柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  先回、古文書等のデジタル化に付いて付随的に書いたのだが、Googleブックを見ると、このところ、一挙に蔵書数が増えていることを実感する。 というのも、アーネスト・サトウの『近世史略』が、Googleブックに収録されていたのだ。 「Japan」で検索すると、その他に、頼山陽の『日本外史』が収録されているし、ドイツの外交官、von・クロプロートの著作が三冊収録されている。 また、以前に見た英国のフォンブランクの紀行もある。 また、意外に多いのが、中国の文献だ。 これは、Googleブックだけのことだが、前にも書いたように、他にも幾つかのサイトが同様の閲覧サービスを行っているのだ。 こうしてみると、何だか、競争の感がある。

ところが、最近、全文の閲覧が出来ない文献が多くなった。 その理由は、復刻版が出版されたことらしい。 「らしい」というのは、他のサイトでは閲覧が可能なところもあるのである。 また、こうした場合、ダウンロードが出来ないのも一般的だ。 しかし、このデジタル化は、前駆的現象に過ぎないだろう。 要するに、完全なデジタル化(テキスト化)し、それに注釈をつければ、新たな著作権が発生するのである。

日本人には、こうした発想に乏しい。 これは、日本の本屋の特異性にもある。 再販制が原因か。 また、日本では、書籍が在庫あるいは棚卸し資産として扱われるから課税の対象になる。 それ故に、本屋はなるべく在庫を持たないようにする。 これが欧米の場合、本の在庫は非課税なのだ。 大体、文化とか教育に課税する国など無いのが普通なのだ。 このことが、デジタル化に対する感覚を麻痺させているのかもしれない。 言い換えれば、復刻版を作っても売れなければ在庫となり、課税されるから出版しないという構図を意識するのだろうか。

ところが、数年前、山口の古本屋さんが、埋もれていく史料の救済手段として、復刻あるいは史料・文献の出版を始めた。 大きな冒険であったろう。 ただ、方法としては、前もって購入者を探し、定数達したら出版するというものだ。 結果的には高額なものになる。 しかし、ある程度、成功しているそうだ。

まあ、それが日本の実情なのだ。 話を戻すと、Googleブックには、先にも上げたように『日本外史』のような漢字・漢文の文献も収録されている他、中国の文献も可也ある。 勿論、欧文のものより圧倒的に少ないのだが。 兎に角、このようなデジタル化をGoogleが推進しているのである。 以前、古文献のデジタル化の話をGoogleに近い友人にしたことがあるが、余り関心が無かったようだ。 しかし、当のGoogleは、歴史に注目し始めている。 Googleブックのほかに、「タイムライン」がある。 歴史を勉強する者には、非常に有効な手段だ。

その背景というか、何故、最近、デジタル化が進むのかというと、一旦、デジタル化してしまえば、メンテナンスの必要もないし、先のように注釈でもつければ、著作権を主張できるというメリットがあるからだ。 兎に角、「何でもデジタル化しておけ」なのである。 後は、餅を団子に出来る訳だ。 だから、そのことに気付いたサイトや団体、あるいは出版社がこぞってデジタル化を始めた訳だ。 そりゃ、今は、「プロジェクト・グーテンベルクに敵わない」ということだろうが、こちらは、ボランティア、あちらは、巨大企業で資金は潤沢とくれば、後は時間の問題である。

戦略的に考えても、デジタル化情報の多寡が社会の趨勢まで左右する。 著作権の失効した古書・古本まに新たな権利を付加するのだから、資源は無限に近い。 文芸や学術の世界まで、巨大資本が支配するも遠くない将来かもしれない。 こうした危機感あるいは感覚に乏しい日本は、どうなることやら。 しかも、iPodなどの出現である。 既に、教育現場が右に倣えの状態だ。

繰り返しになるが、古書古本のデジタル化は、既に、長期ビジネス戦略として着々と進んでいるのだ。 付け加えると、日本に、そうした取り組みが無いというのではない。 「青空文庫」や漢文大系のデジタルサイトもある。 国立国会図書館のデジタルライブラリーもある。 前者は、ボランティアによる入力だが、矢張り、偏りがあるし、後者は、電子コピーの段階だ。 平凡社の『東洋文庫』辺りで、既に事業化が進められているのかもしれない。 完全なデジタル化は、日本語である故に、様々な障害がある。 まあ、これが防波堤の役割をするのかもしれない。 いずれにしても、早急な取り組みが必要なのだが。
 

Best regards
梶谷恭巨

  マリア・ルス号事件の重要人物の一人、ロバート・グラント・ワトソン(Robert Grant Watson)について調べている。 というのも、インターネットで検索する限り、略歴などを掲載したサイトが無いからだ。 ところが、しれべて見るもので、ワトソンの著作があることが判った。 しかも、オンライン・リード・フリー、要するに無料で閲覧できるサイトがあるのだ。 「ONREAD.COM」というサイトで、プロジェクト・グーテンベルクのような、何らかのプロジェクトにようにも思えるのだが、調べてみると、矢張り、本屋のサイトであるようだ。 もし、そうなら、新しいビジネスモデルということになる。 というのも、登録すると、オンライン閲覧ではなく、ダウンロードも可能なのだ。 ただし、三日間限定だ。 試しに、ダウンロードを試みたが、サーバーが込み合っているのか、アポロジャイズのメッセージが表示される。

さて、その新しいビジネスモデルではないかというのが、著作権の切れた書籍を、恐らくOCRで読取、それを編集したのではないかと思えるのだ。 こうした書籍を復刻版として販売しているのだから、このサイトのONREAD.COMは、それを目玉というか、おまけにして拡販を図っているのかもしれない。 実際、こうした復刻版をアマゾンでも販売しているのだ。 しかも、結構いい値段だ

余談が長くなったが、件のワトソンの著作と言うのは、英国外交史とでもいうべき著作なのだ。 この書名から、僅かではあるが、ワトソンの足跡が窺えるのだ。 このサイトでは、著作の内、三冊を閲覧できる。

(1)「A History of Persia from the Beginning of the Nineteenth Century to the Year 1858, with a Review of Principal Events that Led to the Establishment of the Kajar Dynasty」

その後の調べで、原本は、トロント大学蔵書、出版社はロンドンの「Smith, Elder & Co.」で、1866年の出版であることが判った。 また、序文を、ロンドンのセント・ジェームズ・クラブで就筆してる。

(2)「Spanish and Portuguese South America during the Colonial Period」

こちらは、調査中だが、出版社は、ロンドンの「Trubnee & CO.」で、1884年出版である事が判った。 余談だが、この本のデジタル化には、Googleが関与している。 もしかすると同社内に、古書のデジタル化部門があるのかもしれない。 以前から、古書・古本のデジタル化の必要性を感じ、柏崎通信デジタルライブラリーを細々と始めていたが、協力者も無く、また視力の低下で中断状態になっている。 しかし、インターネットを検索していくと、以前に増して、デジタル化の動きが繁多になっているよう思える。

(注)セント・ジェイムズ・クラブ: 1857年に、民主党の政治家・外務大臣だったグランビル伯爵とイタリアの外交官・アゼグリオ侯爵・エマヌエル・タパレッティによって創設された、外交官を中心とした社交クラブで、1978年、財政難でブルックス・クラブと合併、クラブハウスを明け渡した。 その後、クラブハウスは、国際言語学校本部(International House network of Language School)に使用されたが、2007年からは、マレイシアに私立大学、リンコクウィン(LimKokWing)創造技術大学のロンドン分校として今も使用されている。 余談だが、英国の政治経済の舞台が、戦前まで社交クラブだったことは有名だ。 これも余談だが、横浜に、同名のクラブ(セント・ジェイムズ・クラブ迎賓館)がある。 気になるので、問合せしたところ、詳しい人もいないようだった。 ただ、元は横浜市の迎賓館で、クラブの歴史も60年に及ぶという。 また、建物は、イギリスのものを移築したりしているそうだ。 もしかすると、命名に本家のクラブ名を使ったのかもしれない。 興味深いことだ。

(3)「The Diplomatic Service; An Abstruct and Examination of Evidence Taken by the Select Committee of the House of Commons in 1870」

 調査中。 というより、サーバーが混んでいる所為か、アクセスできないで居る。

いずれも長い題名の書籍である。 書誌が明記されていないので、出版された時期が不明だが、題名を読む限り、ワトソンは、来日前に、ペルシャで勤務していた事が判る。 また、その後(来日前後)に、ブラジルは確かだが、スペイン語圏の南アメリカの何れかの国で勤務した事になるのだろう。

その後、デジタル・ライブラリーで、若干読めた(先の理由で)のだが、著者であるワトソンの事は余り書かれていない。

それにしても、欧米では史料のデジタル化が急速に進んでいるようだ。 プロジェクト・グーテンベルクは、1971年に創設された書籍(著作権の切れた)の電子化プロジェクトだが、元々、イリノイ大学の学生(マイケル・S・ハート)によって始められたもので、それがインターネットを通じて、全米の大学に広がり、世界最大のデジタル・ライブラリーになったものだ。 それに比べ、日本のデジタルライブラリー(国会図書館など)は、進んではいるが、単に、書籍のコピーを電子化したものに過ぎないのが実情だ。

また、各地の図書館の資料室などでも、デジタル化が進められているようだが、精々、電子化(コピー)で、デジタル化は遅々たる情況のようだ。 それに、もう一つ悪いことは、デジタル化しても囲い込んで、公開しないことだ。 各地の図書館や資料館に問合せをするが、口ぶりでは、デジタル化したものもある気配がする。 しかし、提供してもらえないかと聞くと、大抵は、拒否される。 中には、百年も前のことなのに、個人情報保護法を盾に取り、全く意味不明な回答をする処さえあるのだ。

どうも日本人は、「歩いた後に考える」のでもなさそうだ。 その後も考えないのだろう。 インターネット匿名性を問題視する一方では、情報の公開を迫り、情報の公開を求めると、法律を盾に取り、公開を拒むのである。 一見、次元の違いがあるように見えるが、個人であろうが公人であろうが、情報が公開されない、言い換えれば、顔の見えない社会ほど怖いものは無いのである。 社会学的にも、スキャンダルや、井戸端会議的ゴシップが、一種の安全弁になっていることが知られている。 情報は、階層を越え、次元を超えて、それぞれを結びつける媒体なのだ。 その媒体をインフラだと思っている人が多い。 何とも、恐ろしい話である。 非公開あるいは匿名の世界に、アイデンティティは存在しないのだ。

話が大きく逸脱したが、先にも書いたように、著作権期限切れの書籍のデジタル化が、新しいビジネスを生み始めたのを感じる。 ちょっと説明すると、先ず、電子化、次のデジタル化、そして書籍としての販売へと移行している。 この動きには、20年くらい前から気付いていた。 プロジェクト・グーテンベルクに加入したのが(昔は会員制だった)、長岡時代で、当時は、CD(ウォルナット)で頒布されていた。 それが今や最大のデジタルライブラリーである。 それに倣った訳ではないが、柏崎通信デジタルライブラリーを、もっと続けたいとは思っていても侭ならないのが現状だ。 長岡の頃からの夢なのだが。 

Best regards
梶谷恭巨
 

 

 

  さて、今回は、ヘンリー・ケアリーの略歴の続きから訳す。
 

 ケアリーは、経済の理念を更に発展させ、1837年かr1840年に全三巻からなる『Principles of Political Economy』を出版した。 『The Dictionary of American Biography』は云う、ケアリーは、「土地が更なる価値を生み出すという[英国の経済理論家]から根本的に脱却し」、そして、労働者の賃金が資本の見返りよりも急速に増大し、それ故に、「社会の最下層の冨の累進的な拡散」に向かうと。

父マシューが自由貿易に対する保護を普段から提唱していたこともあり、1840年に続く財政及び経済的不況は、ケアリーを1840年代の自由貿易主義者の恐ろしく口うるさい敵対者に成長させた。 1845年の小論『COmmercial Associations in France and England』、それに続く1848年の著作『Past, Present, and Future』は、ケアリーの新たな立場の最初の主要な声明である。 この著作は、チャールズ・ディケンズの小説に描かれた社会的経済的難局に急落し、国を不幸が覆った、英国議会の穀物法撤廃直後に出版された。 ケアリーは、当時、ホレイス・グレイルズの『ニューヨーク・トリビューン』の寄稿者になり、経済と財政の主要問題の主導的政治家と親交を始めていた。

ケアリーの次の著作、『The Harmony of Interests: Agricultural, Manufacyuring & Commercial(利息の調和: 農業、工業および商業)』は、1851年に出版され、英国経済政策に対する間断の無い苛烈な批判で注目された。 (以下、マルサスの人口論に言及しているが、省略し、以降、長くなるので概略を記す。)

ケアリーは、当時懸案だった南部諸州の危機に注目し、1853年、『The Slave Trade, Domestic and Foreign』を出版した。 1850年代後半には、新共和党の最も熱心な支持者のひとりになった。 ケアリーは、その後の米国政治経済学および政策に多大な影響を与えた米国資本主義経済学の開祖のような人物である。 また、リンカーン大統領の経済顧問を務めた。

ケアリーがスミスに多大な影響を与えた背景を書く積りが、ケアリーのことが長くなってしまった。

ところで、前回の略伝中に在ったアイルランドの「自由の戦士」の件は、実に興味深い。 しかも、ベンジャミン・フランクリンが、その諜報機関の創設者であるとは、全く知らなかったフランクリンの一面である。 どうも、ダン・ブラウンの『Lost Symbol』ではないが、米国史には知られざる裏面史が存在する。 機会があれば、これらのことも調べてみたい。

余談だが、米国の政策あるいは企図するものと、世論には大きな格差があるようだ。 ハッチントンは、その事を『Who are We?』に書いているが、そこに上げられた事実は、当に知られざるアメリカの実態だ。 良しにつけ、悪しきにつけ、米国は身近な存在だが、意外に知られていたいのが、その歴史である。 高校の世界史は、米国史にはほとんど触れていない。 随分昔のことだが、米国のハイスクールの教科書を取り寄せたことがある。 自国の歴史に付いては当然のことだろうが、強いて世界史と言えば、その教科書の分厚いこと、日本の教科書の比ではなかった。 もっとも、米国の友人(女房殿の友人の旦那)に問合せたことがあるのだが、マニアックな歴史愛好家は居ても、通史となると、知る人が少ないそうだ。 グローバル化と言われる時代、少なくとも近隣諸国と米国の歴史をもっと重点的に採り上げるべきではないだろうか。

Best regards
梶谷恭巨
 

 

  マリア・ルス(Maria Luz)号事件を国際法の見地から助言したのが、お雇い米国人・エラスムス・ペシャイン・スミス(Erasmus Peshine Smith)である。 「Virtual American Biographies」に掲載されていたので、以下、訳出する。


エラスムス・ペシャイン・スミスは、法律家であり、1814年3月2日、ニューヨーク市で生まれ、1882年10月21日、ニューヨーク州ロチェスターで没した。 幼少期、両親がニューヨーク州ロチェスターに移住したため、幼年期の教育は、同地で受けた。 1832年、コロンビア大学、翌1833年、ハーバード・ロー・スクールを卒業後すぐに、ロチェスターで法実務に従事した。 この間、当初は、ロチェスターの「デモクラット」のコラム作家兼編集者を、その後、バッファローの「コマーシャル・アドヴァータイザー(Commercial Advertiser)」、「ワシントン・インテリジェンサー(Washington Intelligecer)」の編集者になった。 1850年、ロチェスター大学から数学科の科長として招聘され、2年間務めた後、オルバニーの教育長に就任した。 1857年、ニューヨーク州の控訴裁判所の判例集編纂者(reporter)に指名され、第二回目にのみ編纂者が明記されたが、それ以降、判例全体を通じて番号を付す慣例を確立した。 1864年、ワシントンで移民長官に指名されたたが、その後すぐに、国務省の審判官(Examiner of Claims)に就任、ここで、彼は、ウィリアム・シュワードおよびハミルトン・フィッシュ下の国務省の政策形成に影響を与え、また、彼の国際法に関する知識が政府に多大な貢献をした。 1871年、日本政府から天皇の国際法に関する顧問(国務省に於けるのと同様の職責)の推薦を請われたフィッシュは、スミス氏を推薦した。 彼は、日本政府を公的資格で補佐する最初のアメリカ人であり、5年間滞在し、この間、国際関係においては、条約の締結や制度の確立に貢献した。 こうした重要な外交問題に携わる一方で、国内においては、苦力貿易の撤廃に関与した。 苦力輸送中のペルー船籍「マリア・ルス号」が日本沿岸で難破したが、スミスの助言に従い、230人の清国人は、日本政府によって抑留された。 事件は、ロシア皇帝により調停され、また、日本政府を代表する彼の判断で、苦力は、このような貿易撤廃という結果と共に、清国に送還された。 スミス氏は、リカルドやマルサスの理論を論駁する『Manual of Political Economy』(1853、ニューヨーク)を出版した。 これは、「純粋に物理法則に基いた政治経済学の骨子を構築する試みであり、それ故に、実証的科学に属する絶対確実な結論を得たものである」と述べている。 この点に関しては、この著作は全くオリジナルなもので、その後の経済学に大きな影響を与えた。 尚、この著作は、既にフランス語に翻訳されている。 スミス氏は、また、従来使われていた「テレグラフィック・メッセージ」や「テレグラフィック・デスパッチ」のような扱い難い語句に代わって、「テレグラム」という言葉を、オルバニーの『イブニング・ジャーナル』を通じて、英語として定着させた。 彼が、日本から帰国したのは、1876年のことである。

(注1)ウィリアム・H・シュワード(William H. Sheward): 第24代国務長官(1861/03/06-1869/03/04)、リンカーン大統領およびアンドリュー・ジョンソン大統領
(注2)ハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish): 第26代国務長官(1869/03/17-1877/03/12)、ユリシーズ・グラント大統領

文中あるように、スミスには、米国における国際法の大家の感がある。 このことが、日本政府の要請に対して、フィッシュ国務長官が、スミスを推薦した理由であるように思える。 日本における法整備は、その経緯から対外的な法整備、すなわち、国際法に対する諸制度の確立が必要だった。 考えてみれば、国内法については、従来通りの法がある訳であり、漸進的に法制度を充実することも可能だった訳である。 しかし、それにしても、この人選は最適だったといえるだろう。 先ず、神奈川県による裁判、その後の仲裁裁判、そのいずれにも、スミスが深く関与していたことが窺える。 もし、スミスが居なければ、マリア・ルス号事件の経緯も大いに変わっていたのではないだろうか。

ところで、少々気になったのが、ロチェスター大学の数学科の科長(原文では、「Chair」だったことに、興味を覚える。 どう見ても、法律あるいは政治畑か報道畑を邁進したと思えるのだが、数学が出てくるとは。 政治経済学の著作があるところを見ると、統計学なのかもしれないが、数学に関心があったことに違いはあるまい。 先の略歴にもあるように、政治経済学を自然の法則あるいは自然科学的に解明しようとしたのが、『Manual of Political Economy』である。

当時、資本主義経済学は、ラセフェール(自由貿易主義)を唱えたイギリス学派とある程度の関税を認めたアメリカ学派に分かれていた。 スミスは、マシュー、ヘンリー・ケアリー親子の影響を受け、アメリカ学派に属すリーダー的存在でもあったようだ。 そこで、ケアリーいについて、説明する必要があるだろう。 また、経歴に中に興味深い事実があるので、オランダのグロニンゲン(Groningen)大学の資料から訳出する。

A Biography of Henry Carey 1793-1879, "From Revolution to Reconstruction - an.HTML Project
 ヘンリー・ケアリーは、マシュー・ケアリーの長男として生まれた。 父・マシューは、ベンジャミン・フランクリンによって創設されたアイルランド解放軍(Irish Freedom Fighter)として諜報部門に徴募され、フィラデルフィアに派遣されたが、そこで、後に米国でも最大となる出版社を設立した。 1814年に出版されたマシュー・ケアリーの著作『The Olive Branch』は、英国海軍提督コックバーンが、ワシントンD.C.を略奪し放火した直後に刊行され、当時、戦争遂行の主要な原因までなっていた連邦主義者(Federalist)と共和主義者間の分裂を暴露することによって、低下しつつあった市民あるいは軍隊の士気を高揚させるのに、多大な影響を与えた。
 1817年1月1日、ヘンリー・ケアリーは、父親の出版社会社、ケアリー・リー&ケアリー社の共同経営者になり、ワシントンDCのアービングで出版事業を行った。 1835年、ロンドンの投資家が米国から撤退し始めた頃、これが1837年の恐慌の原因となるのだが、ケアリーは実業から退き、経済問題の研究に専念した。 彼の最初の著作『Essay on the Rate of Wages』は、その年に出版された。 『the Dictionary of American Biography』によると、ケアリーは、資本と人間の発明(技術)の応用は理論上の不毛の大地の限界を克服すると主張し、英国の自由貿易主義「ラセフェール(Laissez-faire)」を認める一方で、デイヴィッド・リカルドの貸借論(the doctrine of rent)を拒絶し、トマス・マルサスの人口論(実際には、「the Doctrine of Ever Scare Resourse」とある)を】論駁した。

以上、途中まで訳したのだが、長くなるので次回に。 というのも、最近の事件から、学生時代の国際模擬裁判のことを思い出したからだ。 忘れぬ内に、書いておきたい。

学生時代、自分は、法学部政治学科に属していた。 何だか変な言い方だが、部活動は経済研究会、個人的な関心は英文学、特に近代英米詩に関心を持ち、本来の専門である法学あるいは政治学を疎かにしていた時期だった。 その政治学科の必須科目のひとつが国際法だった。 (法学科、経済学部は選択科目。) 最初は、余り関心が無かったのだが、授業が面白く、皆勤した。 教官は、当時、新進気鋭の波多野里望助教授、確か、留学から帰国されてすぐの頃だったと記憶する。 波多野先生のご尊父は、心理学者の波多野完治先生、母上は、当時、評論家としても有名だった波多野勤子先生で、里望先生は確か長男だったと思う。 先生の授業は独特で、学期の終わりには模擬裁判が行われた。 ペーパーテストも行われるのだが、この模擬裁判が期末試験なのだ。 人気のある授業だったので、学習院では二番目に大きな教室(旧講堂)で講義があった。 模擬裁判は、ここの舞台上で行われた。 学生は、それぞれ5名の弁護側(被告)と検事側(原告)に分かれて論争する。 ただし、判定委員は、裁判長が教官で、その他は、当事者以外の全学生である。 私は、この模擬裁判で、検事側に選任された。 確か、前期のテーマが、追跡権で、第二次世界大戦中のドイツ戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号事件で、後期のテーマが、人道主義と国際法だっただろうか、具体的な内容は忘れてしまった。 そこで、記憶が割と鮮明な前者に付いて紹介する。

シュペー号事件は、同艦が、英国艦隊に追われ、ウルガイのモンテビデオ港に避難したことから始まる。 ウルガイ政府は、中立国で、隣国アルゼンチンとの関係から、むしろ、ドイツに同情的な国だった(実際には、国ではなく、当時のモンテビデオの市長が、そうだったといわれている)。 シュペー号の入港は、そうした背景もあり、むしろ歓迎されたのである。 (歓迎レセプションやパーティが連日開催された。) 英国政府は、これに対し、国際法上の追跡権を主張し、ドイツ軍艦の停泊は、国際法上、違法であると、同艦の引渡し、あるいは、強制出港を求めた。 結果的には、シュペー号艦長ハンス・ランドルフの判断で、自沈、艦長は後に責任を取り、アルゼンチンのブエノスアイレスで自決した。 映画にもなったので、ご存知の方もあるだろう。

問題の焦点は、戦時下における中立国と追跡権の関係である。 追跡権とは、当事者国内で発生した事件は、公海上においても、当該船舶を継続的に追跡することによって、訴追の権利を留保できるというものだ。 事件の発生が、この場合、英国領内であれば、中立国の問題はクリアできる。 しかし、戦時中であり、英国とドイツは戦闘状況にあった。 私は、「戦闘が行われ、その後、継続的に該艦を追跡したのであれば、中立国に対しても追跡権は認められる」と弁論を展開した。 まあ、その時の経過は措くとして、問題は、追跡権と公海上における事件および中立国の関係だったのである。

今はどうか知らないが、大体、大学でも、国際法はマイナーな学問だった。 グローバル化とか、多国籍企業とか言われる割に、国際法についての認識は薄いのが実情ではないだろうか。 それだけに、国際法の重要性は日増しに増大している。 国際法に係る事件は、当事者国間の文化や価値観の拮抗でもある。 グロチウスは、その事を想定して、『戦争と平和の法』を書いた。 17世紀のことである。

Best regards
梶谷恭巨
 

 

 問合せがあったので、「仲裁裁判」について、概略を。

先ず、「仲裁」の事典的意味から紹介する。 尚、本質的には異なるとは思えないが、一応、事件の始まりが、英国代理公使ワトソンの通告であるので、有斐閣の『法律用語辞典』と東京大学出版会の『英米法辞典』の両者から引用する。 (日本の法律は大陸系であり、英米には、当然、英米法の法理があり、多少異なるので。)

『法律用語辞典』
一般には、当事者の合意に基き第三者の判断によって、その当事者間の紛争を解決すること。 調停と異なり、第三者の判断が当事者を拘束する。 ①国際法上の仲裁裁判、②「公示催告手続及び仲裁手続に関する法律」上の仲裁手段、③労働法上の労働委員会による仲裁、④公害等調整委員会等による公害に係る紛争に関する仲裁等がある。

『英米法辞典』
仲裁【arbitration】紛争を、当事者が選定し、その判断に服することを合意した第三者の裁定に委ねること、または、それによる紛争処理手続。 コモンロー上の仲裁は強制履行ができないが、制定法上の仲裁は強制履行が可能。
調停【conciliation】争訴的方法によらずに紛争を解決する手続。 両当事者が合意によって解決に到達することを目的とするから、たとえ調停者(conciliator)が解決案を示す場合にも、それは当事者を拘束するものではない。


マリア・ルス号事件の場合、当事者が条約締結国でないペルー(原告)と清国人苦力(被告、日清修好条規締結前)であったため、治外法権外で、国際法から停泊地横浜(日本)の法制が適用され、判決が下された。 しかし、その後、ペルー政府からの謝罪と賠償の要求があり、日本政府は、これを拒否した。 これは、国際法上の問題である。 そこで、必然的経過として、裁定を第三者に委ねることで同意したが、事件当初から、英米独伊などの国は、事件に何らかの形で関与していたので、この事件に関係の薄かったロシアが選ばれ、ロシア皇帝が仲裁人になった。

当時の状況から推測すると、第三者の裁定人に法的強制履行力はない。 そこで、大国の権威あるいは武力(物理的強制力)を背景に、仲裁が実現することを企図し、ロシア帝国が仲裁国となったのではないだろうか。 因みに、当時の国際世論は、英米を除けば、皆、原告側勝訴を期待していた。 しかも、米国公使でロングは、帰任後、前言を撤回しているのだから、ペルー政府には大いに賞賛があったのだろう。 ただ、同じ、国際世論に、ペルーの奴隷制あるいは奴隷的労働を非難する風潮はあったようだ。 ロシア皇帝が、謝罪・賠償を避けた背景は、何処にあったのか興味が湧く。 ただ、後のロシア皇太子来日時の歓迎には、この事が何らかの影響を与えていたようだ。

尚、当時、外務省には、米国人顧問エラスムス・ペシャイン・スミスが居り、彼の助言が、外務省の方針に多大な影響を与えている。 スミスは、国際法に詳しい法律家であり、政治経済学に関する著作もある人物で、リンカーン大統領、グラント大統領政権下の国務省の法律顧問を歴任している。 岩倉遣欧使節団が滞米中、国務長官フィッシュに人選を依頼し、実現した人事だが、私見としては、当を得た人事であったと考える。

スミスについては、丁度、配信する予定で、調査就筆していたところだった。 よって、次回は、スミスを。


Best regards
梶谷恭巨



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プロフィール
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誕生日:
1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
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柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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