柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  マリア・ルス号事件に関係した米国側の外交官、すなわち、英国代理公使ワトソンを支持した臨時代理公使シェパードと、帰任後、そのシェパードの支持を覆した公使デ・ロングを調べてみた。 両者は、対照的な経歴の持ち主のようだ。 先ず、公使デ・ロングから。 (1876年10月27日付のニューヨーク・タイムズに掲載された死亡記事から訳出)

 サンフランシスコ・ディスパッチによると、チャールズ・E・デロング閣下が、昨日、ネバダ州ヴァージニア・地ティで、腸チフスにより死去された。 デロング氏は、弁護士であり、死亡時の年齢は55歳であった。 若い頃(20歳)、西部の州のひとつ(ネバダ州)からカリフォルニアに移住し、迅速で、多芸、且つ沈着な弁護士として名を馳せた。 1859年、憲法制定会議(カリフォルニア州憲法)の議員に、また、州議会にユーバ(Yuba)郡から繰り返し選出された。 ネバダが合衆国の州に昇格した時、デロング氏は、ヴァージニア・シティに移住した。 氏は、カリフォルニア時代の若い頃、当時はダグラス民主党と云われていた自由民主党(Liberal Democrat)の党員だったが、南北戦争の頃には、共和党に入党していた。 一時、氏は、連邦上院でウィリアム・M・スチュアートの対抗馬だったが、彼の紳士の次の選挙で選出された。 続いて、デロング氏は、日本公使に任命されたが、これは、オハイオ州選出のジョン・A・ビンガム閣下の地盤を継ぎ、1869年から1873年の間、任期を全うした時である。 政治家として、デロング氏は、活動的で、雄弁で、且つ高い評判を得た。 氏は、多くの分野で多彩な才能を発揮したが、特に、教育面での活躍が顕著だった。 (カッコ内は、便宜上)

この死亡記事からは窺えないが、デロングは、ゴールドラッシュの頃、一攫千金を夢見て、カリフォルニアに移住したようだ。 そこで働きながら独学で弁護士の資格を取り、政治家へと転身していく訳である。 また、日本公使になるのは、グランド大統領の選挙戦への貢献が大きかったことが上げられる。 何処か、ケネディ大統領のの父・ジョセフ・ケネディが、フランクリン・ルーズベルトの選挙資金に多大に貢献したことで、英国大使に任命されたのに似ていなくもない。 しかし、その晩年は、死亡記事には書かれていないが、人事の問題(鉱山時代の友人や甥を公使館の書記官に任命するなど)やマリア・ルス号事件や台湾問題への介入で、米国政府の信用を失い、グランド大統領の二期目には、召喚されることがなかったなど、余り良いものではなかったのかも知れない。

反対に、チャールズ・O・シェパードについては、自身に関する記載、あるいは伝記のようなものを発見できなかった。 しかし、南北戦争時代の第82歩兵連隊(第二義勇軍、ニューヨーク州第二軽歩兵連隊、その後、州軍が伝統を引き継いでいる)のサイトの参照欄に、同人の出版物ではないかと思われる記載があった。


Shepard, Charles O. In a Bowary regiment, the Story of My first command, by Captain Musgrove Davis(Charles O SHepard).   In Tales from McClure's. War, being true stories of camp and battlefiels. (1898)17-69

以上のような記載があり、マスグローヴ・デイヴィス大尉といペンネーム(?)での著作と推測される。 そこで、ニューヨークタイムズのアーカイヴを調べてみると、1898年7月2日の書評欄に『Camp and Battlefield Stories』の表題で書評が書かれている。 因みに参照欄を見ると、著者、ネルソン・A・マイルズ将軍、アルフレッド・R・カルホウン少佐他、21mo(本の大きさだろうか)、出版社はニューヨーク市のダブルデイ&マックリュア社(Doybleday & McClure Company)とある。 これから、シェパードは、先の本の一章あるいは一節を書いたのではないだろうか。

また、年代から矢張り彼の著作ではないかと思われる下記の書籍が、復刻版として現在出版されている。

 Charles O Shepard, "Christmas Stories for My Sister's Children", 1878

ところで、この本、何とインドの本屋が、OCR版として販売しているのである。 因みに、グーテンベルグ・プロジェクトのeBookサイトとAMAZONで調べてみたが見つからなかった。 最近、眼の具合が悪いので、石黒忠悳の随筆集の電子化を中断しているが、アルファベットだと、古い文献でもOCRで取り込むことが容易なのに、日本語の古典も何とかならないかと、つくづく思う。 少なくとも活版印刷になった明治時代辺りの文献がOCRで取り込めれば、よいのである。 尤も、明治時代の本には、ルビなどの問題もあり、識別プログラムが膨大なものになりそうだから、一般に普及するのは、どうだろうか。 市販されても、可也高額になるだろう。 以上、余談。

さて、こうしてデロングとシェパードを比較しても、前者は、それこそ西部劇に出てきそうな人物だし、後者は、典型的な都会人が思い浮かぶ。 この辺りに両者のマリア・ルス号事件に対する姿勢の違いが生まれたのかも知れない。 米国の場合、外交官の選任制度が今ひとつ判らないのと、確かこの時代だったと思うのだが、所謂「猟官制」の時代とも重なるので、出身あるいは出自による影響が大きかったかもしれない。 
ただ、シェパードの詳細が不明なことが残念である。 一応、米国公文書館で検索したのだが、何しろ膨大なデータであり、150年も前のことなので、今のところ手の着けようが無い。

最後に、今回、調査で初めて参考にしたのが、ニューヨーク・タイムズのアーカイヴだが、これは意外に使える。 マイクロフィルム版なので、文内の検索は出来ないが、カテゴリー単位あるいはコラム別に収録されているようだから、検索の方法が確かなら、かなり絞り込むことが出来るようだ。 ただ、読みづらいのも事実である。 参考までに云うと、書評と死亡記事が、使えそうだ。 シャーロック・ホームズを思い浮かべる。 たしか、作中で、そんな事を言っていたのではなかったか?

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梶谷恭巨
 

 

  マリア・ルス号事件は、日本初の国際裁判である。 明治五年(1872)、事件は、たペルー船籍のマリア・ルス号が、ポルトガル領マカオから清国人苦力(クーリー)約230人をペルー輸送する途中、横浜に停泊時に起こった。 苦力の一人・木慶が、船内の虐待に耐えられず脱出し、英国の軍艦アイアン・デューク号に救助され、英国領事が日本政府に通告したが、神奈川県は、船長・ヘレイラを召喚し状況の改善を求めたのみで、身柄を引渡した。 しかし、約束に反し、木慶は鞭打ちにより処罰された。 その後、別の苦力が脱出、同様の経過をたどった。 横浜領事は、人道的見地から、代理公使ワトソンに通報、ワトソンは外務省に通告すると共に清国人虐待に対する措置を促した。 外務卿・副島種臣は、神奈川県参事・大江卓に事件の糾明を命じ、神奈川県庁に大江を裁判長とする特別法廷が設けられ、内外の圧力を押し切って、無罪の判決を下し、苦力は、解放され清国に引き渡された。 その後、当然の如くペルー政府は、特使を派遣し、管轄権の無い裁判として、判決の無効を訴え、謝罪と賠償を要求した
 
 日本政府は、ペルー政府の要求を拒絶、結果として、仲裁裁判を行うことで合意した。 仲裁裁判は、当事国と最も関係の薄いロシア帝国を当事国に選び、約二年後の明治八年、日本政府の損害賠償の責任はないと判決された。 以上が、マリア・ルス号事件の概略、顛末である。 以上、萩原延壽著『遠い崖』から。


何処やら最近起こった事件と似た気配がある。 尤も、マリア・ルス事件の問題は、苦力虐待、人身売買の如き就労契約など、人道上の問題から発展しているのだが。 しかし、仲裁裁判と云う発想は必要かもしれない。 マリア・ルス号事件の場合も、原告側は、ポルトガル領マカオで行われた契約に違法性は無いと主張して、被告側は、人身売買的契約を、国際的良俗に反するものとして、争っているのである。 1899年、第一回ハーグ平和会議により国際常設仲裁裁判所が設立される四半世紀前のことであり、国際司法裁判所が設立される73年昔の事件であり裁判であることが興味深い。

この事件そのものは措くとして、興味思ったのは、当事者が共に外国であったことから、日本に未だ近代司法制度が確立されておらず、弁護士が居なかったこともあり、共に英国の弁護士、原告側ディキンズ(Frederick Victor Dikins)、被告側デヴィドソン(John Davidson)が選ばれたことだ。 特に、原告側弁護人ディキンズに関心をもった。 尚、残念なことに、被告側(清国苦力側)の弁護人、デヴィドソンについてインターネットで調べてみたが、日本でも英国でも見つけることが出来なかった。

フレデリック・V・ディキンズ(1838-1915)の経歴は、実に興味深い。 外科医(海軍軍医)、弁護士、日本学者、そして最後は、大学の学長を務めている。 ディキンズは、1863年、英国艦コロマンデール(Colomandel)の軍医として、初めて日本に訪れている。 その後、横浜の病院に三年間勤務、この間に、日本の医師やアーネスト・サトウと親交を持ち、日本文化に興味を持ち、日本語を学んだようだ。 また、その間(1863-1865)、日本のシダ類に興味を持ち、横浜と熱海のシダ類を採集し、王立植物園のフーカー(J.D.Hooker)に標本を送った。 その後、一旦、帰国し、海軍を退官した後、幾つかの仕事を就いたが、1871年(明治四年)、弁護士として再度来日し開業した。 ディキンズは、日本の古典文学に興味を持ち、開業の傍ら、『百人一首』『仮名手本忠臣蔵』『竹取物語』などを英訳した。 また、パークスの伝記『The Life of Sir Harry Parks』全二巻の内、第二巻日本編を就筆した。 因みに、第一巻(エジプト編)の著者、スタンレー・レイン-プール(Stanley Lane-Poole)は、1874年から1892年まで、大英博物館に勤務、その後、エジプトで考古学調査研究、1897年から1904年まで、ダブリン大学(アイルランド)のアラビア学科の主任教授を務めた。

ディキンズは、結果的には敗訴した訳だが、原告が彼を選んだ理由が判るような気がする。 経歴からも判るように、ディキンズは、単なる弁護士ではなく、日本に対する深い知識と理解があり、人格見識ともに他に優れた人物だと考えられる。 弁護士である以上、原告の利益を優先しなければならなかったのだろうが、その本心は、どうだったのだろうか。 因みに、英国政府は、他国の反発に対し、全面的に被告側、すなわち、日本の判決を全面的に支持している。 (例えば、唯一ワトソンを支持した米国臨時代理公使シェパードの見解を、公使デ・ロングは帰任後、撤回している。) 
 

また、副産物として、人身売買、芸妓娼妓の年季奉公を禁じた「芸娼妓解放令」が、明治五年10月1日(1872/11/02)に、太政官より布告されたことは重要である。

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梶谷恭巨
 

  アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)の意外な出自を知った。 サトウの父親、ハンス・ダヴィド・クリストフ・サートウ(Hans David Christoph Satow、Satowの発音に付いては後に触れる)は、ナポレオン戦争の一種難民らしいのだ。 父親・ハンスは、名前が示すようにドイツ系である。 しかし、単なるドイツ系ではない。 彼は、バルト海に面した、過ってハンザ同盟の一都市だった、スウェーデン統治下のヴィスマール(Wismar)の生まれだ。 ナポレオン戦争(大陸封鎖令)で、現在のラトヴィアの首都リガに逃れ、更に、英国に渡り、金融業で成功し、ロンドン(クランプトン)に自宅のほか、保養地シドマスに別荘を所有した。 なかなか先見の明と商才があったようで、引退後も、不動産の売買などを手掛け、かなり儲けているようだ。 その事を、サトウに手紙で知らせている。 母親は、英国人のマーガレット・メイソン(Margaret Mason)、成功後、結婚したのだろう。 といういは、ドイツに「小さくてもいいから、家を建てから恋人を探せ」と云う諺があるそうである。 二人の間には、五男三女が生まれた。 アーネスト・サトウは四男だった。  

 先に書いた発音のことだが、サトウは、ソルブ人の名前だ。 ソルブ人は、インド・ヨーロッパ語族のスラブ語に属し、ソルブ語を話した。 少数民族で、約6万人がドイツのザクセン州東北部(ドレスデン)やブランデンブルグ州(コトブス)南東部の11県に居住している。 

(注)三省堂の『言語学大辞典』によると、ソルブ人は、自称を「セルビア」という。 しかし、バルカンのセルビアが有力なため、「ルジツァのセルビア語」という名称が用いられることがあり、ロシア語でにも同様な使用例がある。 言語的には、シュプレー川の上流と下流で上下ソルブ語に分類される。 口語では、明確に分類することが難しいが、文語には、違いがあり、プロテスタントとカトリックによっての違いがあったことがある。 北のポラブ語、東のポーランド語、南のチェコ語に接しているが、千年以上にわたって、支配層に有力者を持たなかったので、10万人程度の「言語島」になった。 第二次世界大戦後、1948年と1950年の旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の憲法により、ソルブ人の文化的、政治的自治権が確立し、学校教育、出版物などでのソルブ語の使用が公認された。

 ハンスは、また、ワインの愛飲家でもあったようだ。 矢張り、ドイツ贔屓なのか、ドイツワインを好んだようで、気に入ったワインを十ダース単位で買い入れ、日本のアーネストサトウにも推薦したり、誕生日には、シャンパンを十数ダース送っている。 

 維新の頃、普仏戦争が起こっているが、この時もドイツ贔屓が明確に現われている。 また、老後の楽しみの一つが、ドイツの保養地(温泉)ノイエンアールで過ごすことだったようだ。 

 アーネスト・サトウは、当然のことだろうが、ドイツ語にも堪能だったようで、父親は、彼に自分が気に入ったドイツの書籍などを送り、感想を求めている。 また、父親が敬虔なプロテスタント(非英国教徒)に反し、ダーウィンに影響され、不可知論者だったようで、父親は、その事が気懸かりだったもだろう、宗教に関する論文なども送っている。 ただ、アーネスト・サトウ自身、後年は敬虔なクリスチャンになったようだが。 

 長男と長女が夭折した事もあり、また、大学を卒業したのがアーネスト一人だったこともあり、子供たちのうちで、アーネストに期待をかけていた心情が見える。 書簡からの推測だが、父親も中々の読書人で、古典文学を好んだ様子がある。 サトウ自身、愛読書がダンテであった。 それが影響したのか否かは別として、姉妹の一人が、作家(歴史や古典文学)、オックスフォード大学エグゼター校の講師(後に、学長)、テイラー研究所(オクスフォード大学)の館長、英国人ヘンリー・ファンショウ・トウザー(Henry Fanshawe Tozer、1829-1916)と結婚している。  また、五男チャールズが進学をやめ年収150ポンドの事務員をし、生活も安定しないのに結婚したと、父親が嘆いている。 

 いずれにしても、アーネスト・サトウの勤勉で学究肌な性格に、父親の影響が窺える。 こうした性格は、一般的にも日記や書簡に反映されるものだ。 同世代の二十代の若者には見えない実直さ、小まめさ、それに何よりも正確な観察眼は、彼の育った環境や性格に由来するのだろう。 

 歴史を学ぶ場合、登場人物の背景を知ることが重要だと考える。 これはビジネスにも言えることで、前回書いた報告書の分析と同様に、ビジネス場面に登場する関係者のプロファイリングは、単に事実関係や数値の報告以上に意味がある。 情報を制するものが、世界を、社会を、そしてビジネスを制するという事実は、孫子の昔から変わらない。 心すべきだろう。

Best regards
梶谷恭巨

 

 

 
 今回は、日本の金融システムに多大な影響を与えた、アレキサンダー・アラン・シャンドについて。
 
シャンド(A. A. Shand):
英、紙幣寮雇、四百五十円(明治五年)。 1884/02/11-1930/04/12、日本に初めて、洋式簿記(複式簿記)を伝える。 両親: 外科医・ジェームス・シャンドとマーガレット・アラン、(ターリフ、アバディーンシャ、スコットランド) 
 
 
 以下、一橋大学の資料から引用、『British & Japan: Biographical Portraits』第二巻第五章、「Alexander Allan Shand, 1844-1930 - a Banker the Japanese Could Trust」(Ian Hill Nish著、Olive Checkland & Norio Tamaki編)から訳出した。 途中で判ったのだが、Googleブックスでは、最も知りたかった部分、すなわち木戸好孝との出会いの部分を読むことが出来ない。 残念。
  • 1884年(天保14) 2月11日 スコットランド・アバディンの良家に生まれる。
  • 1866年(慶應2)  22歳の時にはすでに、Chartered Mercantile of India, London &China の一員として横浜に来ていた。
  • 1872年(明治5) わが国は銀行制度創建のために彼を招聘、7月8日紙幣寮に雇い入れ、10月1日大蔵太輔井上馨と雇入条約書を交わす。 名義は、紙幣寮附属書記官、期間3年、月給初年度450円(以後500円)
  • 1873年(明治6) 銀行簿記脱稿、大蔵官員、第一国立銀行員に講義。 8月に翻訳ができ、12月『銀行簿記精法』として刊行
    • 8月箱根に避暑中男児モンタギュー急死、芦の湖畔万福寺に葬る
    • 10月病気のため、一年英国に帰る
  • 1874年(明治7) 10月28日、米国汽船グレイト・リパブリック号で再渡来。 10月1日、紙幣寮外国書記官兼顧問長として雇い入れ。
  • 1875年(明治8) 10月、得能紙幣頭に従い京阪地方銀行を検査。
  • 1876年(明治9) 10月、国立銀行条例改正意見書を提出
  • 1877年(明治10) 2月7日紙幣寮改革のため解職、褒賞として金700円を送られる。3月帰国。
    • この年、『銀行大意』『日本国立銀行事務取扱方』発行される
  • 1878年(明治11) ロンドンのアライアンス銀行に入る
  • 1918年(大正7) パース銀行取締役を辞任、南英チャドレイに隠退
  • 1930年(昭和5) 4月12日、パークストンで死去。享年86歳
 
(注1)22歳の時にはすでに: British & Japan: Biographical Portraits』では、1864年、20歳の時、チャータード・マーカンタイル銀行が横浜に支店を開設した時、来日したとある。 因みに、日本に支店を開設した銀行としては、2番目で、最初に開設したのは、インド中央銀行だった。 
 
(注2) 『銀行簿記精法』(Detailed Accounts of Bank Bookkeeping): 前掲書『British & Japan』によると、シャンドは、1872年8月頃から就筆を始め、翌年夏に脱稿している。 彼の原稿は、すぐにジョセフ・ヒコ(Joseph Heco、浜田彦蔵)と大蔵省の翻訳班によって翻訳され1873年12月に出版されたとある。 しかし、一橋大学の書誌情報によると、訳者は、海老原済および梅浦精一とあり、ジョセフ・ヒコの名前は出てこない。 官尊民卑の表れだろうか。 因みに、梅浦精一は、長岡の出身、新潟県一等訳官兼新潟英語学校教頭、後に、東京商業会議所書記長、石川島造船所社長を歴任している。 ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)については、別に記す。
 
 最近、視力が低下し、筆写も難しい。 まあ、それはよいとして、今回のシャンドは、不得手な分野なので、正確を期すために筆写を始めたのだが、一読する限り、日本の会計あるいは銀行システムに多大な影響を与えた人物であることがわかった。 特に、木戸好孝(桂小五郎)との関係が深いことに興味が湧く。
 
 それと、日清・日露戦争の時、戦費捻出に苦労した明治政府だが、どうも、この英国における戦費調達に深く関与した人物だったようだ。 そういえば、何処かで読んだ要にも思えるのだが、その何処かが思い出せない。 吉村昭の『ポーツマスの旗』だっただろうか。
 
 前掲書で、もう一つ気づいたのは、「太政官」を「Oligarch(オリガーク」と訳していることだ。 「Oligarchy(オリガーキー)」、すなわち、「寡頭政治」である。 確かに、薩長を中心とする少人数で新政府を運営したのだから「寡頭政治」である。 英訳さえると、なるほどと頷く。 これはよくあることだが、翻訳すると、今回とは逆に、本来の意味と大分かけ離れることもある。 幕末、外国との交渉での通訳の存在が重要だったことが、こうしたことからも判るのだが、その意味では、アーネスト・サトウの存在は大きい。
 
 余談だが、『遠い崖』では、サトウやアストンとシーボルトが比較されるのだが、サトウらが、日本語を研究するに当たり、古文や漢文にまで学習の範囲を広げたのに対し、シーボルトは、ほとんど古典など読まなかった。 結果、会話においては、それほどの差はなかったようだが、文章作成能力では、明らかな差があり、サトウが下賜休暇で日本を離れた1年数ヶ月の間、(アストンは病気がちで、シーボルトは、中学程度の作文能力)、パークスは、非常に困っていたようだ。 他国の場合、後に日本(語)学者になるような人材に恵まれなかったことが、英国優位の原因なった。 例えば、対外貿易の国別比率では、英国が70%以上を占めたという事からも、その事が判る。
 
 いずれにしても、シャンドが、近代銀行経営、あるいは会計システムを日本にもたらした。 渋沢栄一、松方正義、高橋是清などは、シャンドから多大な影響を受けた。 否、彼の弟子と云った方がよいのかもしれない。 
 
 尚、 傷心の一時帰国の途中(アデンの近く、1872)、乗船・ヒンダスタン号上で書かれた、『シャンド・メモ』も興味深いが、いずれ訳出して紹介する。
 
Best regards
梶谷恭巨
 今回のダグラスに付いては、主にダグラス・アーカイヴから訳出した。
 
ダグラス(A. L. Douglas)、英、海軍兵学寮教頭、四百円(明治六年)。 1842/02/08-1913/03/、カナダのケベックに生まれ、イングランドのハンプシャー州ニューハムで没した。
 
Archibald Lucius Douglas
 
 ケベック高校を卒業後、14歳で(1856)英国海軍の士官候補生として入隊。 1861年:中尉、1862年:大尉、1872年:少佐、1873年、英国海軍教師団の団長として来日。 1880年:大佐、1895年:少将、1901年:海軍中将に昇進、1902年から1904年まで北米艦隊司令官、1902年にKCB(ナイト・コマンダー)の称号を授与、1905年に、GCVO(ロイヤル・ヴィクトリア勲章)を授与、1907年に退役。 1910年、マクギル大学から名誉法学博士号(LL.D)を授与され、1911年、GCB(ナイト・グランド・クロス星章)を授与された。
 
(注)軍歴に関しては、子息・アーチボルト・キャンベル・ダグラス(Archibald Campbell Douglas)による。 但し、原文がフランス語なので、階級の表記法に不安がある。
 
 因みに、日本人で、GCBを授与されたのは、伊藤博文のほか、軍人では、乃木希典、桂太郎などがいる。 下は、前者が文官、後者が武官のGCB:
 
 
 余談だが、彼のことは、僅かだが、司馬遼太郎の『坂之上の雲』にも書かれている。
 
 今回も感じるのだが、軍人の履歴は調べ易い。 それにしても、思うのは、「個人情報保護法」のことだ。 最近、行方不明の高齢者のことが話題になっているが、国家や行政が個人情報を独占し、法を盾に、公表しないというのは、如何なものであろう。 この法律が成立する前、悪法になる可能性を予感した。 条文では、学術や公共に関する場合は、特例として、公開するとあるが、実態は全く違う。 取材のため、各地の教育委員会や図書館に人物紹介を依頼したが、中には、全く取り合ってもらえないところがあった。 個人主義の確立していない日本、あるいは、元来、個人よりコミュニティを重視してきた日本が、「個人情報の囲い込み」を行った背景には、何があったのだろうか。 「個人情報保護法」の成立と運用に、右に倣えで行動する日本人の悪癖を見た思いである。
 
 
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梶谷恭巨


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1947/05/18
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自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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