいる。 北広島市を開拓する時なのか、あるいは、帝国大学医学部を卒業後、何らかの理由で北海道に渡ったと思われるのだが、現当主の政道氏に聞いても詳細は不明との事。 むしろ、「君が調べてくれ」と云われた。 柏崎荒浜の人々が江差を開拓したという話も在るので、合わせて調べてみたいと思っている。

 話が横道に逸れてしまった。 しかし、歴史を調べていると思わぬ発見があるものだ。 だからという訳ではないが、暇な時でにで、身近な歴史を紐解いては如何だろう。 正史の裏には、思わぬ繋がりとドラマが隠されているかも。

Best regards
梶谷恭巨

 前回、『柏崎通信デジタルライブラリー』に掲載するところ、『柏崎通信』に掲載してしまった。 この文、前後するが『况翁閑話』の一連の節なので、前段も掲載することにした。 尚、『資料』の内、『柏崎通信』に掲載してもよさそうなものに付いては、掲載することにしたい。

(22)他人の技能を見出すは容易ならず、附佐藤某女の咏歌(詠歌)と野津中将(鎮雄)の文藻

 前回には初対面の秘訣とて桑丘和尚の談を述しが、其中にも述べし如く、桑丘和尚の伝法にて失敗したること多きのみか、他人の賢愚を見取るは勿論他人の一技能を見出すことさえ容易のものにあらず、又よく交りて後にあらざれば其技能は悉し難し、况や其心術をや、但し交りて最初にありと思うたる技能が深く交りて後に無くなるあり、又最初になしと思うて後に有りと認むることあり、一二の例を挙ぐれば、余十八九歳の時、遊歴の途中秋の末なりしが、越後頚城郡春日新田迄行き、日暮れて同駅の問屋(当時、駅務うぃ司る職を問屋という)佐藤惣兵衛という家に宿を需(モト)めたりしに、召使う婢僕も少きと見え、年頃六十許(バカリ)なる賤しからぬ老女が出来りて夕飯の給使をし、自ら此家の老母なることを語り、又いづ地へゆかるるかと問いしゆえに、明朝早く出立そて春日山の古城に到り上杉不識公の遺跡を訪い、又予が十二世の祖石黒兵部の旧屋敷跡をも尋ぬる積りなりと話せしに、婆も今年の春久々にて春日山に登りて、一首詠みたりとて、

 きくたびに昔の春ぞ忍ばるる、世をふるしろの鶯の声

と口吟しに、余は最初より田舎の一老婆なりと思い居たる老婆が口より、此うた出んとは実に驚き、俄に言辞に謹敬を加え語り問いしに、江戸の前田夏繁の門なるよし語られ、夫より上杉氏の旧跡に付て種々語り、老女のいわるるには明早朝に行李をば此に預け置き春日山に登られ、朝夕は尚此に一泊せられよとの事ゆえ、翌日暁に出でて春日山の古城趾より林泉寺等を巡りて旧を探り、午後帰り来りしに、老女は曰くまだ夕陽没せざる故に駅後の福島古城を見らるるなら案内すべしとて、先に立ち導きて福島の城趾を見せたり、此福島の城は越後少将忠輝卿の古城趾にして海に臨み規模頗る大なり、巡了(オワ)りて帰途老女は一首詠出たりとて予の矢立(墨壷なり)を乞うて一首を書きて示せり、取りて見れば

 音信(オトズ)るる人もなぎさにあれはてて、秋風さむくふく島の城

 此時余は春日山にても、亦此福島の城にても、七絶三四首を作りたれども、此老女の二首の歌には遠く及ばず、故に今は自身の作詩は忘れて、一句も思出されぬも、老女の歌は記憶して忘るる能わざるなり。

 この段、長くなり、また続きは野津少将の事に移るので、次回に。

(注)佐藤某女: この話は、『懐旧九十年』の(12)「関矢氏と越後巡回」の段にに記載がある。 関矢氏については、『柏崎通信』(730) - 「関矢孫左衛門(北越名士伝・大橋佐平)について」に記載しているので参考に。
(注)春日新田: 国道8号線と国道18号線の交差点の海側に位置する地区。
(注)上杉不識公: 上杉謙信の事。
(注)石黒兵部: 『懐旧九十年』の冒頭(一)「私の家系」に記載がある。 少々長くなるが、「お館の乱」にも、また毛利氏にも関係するので、その部分を引用する。
 「私の家系は越中砺波の石黒氏で、先祖は木曽義仲に従って京都に上ったと申しますが、今日判然としているところでは、関東管領上杉憲政の家臣で、石黒忠英というのがあります。 通称は石黒太郎、入道して静斎と称しました。 これが我が家の系図を遡って最も古い先祖です。 私は、それから十四代に当ります。 上杉憲政が川越の戦に大敗北して、越後に落ちて来ました時、この忠英はこれに随って越後に入ったのです。 この人は、後に京都で没しましたが、その子石黒左近太夫または兵部忠明(タダアキラ)と申すにが、上杉謙信に仕え、謙信の没後上杉家に内訌が起った際、右の左近太夫は、北条丹後守ち共に和解に力めたが聴かれませんので、丹後守は遂に反いて北条(きたじょう)城に旗揚げをしましたが、左近太夫は、暇を乞い、浪人して姉の婿なる、片貝式部を便(タヨ)って、越後三島郡池津に居着くことになりました。 ・・・・・」とある。
(注)越後少将忠輝卿: 徳川家康の六男、松平忠輝の事。 室は、伊達政宗の長女・五郎八(イロハ)。

 この老女の話は、石黒忠悳に強い印象を与えたようだ。 『懐旧九十年』の記載が、それを物語る。 私自身も、このエピソードの印象が深い。 私事になるが、自分は「十邑にも一賢あり」という言葉を座右の銘の如く、よく使ったものだ。 何時から使い始めたか記憶にないが、システム・エンジニアの基本的姿勢と考えていたからだ。 どんなシステムを構築するにも、企業なり団体には、それぞれに運用してきたシステム(体系あるいは体制)があり、それを十分に調査し、そのシステムの長所短所を検討し、新規システムの導入による関わる人々の極端な不都合を拝することが、システム構築の基本だと考える故だ。 言い換えれば、システムが支障なく運用されてきた背景には、どんな小規模の会社あるいは社会にも先人の知恵があると云うことだ。 それを尊重することがシステムエンジニアの本分でなければならない。 そんな訳で、「十邑にも一賢あり」という言葉をよく口にした。 長く、出展は『老子』だと思い込んでいたのだが、改めて調べて見るに、その記載がない。 さて、何所で知ったのか、ご存知の方があればご教授願いたい。

Best regards
梶谷恭巨



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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
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柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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