柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  「1903年(明治36年)には、ショウペンハウエルやニーチェの思想に育てられた青年たちは、「生きる意志の否定」を実行し、日光の華厳の大滝に飛び込み自殺することが流行した。」

 

 「華厳の大滝に飛び込み自殺」の流行というのは、同年5月22日の一高生・藤村操の華厳の滝投身自殺の影響によるものだろう。 どういう訳か、藤村操の事件の話は、中学生の頃には、知っていた記憶がある。 もしかすると、母方の祖母から聞いたのかも知れない。 祖母は明治36年1月31日生まれだから、勿論、この事件を知る由もない。 ただ、私事だが、祖母は、広島の山中高等女学校(広島高等女子師範学校の前身)の出身で、当時から所謂文学少女であったようだ。 少々事情があるのだが、尼僧院に入ろうとしたこともあるらしい。 もしかすると、藤村操の死は、青年ばかりではなく、少女の間にも長く尾を引いていたのかも知れない。

 

 

 まあ、そんなこともあり、藤村操は常に気になる存在であった。 ニーチェやショウペンハウエルなどの哲学書を読み始めたのは、中学の3・4年生の頃からだが、勿論、深い意味は理解できない。 ただ、何となく惹かれるものがあり、本だけは集め始めた。 余談だが、『事物誌』には登場しないが、私が最も傾倒したのはキルケゴールだった。

 

 話を戻そう。 今の人は、藤村操のことをほとんど知らないだろう。 そこで、藤村操について若干触れる。

 

 藤村操は、明治19年7月、札幌の屯田銀行頭取・藤村胖(ユタカ)の長男として生まれた。 その後の経歴は省略するが、藤村操の名前が今に残るのは、一高で夏目漱石の教え子であったことだろう。 華厳の滝に投身自殺したのは明治36年5月22日のことである。 およそ16歳と10ヶ月。 息子とほぼ同年である。 それだけに、自分のその年頃のことも思い出し、改めて考えさせられるのである。

 

 

 藤村操の死は、漱石にとって大変なショックであったようだ。 漱石の鬱の原因とも云われている。 作品の中にも、しばしば登場している。 『ぼっちゃん』、『草枕』、『抗夫』のほか、『文学論』(第二編第三章)に、また、明治37年2月8日付、寺田寅彦宛のはがきには、『水底の感』として、藤村操の恋人が後を追って投身するという虚構の詩を書いている。

 

 「水底の感     藤村操女子
  水の底、水の底。 深き契り、深く沈めて、長く住まん、君と我。
  黒髪の、長き乱れ。 藻屑もつれて、ゆるく漾(タダヨ)ふ。
  夢ならぬ夢の命か。 暗からぬ暗きあたり。
  うれし水底。 清き吾等に、譏(ソシ)り遠く憂透らず。
  有耶無耶の心ゆらぎて、藍の影ほの見ゆ。
  二月八日」

 

 また、『夢十夜』の「詰らないから死なう」というのは、『漱石全集』(第12巻『小品』)の注解で、藤村操の投身自殺後、青年の自殺が多くなり、明治39年7月刊の『風俗画報』に「青年の厭世家に告ぐ」を書き、「詰らぬ」が繰り返されているのが注目されるとし、これが『夢十夜』の該句に反映したものと解している。

 

 前後するが、辞世である『巌頭之感』も紹介しておこう。

 悠々たる哉天壤、
 遼々たる哉古今、
 五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
 ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
 萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
 既に巌頭に立つに及んで、
 胸中何等の不安あるなし。
 始めて知る、
 大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。

 内容に付いては言及しまい。 言及すれば『死に至る病』が再発するかも知れないから。

 

 そこで、何かしら暗示するのが、家系とその後の家族の動向である。 操の祖父は、盛岡藩士・藤村政徳で、維新後、北海道に渡り事業家として成功した。 (藤村政徳・胖ともに『北海道人物史料目録』(『北海道立志編』を含む)に記載が無い。) 弟・朗は建築家で三菱地所社長、妹の夫・安倍能成(ヨシシゲ)は、一高校長、幣原内閣で文部大臣、学習院院長を歴任した教育者であり哲学者で、夏目漱石の門下。

 

 

 私事だが、私が入学時の学習院院長が安倍能成先生だった。 戦後、学習院はGHQによって一時解体され、国立から私立になった。 その再生私学の初代院長だったと記憶する。 また、入学当時、学習院の入学金は、私学でも最も低く、且つ、奨学制も、「安倍能成賞」という形で、貸与ではなく給与だった記憶がある。 こうした戦後の学習院独特の教育方針を確立されたのが安倍先生で、学生運動が激しかった当時、日本あるいは世界を代表する各分野の学者(政治学の岡義武先生、法学の中川一郎先生、社会学の清水幾太郎先生、国語学の大野晋先生、数学の彌永昌吉先生、哲学・論理学の久野収先生、若手では心理学の田中靖政、社会学の香山健一先生、経済学の島野卓爾先生など)が学習院に集中したのも、安倍先生の尽力だった。 もう一つ付け加えると、先に挙げた先生方に、個人指導して頂いた事に今も感謝している。 こういうことが可能だった時代なのだ。

 

 

 「流行」という本論から外れてしまった。 ご容赦。 ただ、「ある旧制中学校長の足跡」とも関係が深いので、機会を見て、また触れることになるだろう。

 

 
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梶谷恭巨  

  明治34年(1901)に大規模な遠足が行われたそうである。

「1901年は、子供たちや職工たちの大規模な遠足であった。 或る主要新聞(二六新報)は、東京(向島)に職工十二万人の遠足会(労働者懇親会)を催したが、この大群集が現場に近付いたとき、警察の手によって五万人だけしか前進を許されなかったので、暴動が発生した。 或る遠足は、これより手ごろな人数で、三八○人の盲目の按摩さんが参加し、杉田の梅の花を見物(?)に出かけた。 ちょうどアルプス登山の流儀にしたがって、長い綱につかまりながら安全無事に出かけたのであった」と。

ここでいう「向島の遠足会」というのは、明治34年(
1901)4月3日に、二六新報が主催した「労働者懇親会」のことであろう。 法政大学大原研究所のデジタルライブラリーによると

「日本労働者大懇親会」とある。 以下引用する。
「3月中旬《二六新報》社は、4月3日に東京向島で労働者大懇親会を開催するとの計画を発表した。 警察は参加者を5千人に制限し、多くの工場も労働者の参加を禁止した。 これに対し《二六》側は式典を短時間で終え、他の催しに多数が参加しうるようにした当日は2万人以上が参加し、片山潜が労働立法および普選の請願、毎年、4月3日に懇親会を開催することを提案して可決された。〔参〕《秋山定輔伝》1巻1977」

このことからも判るように、高梨健吉訳の『日本事物誌』(平凡社・東洋文庫)の5万人には疑問があった。 そこで、原本を調べてみると、矢張り「5000人」であり、これは高梨健吉氏の誤訳である。 また、12万人というのは、どうであろう。 これは、原本通りである。 チェンバレンの観察眼からすれば、その数値に大きな誤りがあるとも思えない。 いずれ紹介することになるだろう、「キリスト教」の項で挙げられるキリスト教各派の教徒数なども、統計を基に精確に記されている。 そのことから考えると、二六新報が、警察の手前、過少に参加者数を発表したのではあるまいか。 また、懇親会に参加できなかった人が、それほど多かったということだと思われる。 因みに、この集会の参加者に付いて検索してみたが、参加者数は三万人くらいと記すものもある。 要するに、懇親会の出席者数については触れるものもあるが、出席できなかった参加者に触れるものはないようである。 
この大懇親会は、前年(1900)3月10日の治安警察法公布に対する不満・反動の表れだったのだろう。

この新世紀の年は、労働運動あるいは社会主義運動のエポックでもあったようだ。 同じ年の5月18日(私の誕生日)、日本で最初の社会主義政党「社会民主党」が結成された。 しかし、翌19日届出を出したが、20日宣言書を発表と同時に、禁止された。 禁止の理由は、稿料の中の軍備全廃・貴族院廃止・人民のの三項目であった。 因みに、発起人は、社会主義協会の片山潜・安藤磯雄・幸徳秋水・西川光二郎・木下尚江・河上清であった。 6月に、党名を「社会平民党」として再度届出を提出したが、これも禁止された。
余談だが、この年の2月3日、福沢諭吉が死去したことも、何やら19世紀の終わりを象徴するようである。

ところで、「子供たちの遠足」の背景には、同年3月、「中学校令施行規則」および「高等女学校令施行規則」の通達で「体操科」が明示されたこと、また同4月1日に「小学校体操科課程及び授業時間割」が通達されたことに関係があるのかもしれない。 調べてみたが、その他に「子供たちの遠足会」に関する記事は見当たらなかった。 これは、それこそ余談だが、「旧制中学校校長の足跡」を追っていたとき、当時の中学校で、学校からの強制ではないが、グループで遠足することが流行っていた事実がある。 わが主人公・羽石重雄先生は、特に、五校時代、友人と共に遠足をしている。 もっとも、感覚的には、今いう「遠足」とは異なるのだが。 そうそう、記憶が定かではないが、漱石だったか、次の子規だったか、鎌倉・江ノ島へ遠足したのは誰だったのだろう。

また、「按摩さんの遠足会」についても同様で、こちらは、一件のヒットもなかった。 時代を微妙に反映する記事なので興味深い。 すなわち、江戸時代に検校を頂点とする一種のギルドが形成され、幕末維新にも何らかの形で影響を与えたんではないかと憶測するのである。 例えば、勝海舟の曽祖父である米山検校の存在である。 余り表面には出ないが、江戸期におけるセカンダリー金融の担い手であったのではないか。 空想を広げれば、中華王朝における宦官的存在。 時の権力者と肌を接することのできる存在の意味は、意外に重要なのではないだろうか。 もしかすると、時の薩長藩閥、言い換えれば、時の権力者に対する「俺は、お前さんのことを隅の角まで知っているんだよ」という、維新後に崩れてしまったギルド、言い換えれば、それなりに保証されていた検校体制の崩壊に対する恨みがあったのではないかと憶測するのである。 要するに、「これって、按摩さんのデモじゃあないか」と思ったのである。 この件、興味がわくのだが、あれこれ調べても、伝えるものが無いのである。 余談だが、米国における「アファーマティヴ・アクション」の是非の問題が脳裏を掠めた。

いずれにしても、「大規模な遠足」とは、団体行動であり、時期的見て、体外的に問題を抱える後期明治政府としては、「鶏肋の味(三国志の曹操)」的矛盾に満ちた混沌があったのかも知れない。 実の所、労働者懇親会より、子供や按摩さんの大遠足に、池の底から湧く気泡の如き、時代を反映する確かさを感じるのだが。

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梶谷恭巨  

  明治31年(1898)~明治33年には、園遊会が流行したようだ。

以下、高梨健吉訳『日本事物誌』から引用しながら、同時代を見てみよう。

五日間も続く園遊会もあれば、雪の中で開かれるものもあった。 そのときは、寒空に震えている客を暖めようというはかない望みを抱いて、野天に焚き火を燃やしたのであった。 横浜のある商人はたちは、立派な庭園が使えなかったので、港の艀を幾つか繋ぎ合わせてテントを張り、船上で(いわゆる)園遊会(ガーデン・パーティ)を開いたほどであった!」とある。

この件、多方検索してみるのだが、適当なものが見つからない。 ただ、世紀末前後、というか、ヴィクトリア朝時代、社交の場としてのガーデンパーティが開かれた気配がある。 同時代、ニューヨークを中心とするニューイングランドの上流社会で、ヴィクトリアン・ガーデンパーティというものが流行した形跡がある。 特に、春から夏の花の季節、ロードアイランドの避暑地、ニューポートで盛んにガーデンパーティが開かれたようだ。 「ヴィクトリアン」というからには、本家英国のヴィクトリア朝風のガーデンパーティを模したものとも推測される。 ただ、文献によると、英国風庭園は米国にはなく、添付の写真から見ると、セントラルパークのような雰囲気が見える。 しかも大勢が集まって、テニスなどのスポーツを楽しんでいる。 日本でも、当時は英国の影響が大きかったから、その影響ではないだろうか。 いずれにしても、上流階級の社交の場であったのだろう。

この年には、もう一つの流行があったようだ。

世紀の終わるこの年のもう一つの流行は、胸像と銅像の流行であった。 銀で自分の彫像をつくらせたものもあった。 この種の流行は中世初期の流行を思わせるものがある。 そのころ主な皇族や僧侶たちは---あらゆる現象は空であり、自分の現身(ウツセミ)は幻であると観じていたにもかかわらず---少なからぬ時間を割いて、自分の像を描いたり彫刻したりしていたようである。 その肖像画も弟子の作品である場合が多いと断言する人もある。 しかし、いずれにしよ、最後の一筆で、睛(ヒトミ)を点ずるのは、聖者その人であった」と。

ここは文章が面白いので、原文も紹介する。

"Another craze of the closing years of the century was for busts and statues, ---even silver statues of oneself. This last form of this particular craze reminds one of early medieval times, when prominent princes and Buddhist saints (despite their assent to the doctrine that all phenomena are mirage, and personality itself a delusion and a snare) seem to have devoted no inconsiderable portion of their leisure to painting was the handwork of a disciple, but the saint himself would then dot in the eyes."

明治30年代の初め頃のことを調べるが適当な資料がない。 そこで、思い出すのが、武石弘三郎である。

武石弘三郎は、明治10年(1877)7月28日、新潟県南蒲原郡中之島町長呂(現長岡市)に生まれた彫像・銅像作家である。 意外に知られていない彫刻家だが、恐らく、当時としては、最も多作の彫像・銅像作家だっただろう。 ただし、彼が活躍したのは、もっと時代が下る明治40年代からだが。 東京美術学校では高村光太郎の一級上である。 詳細については、ブログ版『柏崎通信』に「綴集談叢(2)-彫刻家・武石弘三郎」で紹介したので省略する。 因みに、このURLは、次の通り: 

http://kashwazakitushin.blog.shinobi.jp/Entry/59/

ところで、チェンバレンの文中に僧侶のことが書かれているが、武石弘三郎を調べた時、現存する僧侶の銅像や胸像は少なかったの印象がある。 一つには、第二次世界大戦中に、金属供出で多くの銅像や胸像が溶かされて軍需品に化けたのが原因だろう。 しかし、世紀末に僧侶の銅像や胸像が多く作られた理由は何だろうか?

そこで思い当たるのが、当時、廃仏毀釈の反動か、カリスマ的僧侶が何人も輩出していることである。 詳細は省くが、長岡に所縁の深い「救世教」を創設した大道長安(新潟県曹洞宗教導職取締から僧籍を離脱)を挙げることができるだろう。 互尊翁・野本恭八郎(長岡に互尊文庫を開いた)は、大道長安から多大な影響を受けている。

また時代は遡るが、『柏崎通信デジタルライブラリー』に掲載した『况翁閑話』(4)で紹介した「縁なき者は度し難し」の(注)に書いた「原坦山」なども、明治期の仏教中興の貢献者である。 明治宗教史に付いては、廃仏毀釈以降の史料を収集中だ。 かなり集めてあるのだが、一読する程度で精査していない。 書きたいテーマではあるのだが。 因みに、先のURLは次の通り:

http://qkasiwazakitusin.blog.shinobi.jp/Entry/16/

もう一つ挙げるとすると、こうした宗教の隆盛は、世紀末に伴う世界的現象だったのかも知れない。 前回のミレニアムもそうだったが、何かしら宗教的な、あるいはオカルト的事物が流行した。 次に、「中世初期の流行」とあるが、これはロマネスクのことであろうか。 美術史には詳しくないので、この程度で。

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梶谷恭巨

  明治26年(1893)には、「福島(安正)中佐は単騎シベリア横断に成功し、全国民が熱狂した。 そのとき一般国民がいかに夢中になったかは、当時の新聞を通読しなければ、とても想像できるものではない。」

東京朝日新聞は、同年6月30日付の記事で、「中佐の汽車到着するや、楽隊奏楽の声、嚠喨(リュウリョウ)として起こる。 歓迎会員総代川村伯(爵)は直ちに、中佐の汽車に入込みて、挨拶をなし、九鬼委員先導にて、群集せし歓迎者の中を押分けつつ、停車場待合所壇上に登る。 此の時、歓迎者は一斉に福島君万歳を唱えう。 (中略) 此日かねて歓迎の為めに狂するが如くなりし有志者は言うに及ばず、此の絶大の偉業をなしたる、此の全国人士の歓迎を受くる、福島中佐其人の容貌風采なりとも一見せばやと、四方より集まり来る老若男女は、其数果たして幾千万なるを知らず」と、その熱狂振りを報じている。 因みに、福島中佐が、新橋駅に到着したのは、前日の29日のことである。福島安正は、嘉永5年9月15日(西暦1852年10月27日)、信濃国(松本市)、松本藩士・福島安広の長男に生まれ、幕府講武所に学び、戊辰戦争に参戦、明治なると開成学校に進み、明治6年(1873)、明治政府に出仕、司法省から陸軍省に移籍した。 詳細は、島貫重節著『福島安正と単騎シベリア横断』や、記憶が定かではないが、映画にもなった(あるいは、その中のかなり詳しいエピソード)こともあるので、この際省略する。 ただ、当時の武官の活躍に付いては、芝五郎・石光真清・明石元二郎らの活躍が、自伝・伝記・小説などで紹介されており、また、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも、司馬遼太郎独特の俯瞰的視点で紹介されている。 当時の若手士官、特に、薩長以外の出身者は、様々な形で結びついていることに興味を引かれる。 明治という時代を見るとき、この複雑で有機的な交友関係は、重要だと考えているが、これはまたの機会に。

ところで、この「流行」は、冒険家の時代を反映しているのではないだろうか。

福島中佐の帰還に先立ち、明治26年3月2日の『朝野新聞』は、郡司大尉の千島探検隊の出発を報じている。
明治26年(1893)3月2日、「千島拓殖へ探検隊出発。 郡司大尉、120名の同盟者と共に岡本翁の志を継ぐ」と。 以下、詳報:


千島拓殖の壮図を抱き、一百二十名の同盟者とともに、極北沍寒(ゴウカン)不毛の地に入らんとする一億男児郡司海軍大尉は、いよいよ来る十五日を以って出発すべしと云う。 千島拓殖の事に就いては、岡本監輔翁最も人に先だちてこれを主唱し、千島義会なるものを設け、東奔西走ひとたび千島に渡りたるも、心事多くは齟齬して行われず、ついに空しく壮図を抱きて帝城の西隅に蟄居するも、雄心勃々水から禁ずるあたわず、日夜その宿志を遂げんことを思うの際、郡司大尉の断然決心を天下に示して、千島に赴かんとするに会し、世間皆その壮図を賛嘆せざるなく、事ついに叡聞に達して、千五百円の御下賜金あり、岩崎一家また千五百円を寄附し、朝野貴顕紳士の寄贈に係るものまた数千円の多きに上り、岡本翁の名はついに千島拓殖の壮図と相離れんとするに至れり。しかるに聞く処によれば、郡司大尉はつとに岡本翁の有為の士なるに感じ、その三十余名を率いて千島に赴くや、或いは業ならずして、半途空しく辺土に骨を晒すに至るも知るべからず、翁もし仆るれば、誓ってその壮図を継がんとの決心を抱き居たるよしにて、今日に於いても岡本翁の精神は、あくまでこれを師として忘れざるべしと、人に物語り居ると云う。 大尉のこの行もとより死を決して赴くものなれば、同士百二十余名は残らず血判制約をなし、その妻子までも署名血判せしと云う。 その壮心思い見るべきなり。 出発の時は横浜港よりボートに乗り、大尉自らこれを指揮し千島に向かうはずにて、各地沿岸の有志者は皆その行色を壮んにせんとて、日取りを聞き合わせに来るもの多く、横須賀小学校生徒は消化を歌い、これを送る準備をなし、かつ途中茨城県那珂湊に寄港するを以って、水戸弘道学会に於いては盛んにこれを歓迎せんと、目下もっぱら準備中なりと云う。 しかし、千島到着後、衣食住に要する需要品はいっさい内国に仰がず、自営自活の道すでに立ちたれども、医師一人同行せざるは不便なりとて、その人を海軍軍医中より得んとするも、未だ適当なる人物なきを以って、これのみ不足を感じ居ると云う。

(注1)郡司大尉: 郡司成忠、万延元年11月17日(西暦1860年12月28日)、江戸下谷三枚橋横町(現、台東区御徒町辺り)の旗本・幸田成延の次男に生まれる。 親戚の郡司家に養嗣子になるが、明治維新で郡司姓のまま幸田家に戻る。 明治5年(1872)、海軍兵学寮に年齢を偽って入学、海軍軍人になる。 明治26年(1893)、千島開拓の志の実現の為、予備役編入。 報効義会を設立、千島探検に乗り出す。 この時、後に南極探検を行う白瀬矗(ノブ)中尉(陸軍)が、この探検隊に参加している。 弟は、小説家・幸田露伴。
(注2)岡本監輔: 天保10年(1839)、阿波国美馬郡穴吹(現、徳島県美馬市穴吹町三谷)の小農の次男に生まれた。 幼少より資質優れ、15歳の時、それを見抜いた祖父に連れられて徳島の儒者・岩本贅庵(ゼイアン、古賀精里→鉄復堂の学統)に学んだ。 間宮林蔵(倫宗)の『北蝦夷図説』を読み、北方開拓を決意、文久3年(1863)に樺太探検、慶応元年(1865)には、丸太舟により樺太一周に成功、明治元年2月(1868)、函館裁判所内国事務局権判事、同4月、判事となり、樺太経営を委任された。 その後、東大予備門、一高などの教職に就き、明治25年(1892)「千島義会」を設立、択捉島などを探検し、『千島見聞録』などを著した。と、まあ、郡司大尉の記事が続くのだが、この話題は、本論から外れるので、また別の機会に。いずれにしても、この年は、探検あるいは冒険の年だったようだ。

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梶谷恭巨
 

  今回は、相撲の流行に付いてである。

「明治21年(1888)には、相撲(角力)が卑俗な遊戯から一般的流行に昇格した。 時の首相黒田(清隆)伯がその音頭とりであった」と書かれている。 そこで、相撲協会などで史料をインターネットで探すのだが、これといったものがない。 ただ、当時は、各地に相撲団体があったようで、特に有名なのが、東京と大阪である。 因みに、広島相撲というものもあったようだ。

そこで、インターネットで明治の新聞記事を検索してみた。 世の中には、殊勝な方も居られるようで、主要各紙の切り抜きを掲載している方が居られる。 因みに、このサイトは「スポーツ文化史料情報館」といい、URLは下記の通り:

http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html

その明治21~2年の相撲に関する記事を見ると、明治21年1月15日付(東京日日)、「芝公園内の弥生社へ行幸あり、柔道・剣道・相撲を展覧。 同年3月10日付(毎日)、相撲社会を改良せんとする高砂発議もウヤムヤ。 各界ゴタゴタ続き」とある。 以下、本文:

「かつて相撲社会を改良し、新会社を起こして大いになる処あらんとせし、雷(イアカズチ)、高砂発議の原案も、ついに多数の賛成を得るあたわず、折角賛成せし同意者の記名調印さえ、この頃発起人よりそれぞれ返付せしとのことなり。 これらの原因せしものか、今度雷太夫は突然取締役を辞退せしかば、現今の年寄も出稼中、組長のみにてはその諾否を答うるあたわずとと云いたるも、再三再四辞退の儀組長に迫り、拠所なく当五月の場所に一同帰京するまで取締り就職の儀、雷へ説諭あらんことを、組長一同より本所元町警察署へ願い出て、この節双方召喚中なりという。 また聞く処によれば、何故か当五月の靖国神社奉納相撲済み次第、高砂の部屋にて頭立ちたる力士一同並びに海山、八幡山、真鶴、常陸山、鶴ヶ浜等は、みな表面を雷の門人ということに改め、東もしくは西の一方にそれぞれ番附の位置を占め、何かなす処あらんとの風説なるが、果たしてしからば一方に好力士多く、一方に好力士少なき訳なれば、不完全の番附を見るに至るべし。 これは皆その途の不繁盛を招くに近き理なれば、真逆真事とは思わず。 何に致せ相撲社会の紛議は常のごとし。 さて気の毒のことなるかなと、或る人の話なり」と。

明治21年5月13日(東京日日)、「往年の名力士陣幕久五郎、靖国神社大祭に土俵入り」

「文久年間角力社会に於いて向かうに敵なしと、その名を轟かしたる陣幕久五郎は、今度出京して靖国神社大祭角力に土俵入りをしたる由なるが、この時用いたる廻し並びに太刀と言うは、二十五年前島津久光公より拝領したるものにて、廻しは紫地の羅紗に白三段筋の縫いにて、金の三段ふさ付き、太刀は白柄にて、金無垢丸十三ツ紋、鞘は金梨子地に丸十の金紋散らしにて、長さ四尺余りなり。 該品を昨日警視庁に持参し、総監始め一同の一覧に供したり」と。

明治22年1月13日(東京日日)、「相撲協会の紛糾で、改革派力士16名が特別昇給や相撲取締役と検査役選挙を要求」

前号の紙上にしばしば記載せし相撲協会の紛紜と云うは、十一の紙上に掲げし力士十六名首唱となりて、その請求の次第を聞かれずば出訴とまで意気張りたる一条にて、そのことの詳細を聞くに、まず第一が特別昇給、第二が相撲取締役及び相撲検査役の選挙を、力士中に於いてなさんというにあり。 その第一なる特別と云う特の文字の解釈は、はなはだむずかしき事と見え、年寄中にこの説明を与えざるが、出訴するとまで言い張りたる原因と云えり。 またその第二なる相撲検査役を力士等が選挙すると云うは、随分道理なき請求にもあらざれば、相撲協会の内規はともあれ、請求通りにするやも知れざれども、取締役を各力士に於いて選挙するの一条は、力士等が越権に出でたる処置ゆえ、たぶん排斥するなるべしと云う」と。

同年 1月18日(時事)、「雷、高砂の両年寄が、取締役に撰挙され紛糾収まり、相撲22年1月場所開幕以上の二年間の関連記事をを見ると、「流行」というより、角界に紛糾があったことが伺える。 もっとも、紛糾がわだいになるくらいだから、それだけ盛況だったという査証であろう。 しかし、この改革騒動、何だか、今の角界の混迷を思わせる。ところで、黒田清隆と相撲の関係だが、「音頭とり」はどういうことなのだろうか。 直接的史料は見つからないのだが、次のような記事があった。明治18年12月29日付(東京日日):明治天皇、黒田清隆邸に行幸、相撲十八番を天覧」

「兼ねて仰せ出されたるごとく、昨日午後二時赤坂仮皇居御出門にて、三田なる黒田内閣顧問の邸へ行幸あらせたもう。 御陪乗には徳大寺侍従長、供奉には宮内二等出仕、香川宮内少輔、堤宮内大書記官、岡田、片岡、北条の三侍従、広幡侍従補、伊東一等侍医等の方々ぞ参らせたる。 吉井宮内大輔、三宮宮内大書記官には、御先着として出張せられたり」と。

明治天皇の相撲好きは有名だが、黒田清隆も相撲が好きだったことが伺われる。 もしかすると、このことが縁で、角界の改革に尽力したのかもしれない。 また、戊辰戦争では、力士隊が活躍したこともある。 特に、長州の奇兵隊の力士隊は有名だ。 ただ、力士隊は、長州のみにあったのではなく、会津藩の力士隊も知られている。 また、官軍東征の際には、親兵として、力士隊が錦旗(錦の御旗)を捧げて先頭を行進した。 しかし、明治初期の裸体禁止令などで、一時期、存続が危ぶまれたこともあるようだ。余談。 私事であるが、父方の曽祖父は、福山藩の殿様(老中・阿部正弘)から、お抱え相撲取りにと請われたが、長男であることから、免除されたという話が残っている。 曽祖父は、六尺豊かな偉丈夫で、今も、庭に、鍛錬に使ったという力石が残っている。 しかし、近隣の若者が持ち上げようと試すのだが、未だに、この力石を持ち挙げた者はいないという。 漢学者でもあり、頼杏坪や菅茶山と交流があった。 その縁で、祖父は広島の頼塾の塾頭なったと聞く。参考までに、この時の組合せを紹介すると次の通り:

勝    ⇔   負
平之戸 ⇔ 先年川
綾瀬川 ⇔ 鬼ヶ谷
鞆之平 ⇔ 一之矢(預り)
四ッ車  ⇔ 綾波
友綱   ⇔ 常陸山
(三役)
大鳴門 ⇔ 高見山
西之海 ⇔ 梅ヶ谷
大達   ⇔ 剣山
(御好み)
先年川 ⇔ 浪渡
鞆之平 ⇔ 四ッ車
鬼ヶ谷  ⇔ 高見山
平之戸 ⇔ 小錦
 
 今回は、相撲の流行がテーマであったが、大正時代に大日本相撲協会が設立される以前の史料が意外に少ないのに驚いた。 相撲博物館のサイトも見たが、何とも冴えないホームページである。 こうした所にも、角界の低迷の原因を見た感がある。 詳細を調べれば、もっと面白いことがあるのかもしれないが、この項は、これで了とする。
 
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梶谷恭巨

 



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誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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