柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
先ず、今回の大震災の被災者に対し、心からの哀悼と励ましを送りたい。 その意味でも、様々な苦難を乗り越え、新天地に大いなる希望を実現した人々の足跡を追うべきではないかと。 黙礼。
明治39年(1904)~37年に刊行された『北海道立志編』全四冊は、いろは順で、明治期の北海道成功者を紹介している。 出身県別に集計しようと読み始めたのだが、新潟県出身者が多いことに気付いた。
まあ、それはおくとして、今回、大震災のこともあり、文政11年(1828)12月18日(旧暦11月12日に起きた「三条地震」の影響と北海道殖民との関係を考えたのだ。 そんな事を考え、新潟県出身者を探しながら読み始めると、4番目に三条出身の今井藤七、5番目に詳細は不明だが矢張り越後出身の道会議員・石黒長平、7番目に今井武七(藤七次弟)、9番目に今井良七(藤七末弟)が出てきた。 読むと、この三人の今井氏は皆兄弟である。 そこで、改めて調べてみると、この今井藤七という人物が、一時期、北海道で首位を誇ったデパート「丸井今井」の創業者であることを知った。 「丸井今井」は、北海道道拓殖銀行の破綻で、創業者一族の乱脈ぶりが暴露され、第四代社長・今井春雄氏の解任、会社は、三越伊勢丹グループの傘下になった「丸井今井」と、基本的には清算を目的に分離された「北海道丸井今井」に分離した。
藤七は、嘉永2年10月、南蒲原郡三條町上町で、父・今井七平の三男として生まれる。 父・七平は、三条で代々米穀商を営む七代目だったが、文久元年(1861)の上町大火で罹災し、これが原因かもしれないが、家業が傾き、藤七は長岡の竹屋吉兵衛方に奉公に出てた。 その後、今町(現・見附市)の河内屋要吉家に婿入りしたが、父・七平が事件に巻き込まれたのか投獄され、離縁となり今井に戻された。 明治4年(1871)の渡道まで、ざとこんな経緯だが、 北海道立志で編によると、渡道の切っ掛けは、既に、兄・栄七(恐らく次男)が、函館の廻船問屋に居たからではないだろうか。 その後、弟、武七も良七も、今度は、皆、兄・藤七を頼って渡道しているのである。
ただ、人となりを知る上で、面白い逸話が残っている。 渡道に際し、親戚や旧知の人たちが頼母子講を起こして餞別を贈ろうとしたが、固辞しているのだ。 詳細は判らない、上町火事による罹災、父親の投獄、養家からの離縁など、よほど悔しい思いがあったのだろう。 『立志編』は、その行動たるや「堅忍不抜、確信の牢として抜くべからざるものある」と評している。
また、草創期の逸話として、札幌に莚二三枚を並べただけの屋台のような店を開き、店は高木某(詳細不明)に利益折半で任せ、自分は、当時の情況観察に奔走し、結果、屋台店が意外に繁盛していることを知り、2ヶ月で商品を売りつくした後、函館の旧奉公先・武富平作や寺井(詳細不明)らに当時の金で500円を借り、屋台店を拡張して、2年半で巨利を得たという。
当時、札幌は、まだまだ草創期であり、発展途上で、海のものとも山のものとも見極めがつかなかった状況だった。 西部劇ではないが、西部開拓時代の町のようなものだったのか? やはり、情報を制する者が成功する一つの事例と言えるだろう。
今井藤七に関しては、先のように、北海道商業界の草分け的存在で、文献資料も多い。 経歴等に付いては、そちらに譲るとしよう。
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梶谷恭巨 岡田孤鹿は、天保5年(1834)に柳河に生まれる。 幼くして技量尋常に卓越していたそうだ。 安政4年(1857)より明治12年(1879)まで、官界にあったが、明治13年より、福岡県会議員となり、明治13年11月より同15年9月には副議長を務め、明治23年、衆議院議員に当選し、一期四年間国政に尽くしたが、「代議士として国家に尽くすも、実業を以って治績を挙げるも、その国家に尽くす所以は一なり」と、農業に身を投じて、遊惰な世間を驚かそうと、明治27年、当時の住所、勇払郡厚真村(現、厚真町)に移住し、自ら鋤鍬を取って、荒野を耕し、農場経営に成功したが、この間、一度も、津軽海峡を渡らなかったと云う。 この人物は、実に興味深い人物である。 友人の故郷と同じこともあり気になる存在だった。 調べてみると、『荒野の郷(こうやのさと)-民権家・岡田孤鹿と二人妻』という森崎和江氏の著作があった。
幸い150円+送料で入手できるので、これは無理しても入手することとした。 そこで、岡田孤録に付いては、その書籍を通読し、他の史料と比較して書くことにしたい。
ただ付け加えると、岡田孤鹿を多少なり追ってみると、九州、福岡・熊本・大分近辺の自由民権運動や鉱山業などの発展史と相俟って、現在の九州北部の形成史を垣間見ることが出来るようだ。 特に、縁のある大分県については、ゴールドラッシュ(金山王・成清博愛)の歴史との係わりで、何とも興味深い事実に行き当たった。 まあ、この話、先のように注文の本が届いてからのことにしよう。
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梶谷恭巨
吉原嘉四郎は、安政5年12月17日に、新潟県三島郡片貝村(現、小千谷市片貝)に生まれた。 北海道移住までの経緯は不詳。 紳士録発刊時の住所は、空知郡市来知村本町東1丁目20番地。 現在の三笠市宮本町辺りと思われる。 明治13年(1880)6月15日、石狩町に移住し、菓子製造業を開業した。 明治15年4月24日、塩谷町(現在、小樽市塩谷)に移転、明治16年、更に移転し、菓子製造に加え、酒造業を開業し、目論見が的中して繁盛した。 その他に商事会社も経営し、機敏で勤勉、財を成した。 当時の金額で、2万円以上の蓄財があったと云う。
ところで、高山樗牛(林次郎)は、『時代管見』(明治32年刊、博文館)の中で、「紳士録」という節を設け、「紳士録」について記している。 曰く、
「坊間(ぼうかん)に『紳士録』と題する一書あり、其収むる所、高利貸あり、博徒の親方あり、然れども、この輩、豈(あに)、所謂(いわゆる)紳士と称すべきものならんや。 紳士は士也、君子也、品性徳行に於いて群氓の師表となるべきものなり者也。 夫(そ)の苟(いや)しくも所得税を納むるもの、即ち、目するに、紳士を以てす、偶々国民の拝金根性を暴露し来る。 是れ事、少なりと雖(いえど)も明に国民道徳の危機を示す者に非ずや」と。
しかし、これは、今回採り上げた『北海道紳士録』には、当てはまらないように思える。 確かに、北大の『北海道人物史料目録』に掲載された資料を、インターネットで読めるものは、通読してみたのだが、事、北海道開拓史に関する人物史料は、当時、交詢社などで出版された『紳士録』とは、一線を画すものがあるように思えるのだ。 それと、当時の情況を考えると、よく調べてあると思う。 要するに、数少ない北海道開拓史の史料として、結構、有意味なものではないだろうか。
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梶谷恭巨
鈴木匡則(ただのり)は、安政5年(1858)12月27日、新潟県西蒲原郡桜井郷村境江に生まれる。 紳士録発刊当時の住所は、有珠郡西紋鼈(もんべつ)村57番地。 現在の伊達市。 (注1)桜井郷村: 弥彦村・矢作村と合併し、現在の弥彦村になる。
明治10年(1877)1月、同郡山崎小学校に入り、漢学を学び、同20年(1887)、8月、泰東集英舎で簿記学を習得し卒業、同23年12月、日本同盟法学会法律学を講習、同年、明治法律学校の校外生として法学を専修、同24年12月20日より25年2月まで三条区裁判所で執達吏職務練習。 この間、明治15年10月、観音寺村戸長役場の筆生として同22年4月まで務め、同22年、町村制施行に伴い、桜井郷村助役に選任され、同26年4月まで勤続した。 しかし、どういう経緯か、明治26年9月、現住所に移転し、12月には、組合頭となっている。 同27年6月、新潟県人団体の長になり、事業の進歩発展を図った。 同29年7月、有珠郡衛生組合長、同30年7月、厚徳会会長に就任、公共事業の改善を図る。 この間、明治28年2月より、簿記学校教授として、地方青年の教育に尽力した。
新潟県から北海道に入植した人は多い。 明治15年(1882)から昭和10年(1935)までに、新潟県から北海道に移住した世帯数は、61,636戸で、青森県、秋田県に次いで第三位の多さである。
尚、関矢孫左衛門の「北越拓民社」と、何らかの関係があると思われるが、この件に関しては、研究し、このシリーズで逐次掲載する。
さて、友田文次郎であるが、奇しくも、我が同郷、すなわち、広島県山県郡の出身である。
友田文次郎は、慶応元年(1865)4月、広島県山県郡に生まれた。 家は農業を営む旧家であったが、父の代に、醸造業を、また製鉄業に従事して、文次郎が幼少の頃は、家業が隆盛した時期であった。
尚、紳士録発刊当時の住所は、川上郡旭川村本町14丁目左10号である。
時期は不明だが、後に、広島の開成舎に学ぶと共に、碩学として知られた河野徴や山田十竹等に就き学業に励んだ。 明治14年(1881)、大阪に遊学、普通学(詳細不明だが、時代からして漢学・洋学か)を学ぶと共に法学を研究した。 しかし、明治17年(1884)、父親の希望により、帰郷、家業を助けた。
(注1)開成舎: 浄土真宗の僧侶・能美圓乗(えんじょう)、天保5年(1834)-明治30年(1897)、後に還俗、によって、明治5年に旧広島城内に設立された私立学校。 普通小学科のほか漢学・英学・数学科があったが、明治21年、特別科・文学科・小学科三科になる。 特に、特別科は、当時、第五師団長であった野津道貫(みちつら)の依頼により、軍人子弟のために設けられ、後に、陸軍将校の組織する偕行舎に引き継がれた。 明治22年、播磨屋町に移転、明治24年には、尋常科を加え、更に幼稚園も開設した。
(注2)河野徴: 文政6年(1823)9月、広島の綿商のに生まれる。 諱は徴(しるす)、字は文献、号を小石(しょうせき)あるいは視庵。 著書に、『老生常談』、『古今大家名文章』などがあるほか、漢詩をよくした。 頼聿庵(いつあん、頼山陽の長男、頼山陽が脱藩した為、祖父・春水に育てられ家督した)に学ぶ。 文久3年(1863)、広島藩儒官、元治元年(1864)藩世子の侍読。 長州征討では、長州藩との折衝役を務める。 維新後は、明治5年に厳島神社禰宜、明治8年に広島師範学校教師を務め、後に、私塾を開く。 明治28年(1895)1月23日没。
(注3)山田十竹: 天保4年(1833)、広島藩士・今井七郎衛門の三男に生まれ、後に、山田家(20石)を継ぐ。 11歳で、藩学問所で、坂井虎山に師事、金子霜山に漢学を学び、16歳で句読師に、慶応4年(1868)家督と相続し、儒官に任じられる。 明治3年(1870)、修道館に改名の時、学問所・寄宿寮塾の塾頭になった。 廃藩置県で修道館が廃校になると、明治7年(1874)、東京海軍兵学校教官(漢学)に任命された。 明治14年(1881)、旧藩主・浅野長勲が浅野学校を修道学校に改組したとき、その初代校長に就任。 明治19年(1886)、浅野家から修道校を譲渡され、八丁堀の自邸に修道学校開設した。 一時期、漢学のみの夜学校に後退した事もあるが、没後(1901年8月26日)、今の修道学園の基礎が完成する。 著書に、『日本志略』、『明治小学』、『尺木集』、『十竹遺稿』、『暗誦事類』などがある。
郷里では、常に人に推され村吏、あるいは郡村の委員など務め、後に郡役所に奉職したこともあったが、「これは実業ではないから、到底、立身ができない」と、明治21年(1888)、友人と図り、広島の豪商に就き、長州の元山で、海を埋め立て石炭採掘に、更に数百町歩の塩田や畑を買収して事業を拡大したが、2年半が過ぎる頃、災害に遭い、努力空しく、事業を断念。 明治23年の春、山陽土木会社に入り理事を務めた。
(注4)郡役所に奉職: 私事になるが、期間は不明だが、明治の頃、山県郡郡役所が我家に置かれていた。 現在の家は、安政年間に建てられたと伝えられ、家の玄関は、御上口という藩の郡代などが使う玄関と通常使う玄関があった。 玄関を入ると、土間があり、三間幅で奥行き一間の広敷という板の間があり、奥に広間があって、郡内の行政・裁判などが行われていたそうだ。 明治中期以後のことと思われるが、玄祖父・その弟が郡長を務めた。 時期の前後が不明だが、もしかすると、友田文次郎は、郡の役人として、我家で執務していたかも知れない。 ただ、友田家が一家を挙げて北海道に渡った為か、母に聞くが、友田という名前を知らないという。
しかし、志忘れ難く、明治24年、北海道の開拓が有望であることを知り、一家を挙げて渡北、同年7月、川上郡永山村に移住した。 当時、自身の事業の失敗と、家業である鉱山・製鉄業も、既に数年前から洋鉄の輸入で不振に陥っていた。 その為、移住時には、殆ど余財は無かったと云う。
これは、余談だが、母に、旧加計町に友田という家があったかどうか調べてもらったところ、確かにあったそうで、今も、一軒だけ友田姓の家があるそうである。
永山村は、現在の旭川市で、入植当時は、茫漠たる荒野でまともな家は一軒も無かったと云う。 その地で、9年間、家計が安定するまで自ら鋤鍬お手に開墾した。 しかし、この間、移住の翌年春には父親が、更に一年後には弟が死去するなど不幸が続いたが、移住後直ぐに、村吏に推され、三年間務めるなど、町村の発展に尽力している。 その努力が実り、明治25・6年頃には、村民の寄付で、村役場の分署、小学校を建設、旭川周辺の30万坪以上の土地を村の共有地にするなど、公共事業を推進した。 また、私立旭川裁縫専門学校を有志二名と共に設立している。
明治26年、川上農会を設立し、副会頭に就任。 明治29年、川上懇話会を設立、幹事および評議員に就任したほか、町村の委員等に選ばれた。 明治31年、憲改党が合同結成された時には、札幌支部に所属し、常議員に選ばれ、北海道問題および党勢拡張に努めたが、派閥抗争による党の解散後は、何れの派閥にも属さず、北海道同志倶楽部に属した。
その後の足跡を追うと、上富良野の温泉、翁温泉・中川吹上温泉の開発に名を見ることができる。 また、北海道道議会の前身である「北海道会」の第9代副議長に「中立」会派、旭川区選出、大正5年10月、在任期間4年とある。 その他に、北海道会議員第一期(明治34年から37年)、第三期(明治40年から43年)、第四期(明治43年から大正2年)、第五期(大正2年から5年)、第六期(大正5年から9年)の五期、川上支庁旭川区選出の記載がある。 いずれにしても、北海道開拓史、特に、旭川市の発展に寄与した人物である。
ところで、友田家が、広島県山県郡で、製鉄業に従事したということから推測すると、詳しい住所が不詳だが、加計ではないかと考えられる。 加計は、佐々木氏隅屋(現、加計氏)が、多々良製鉄を起こした地であり、その後、帝国製鉄として近代的製鉄を導入し、製鉄所を建設した所である。 現在、製鉄所の跡地は、郷土資料館になっている。 余談だが、私が、加計町の議員をしていた当時の当主・正文氏は、東京帝国大学で夏目漱石に学び、鈴木三重吉と同級生だった。 漱石全集の書簡集に、漱石と正文氏の往復書簡が掲載されている。 また、我家は、北海道とも縁が深く、北海道にも戦前からの親戚がある。 因みに、そのひとつ西家は、鉱山開発に関係し、現在の当主は、札幌駅近くで歯科医を開業しており、もう一軒(梶谷)は、矢張り駅近くで果物屋を営んでいる。 西家は、北海道の鉱山開発史に多大な足跡を残している。 機会があれば、紹介したい。 まあ、そんなことから、今回は、友田文次郎を取り上げた次第だ。
Best regards
梶谷恭巨 |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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