柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
このところ、幕末外交史と語学教育について調べている。 明治中期以降の旧制中学の校長の足跡を追いかけていたが、情報保護の壁に当たり、思うような進展が無い。 そこで、本来の目的である当時の教育が、その後の日本に及ぼした影響と、それが今現在あるいは将来への指針となりはしないかと、幕末あるいは維新前後の状況を調べることにした。 そこで興味を持ったのが、幕末外交しにしばしば登場するフランスの通訳官あるいは宣教師でもあるメルメ・カションという人物である。 しかし、この人物に就いての情報が意外に少ないのである。 カションについて単独に扱った本は、今のところ、富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』くらいしか見当たらないのだ。 益々好奇心が湧く。 そこで、この本を探し購入した。 横浜の有隣堂出版の680円新書版だが、プレミアが付いているのだ。 その最安値をさがした。 因みに、1000円。 著者である富田日本大学教授(昭和55年当時)も、フランス本国で、カションの事が殆ど知られていない事に驚いておれれた様だ。 もっとも、その後研究が進んでいることも事実なのだろうが。 それは、さて置き、カションの日本における足跡は、幕末史に大きな影響を与えたのではないだろうか。 ただ、残念なのは、富田氏の言うように、アーネスト・サトウと違い、日記などの文献資料が残っていないことである。 しかし、カションは、イエズス会派の宣教師であった訳だから、所属するパリの外国宣教会に定期的報告を送っていたはずであり、アイヌに関する書籍の出版や仏英和辞典なのどの編纂などしているのだから、筆不精という訳ではないと思えるのだが。 ここで、少々長くなるのだが、カションの略歴を紹介しよう。 (富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』 より) 尚、関係者、例えば、アーネスト・サトウなどとの比較年表を作成中だ。 かなり面倒な作業なので、しばらく掛かりそうだが、随時紹介していく予定である。 1828年(文政11年)9月10日、フランスとスイスの国境に近いジュラ山脈の寒村、レ・ブーシューに生まれる。 (注1)富田氏の年表は、少なくとも、日本国内に関しては、陰暦で書かれているようだ。 以上の様に、カションの幕末外交史での存在は重要である。 カション自身も、そう考えていたようだ。 結論的に言えば、比較年表から判断する以外にないように思える。 そこで、先にも書いたように、比較年表は作成中だ。 ところが、これが膨大になりそうなのである。 羽石重雄の年表まで含むと、幕末から昭和初期までになる。 比較する本も、『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』と富田氏の著作、それに渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』などを引きながら、登場人物をインターネットで検索している。 長くなったので、今回はこの辺りで。 ただ、比較人物史は、歴史研究に於て意外に手薄な分野である様に思える。 これも、唯物史観の影響だろうか。 続きは次回に。 Best regards 休刊状態で申し訳ありません。 このところ、薬の副作用の影響か、視力が極端に衰え、本を読むのも侭ならない。 メルメ・カションの記事も、メルマガ版には書いたのだが、事実関係を確認してからブログに掲載しようと思っていても、長時間文献などを見ていると、天眼鏡の助けを借りなければならなくなる。 ここ二週間は、薬の服用が無いので、続きを推敲しています。 そんな訳で、暫くのご容赦を。 萩原延壽著『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』(第四巻『慶喜登場』、第五巻『外国交際』)で、興味ある記事に遭遇した。 すなわち、英語学校(English College)設立の問題である。 慶応3年(1867)4月29日、この日、将軍・慶喜と英国公使・パークスの内謁見(ウチエッケン、非公式の会見)が行われた。 そこで、慶喜から留学生の話が出るが、パークスは、経費と西欧文化普及の為には、留学の前に予備知識を授業する方が有効であるとして、「予備門」の設立を提案する。 (パークスは、この時、学校設立に関する清国の総理衙門の意見書の写しを提示している。) 慶喜は大いに大いに関心を示し、後日、具体的な話に展開する。 序に言えば、この時、パークスやサトウは、慶喜の人品・資質に大いに感銘し、英国外務省に対する公的報告書でも、慶喜を高く評価している旨、報告している。 同年5月28日、江戸に帰ったパークスは、英語学校の設立に関する正式な援助の要請を老中・小笠原長行(ナガミチ)から受け、試案を作成している。 その概要を、萩原延壽(ノブトシ)著『遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄』(第五巻、『外国交際』)から抜粋する。 授業科目 また、同報告書で、大学に付いては、アイルランドの大学、特にダブリンのトリニティ・カレッジとベルファースト・カレッジ(通訳生・アストンの母校)を推薦し、「すぐれた人材を生み出しており、その教育課程は他の大学のそれにくらべ、海外では働く者に、よりふさわしくできているように思われる」と。 また「人物は絶対に紳士でなければならず、・・・・かれらがフランスから派遣されてくる人物に決して引けを取らないことを強く望む」と書いている。 これに対し、スタンレー外相は、「要求しているレベルの大学卒業生は、イギリス本国とインドで良い就職の機会に恵まれている為、・・・・説得して日本行きを承諾させることが出来なかった」と返答している。 しかし、この話は、幕府の崩壊によって沙汰止みになるのだが、軍関係を除けば、最初に登場する外国人お雇いの学校設立の計画ではなかったのではないだろうか。 また、後に、設立される「大学予備門」も、この辺りに原点があるのではないだろうか。 加えて、ここで興味を引くのが、アイルランドの大学を推奨していることだ。 確かに、通訳生・アストンの母校にも関係するのかも知れないが、アイルランド独立運動が、ナポレオンの時代にも盛んであったことを考えると、何かしら背景を想像するが、その辺りの事情は、書かれていない。 ただ、歴史上、お雇い外国人の系譜を辿る時、この「英語学校」設立計画の存在は興味深いことを付け加える。 Best regards この記事は、配信版の『柏崎通信』(昨年12月4日、737号)に掲載したものだが、改めて適塾の出身者を調べていたら、思い出して、序の事だから、掲載しようと思った次第。 以下、その記事を紹介する。 前回、『柏崎通信デジタルライブラリー』に掲載するところ、『柏崎通信』に掲載してしまった。 この文、前後するが『况翁閑話』の一連の節なので、前段も掲載することにした。 尚、『資料』の内、『柏崎通信』に掲載してもよさそうなものに付いては、掲載することにしたい。 前回には初対面の秘訣とて桑丘和尚の談を述しが、其中にも述べし如く、桑丘和尚の伝法にて失敗したること多きのみか、他人の賢愚を見取るは勿論他人の一技能を見出すことさえ容易のものにあらず、又よく交りて後にあらざれば其技能は悉し難し、况や其心術をや、但し交りて最初にありと思うたる技能が深く交りて後に無くなるあり、又最初になしと思うて後に有りと認むることあり、一二の例を挙ぐれば、余十八九歳の時、遊歴の途中秋の末なりしが、越後頚城郡春日新田迄行き、日暮れて同駅の問屋(当時、駅務うぃ司る職を問屋という)佐藤惣兵衛という家に宿を需(モト)めたりしに、召使う婢僕も少きと見え、年頃六十許(バカリ)なる賤しからぬ老女が出来りて夕飯の給使をし、自ら此家の老母なることを語り、又いづ地へゆかるるかと問いしゆえに、明朝早く出立そて春日山の古城に到り上杉不識公の遺跡を訪い、又予が十二世の祖石黒兵部の旧屋敷跡をも尋ぬる積りなりと話せしに、婆も今年の春久々にて春日山に登りて、一首詠みたりとて、 きくたびに昔の春ぞ忍ばるる、世をふるしろの鶯の声 と口吟しに、余は最初より田舎の一老婆なりと思い居たる老婆が口より、此うた出んとは実に驚き、俄に言辞に謹敬を加え語り問いしに、江戸の前田夏繁の門なるよし語られ、夫より上杉氏の旧跡に付て種々語り、老女のいわるるには明早朝に行李をば此に預け置き春日山に登られ、朝夕は尚此に一泊せられよとの事ゆえ、翌日暁に出でて春日山の古城趾より林泉寺等を巡りて旧を探り、午後帰り来りしに、老女は曰くまだ夕陽没せざる故に駅後の福島古城を見らるるなら案内すべしとて、先に立ち導きて福島の城趾を見せたり、此福島の城は越後少将忠輝卿の古城趾にして海に臨み規模頗る大なり、巡了(オワ)りて帰途老女は一首詠出たりとて予の矢立(墨壷なり)を乞うて一首を書きて示せり、取りて見れば 音信(オトズ)るる人もなぎさにあれはてて、秋風さむくふく島の城 此時余は春日山にても、亦此福島の城にても、七絶三四首を作りたれども、此老女の二首の歌には遠く及ばず、故に今は自身の作詩は忘れて、一句も思出されぬも、老女の歌は記憶して忘るる能わざるなり。 この段、長くなり、また続きは野津少将の事に移るので、次回に。 (注)佐藤某女: この話は、『懐旧九十年』の(12)「関矢氏と越後巡回」の段にに記載がある。 関矢氏については、『柏崎通信』(730) - 「関矢孫左衛門(北越名士伝・大橋佐平)について」に記載しているので参考に。 この老女の話は、石黒忠悳に強い印象を与えたようだ。 『懐旧九十年』の記載が、それを物語る。 私自身も、このエピソードの印象が深い。 私事になるが、自分は「十邑にも一賢あり」という言葉を座右の銘の如く、よく使ったものだ。 何時から使い始めたか記憶にないが、システム・エンジニアの基本的姿勢と考えていたからだ。 どんなシステムを構築するにも、企業なり団体には、それぞれに運用してきたシステム(体系あるいは体制)があり、それを十分に調査し、そのシステムの長所短所を検討し、新規システムの導入による関わる人々の極端な不都合を拝することが、システム構築の基本だと考える故だ。 言い換えれば、システムが支障なく運用されてきた背景には、どんな小規模の会社あるいは社会にも先人の知恵があると云うことだ。 それを尊重することがシステムエンジニアの本分でなければならない。 そんな訳で、「十邑にも一賢あり」という言葉をよく口にした。 長く、出展は『老子』だと思い込んでいたのだが、改めて調べて見るに、その記載がない。 さて、何所で知ったのか、ご存知の方があればご教授願いたい。 Best regards |
カウンター
プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新記事
(10/14)
(10/14)
(10/14)
(10/14)
(10/14)
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
フリーエリア
最新トラックバック
ブログ内検索
最古記事
(11/28)
(11/28)
(11/28)
(11/28)
(11/28) |