柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
マリア・ルス号事件に関係した米国側の外交官、すなわち、英国代理公使ワトソンを支持した臨時代理公使シェパードと、帰任後、そのシェパードの支持を覆した公使デ・ロングを調べてみた。 両者は、対照的な経歴の持ち主のようだ。 先ず、公使デ・ロングから。 (1876年10月27日付のニューヨーク・タイムズに掲載された死亡記事から訳出) マリア・ルス号事件は、日本初の国際裁判である。 明治五年(1872)、事件は、たペルー船籍のマリア・ルス号が、ポルトガル領マカオから清国人苦力(クーリー)約230人をペルー輸送する途中、横浜に停泊時に起こった。 苦力の一人・木慶が、船内の虐待に耐えられず脱出し、英国の軍艦アイアン・デューク号に救助され、英国領事が日本政府に通告したが、神奈川県は、船長・ヘレイラを召喚し状況の改善を求めたのみで、身柄を引渡した。 しかし、約束に反し、木慶は鞭打ちにより処罰された。 その後、別の苦力が脱出、同様の経過をたどった。 横浜領事は、人道的見地から、代理公使ワトソンに通報、ワトソンは外務省に通告すると共に清国人虐待に対する措置を促した。 外務卿・副島種臣は、神奈川県参事・大江卓に事件の糾明を命じ、神奈川県庁に大江を裁判長とする特別法廷が設けられ、内外の圧力を押し切って、無罪の判決を下し、苦力は、解放され清国に引き渡された。 その後、当然の如くペルー政府は、特使を派遣し、管轄権の無い裁判として、判決の無効を訴え、謝罪と賠償を要求した アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)の意外な出自を知った。 サトウの父親、ハンス・ダヴィド・クリストフ・サートウ(Hans David Christoph Satow、Satowの発音に付いては後に触れる)は、ナポレオン戦争の一種難民らしいのだ。 父親・ハンスは、名前が示すようにドイツ系である。 しかし、単なるドイツ系ではない。 彼は、バルト海に面した、過ってハンザ同盟の一都市だった、スウェーデン統治下のヴィスマール(Wismar)の生まれだ。 ナポレオン戦争(大陸封鎖令)で、現在のラトヴィアの首都リガに逃れ、更に、英国に渡り、金融業で成功し、ロンドン(クランプトン)に自宅のほか、保養地シドマスに別荘を所有した。 なかなか先見の明と商才があったようで、引退後も、不動産の売買などを手掛け、かなり儲けているようだ。 その事を、サトウに手紙で知らせている。 母親は、英国人のマーガレット・メイソン(Margaret Mason)、成功後、結婚したのだろう。 といういは、ドイツに「小さくてもいいから、家を建てから恋人を探せ」と云う諺があるそうである。 二人の間には、五男三女が生まれた。 アーネスト・サトウは四男だった。
今回は、日本の金融システムに多大な影響を与えた、アレキサンダー・アラン・シャンドについて。
シャンド(A. A. Shand):
英、紙幣寮雇、四百五十円(明治五年)。 1884/02/11-1930/04/12、日本に初めて、洋式簿記(複式簿記)を伝える。 両親: 外科医・ジェームス・シャンドとマーガレット・アラン、(ターリフ、アバディーンシャ、スコットランド)
以下、一橋大学の資料から引用、『British & Japan: Biographical Portraits』第二巻第五章、「Alexander Allan Shand, 1844-1930 - a Banker the Japanese Could Trust」(Ian Hill Nish著、Olive Checkland & Norio Tamaki編)から訳出した。 途中で判ったのだが、Googleブックスでは、最も知りたかった部分、すなわち木戸好孝との出会いの部分を読むことが出来ない。 残念。
(注1)22歳の時にはすでに: 『British & Japan: Biographical Portraits』では、1864年、20歳の時、チャータード・マーカンタイル銀行が横浜に支店を開設した時、来日したとある。 因みに、日本に支店を開設した銀行としては、2番目で、最初に開設したのは、インド中央銀行だった。
(注2) 『銀行簿記精法』(Detailed Accounts of Bank Bookkeeping): 前掲書『British & Japan』によると、シャンドは、1872年8月頃から就筆を始め、翌年夏に脱稿している。 彼の原稿は、すぐにジョセフ・ヒコ(Joseph Heco、浜田彦蔵)と大蔵省の翻訳班によって翻訳され1873年12月に出版されたとある。 しかし、一橋大学の書誌情報によると、訳者は、海老原済および梅浦精一とあり、ジョセフ・ヒコの名前は出てこない。 官尊民卑の表れだろうか。 因みに、梅浦精一は、長岡の出身、新潟県一等訳官兼新潟英語学校教頭、後に、東京商業会議所書記長、石川島造船所社長を歴任している。 ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)については、別に記す。
最近、視力が低下し、筆写も難しい。 まあ、それはよいとして、今回のシャンドは、不得手な分野なので、正確を期すために筆写を始めたのだが、一読する限り、日本の会計あるいは銀行システムに多大な影響を与えた人物であることがわかった。 特に、木戸好孝(桂小五郎)との関係が深いことに興味が湧く。
それと、日清・日露戦争の時、戦費捻出に苦労した明治政府だが、どうも、この英国における戦費調達に深く関与した人物だったようだ。 そういえば、何処かで読んだ要にも思えるのだが、その何処かが思い出せない。 吉村昭の『ポーツマスの旗』だっただろうか。
前掲書で、もう一つ気づいたのは、「太政官」を「Oligarch(オリガーク」と訳していることだ。 「Oligarchy(オリガーキー)」、すなわち、「寡頭政治」である。 確かに、薩長を中心とする少人数で新政府を運営したのだから「寡頭政治」である。 英訳さえると、なるほどと頷く。 これはよくあることだが、翻訳すると、今回とは逆に、本来の意味と大分かけ離れることもある。 幕末、外国との交渉での通訳の存在が重要だったことが、こうしたことからも判るのだが、その意味では、アーネスト・サトウの存在は大きい。
余談だが、『遠い崖』では、サトウやアストンとシーボルトが比較されるのだが、サトウらが、日本語を研究するに当たり、古文や漢文にまで学習の範囲を広げたのに対し、シーボルトは、ほとんど古典など読まなかった。 結果、会話においては、それほどの差はなかったようだが、文章作成能力では、明らかな差があり、サトウが下賜休暇で日本を離れた1年数ヶ月の間、(アストンは病気がちで、シーボルトは、中学程度の作文能力)、パークスは、非常に困っていたようだ。 他国の場合、後に日本(語)学者になるような人材に恵まれなかったことが、英国優位の原因なった。 例えば、対外貿易の国別比率では、英国が70%以上を占めたという事からも、その事が判る。
いずれにしても、シャンドが、近代銀行経営、あるいは会計システムを日本にもたらした。 渋沢栄一、松方正義、高橋是清などは、シャンドから多大な影響を受けた。 否、彼の弟子と云った方がよいのかもしれない。
尚、 傷心の一時帰国の途中(アデンの近く、1872)、乗船・ヒンダスタン号上で書かれた、『シャンド・メモ』も興味深いが、いずれ訳出して紹介する。
Best regards
梶谷恭巨
今回のダグラスに付いては、主にダグラス・アーカイヴから訳出した。
ダグラス(A. L. Douglas)、英、海軍兵学寮教頭、四百円(明治六年)。 1842/02/08-1913/03/、カナダのケベックに生まれ、イングランドのハンプシャー州ニューハムで没した。
ケベック高校を卒業後、14歳で(1856)英国海軍の士官候補生として入隊。 1861年:中尉、1862年:大尉、1872年:少佐、1873年、英国海軍教師団の団長として来日。 1880年:大佐、1895年:少将、1901年:海軍中将に昇進、1902年から1904年まで北米艦隊司令官、1902年にKCB(ナイト・コマンダー)の称号を授与、1905年に、GCVO(ロイヤル・ヴィクトリア勲章)を授与、1907年に退役。 1910年、マクギル大学から名誉法学博士号(LL.D)を授与され、1911年、GCB(ナイト・グランド・クロス星章)を授与された。
(注)軍歴に関しては、子息・アーチボルト・キャンベル・ダグラス(Archibald Campbell Douglas)による。 但し、原文がフランス語なので、階級の表記法に不安がある。
因みに、日本人で、GCBを授与されたのは、伊藤博文のほか、軍人では、乃木希典、桂太郎などがいる。 下は、前者が文官、後者が武官のGCB:
余談だが、彼のことは、僅かだが、司馬遼太郎の『坂之上の雲』にも書かれている。
今回も感じるのだが、軍人の履歴は調べ易い。 それにしても、思うのは、「個人情報保護法」のことだ。 最近、行方不明の高齢者のことが話題になっているが、国家や行政が個人情報を独占し、法を盾に、公表しないというのは、如何なものであろう。 この法律が成立する前、悪法になる可能性を予感した。 条文では、学術や公共に関する場合は、特例として、公開するとあるが、実態は全く違う。 取材のため、各地の教育委員会や図書館に人物紹介を依頼したが、中には、全く取り合ってもらえないところがあった。 個人主義の確立していない日本、あるいは、元来、個人よりコミュニティを重視してきた日本が、「個人情報の囲い込み」を行った背景には、何があったのだろうか。 「個人情報保護法」の成立と運用に、右に倣えで行動する日本人の悪癖を見た思いである。
Best regards
梶谷恭巨
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1947/05/18
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