柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
さて、これを機会に、明治期から昭和初期辺りまでの中等教育の問題に復帰しようと考えている。 というのが、ブログ『柏崎通信』にひとつのコメントが寄せられ、およそ五年前に書いた羽石重雄年表の大阪時代、特に府立二中(現・三国丘高校)のことについて、「澤吹忠平」との関わりを示唆されたのだ。 すなわち、澤吹忠平は、柏崎高等女学校(現・県立柏崎常盤高校)に赴任したという示唆であった。 そこで、先ず、常盤高校にあたることを考えたのだが、幸い、女房殿の甥と姪が卒業生であったので、聞いてみた。 勿論、知る訳はない。 ところが、丁度、常盤高校が創立120年記念誌を出したと聞き、義姪の名簿を見せてもらった。 実は期待はずれで、名簿というべきもの。 ただ、終りの補足に氏名だけ記載した職員名簿があり、その物故者リストに、「澤吹忠平」を確認した。 しかし、氏名だけでは何ともし難い。 そこで、インターネット活用である。 該当すると思わしき一件のヒットが在った。 「いるか書房別館」というサイトである。 ここに、当時の理化学中等教育に関する教科書の記載があり、その中に『理化学示教』の著者「澤吹忠平」を発見したのだ。 これによると、明治28年二月の発刊である。 先ず、礼儀として、「いるか書房別館」のコメントランに、澤吹忠平に関する問合せを書いた。 その後、直ぐに回答を頂いたのだが、詳細は不明とのことである。 こうなると、常盤高校なりに問合せする以外は、と考えたのだが、先ず教科書であることから、もしかすると「近代デジタルライブラリー」に蔵書があるのではないかと検索したところ、ヒットしたのである。 少し詳細が判って来た。 表紙には、以下のような記載があった。
大阪府立第一尋常中学校教諭・理学士・石川弥太郎校閲 更に、「理化学示教」自序があり、著者・澤吹忠平によって発刊の意図などが書かれている。 しかし、残念な事とに、全編目を通したのだが、著者本人に関する記載がないのである。 ただ、澤吹忠平が、大阪府立中学の理化学教諭であったここては確かであろう。 当時の状況からの推測から、というのも、当時の中学の理化学教諭は、一校に一人というのが通例であり、校閲者・石川弥太郎が、第一尋常中学校であることから、澤吹忠平が、第二中学教諭であると思われるのだ。 すなわち、コメント者の指摘は、正しいということである。 そこで、着目するのが、「前福岡県尋常中学校教諭」の事だ。 明治18年(1885)の学制発布、翌年の各種学校令、すなわち、「帝国大学令」から始まる「中学校令」、「小学校令」、「師範学校令」、更に、翌20年の福岡県尋常中学校規則」により、各種また偏在していた中等教育の統合化が行われ、成立したのが「福岡県尋常中学校」なのである。 しかし、その後の変遷があり、「福岡県尋常中学校」は、「福岡県立尋常中学修猷館」、更に、「福岡県立中学修猷館」へと変わっていく。 再び、「修猷館」の登場である。 そこで、先の教科書『理化学示教』の記載から、少なくとも、明治27年以前に、澤吹忠平が、福岡県立尋常中学校教諭であったと考えられる。 『修猷館七十年史』また『修猷館二百年史』にも、職員録が付されていない。 ただ、二百年史の資料編に、「明治二十七年県立尋常中学修猷館教員資格及び職員俸給表」(福岡県教育史資料第一巻)が収録されている。 これによると、教諭は、舎監と兼務を含み、5名である。 この中で、状況や資格等から理化学教諭に該当するのは、一名である。 「教諭兼舎監、月俸三十円、東京職工学校工芸化学部卒業、尋常中学校外二校化学図画科免許状所有」、先のように氏名は判らないのだが、「やった」と思った。 そこで、東京職工学校の後身・東京高等工業学校(現・東京工業大学)の一覧、すなわち『東京高等工業学校一覧』を調べる。 矢張り、「近代デジタルライブラリー」だ。 これがまた大変だ。 少なくとも、明治27年には理化学教諭である訳だから、卒業者数の少ない明治30年から始めれば良いのだが、経験から、先ず、初版すなわち「明治21年~23年」を当たって見る。 ヒットなし。 実は、その前に、『東京帝国大学一覧』と『高等師範学校一覧』は確認しているのだ。 というのも、これらは、全てダウンロードして印刷し製本している。 故に、チェックは早いのである。 そこで、先のように明治30年から改めて調べてみる。 しかし残念ながらヒットしない。 ただこれも経験で、付属の教員養成所の卒業生と、全ての就職先を見ることにしている。 すると、福岡県尋常中学修猷館・吉本丕(「おおい」、あるいは「ふとし」と読むのであろうか)があった。 明治27年7月染工科卒(石川県)である。 すると、先の修猷館の資料にある人は、この人物であり、澤吹忠平とは異なるのだ。 さて、困ってしまった。 そこで、各年次の在校生を当たってみた。 矢張りこれも経験なのだが、養子になったことも考えられるからだ。 一人「忠平」の名前を見つけた。 明治27年度である。 これも年代から見て違う。 因みに、この人は、明治27年応用科学科二年在学、清水忠平(群馬県)である。 いずれにしても、当時の事情を考えると、理化学の教科書を出版するほどの人物である。 時代的には、東京帝国大学の有志21名が、東京物理学講習所を設立して、十余年、中等理化学教育の必要性が叫ばれた時代である。 澤吹忠平は、その中等理化学教育の先駆け的存在といっても良い。 ただ、今までに調べた澤吹忠平と、常盤高校の校長として柏崎に来た「澤吹忠平」が同一人物かという確証はない。 もし同一人物であるとすれば、その柏崎への赴任への足跡には物語を感じるのだ。 現在、問合せを行っている。 市立図書館から、そのひとつの回答があった。 長くなったので、次回、その辺りのことを含め紹介する。
Best regards
110号にコメントを頂いた。 ところが、110号に掲載がない。 [投稿者]
Logitech Revue
[タイトル]
kashwazakitushin.blog.shinobi.jpはよく書かれています
致し方なく、感謝の気持ちを。
Best regards
梶谷恭巨
アーネスト・サトウの『日本旅行日記』の解説の前編をアップロードして、既に半年が経つ。 その後の対応に対して、実に心苦しい思いがある。 実は、ご存知の方も多いのだが、『柏崎通信』には、ML形式のメルマガがあり、その内で確認が取れたもの、あるいは、少なくとも資料的に検証したものをブログ版として掲載することを原則としている。 しかしながら、それでも、ご指摘を受けることが多々ある次第だ。 ブログ版に最後に掲載した記事、すなわち、アーネスト・サトウの『日本旅行日記』の独断的注釈を掲載したのが、昨年の12月23日である。 しかし、この記事を書き始めたのは、ML版『柏崎通信』では、11月16日~29日、すなわち、号数で言えば、964号、965号、968号の三回で、関係各地の図書館・教育委員会などに問合せ、取材、検証をして、アップロードしているだ。 その後、後編をと思いしが、何かと壁に当たり思うような取材ができず、検証にも至らぬのが事実で、頓挫の状況。 そんな次第もあり、テーマを変更したりして、現在、柏崎の旧家・牧口家などを追い、ML版では995号に到っている。 特に、一時期としてあげることができるのは、長崎海軍練習所に関わるカッテンディーケである。 カッテンディーケに関しては、オランダにおける始祖まで追いかけ、そのことを詳細に渡り何回かML版に掲載した。 因みに、現在のご子孫は、シンガポールの銀行の重役、もしかすると頭取ということになるのかもしれないが、自分のテーマとは別な道に踏み入れたのではないかと、日本的個人情報保護法の観点から掲載を控えた。 寧ろ躊躇したというべきかも知れないが、兎に角、まとめてアップロードすることを控えたのである。 因みに、ご子孫は、LinkInのメンバーであり、一応、先のことを考慮して、私自身、加入した。 そうした山をまた感じ、先に書いた「牧口家」について、以前書いた記事にコメントが寄せられたこともあり、その追求を始めたのだが、現代史に近くなると、現実的な問題点があり、ブログへの掲載を躊躇せざるを得ない。 自分は、元々『柏崎通信』を千回書くことを目標にしていた。 それも、後五回、感慨も多い。 そこで、この文章を書くことに決めた。 ブログ版『柏崎通信』を止めた訳ではないのだが、読者諸賢が、もし、原稿あるいはそれ以前の覚書程度だが、稚拙なるML版『柏崎通信』をお望みであれば、限定して配信することも可ではないかと。 『柏崎通信』は、FreeMLによる非公開のMLで、メンバーが、現在、約70名。 メンバーの年齢も様々、職種も然り、また、外国のメンバーもいる。 加入後、マイページを作れば過去の記事の閲覧も可能。 ブログに掲載するまでの取材・調査も、誤字脱字・誤解釈を含め、その経過をご理解して頂けるかもしれない。 一世紀、あるいは三世代は前のこととはいえ、公開を憚ることもある。 しかし、今という時代を考える場合、江戸末期から明治・大正・昭和初期は、避けては通れないいというのが、我視点である。 この五月で65歳になる。 今は平常とはいえ、大病も患い、ブログとはいえ公開する責任に少々疲れも感じる最近。 敢えて、斯くの如きお知らせを書く次第である。 ご理解頂ければ、幸い。 今後とも、ご指導とご鞭撻をお願いし、且つ、拙文・浅学のこと、ご容赦の程を。
Best regards 最近、アーネスト・サトウの『日本旅行日記』を入手した。 収録されている記録は、必ずしも年代順ではない。 そこで、先ず、新潟に係わる章から読み始める。 それにしても、驚くのは、サトウの観察眼と勤勉さ(こまめさ)である。 当時、在留外国人の間で流行した植物の観察がある。 また、後に刊行される『中部・北部日本旅行案内』あるいは『明治日本旅行案内』を意識していたのか、旅程の詳細、茶屋・宿所、あるいはその主人・雇い人の評価の記録も、実に面白いものである。 さて、新潟に旅行に関しては、『日本旅行日記』の第一巻第四章「赤岳登山から新潟開港場へ」明治十三年(1880年)が、それに当る。 そこで先ず、この旅程の内新潟について紹介しよう。 東京の自宅を立ったのが、5月24日、新潟県の赤倉温泉に宿泊するのが、6月3日である。 6月3日: 赤倉温泉、村越屋に泊まる。 村越屋は、現在の赤倉ホテルである。 6月4日: 赤倉山-関山-新井(奈良屋に宿泊) 現在の妙高市(旧新井市)に、奈良屋について問い合わせたところ、明治前後の新井宿の古地図に「奈良屋」があったそうだ。 現在の妙高市中町の交差点にある第八十二銀行新井支店北側で、現在は駐車場になっている所に「奈良屋」が在ったそうである。 この道(県道63号線)は、すなわち「北国街道」に当り、中町交差点から高田方面に約200m北上すると、東本願寺新井別院がある。 因みに、「奈良屋」は、旧新井宿の庄屋の分家だったそうだ。 サトウの「奈良屋」に対する評価は好い。 「奈良屋」に関する感想は、「宿の人々は礼儀正しい」という評価である。 6月4日、サトウは、妙高山に登るのだが、道に迷い、予定を大きく狂わせ、午後四時過ぎに食事をしている。 「夕食にありついたのは九時になってからだ」と云うから、四時の食事というのは、遅い昼食と云うことなのだろう。 そこから関山まで歩き、さすがに疲れたのか、関山からは人力車で移送している。 この間、未だ明るい時期だだから、「辺りでは百姓たちが田植えを始めたばかりである」と、関東から信濃路と辿ってきた気候の違いを感じたのではあるまいか。 ところで、妙高山では道に迷った彼ではあったが、植物の観察だけは忘れていない。 新しい発見に喜んでいる気配さえ感じられる。 また、「男女とも体を冷やさないように背中に綿入れという綿入れを羽織ているが、実際には、ここでは必要ないだろう。 何しろここの気温は高いのだ」と書いているところから、戸隠から妙高への山岳地帯の気温が余程低かったのだろう、それを踏破した安心感も加わった感想ではないだろうか。 余談だが、今回の問合せで、アーネスト・サトウが、余りにも知られていない事が残念に思われた。 今回は紹介しないが、戸隠・妙高を踏破した外国人は、アーネスト・サトウが初めてではないかと思うのだが。
6月5日: 今町-鉢崎-鯨波-柏崎(三須屋に宿泊) 調べてみたが、三須屋の記録は見当たらない。 この旅程は、今町(現・上越市直江津)から鉢崎までは徒歩(8里7町、約33km)、鉢崎から鯨波まで乗船(2里19町、約10km)、鯨波から柏崎まで乗り物(籠か人力車か未記載、3里29町、約15km)だったようだ。 旧国道八号線(現在の8号線は架橋・バイパスなどで大分異なる)とほぼ同じ道筋だったと思われる。 三須屋に宿泊中ち思われるが、女性が中国のグラスクロスと絹縮緬を売りに来たとある。 それぞれ一反を買い、価格は両方で7円だったそうだ。 柏崎は「越後の縮緬問屋」として有名だから絹縮緬(透綾)を買ったのは判るのだが、グラスクロス(ガラス繊維で織った布で、耐熱性に優れている)を買った理由が良く解らない。 季節は初夏であり、日差しを避けるには早すぎるように思われるので、耐熱性の布を買ったのは、もしかすると、食料の保存の為だろうか。 また、女性が売りに来たというのも興味深い。 明治11年には、明治天皇が北陸行幸しており、柏崎は往復の行在所であった。 この時、戊辰戦争で官軍方に味方した星野籐兵衛の弟と子息が、旧交のあった侍従の近藤芳樹に戦後の窮状を訴えている。 復路、これが功を奏し、明治天皇から遺族に対し下賜金千円と籐兵衛に対して従四位下が遺贈されている。 このことから推測すると、桑名藩に味方した町衆の多かった、特に柏崎の縮緬問屋には、英国の外交官であるサトウに対して、依然として遠慮があったのかもしれない。 因みに、友人であり同僚であったウィリアム・ウィリスは、戊辰戦争の時、柏崎の官軍病院で傷病兵の治療をしている。 また、彼の日記あるいは報告書では、柏崎の印象がよくない。 好印象を書き始めるの新発田藩以降のことで、敵味方の区別なく治療を行うのは、会津からのことだ。 (詳細は、以前に紹介しているので省略する。) (注)鯨波は、戊辰戦争の激戦地だった。 しかし後に長岡なども通るのだが、戊辰戦争に関する記載は全く無い。 余談だが、この時、サトウは37歳だった。
6月6日: 荒浜-椎谷-寺泊-弥彦 6時20分に出発。 荒浜(現・柏崎市荒浜)と椎谷(柏崎市椎谷、旧椎谷藩堀家一万石)の間で海水浴をし、「とても気持ちがよかった」と書いている。 前日の旅程が、余程きつかったのだろうか。 現在の国道352号線を出雲崎まで北上。 海水浴をしたと云うのは、この辺りに柏崎刈羽原子力発電所があり、宮川まで道は大きく内陸部に迂回しており、昔は砂丘だったと聞いているので、当時と大分様相が変わっているのが、現在の高浜海水浴場辺りだろうか。 現在の「良寛と夕日の丘公園」付近から、国道402号線を北上し、寺泊へ。 ここでも海水浴をしている。 現在、この辺りで海水浴場といえば、寺泊中央海水浴場がある。 サトウが、寺泊を通過した当時、「大河津分水」は、工事が中断された状態にあり、現在とは随分違った風景だった。 (注)着工1870年-1875年に中断-竣工1922年、大河津分水の工事が中断する原因は様々だが、ひとつに地元民への負担金(一石当り一両二分)の問題があった。 この時(明治三年)、寺泊で、次いで西蒲原郡一円で起こった騒動の仲裁役を、県から頼まれたのが、観音寺久左衛門(松宮勇次郎)だ。 しかし、会津の殿様に味方した罪人であり、殿様が謹慎中なのに、どうして引き受けることができようか」と、この申し出を断っている。 寺泊から弥彦まで、どうような道を通ったかは、書かれていないが、弥彦神社は、弥彦山の内陸側にあることから、現在の大河津分水の河口付近、寺泊小屋場辺りから内陸部に道を取り、国上山を迂回して、現在の「道の駅国上」辺りを経て、弥彦に到着したのではないだろうか。 この間、「海岸線はとても楽しかった。 果てしなく続く山とはまた違い、よい気分転換になった。」との感想を書いている。 確かに現在でも、この海岸線は、ドライブコースとしても最適で、特に、皐月の頃が快適である。 ただ、この日の記述は少ない。 ただ、8里32町(約35km)、歩いたとある。 しかし、「右足の親指のつめ根のふくらみに肉刺をこしらえ.....」、「人力車の車夫も同じ様な状態になった思うとやむを得ないと判断した。」と書いているところを見ると、海水浴がたたったのかも知れない。 そこで、寺泊から弥彦までが約11kmであるから、出雲崎と寺泊の途中から人力車に乗ったのではないかと思われる。 また、この旅の道中、しばしば人力車を雇っているが、自分は歩き、荷物を載せたこともあるので、柏崎出発時から人力車を雇っていたことも考えられる。 因みに、柏崎の中心部から弥彦神社までを推測するルートで測ると、約54kmある。 弥彦には、5時半に到着。 何処に宿泊したか書かれていない。 これまでの例からすると、本陣あるいは脇本陣を利用しているから、この日も、この何れかに泊まったことが推測される。 植物観察も忘れていない。 「道中は極めて楽で、峠で二重のウツギを発見した。」と嬉しそうな気配である。 この「ウツギ(卯の花)」は、同じユキノシタ科ウツギ属でも、開花の時期、写真などから、「ヒメウツギ」ではないかと思われる。 しかし、それにしてもサトウの健脚ぶりには驚いてしまう。 肉刺のことは『日本旅行日記』を通じて、よく出てくるが、ほとんど気にしていない風である。 草履もよく使用したようだが、この時は、何を履いていたのだろう。 自身の服装についても、余り記述が無いが、興味が湧く。
余談だが、恐らく同じ道筋を通ったと思われるウィリアム・ウィリスの日記や報告書の印象と随分異なるいることに興味が湧く。 勿論、ウィリスは、公式な任務として、この道を辿っているのだから、視点が異なるのも仕方が無い。 それに、戊辰戦争の後遺症とおよそ十年の歳月は、この地方の風景や状況を、また、サトウ自身の心象風景も変えただろう。 ただ、概して、ウィリスの文章と、サトウのそれとでは、明るさが違うように思える。 一つには、生まれ育った環境の違いがあるだろう。 また、年齢の差も影響しているのかもしれない。 いずれにしても、当時の模様を知るには、外国人の日本観を比較することが有効に思える。
6月7日: 赤塚-内野-新潟 天気が悪かったようだ。 弥彦から赤塚(現・新潟市西区赤塚)まで、人力車を利用している。 この間、北国街道(現在の県道2号線か)、地図によれば、約18kmの道のりである。 「道は粘土質で湿っている」と書いている。 前編を通じて道路の状態に関する記述が多いが、これは、その地方の状況を知る指標と考えたからではあるまいか。 江戸時代、街道の状態は、その藩の治世・財政状況を表したと云う。 その為、各藩は街道の整備には気を配った。 サトウは、当然、そのことを知っていたと思われるが、寧ろ、この日記は、後の『旅行案内』の為のメモ的な意味で、交通の便も書いたのかもしれない。 (注)明治9年(1876)に内務省は、全国の道路を国道・県道・里道に分類し、且つ、国道を一等(幅員12.9m、7間)、二等(幅員10.8m)、三等(幅員9.0m)に分類した。 しかし、当時は鉄道優先で、国道政策は財政的にも破綻していた。 (注)江戸時代の街道: 五街道は幅員5間(11m)、脇街道は幅員3間(5.5m)で、路面には、砂利や小石を約一寸(3.3cm)くらいの厚さに敷いて、踏み固め、その上に、砂を撒いていたようだ。 杉・松・桜などの並木も整備されていた。 赤塚から内野までは歩いている。 約8㎞。 ここでも道路の状態を書いている。 「道路は状態は良いが砂質である」と。 海岸が近くなるので、海砂が積もっていたのかもしれない。 いずれにしても、弥彦から新潟までの記述は、道路状態に関するものの外、殆ど書かれていない。 平坦な新潟平野には見るべきものがなかったのだろうか。 新潟には、午後の二時頃に着いている。 宿泊は、「ミオラ(Miola)ホテル」、現在のイタリア軒である。 「主人は礼儀正しく世話好きな人で、設備は粗末であるが、日本の宿よりはよい」と書いている。 (注)ホテル・イタリア軒の前身である「ミオラ・ホテル」は、明治7年(1874)に来日したフランスの曲馬団のコックだった、イタリア人ピエトロ・ミリオーレが、新潟興行中に病で倒れ取り残された為、当時の県令・楠本・正隆が、これを憐れみ、資金援助して牛肉販売店を開業させたことに始まる。 因みに、ホテル名「ミオラ」は、ミリオーレを新潟人が「ミオラ」と呼んだことに由来する。 ここ新潟で、サトウは風邪を引いたようだが、人力車の車軸が折れるほどの風雨を押して、宣教師のファイソン夫妻を訪問している。 「ファイソンは豊かな髭をたくわえた宣教師で、夫人は青白い顔をした面白い人で、二人には四人の子供がいる」とある。 そこに、医療宣教師のセオパルド・パーム博士が訪ねて来て、団欒に加わったようだ。 この旅では、必要に応じて人夫を雇っているが、従者は井上喜久三郎を伴っただけだったので、よほど人恋しかったのかもしれない。 また、新潟開港以前に、公使・パークスと下見に来ているので、新潟の変化に大いに関心があったのかもしれない。 (注)ファイソン(Philip Kemball Fyson)は、1874年生まれの英国人宣教師で、1874年(明治7年)に新潟に赴任し、約7年間にわたり伝道に従事した。 1896年(明治29年)には、長年にわたる伝道と聖書翻訳に功績があったとして主教に任じられた。 1908年(明治41年)帰国。 (注)パーム(Theobald Adrian Palm)は、1848年生まれの英国人で、1874年(明治7年)医療宣教師として来日。 新潟でパーム病院を開設した。 新潟地方の風土病といわれたツツガムシ病を初めてヨーロッパに報告したことで知られている。 1884年(明治17年)帰国。
今回は、新潟までの旅を紹介した。 6月8日、一日新潟に滞在後、下記旅程で先に進むのだが、後半は次回で。 9日: 大野-白根-新飯塚 Best regards 梶谷恭巨
このところ、以前は資料として抜粋的に読んでいたカッテンディーケの『 |