柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  「越後殖民社」に関する史料を探していたら面白い文献があった。 明治32年に東京在住の北海道紳士録発行所・筆者兼編集者・高津叉次郎による『北海道紳士録』だ。 そのうちの何人か、特に、新潟、広島、福岡出身者について紹介しよう。

 
 先ず、初回は、慶応元年(1865)7月2日、新潟県北蒲原郡福田村の高橋利義の七男に生まれた高橋信行について紹介する。 尚、当時の住所は、石狩国空知郡瀧川村とある。 福田村は、後に合併、堀越村、水原町、現在は、阿賀野市になった。
 
 高橋信行は、この紳士録が発刊された当時、35歳だった。 高橋は、明治17年(1884)、明訓学校に入学し、漢籍と法学を専修し、明治19年(1886)、東京に遊学し、同20年、拓殖の必要性を覚り、、札幌農学校に入学し、農芸伝習科を卒業した。
 
(注1)明訓学校: これは、現在の明訓高等学校の前身ではなく、明治15年(1882)に西蒲原郡弥彦村に雄設立された私立学校のこと。 越後殖民社の創立者の一人である関矢孫左衛門に賛同した市島徳次郎などが中心となり、修業年限は5年、基礎として漢学・英学・数学などを学び、3年以降から法律が加わったと云う。 明治29年(1896)、閉校。
(注2)『札幌農学校一覧』によると、明治22年第二期乙生に「高橋荘治」の名前がある。 これから推測すると、この荘治は、後に「信行」と解明したものと思われる。 また、園芸伝習科は、当時、年限2年であった。 因みに、本科は、3年乃至5年だったようだ。
 
 文脈から在学中と推測されるが、北海道拓殖には、獣医が不可欠として、長官に建白書を提出した結果、第二部長・橋口文蔵から給費生十数名に限り6ヶ月間の獣医学の講習が認められ、高橋は、講習を受けると共に、講義も担当したと云う。
 
(注3)長官: 時代から推測して、初代北海道長官・岩村道俊と考えられる。 岩村道俊は、土佐出身で、北越戦争では、河合継之助と小千谷談判をした相手。 「越後殖民社」との係わりが、何かしら有りそうだが、それは、またの機会に。 また、「殖民社」を起こした関矢孫左衛門は、若い頃、石黒忠悳と共に、勤皇の同志を募って、越後の一円を遊説した仲。 越後における自由民権運動に深く関係している。
 

(注4)橋口文蔵: 薩摩出身で、農商務省から、第三代・札幌農学校校長(クラークの後任)、道庁第二部長、台湾総督府台北知事を歴任したほか、洋式農業を実践したことでも知られている。 余談だが、白洲正子(夫・次郎)とは、父方の従妹関係。

  明治22年(1889)10月、小樽ほか6郡での開業が許可された。 明治23年6月、獣医開業試験に合格、同年6月、樺戸集治監に奉職したが同月辞職、明治24年1月、札幌獣医学校設立が認可され、同校の教員になる。 明治25年6月、獣医蹄鉄工組合が組織され、公選により、その組合長になる。 明治27年、空知郡瀧川村に転籍し、大小に係らず公共事業に尽力した。

 
 明治31年、憲政党に入党、地方人士の入党勧誘を推進する。 雨瀧郡に5万坪の貸付地を持ち、(この紳士録発刊当時)、開墾を行っていた。
 
 以上、掲載文書を、適宜、現代文にして、注釈を加え、概略を紹介した。
 
 高橋信行は、文脈から推測すると、北海道における獣医の嚆矢的存在といえるだろう。 新潟県人、あるいは越後人は、他県から見ると、「粘り強い保守的性格を持つ反面、冒険心に冨、時代を先取りする資質を内包する県民性」を、歴史的に感じるのだが、現在の県民性は、寧ろ、前者の性格が見え、先進的気質が、漸次的に失われているのではないかと危惧するところがある。 しかし、私見ではあるが、車の両輪の如く、頑固までとは云わないが、自信のアイデンティティを認識し、変革の時代に、その先人的役割を果たした、それこそ先人の足跡を再確認することを希望して止まない。
 
 次回は、新潟を離れ、故郷、広島県山県郡出身の友田文次郎にについて書く予定である。 付け加えると、実は、この「紳士録」、明治中期における北海道拓殖の実情を、県別出身から多くのことが物語れているのだが。
 
Best regards
梶谷恭巨

  既にディキンズの略歴を紹介したが、その後、『遠い崖』を読了し、更に、『パークス伝』を読み始めて、ディンズの漠然としたプロフィールが実体を伴い始めた。 「実体」というのは大袈裟かもしれないが、兎に角、頭の中で息づき始めたことは事実なのだ。

 
 先ず、ディケンズは、明治10年前後頃には、アーネスト・サトウと近しい友人関係を築くのである。 マリア・ルス号裁判で、傍証として「女郎の年季奉公証文」を提示して、皆を驚かせた場面がある。 裁判に関係するかどうかは不明だが、ディケンズは、サトウに、「女郎」の意味、語源、来歴などを問い合わせているのだ。 そして、サトウは、『倭名類聚鈔』などを引用し、ディケンズの問いに答えている。 これが、明治10年(1877)頃のことであるから、裁判との関わりが推測されるのだが、さて如何だろう。
 
 以前書いたように、英国の公的見解は、発端の経緯から清国人苦力に同情的であり、各国公使への働きかけや日本政府に裁判の開催を促すなど、一貫して被告側を支援している。 すなわち、ディケンズとは、立場が逆なのである。 当然、サトウは、承知していたはずである、否、日本政府との交渉では、常に、サトウが立ち会うか、公文書を翻訳する訳だから、清国苦力を積極的に支援したのは、公使館内でも上位にあるサトウの意向も反映されていたのかもしれないのだ。 もっとも、日本における外国人社会は、狭く、しかも、教養人とか日本アジア協会に加入する人は少ないのだから、サトウとディケンズの交流は、以前から緊密だったのかもしれないのだが。
 
 それに、この事件が直接の動機になったとは言えないだろうが、第二回目の賜暇で帰国した際、リンカン法学院に籍を置き、法律を学び、法廷弁護士の資格を目指したのも気になる事実だ。 詳細は省くが、サトウは、数年後、この法廷弁護士資格試験に、他の追随を許さない圧倒的な点数、すなわち主席で合格するのだ。 しかも、この賜暇の期間、ドイツ語の向上、イタリア語の習得など、能力の向上に努める一方、毎夜のように音楽界・オペラ観劇し、しかも、ヨーロッパ各地を旅行するなど、「恐るべし、驚くべきサトウの勤勉」と言う他はないのである。
 
 この事件は、結局、国際仲裁裁判で結審することになるのだが、ここで、興味深いのが、サトウが後年(明治39年、1906年)にハーグの国際仲裁裁判所英国代表に任命され、以降5年間、その職を務めていることである。
 
 以上は、マリア・ルス号事件に何かしら関連する事実だ。 しかし、サトウとディケンズを結び付けたのは、こればかりではない。 植物学があるのだ。 サトウは、当時、口語辞典の第二版を編集あるいは検討中で、最初は、植物そのものに関心があった訳ではなく、この辞典編纂の為に、植物および植物名を収集していた。 しかし、ディケンズと情報を交換し、また共に植物採取旅行などに出かけるに及び、植物そのものに関心を持つようになったようだ。 また、先の賜暇の時、ドイツのマールブルグ大学でローマ法の受講した頃、日本で知り合った地理学のライン博士との交流を通じて、博物学にも関心を持つようなったようだ。 ライン博士の依頼で、英国博物館に行き、日本の地名なども調べている。
 
 その後、ディケンズは、ロンドン大学の事務局長などつとめるのだが、その傍ら『パークス伝』を就筆する。 当然、ディケンズは、パークスと最も因縁の深いサトウに問合せをするのだが、実は、サトウは、個人的にパークスを好まなかったのだ。 公式の場では、矢張り外交官、一切、顔には出さない。 ウィリスとかアストンに漏らすか、私信で本音を伝えるか、いずれにしても、ディケンズは、それを知らされた時、「唖然」したという。 ところ、余談だが、ディケンズは、南方熊楠との縁が深い。 ディケンズが、古文(竹取物語や枕草子など)を英訳する際に、校正したというようなことが、南方熊楠の履歴書に書かれているようだ。 南方熊楠は、大英図書館に入り浸りで(毎日)、孫文と知り合ったという逸話を読んだ記憶がある。 皆、何かしら東洋に係る関係だから思わぬ接点があるのかもしれない。 好奇心をくすぐる。
 
 こう書くと、何だかサトウがマキアベリストであるかに見えるのだが、『君主論』は最も嫌いな本のひとつだったようで、タイに赴任する前だったか、赴任中かに、政治家あるいは外交官としての必読の書と、悪態をつきながら読んだ様子が窺える。 サトウという人物は、性格、人間関係、足跡など、様々な視点で見ると、意外な側面が見えてくる。 そのサトウの視点から見た日本は、誰の著作あるいは報告よりも、より客観的で精確だと思える。 それが、サトウを追った動機だが、その内、その人物そのもの惹かれてしまった。

機会があれば、この辺りのことも書いてみたい。
 
Best regards
梶谷恭巨

  あけましておめでとう御座います。

 
 さて、恒例の易を立ててみました。 神棚を掃除し、元服した息子に神事の手順を襲え、祭りごとの手順に従い、年を越すと同時に、易をたてました。 自分ではなく、息子に、任せたところが、先年と違う所です。
 
 その結果は、「山天大蓄」、卦は、下が「乾(全部が陽)」、上が「一番上が陽でその下が陰」、先ず、そのままに書きましょう。
 
 大畜は、貞(タダシキ)に利(よろ)し、家食せずずして、吉。 大川を渉るに利(よ)し。
 
 この卦、二進数に書くと下から「111001」、そういう卦になる。 (一応、ここまで判れば、後は、インターネットで調べられます。)
 
 毎年のことなので、ご容赦。
 
 序でに言う、「曰く、大蓄、は剛健篤実にして、輝(光)きあり、日にその徳を新たにする。 剛上(あがりて)、尊(賢)び、よく(能)健をやむるは、大正なり」と。
 
 大正という時代は、この大正からか。
 
 さて、「山天大蓄」は、何を意味するか。 昨年に続き、何をか言わんか。 日常とは何かを考える。 日常の生活、それをもし祠にするならば『詩経』であり、『万葉集』であると。 心の赴くままに、言葉をつづり、そのことばから、生きがいを生み、もしかすると、絶望も生む。 その言葉の、日々なる機微に、意欲と憂いを半ばして、今日を生きる。
 
 天地の機微の一端が易、さて、今年は如何なる年か。
 
 兎にも角にも、今回の易断。 これもまた、行動規範の一形態かと。
 
 

Best regards
 

 

梶谷恭巨
 

 

  ウィリスの人となりを考える場合、何処かに違和感を感じていたのだが、重大な事実を忘れれていたことに気付いた。 それは、アイルランドにおける大飢饉の問題だ。 別件で、エイリー島財団のデータベースを参照した。 ある時期、アイルランドからの意味が急増する。 その原因が、所謂「The Great Hunger」と言われるアイルランドの大飢饉だった。

 
 農村部における主食的存在になっていたジャガイモがほとんど全滅に近い不作になり、また、囲い込み運動で、生活の基盤が危うくなったアイルランド、特に、北部の住民は、この大飢饉で、100万人が餓死するか、海外に生活を求めた。 ウィリスが育ったのは、丁度、この時期なのだ。 この大飢饉は、手元の資料によると、既に、1840年代には予兆があったようで、その10年後、大飢饉として表出した。
 
 違和感というのは、ウィリスの文脈に見える優しさの反面、金銭面に固執するといえるほど、地位よりも俸給に言及する彼の報告書や書簡のコンテキストだった。 なぜ? アーネスト・サトウとの余りにも大きな視点の位置が気になっていたのだ。
 
 ウィリスは、明治4年、モンマスで開業医をしていた長兄・ジョージから、父の死を知らされる。 その父の死に対する書簡は、当に恨みつらみの文脈だ。 彼は父親をして、「不公平、不正義の権化」とまで言う。 その父親は、アイルランド北部モンマスの中農であり収税吏だった。 そして、家を継ぐ三男をを除けば、男の兄弟の全てを大学に進学させ、三人ともに医師にした父親なのだ。 因みに、長男は海軍軍医を経て開業、次男は海軍軍医である。
 
 ウィリスの戊辰戦争、あるいは北越戦争における視点は、この成長期における大飢饉を抜きにしては語れない、というのが、今の感想である。 彼の言によれば、一人の姉、二人の妹に対する父親の姿は、自分のイメージにも増して悪魔的存在だったようだ。 終生、ウィリスは、その父を許さなかった。 余談だが、ふとキルケゴールの父親のことが思い浮かんだ。 ユトレヒト半島の貧農出身の彼は、「神を呪う」といい、そのことがキルケゴールの生涯について回る。
 
 しかし、ウィリスの書簡などを読む限り、大飢饉に関する記述がないのだ。 これは何を意味するか。
 
 医師として、博愛の精神を説き、事実、当時のお雇い外国人に見られる功利主義を排し、子弟であり同僚である薩摩の若い医師たちの待遇改善を唱える彼が、時として、強烈な自己主張をする。 例えば、鹿児島医学校・病院に就任する時の履歴書には、間違いなく、柏崎が登場するのだが、以前紹介したように、強いて言えば「ぼろくそ」の表現で柏崎を評しているのだ。 しかも、往復二回。 これは、少々気になっていた。
 
 2mに近い大男だったそうだから、その印象は、各地に残っていると思った。 ところが、アニハカランヤ、戊辰戦争従軍中は、新発田でのみ、その足跡をしることになった。 当時の平均的身長が、高くても精々160cm、そこに2mの大男ウィリスが登場すれば、びっくり仰天の世界である。 要するに、160cmもあれば大男の時代なのだ。 例えば、坂本龍馬の身長が170cm強、中岡慎太郎に至っては150cm強、アーネスト・サトウの身長は判らないが、ウィリスは、見上げなければならないほど大男な訳だ。
 
 鹿児島でも、その存在は、畏敬というより、恐るべきとか、怖いというような印象があったのかもしれない。 それは、『ガリバー旅行記』とか「ホビット」の世界に迷い込んだ印象だったのであろうか。 因みに、『ガリバー旅行記』の作家、スイフトもアイルランド人である。 ついでに言えば、ホビットの生みの親・トールキンは名が示すとおりドイツ系、南アの生まれであることに興味がわく。 大体、登場人物の出身地が意外だ。 イングランドではないことが多いのだ。 何なのだ?
 
 話をウィリスに戻す。 ウィリスの育った時代は、アイルランドにとって、重大事件が続いた時期でもある。 オコンネルの登場、連合法、そして、「大飢饉」である。 ほかにも宗教問題、カソリックの公認など、アイルランドの歴史上、大きく方向が変わる時代だ。 ウィリスの人格形成に影響を与えなかったとは思えない。 しかし、何分にも知識が不足している。 今後の課題とした。

 そこで、現在、Cecil Woodham-Smith著『The Great Hunger』を読み始めたところである。 (随分前に購入した本なのだが、読む機会を逸していた。) 論旨が錯綜してしまった。 尻切れトンボになるが、続きは、多少とも、近代アイルランド(ゲール)・イングランド比較史を勉強してからにしたい。 
 
 
 
 
Best regards
梶谷恭巨

  久々にウィリスの登場である。 ウィリスは、鹿児島県に「意志の給料について提案」している。 上京した際、東京病院(ウィリスの前任地)関係者の月給の一覧を入手したのでと、その一覧を揚げている。 (以下、萩原延壽著『遠い崖』参照。)

 
 学校学事主務兼院長    250両(円)
 学校大教授                 200両
 学校中教授兼通弁       150両
 少教授                       100両 
 大助教                         70両
 中助教                         50両
 
 これに対して、鹿児島の医学校・病院の医師の給料が余りにも低いとというのだ。
 
 「例えば、二名の最年長の医師、鮫島淳安と坂元幽斎の年収が、石高9石で、これを換算すると年俸28両(円)にあたり、月額にすると2両半にしかならず、日当に換算すると1分(一両の四分の一)の三分の一にもならに。 高木藤四郎(兼寛、後の海軍軍医総監、慈恵会医科大学の創設者)の場合は、更にひどく(確か2石だったか)、その他になると、1分の四分の一にも満たない報酬しか支給されない。 これは人足の日当にも劣る。 数年にわたる研鑽を必要とする有能な医師をどうしれ育てることが出来ようか」と嘆き半分怒り半分なのである。
 
 そこでウィリスは、次のような提案をしている。 (尚、鹿児島医学校・病院の職制は八等級あった。)
 
 第一等40両(円)、第二等35両、第三等30両、第四等25両、第五等20両、第六等15両、第七等10両
 
 先の例でいくと、単純計算で16倍の金額である。 それでも、東京病院に比べれば雲泥の差があり、ウィリスは、最低限の給料だと提案している。 この提案が採択されたかどうか、著者である萩原氏もこの時点では未発見だと書いている。 いずれにしても、当時の鹿児島医学校・病院の医師たちの生活が困窮していたことを窺わせる資料である。 
 
 ところで、「方外の人」という言葉がある。 身分制度の社会で、強いて言えば「圏外」あるいは「身分制度の外」の人あるいは職種の人という意味で、医師、僧侶、神官、画家、学者、作家、武芸者、面白いところでは囲碁の棋士などが、それにあたる。 今風に言えば「自由業」がこれに当たるのかもしれない。 ただ、役者などは、「方外の人」には入らないようだ。
 
 鹿児島医学校・病院の医師で、扶持を受給している人もいるので、彼らを一概に「方外の人」といえないのかもしれないが、少なくとも、身分制度の序列外に在ったことは事実だろう。 因みに、朝廷や幕府の典医の場合は、地下人という、お目見え以下の位階を与えられた。
 
 少々横道に逸れるが、「方外の人」の収入を調べてみた。 ところが、これがよく判らない。 幕府とか藩に帰属する場合は、分限録などからある程度調べることが可能だろうが、市井の人ということになると、税金も無いのだから記録も無い。 要するに定収入がないということだろう。 有名な葛飾北斎や滝沢馬琴のなどの生活からして、裕福とは程遠い。 学者や武芸者などは、お抱えで無い限り、収入は、塾や道場の束脩(謝礼、入学金や授業料)が主たる収入であり、時には、各地を歴訪し、特に、弟子を訪問し、公開講座のようなものを行って、収入を得た。
 
 最近でこそ、ある程度、事情が判ってきたのだが、以前は、幕府の典医や昌平黌(昌平坂学問所)の医師や学者が、何故、私塾を開くのか疑問だった。 上記の如く、お上からの収入では、よほど有名でもない限り、家計は火の車が実情だったのではないだろうか。
 
 さて、鹿児島医学校・病院だが、どうも、当時の鹿児島県には、藩幕時代からの慣例が続いていたということなのだろう。 こうしてみると、当時の人々、特に、方外の人々の収入を調べつ事が、その時代の情況を知る上で、有意な指標になるのではないかと思えるのである。
 
 これは、現在のも言えるのではないだろうか。 また、その時代時代の「方外の人」の収入が、その社会の文化や活力のバロメータになるのではないかと思うのである。 ついでに言えば、地方の活力の指標にも。
 
Best regards
梶谷恭巨


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1947/05/18
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