柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
『居合術口伝書(二)』
(裏書)
範士 中山博道先生 口伝
大森流之形 十一本
昭和五年八月
於有信館本部 鱗平之書綴
「大森流居合の形」
一 初発刀
意義
互に三四尺の間隔を置きて対座せる時、急に敵の目の附近を横薙に切り付け、倒るゝ処を直に上段より切る動作なり。
動作
正面に向い正座す(正座は両足の拇趾のみを僅かに重ね、両手は殊更に肘を張ることなく、股の上に置く)。 以下之に準ず。
抜刀法
徐々に両足先を爪立てつゝ、左手を以って鯉口を握り、僅かに外方に傾け、右手を以って鍔に近く握る。 次に、右足踵が膝頭附近に来る如く踏み、着くると同時に刀を抜く。 抜き放ちたる刀の高さは右肩の高さにして、刀刃は水平よりも稍(ヤヤ)下方に引く如くすれば、刀勢に一層活気を生ずるものとす、又実施者は敵を「ブッツリ」切る気分を持すべきものとす。
古語の「ふつのみたま」と云う刀先を左肩の方向より頭上に振り被り、左手を以って柄頭を握る。 此の間、左膝を右踵の位置まで進め、右足を前方に踏み着くると同時に、刀を切り下す。 刀先の位置は臍附近とす。 次に左手を放ちて左腰に当てると同時に、右拳を其の位置に於いて、拇指の爪が上に向く如く外転し、右臂(ヒジ)を体のの右方迄開きて、肘を屈げ、右拳が概ね顳顬(ショウジュ、こめかみ)部附近に来る如くし、立ち上がりつゝ、右臂が概ね体と四十五度位になる様に、右前方に向い右肘を伸ばす。 これを血振いを謂う(以下、之に準ず)。
続て左足を右足に引付けると同時に、右足を後方に引き、踏替えをなし、左手を以て鞘口を握る(左手以て鞘口を握る時機は此例に依る)。 而して左手は稍(ヤヤ)鞘口より前方に出すを可とす。
納め方
次に右手を曲げて、鍔元附近の刀背が左手附近に至る如くし、刀背が左手の拇指と食指との最凹部を準溝として、刀先が鞘口に至る如く、右手を前方に出し、且又、腰を左に捻りて、此の動作を容易ならしめ、以て徐々に刀を納む。 而して刀を納め終る時、左膝は床に着く(納刀の要領は以下、之に準ず)。
二 左刀
意義
左側面に対座せる敵に対し、初発刀と同意義に於て行う動作なり。
動作
正面に対し右向に正座す。
右膝を軸として九十度左に旋回すると同時に左足を右膝頭附近に踏み付けて初発刀の如く動作す。
三 右刀
意義
右側面に対座せる敵に対し初発刀と同意義に於て行う。
動作
正面に対し左向に正座す。
左膝を軸として九十度右に旋回すると同時に、初発刀の如く動作す。
四 当刀
意義
後方に対座せる敵に対し初発刀と同意義に於て行う動作なり。
動作
正面に対し後向に正座す。
右膝を軸として左へ百八十度旋回す(右足の旋回不足に特に留意し、右膝よりも僅かに外方に開く如くするを可とす)。 旋回の終り左足を約一歩前方に踏み着け、初発刀の如く動作す。
五 陰陽進退
意義
互に対座せる時、急に初発刀の如き切り付けたるも、敵逃れしを以て直ちに追い掛け、之を切り倒し、刀を納めんとせし時、再び他の敵より切り付けられたるを以て、直ちに之に応じて敵の腰を切る動作なり。
動作
正面に向い正座す。
初発刀と同要領にて抜刀し、刀を頭上に振り被りつゝ、左足を右足に引付け、更に之を約一歩前方に踏み着けると同時に、正面に向い切り下ろす。 次に、左手を放ち、腰に当てつゝ、右拳を右に開き、刀刃を斜右下方に向わしむ(血振いの一種)。
此の間、右膝を屈げて床に着く。 此の姿勢にて刀を納めつゝ、左膝に屈げたる侭、徐(オモムロ)に後ろに引き、左踵が臀部に接する頃、急に約一歩後方に引き、中腰の侭にて、再び抜刀し敵の腰を切り、刀を頭上に振り被る間に、左膝を屈げて切り下ろす。 以下、初発刀に同じ。
替手
正面に向い正座したる後、血振いをなし、刀を納むる迄の動作は、全く同一なり。 次に柄を上より握りたる迄、左足を約一歩後方に引くと同時に、刀を成る可く低く抜き、刀刃を上にする如く、右足の側方に致し、刀先が僅かに外方に出ずる如く、刀を下く。 以下、全く陰陽進退に同じ。
六 流刀
意義
敵が不意に左側面より斬撃し来りしを以て、取り敢えず抜き連れて、之を受け流し、敵が前に「のめる」所に乗じ、其の腰を切る動作なり。
動作
正面に対し左向に正座す。
頭を左に向け左足を一歩前に踏み着くる間に、右手を以て柄を上方より握りて抜刀し、頭上を目懸けて斬撃したる敵の刀を左肩の後方に受け流す心持にて動作す。 此際に於ける抜刀は前記の諸場合と異なり、左手を以て刀を抜刀に容易なる如く、外方に旋転する遑(イトマ)なく急據(遽)抜刀する意なるを以て、之を上方より握るものにして、抜き連れて受けたる時の刀刃の方向は、之が為、僅かに右方に向うものとす。 而して右拳の位置は前額の右前上方にして、右肘は軽く屈ぐ。 次に立ち上がりつゝ、右足を左足の右後方約一歩半の所に開き、刀は右肘を屈げて肩に担う如くす。 次に左足の蹠骨(足に裏の骨、セキコツ)部を軸として約九十度左に向けつゝ、右足を左足に引付け、殆ど足を揃うる如くし、両膝は軽く、之を外方に屈げ、上体は正しく腰の上に落ち着くかしむ。 而して刀は両足、将に揃わんとする時、左手を添えて左前下方に向い切り下ろす(此際、刀先は稍(ヤヤ)下り、刀刃は斜左下方に向い、恰も前に「のめり」たる敵の浮腰部を斬撃する如く動作す)。 然る後、左足を約一歩後方に引き、上体を起し、刀先部を右膝(右膝は伸び易きを以て特に注意するを要す)の上部に托する如く、両手を少しく左方に移す。 此際、左肘は概ね伸びあるものとす。
納め刀
次に右手を放ち掌の半面を以て鍔を被う如く、刀柄を上より握り、左手を放ちて、鞘口を握り、右手を以て刀先を左肩の方向に向わしむる如く、刀を反転して、之を納む。 此の際、左膝は床に着く。
七 順刀
意義
切腹者の左側方に於て、切腹者に面して坐し、介錯する動作にして極めて静粛に実施するを特徴とす。
動作
正面に向い正座す。
頭を正面にしたる侭、左膝を軸として九十度右に旋回し、右足を僅かに前方に出すと同時に、半ば刀を抜き、次に立ち上りつゝ抜き放ち、左足を正面に向けつゝ、右足を左足に引付けて直立す。 此の間に刀を右拳の位置が肩の右前下方、概ね乳の高さ位にして、刀背が右上膊(ハク、肩から手首までの部分)の中央附近に来る如くす。 次に気合を図り、右足を約一歩前方に踏み出しつゝ、刀を頭上に降り被り、足が地に着くと同時に、稍左前下方に向い切り下ろす後、僅かに上体を起す。 以下全て流刀に於ける納め方の要領に同じ。
八 逆刀
意義
正面より斬撃し来る敵の刀を脱しつゝ、上段より敵の胸元迄切り下げ、敵が後退するを追撃して、再び切り付け、敵が倒れたるに対し、尚残心を示し、最後に止めを刺す動作なり。
動作
正面に向かい正座す。
右足を約一歩長前方に踏み出すと同時に半刀を抜き、左足を僅かに広報に引きつゝ立ち上がり、同時に右足を左足に引付け、刀を頭上に振り被る。 次に右足を約一歩踏み出し、刀先を胸の高さ位迄切り下げ、続いて左足より二歩前進し、刀を再び頭上に振り被り、、右足の地に着くと同時に切り下ろす。 此時に於ける着眼点は、一間くらい前方の床上とし、刀先は膝の附近迄切り下げ、左足を右足に引付け、直ちに右足を約一歩後方に引くと同時に、刀を頭上に振り被り、残心を示し、然る後、徐かに右膝を地に着けつゝ、刀を下ろし右手を逆手になる如く握り換え、左手を放ち、刀を逆手に持ち左手を刀先に近き部位の刀背に添え、止めを刺す心持にて刀を僅かに上方に引き、以下流刀に於ける納刀の要領により納む。
九 勢中刀
意義
右側面より斬撃し来る敵の前肘を斬撃し、続いて之を追撃する動作なり。
動作
正面に対し右向きに正座す。
左膝を軸として九十度右に旋回し、右足を約一歩踏み出すと同時に中腰にて抜刀し、刀先を稍々左にし、刀刃僅かに斜め右に向う如くし、敵の前臂を切る心持にて握り締む。 次に左足を右足に添うると同時に右足を踏み出して、刀を頭上に振り被り、右足の地に着くと同時に切り下ろし初発刀に於ける血振を為し、刀を納む。
十 虎乱刀
意義
敵が逃れ去らんとするを追い掛けて斬撃する動作にして、終始立姿にて行うを特徴とす。
動作
正面に向い直立す。
左足を約一歩(一足長)前方に出す(抜刀を容易にする目的)と同時に、右手を以て鍔に近く握り、右足を約一歩前方に踏み出し、初発刀の要領にて抜刀し、次に左足より二歩前進しつゝ、刀を頭上に振り被り、右足が地に着くと同時に切り下ろす。 以上の動作は成る可く神速に実施するを理想とす。 次に立ちたるまゝにて初発刀に於ける血振いをなし、刀を納む。
十一 抜打
意義
彼我互に接近して対立せる時、不意に正面に向い切り付くる動作なり。
動作
正面に向い正座す。
彼我極めて接近しある場合を顧慮せるものなるを以て抜刀に際して成る可く体に近く抜く為、右拳の前上方に向って動かしつゝ、概ね前額の前方に至らしめ、刀先を左上腰の外側に近く移動せしめつゝ、刀を頭上に振り被る。
(此の際、両膝を密接す。)
次に、直ちに両膝を開き、刀先を概ね床より二十糎位の所に至る位に切り下ろす。 次に左手を放ち、右拳を右に開き、血振いをなすこと陰陽進退に於ける第一段の血振いと同様に動作し後納む。
以上、「大森流之形十一本」、了。
Best regards
梶谷恭巨
今回で、『居合術口伝書(一)』は終了。 「居合実施上の注意」 一 敬禮 右手ノ拇指を鍔に掛け、刀刃を上にして進み来り、正面に向ひ右手ヲ以って、下より鍔に近く鞘を握り、左手を以って鐺(こじり)に近き部を上より握り、右(みぎ)臂(ひじ)を伸し(右肘が右膝頭ニ接スル迄右ひじを伸バス)左臂は僅か屈げて膝の前方に刀を置く。次に両手の指先を揃えて之を着け、膝の稍々(やや)前方に置き両肘を張ることなく寧(おもむ)ろ体に接する如くして之を屈げ頭を概(おおむ)ね手に接する位迄下げて敬礼す。
二 佩刀
三 呼吸
四 足の踏み着け方
五 着眼点 「抜刀術心得」 抜刀の用あるものは治世のみの事と思う人多し。 全く左にあらず。 戦場にて手近く入りたる時、早々抜き付る事、居合の肝要なり。 既に徂徠の鈴録に、昔の武士は剣術より居合を専ら修行せし事の古事を引出せり。 抜刀を学ぶ者、此意不可忘事なり。 先ず業を那すには、居合刀を着座して、指体容を直に腹のぬけざる様にして、両手を膝の上に置き、打向ふ適を見定める心持にて向ひ、突息につれて、左右の手を刀にかけ、猶豫なく抜き出す事なり。 右の手を柄の平より何となく和らかにかけ、糸を繰り出す如く、少しも滞りなく抜出し、離れ際にて鞘をかへす時は、柄の握り自然と心知よき所に入り来るものなり。 抜き出す心持は立板に水をたらし、初め緩々、中頃漸く急、終り脱兎の如き心得なり。
居合兵法の歌に (注)居合兵法の歌に: この歌について調べたのだが、一般的にこうした歌を「道歌」というそうだ。 また、この歌の中で、最後の句は、間宮流居合に同じものがある。 『口伝書(一)』には、特に流派に関する記述が無いので、これ(一)を間宮流と考えうるべきかどうか不明で、後に続く『口伝書(二)』が大森流、『口伝書(三)』が長谷川流、『口伝書(四)』が無念流であることから、『口伝書(一)』は、まとめとも考えられるが、中山博道が開いた夢想神伝流とも考えられる。 尚、『口伝書(二)』以降は、具体的な形などが言及されているので、本文のみを紹介したい。
先ず表紙の裏書を紹介する。 尚、旧漢字は当用漢字に変換した。
範士 中山博道先生 口伝 以下、本文: 「居合の意義及由来の概要」 居合とは刀の抜き方収め方刺撃防拒の方法等の諸法を居座の儘行ふ術にして、抜刀術とも謂う。 即ち長剣を以って倭屋の中に戦ふと雖(いえども)、進退自由をなし、氣息を調へ、敵の短刀と我長剣を抜くに緩急なく縦へ立ち上りて戦ふとも最初の全躰を頽敗せざるを目的とする。 之が為め、特に注意して修習すべきは佩刀法、鞘手の掛け方、鞘口(鯉口)の抜き掛り鞘の内抜き放し方、切り付け方、柄の握り方、翳し方、撃突法、掌中の作用、足の踏み出し方、立ち上がり方、手の高低、其の他の手捌き方法等にして、要は、心手期せずして機に望み変に應じ得るにあり。
昔は、居合に熟する時は、今日の如く剣術の稽古を成さざるも実用に足るものとせり。 奥州の林崎甚介重信(足利氏の末の人)と云う人、奥州の楯岡林明神に祈り、抜刀術精妙に至る。 世これを林崎甚流と言ひ又重信流とも伝ふ。 中興抜刀術の始祖とす。 此の後、田宮平兵衛重正なる人あり、此の術を名のり田宮流と云う。 重信流より出ず水戸に和田平介なるものあり新田宮流を開く。 又、長谷川流あり、これ又林崎甚流より出ず、長谷川英信流と命名せしは、林崎重信先生より七代長谷川主税助英信より起りし事なり。無双神傳英信流抜刀兵法とも云ふ。 本重信流と穪(称)へきなれど長谷川先生は後の達人なる故に此の称あり。 又大森流は、流祖より九代の林六太夫守政先生の剣術の先生にして大森六郎左衛門と云う先生は眞陰流の古流五本の任形より案出して長谷川英信流に附属せしものなり。 この他、影山眞刀流あるも其の出ずる所を詳らかにせず、一伝流は丸目主水正(モンドノショウ)より出ず、又伯耆流あり其の出ずる所を知らず。 荒木流は、荒木銕心斎より出ず、又新刀一流、長尾流あるも皆其の出ずる所を知らず。 神陰流にては抜刀の事を鞘の内と云う。 近代、長井兵助、此の曲技あり。 (中山博道先生口伝)
(注2)和田平介: 和田氏流居合については、幸い碑文があるので、そのURLを紹介する。 (注4)長谷川主税英信: 江戸時代初期の武芸者であるが、不詳。 ここでは、本文の通り林崎重信より七代目・長谷川主税英信とする。 (注5)大森流: 三代将軍家光の頃、大森六左衛門正光が、新陰流と小笠原流礼法を基に創意工夫して完成させた居合術。 (注6)林六太夫守政: 寛文3年(1663)、土佐山内家の御料理番頭・林政右衛門の子として生まれ、江戸勤番の折、長谷川英信流第八代・荒井信定(勢哲)から居合を学び、継承して第九代となったほか、大森六左衛門からも居合を学び、流派を発展させた。 帰国後、四代藩主・豊昌に仕え、藩内に流派を広めた。 幕末の藩主・容堂、板垣退助などが門人として有名。 享保17年(1732)7月17日、江之口村七軒町に没す。 享年70歳。 同村筆山に墓がある。 尚、「九代」とは、林崎甚助から九代目ということであり、長谷川英信流では第三代に当たる。 次のようなブログがある。 http://yaplog.jp/wellers/archive/318 参考までに。 (注7)大森六郎左衛門: 正光(あるいは、正虎)、(注5)参照。 (注8)真陰流: 新陰流のこと。 上泉信綱によって創始された流派。 (注9)古流五本の任形: 「古流五本」は、後に出てくる「鞘の内」のこと。 「任形」というのは「形い任せて」ということだろか。 (注10)景山眞刀流: 丹波の人で、新当流を学んだ景山善賀入道景山流が、慶長の頃、伯耆と備前の国境の山中に籠り居合術(抜刀術)を考案したとあり、また「眞刀流」は、他にも異字を使う例があるので、「新当流」と考えると、「景山新当流」という流派があったのではないだろうか。 因みに、「景山流」は、新当流剣術、静流薙刀術、三徳流三道具(刺又・突棒・袖搦の三捕り物道具)術、棒術、小具足(柔術)、それに居合を入れた総合武術で、特に仙台藩に伝えられ、現在も残っているようである。 余談だが、先の三道具は、昔から我家にもあり、子供の頃、それで遊んで叱られたことがある。 (注11)一伝流: 本文の通りだが、一伝流が付く流派として、「浅山一伝流」とその分派「津田一伝流」があるいが、丸目主水正との関係は不詳。 ただ、丸目主水正の一伝流は、国家(クニカ)弥右衛門に継承され、それが浅山一伝斎(浅山一伝流開祖)に引き継がれたという記事がある。 (注12)伯耆流: 片山伯耆流。 片山伯耆守久安を開祖とする剣術と居合術の流派。 開祖・片山久安は、天正3年生-慶長3年没、安土桃山から江戸時代初期の人で、元和年間、安芸国に移り、浅野氏の家臣に門人が多かったが、その後、岩国に移り、子孫は廃藩まで岩国藩吉川家に仕え、流派は第八代片山武助まで(1944)継承された断念、現在は、その分派が熊本に伝承されているようだ。 (注13)荒木流・荒木銕心斎: 不詳。 (注14)新刀一流: 不詳。 (注15)長尾流: 「正伝長尾流躰術」と古武道の流派が、金沢工業大学の正伝長尾流躰術部に継承されている。 様子を見ると、単なる柔術ではなく、剣術・柔術などを組み合わせた総合武術のように見受けられる。 もしかすると、居合術も含まれていたのかもしれない。 (金沢工業大学の同部に紹介のメールを書いた。 回答があれば、紹介する。 (注16)神陰流: これは、新陰流のこと。 (注17)鞘の内: (注9)参照。 (注18)長井兵助: 代々蔵前に住み、居合い抜きで客寄せした江戸後期の大道芸人。 ガマの油など客寄せに居合を見せ評判になった。 明治の初めまで、数代続いたという。 余談だが、夏目漱石の『彼岸過迄』に「長井兵助の居合抜」と出ている。 また、明治29年に「春風や永井兵助の人だかり」、「居合抜けば燕ひらりと身をかわす(この句も、長井兵助のことか)」、明治30年に「抜くは長井兵助の太刀の春風」の句がある。 尚、中山博道については、別に項を設けて、後に紹介したい。 今回は、取材・調査に時間が掛かってしまった。 何しろ、分派分派があり、その関係も資料不足で、一々追いかけていたら、それこそ迷路に迷い込む次第だ。 史料・資料が少ないのは、恐らく江戸期までは、門外不出の継承・伝承であった為と、明治中期まで、言い換えれば、武道(剣道と柔道)が中等教育の正科となるまで、武術が省みられなかったこともあるのかも知れない。 また、「武士道」が、本家本元である日本で廃れ、外国人、例えば、チェンバレンらによって海外に紹介され、新渡戸稲造がそれに応えて『Bushido(武士道)』を英語で書き、時の米国大統領・ルーズベルトが高く評価したことによる逆輸入で、日本人が改めて「武士道精神」を省みたのではないかという様子が窺える。 この武道の寒冷期に、多くの系譜が断絶し、資料が仕舞い込まれるか、そのまま廃れたのか、何とももったいないことである。 それに、武道の性格から、武道の歴史が軽視される傾向にあったことも、武道史研究者の少ない所以だろう。 Best regards 梶谷恭巨
友人の小説家・木島次郎さんから越後の歴史に関する催し物の案内を依頼されました。 詳細をご紹介できませんが、大体、幕末・維新の北越戦争に係る大名家(牧野家)とその家臣団の歴史が主題のようです。 河井継之助記念館友の会の理事、また、昔、学習院時代に牧野さんの家庭教師をしたという縁から、ご紹介する次第です。 関心のある方は出席されるのも一興かと。 以下、簡単にパンフレットの内容を抜粋して、ご紹介します。 旧越後十一藩藩士の会・旧士族交流会「絆の会」のご案内 来る8月5日(金)、長岡市の新潟県立歴史博物館(講堂)にて、「絆の会」が開催されます。 式次第は次の通り: 開会式: 午後1時~1時30分
「流行」の項も終わりになる。 昭和元年(1926)~2年には、「籠に小鳥を飼うことが全国的に流行した」と、前回の「生きる意志の否定」(1903)から、唐突の「小鳥の流行」が出現する。 こうなると、「小鳥の流行」よりも、この空白の二十余年が気がかりである。 明治の晩年と大正時代が、すっぽりと抜けているのだ。
こうなると本格的にチェンバレンを調べなければならない。 まあ、その前に、このシリーズの締めくくりとして「鳥篭の小鳥」のことも調べよう。
これが意外と難題である。 調べるのは、当時の「小鳥の飼育」に関する出版物であろう。 使える飼料がほしいから、先ずは、「近代デジタルライブラリー」から検索する。 ところが、プライオリティが低いのであろう。 クロス検索しても5件しかヒットしない。 取敢えず、その4点を確認する。
(1)『娯楽と実益家禽と小鳥の飼ひ方』、家禽飼育研究会編、東京:盛陽堂、大正7年
さて、この5件の資料で、昭和元年辺りの「籠の小鳥の飼育」に直接関係ありそうなのは、(5)なのだが、本文を読むと第二編「小鳥の飼ひ方」第一章「飼ひ方の心得」とあり、一見すると、丁度、子供がお祭りでひよこを買う場面が思い浮かぶのである。 お祭りの「ひよこ」は大抵雄で卵を産まない。 可愛さ余って親にせがむ、「これは皆雄だから卵は産まないよ。 大きくなると困るんだよ」と言われても、黄色い小鳥の魅力に勝てない。 そんなことも考慮して書かれたのがこの本か。
先ず、本文を紹介しよう。
「人気のあったのは、鸚哥(インコ)、牡丹鸚哥、ジャワ鶸(ヒワ)であり、べらぼうな値段が支払われた。 しかし、この小鳥も繁殖するにつれて、流行は下火となり、高値な小鳥は売りたくても売れず、結局は、餌代を節約するために放してしまうのが多かった」と。
要するに利殖の為の飼育であり、趣味なんて何処にもない。 こりゃあ皮肉だ。 彼のいう「流行」とは、ブラックヒューモアに違いない。 伝統や文化、あるいは文明を捨てると、ただ目先に走るのが人間の本質だ。 もう頼るのは相場だけ。 滞在、五十余年におよぶチェンバレンも、この流行には、呆れ返って辟易し、匙を投げたの感がある。
自分が、「流行」を取り上げたのも、そこにある。
ところで、話は変わるのだが、司馬遼太郎著『街道を行く』の第一巻に、チェンバレンが登場する。 二回目に当たる「竹内街道」の一場面、ケンブリッジと記憶するが、京大留学中(学生ではない)の日本語学者ロジャ・メイチン氏の挿話である。 司馬遼太郎氏は言う、
「じゃ、B.H.チェンバレンという人を知っているの」
「その人の名をきくのは、はじめてです」
もう、こうなると考えてしまう。 機会があれば、この続き、書くこともあるだろう。 |
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1947/05/18
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