柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 一木喜徳郎の父・岡田良太郎は、18391126日(天保101021日)、遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)の大庄屋に生まれた。 (一木喜徳郎は次男) 幕末、嘉永年間に、父・佐平治と共に二宮尊徳の門下に入り、後、明治8年(1875)に遠江報徳社を設立し、師・二宮尊徳の遺志を継いだ。

 詳細は、「ウィキペディア」辺りに任せることにして、横山健堂著『師範出身の異彩ある人物』に、多少の記載があったので紹介する。

 子息、岡田良平(長男)、一木喜徳郎(次男)は、共に神童と歌われたらしい。 先ずは、その部分を引用しよう。 「七 川村竹治、山屋他人、岡田良平、一木喜徳郎、澤柳政太郎」に記載がある。 ここでは、岡田・一木兄弟に関わる部分のみ引用する。 尚、ここに挙げた人物は、少壮にして才を表し、大成した人物として、横山健堂が揚げた人々である。

 文相たりし岡田良平、宮相の一木喜徳郎の兄弟ニ氏は揃って神童だったので、家庭教育はつねに慢心を起こしたり、凡化したりせぬようにと(平凡にならないように)、柁(かじ)をとられたのであったと、岡田先生が嘗(かっ)て筆者に語られた。筆者が山口高等学校を卒業するときの校長は、即ち岡田先生で先生は時に年三十歳であった。高等学校長として、これほど若い人は今までになかった。その頃は故澤柳政太郎博士の三十一歳、第二高等学校長であった、岡田、澤柳の両先生は近来の教育及び教育行政に厳然として頭角を抜いているが、夙成(しゅくせい、幼児から学業などが出来あがり、大人びること)大成ともに敬仰すべきものがある。近時、高等学校はその頃の四倍位の数になるが、却って校長の年齢は五十歳以上が多くなっている。すべての方面の人物が年齢が高くなっている。筆者は、人物は須(すべか)らく早く用うべしと確信するものである。但し山屋氏の十歳助教は格別だ。

(註1)横山健堂: 生田萬について紹介したことがあるが、その出典を書いたのが横山健堂で、当時、文筆家として有名であり、後に法政大学教授に就任した。 山口県出身。 羽石重雄(旧制柏崎中学第四代校長)の校長就任と杉捷夫(日本石油技師長)の日本石油勤続25年を祝し、柏崎に三者が集い、祝宴を上げた席で、「生田萬の乱」が話題に上り、横山健堂が、それを一文にまとめ、「大塩平八郎と生田萬」と題して、大正二年、『日本』という雑誌に掲載した。 私見だが、この一文の影響は大きく、生田萬が見直されるきっかけとなったと考えている。 尚、 先の三者は、共に山口高等学校、あるいは、その前身である同名の「山口高等学校」に、共に在籍したようである。 現在の山口大学に問い合わせとしたが、確認が取れなかったのだ。

(註2)澤柳政太郎: 1865年5月17日(慶応元年4月23日)、長野県松本市に生まれる。 大正デモクラシーの中心的人物。 文部官僚、政治家、教育者。 現在の成城学園の基礎を創った。 貴族院議員、京都帝国大学総長、文部大臣。 岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉は、東京府立第一中学の同級。

(註3)山屋他人: 1866年4月18日(慶応2年3月4日)、岩手県盛岡市の盛岡藩士・山屋勝寿の長男に生まれる。 海軍大将。 第11代連合艦隊司令長官。

(註4)川村竹治: 1871年9月1日(明治4年7月17日)、秋田県出身。 満鉄社長、司法大臣などを歴任。 夫人・文子は、目白の川村学園の創設者。

 本論に余り関係が無かったかもしれないが、一木喜徳郎が、後に(大正12年、1923年)、「教化団体連合会」の初代会長に就任する経緯との関係が予想される。 因みに、翌年6月7日、教化団体連合会主催の国民精神作興講演会が開催され、一木喜徳郎は、『思想選択の標準』という講演を行っている。 その速記録は、小冊子として、同年10月に出版され、現在、近代デジタルライブラリーに収録されている。 この小冊子については、その厳しい名前とは、異なるニュアンスを感じるので、機会があれば紹介する。 (二宮尊徳の報徳思想の影響を感じるのである。)

Best regards
梶谷恭巨  


 随分長い間、記事の掲載を行いませんでした。 これに付き、状況を説明します。

 現在、「忍者ブログ」を使用し、『柏崎通信』を掲載しています。 しかしながら、容量の関係で、記事の掲載が出来ない状況にあります。

 最近の記事で言えば、「天皇機関説」に関わった人物、一木喜徳郎及び美濃部達吉に関するものです。 一木喜徳郎に着いて言えば、先ず、国立公文書館から枢密院に提出された履歴書があります。 明治14年7月10日の東京大学予備門入学から昭和11年5月20日までの履歴書です。 この履歴書を基に、歴史的事件との関連について注釈を加えるものでしたが、各時代を分割して掲載しようとしましたが、矢張り、容量オーバーでアップロードできませんでした。

 この他にも、海軍伝習所のカッテンディーケに関する家系図と注釈などがあります。 これは、本人(Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke)から遡って、九代前のHugo Huyssens(1587年4月6日没)までを、(実際に家系に登場するのは、Adriaan Huyssens、生没年不詳)、追いかけたものです。 付け加えると、子孫と思われる人物が、現在、シンガポール在住の銀行家として活躍されているようです。 ただし、これについては未確認。

 以上のような経緯があり、現在、新たな記事を記載していません。 今後に着いては、検討中です。 ご容赦。

 尚、先のような記事に関心のある方は、コメント欄に、その旨記載していただければ、配信版『柏崎通信』に掲載した関連記事をお送りします。

Best regards
梶谷恭巨


 

 

 6月、問合せていた「澤吹忠平」に関する回答が、村上市生涯教育課の田辺さんと言う方から電話であった。

 ひとつ判ったことは、「澤吹忠平」が、村上藩内藤家の家臣であったことだ。 また、墓所の所在地も判明した。 村上市の光徳寺である。 そこで紹介して頂いたのが、菩提寺・光徳寺(藩主内藤家の菩提寺でもある)の住職・小林氏だ。 連絡をしてあるとこことで、早速、光徳寺に電話したが、住職不在とのことで、後日、改めて連絡することにした。 因みに、宗派は、浄土宗とのこと。

 また、光徳寺の奥さんと思われる人だったが、村上城跡保存育英会を紹介された。 そこで、こちらの方に電話してみる。

 そこで判ったのが、分限帳に確かに「澤吹忠平」の記載があるということと、澤吹家が、幕末、八石と合力金一両の家であったということだった。

 話が前後するが、田辺さんの調べによると、先の光徳寺の住職が大学時代、澤吹忠平の子息から英語を学んだということである。 この子息というのが、どなたか不明であるが、保存育英会のその後の連絡によると、昭和15年2月21日、子息・孝次氏から保存育英会に「澤吹忠平」の死去と住所の更新の連絡が記録されているということだった。 それによると、当時の子息の住所は、

 東京都中野区野方三丁目1532番地、ということだった。

 田辺さんから詳しいことは光徳寺の住職に聞いてもらいたいということだった。 住職によると、現在は、相模原の方にお住まいとか。 既にお孫さんの時代だそうだ。 お盆とか命日には、供養の依頼があるそうだが、村上に来られた記憶は無いのではないかということだった。

 取り敢えず、覚書として羅列したが、「澤吹忠平」の人物像が何かしら具体的になってきた。

 先ず、八石という石高から、澤吹家が下級武士の家であったことが窺える。 また、後に新潟学校に入学する経緯から、当時の村上藩の藩校「文武館」に通い、そこで相当の成績であったと思われるのだ。 しかも、前回紹介したように、教諭がほとんど高等師範あるいは高等女子師範の出身者である中、長岡女子師範学校の創立以来の教諭であったことを考えると、『理化学示教』を著したことからも推測できるように、理化学教育の分野では、一家言をなしていたことが、大きく評価されていたのではないだろうか。

 また、ご子息が、今のところ不詳だが、何れかの大学で教鞭をとっていたことからも、教育一家だったのではないかと思われるのだ。

 因みに、村上市では、「澤吹忠平」のことを初めて聞いたとのこと。 電話での雰囲気からすると、市の人物誌に採り上げてもらえそうだ。 もしそうであるなら、実に嬉しい事だ。

 これまで、近代中等教育に携わった何人かの校長を調べてきたが、どうも共通ではないかと思われるのが、藩の大小は別にしても、多くが下級武士出身者ということだ。 また、戊辰戦争の影響が大きかったことも窺える。 そして、これが意外に重要ではないかと思うのだが、校長・教諭といった上級教職員の移動範囲が、予想外に広いということだ。 これらのことが、近代現代における中等教育の基底にあったことが、以後の歴史に大きな影響を及ぼしたのではないだろうか。

 尚、その後の取材で、「新潟学校」の卒業生が17名であったことがわかった。 その中に、「澤吹」の名前はなかった。 しかし、長岡女子師範学校の履歴には、「新潟学校」の卒業である。 17名中、該当するのは、「小林忠平」である。 問合せは出しているのだが、今のところ回答を得ていない。 もし、この「小林忠平」が、「澤吹忠平」であるならば、小林家から澤吹家に養子として入ったことになる。 前回から二ヶ月も経ってしまったのは、こうした事情があった。 詳細が、判明したら改めて、その辺りの事情を紹介したい。

 また、「新潟学校」についても、紹介したいのだが、これに関しては、上越教育大学名誉教授・石田文彦先生と当時大学院生であった小島浩治氏の論文『明治初期中等教育の萌芽(1)-新潟学校百工化学科の創設』、および『明治初期中等工業教育の萌芽(2)-新潟学校百工化学科の挫折』があることを案内したい。

Best regards
梶谷恭巨

 

 

 先週、柏崎常盤高校の副校長から、「澤吹忠平」に関する回答、6ページに亘るFAXを頂いた。 感謝。 出典は、『柏崎常盤高校六十年史』とのこと。 これで、澤吹忠平先生の人となりが判って来たが、その前に、更なる事実が判明したので、それの経緯を紹介する。

 先ず、長岡市立中央図書館への問合せから、澤吹先生が、長岡高等女学校の創立時に、嘱託として勤めて居られたことが判った。 その初代の校長を萩原此吉という。 前任が、長岡女子師範学校であった。 感謝。

 当時の校長は大きな権限、特に人事権を持っていたようで他の例からみても、校長が澤吹忠平を招聘した事は間違いないだろう。 そこで、女子師範学校について、改めて調べてみると、幸いに、『長岡女子師範学校一覧』(但し、大正7年のもの)と『創立四十周年記念誌』(新潟県長岡女子師範学校校友会・同窓会、昭和15年刊)が、「近代デジタルライブラリー」で見つかったのである。

 これにより、出身校が判った。 入学・卒業年月日は不明だが、「新潟学校百工化学科」を卒業している。 この学校は、明治9年(1876)に創立され、僅か四年後の明治12年(1880)に廃校になった。 明治9年、新潟県師範学校と県立新潟学校が併合し、新潟学校と改称し、百工化学、英語講習、英語、師範の4学科が設けられた。 澤吹忠平は、この四年間の何れかの年に百工化学科を卒業したと推測される。

 ところで、この新潟学校に関しては、上越教育大学の石田文彦氏及び同大学院の小島浩治氏が、『明治初期工業教育の萌芽(1):新潟学校百工化学科の創設』、『明治初期工業教育の萌芽(2):新潟学校百工化学科の挫折』という論文を『科学史研究』の第二期39号(2000年頃)に発表されている。 実に興味深い論文だ。 何とか入手したいと考えている。

 話を戻す。 残念だが、福岡県尋常中学までと、その後、大阪府立第二中学校までの経緯は、依然として不明である。 しかし、以下のことを確認した。

 澤吹忠平は、明治33年4月12日、長岡女子師範学校の創立と共に理化学教諭として着任、明治38年4月4日、柏崎高等女学校校長に転任、この間、長岡高等女学校の理化学嘱託教諭を兼務している。 柏崎高等女学校の在任期間が15年2ヶ月であるから、ほぼ20年の間、女子高中等教育、特に、理化学教育に尽力したといえるだろう。

 参考までに、長岡女子師範学校創立時の教師陣を紹介すると、下記の通りである。

◎校長 廣瀬吉弥 高等師範学校中学師範学科卒、  在任期間:明治33年2月~明治34年11月
      (免官)
○教諭 内田慶三 高等師範学校国語漢文専修科卒、      明治33年3月~明治43年 1月
      (転任)
○教諭 澤吹忠平 新潟学校百工化学科卒、                           明治33年4月~明治38年 4月
 兼舎監 (転任)
○教諭 萩原此吉 高等師範学校教育学科卒、                        明治33年3月~明治36年 3月
 兼主事 (転任)
○教諭 藤巻直治 東京美術学校卒、                                   明治33年9月~大正7年現在在籍
○教諭 秋月耕野 女子高等師範学校卒、                        明治33年3月~明治34年4月
 兼舎監 (転任)
○教諭 高山ヨシミ 女子高等師範学校卒、                            明治33年4月~明治36年 4月
 兼舎監 (休職)

 以上、7名が挙げられている。 この外、助教諭1名、嘱託訓導3名、訓導8名、書記1名であり、内訓導8名の全てが新潟県師範学校の卒業生である。 また、澤吹忠平と同じ、新潟学校卒業者は、嘱託訓導の近藤正武がいるが、『長岡女子師範学校一覧』の現旧職員録に記載がない。

 これからも判るように、澤吹忠平が、高等師範学校と同等あるいはそれ以上の評価を受けていることが推測される。 すなわち、『理化学示教』の著者として、一家を成していたことが窺えるのである。

 そこで、少々長くなるが、件の『理化学示教』の自序を上げておきたい。 当時に於ける理化学教育の状況の参考として。

「理化学示教」
自序
 著者久しく中学の教諭に承け理化の二学(物理と化学)を講ずる事、茲(ここ)に十年、具(つぶ)さに此学を教授するの難きを験せり。 蓋(けだ)し精巧なる器械、其(その)室に充ち、百千の薬物、其架上に列なるあるも、学期の時を限るあり、匆忙(そうぼう)の間、未だ其所期に達せずして止むの不幸に際会する事、其常なればなり。 況(いわ)んや百般の設備完(まった)からざるに於てをや。 而(しか)して著者が最も此の困難を感ぜしは、理化示教の一課なりしなり。 其時間を問えば僅々四十時間を出でざるに、二種の実験的学科に就きて、是らが概意を授けんとす。 其困難なる固(もと)より弁を俟(ま)たず。 此を以て出来得る限り時間を節約して、出来得る限り充分なる実験的授業をなさんと欲せば、何人も良教科書の助に頼るの外なきなり。

 著者の知る所を以てすれば、理化示教に関しては未だ一も適当なる教科書あることなし。 蓋し全く用書之なきにあらざるも、著者の感ずる所以てせば、其欠点頗(すこぶ)る多きに似たり。 故を以て著者は自ら量(はか)らず、筆を操て此一書を成すに至れり。 著者が此書を編するに当て企図せし所は、紙数を二百五十ページ以下と定むるの外

 (第一)記載の事項は実験を以て主となす事
 (第二)各章の連絡繁簡必ず其宜(よろしき)を得る事
 (第三)鮮明にして趣味ある用図を多くする事
 (第四)文辞の平易にして明確なる事
の数点に在りしが、自らを其局に当るに及んでは意の如くならざりしもの尠(すくな)しとせず、特に用図の期するが如くならざりしを憾(うら)みとす。 然りと雖(いえど)も之を既刊の書に比せば、尚、大に優るものあるを信ぜずんばあらず。

 理学士石川弥太郎君は大阪府第一尋常中学の教職にありて、多年研究せられたる此学教授の経験と淵博なる其学識とを以て、本書校閲の労を取られ、著者は同君の高見に依て益を得たる事、尠からず。 されば、著者は謹んで茲に同君の好意を謝せざるを得ず。

 今や印刷成る、乃(すなわ)ち一言を巻端に附して、之を公に、以て江湖の採択を俟つと云爾(いうのみ)。
   明治二十八年二月   著者識

 この時、33歳、著者・澤吹忠平の気概が如実に表れている文章である。

 今回、澤吹忠平の、理化学教育と女子中等教育という二つの面を持つことが判った。 自分としては、これは意外な展開である。 資料収集が何処まで出来るか、いずれにしても、興味ある人物である。

 
Best regards
梶谷恭巨  

 

 前回から判ったことは、意外な事実だった。 先ずは、その経緯から。

 澤吹忠平著『理化学示教』の必要な部分をダウンロードし(表紙、目次、奥付)、よく見ると、奥付の著者名に住所があった。 ところが、これが小さな字で、よく見えない。 先入観で、大阪の住所だと思っていたら、これが、どうも本籍であるらしのだ。 天眼鏡で見ると、何と新潟県ではないか。

 新潟県岩船郡村上本町百七十五番地

 何と新潟県人だったのだ。 この事からも、澤吹忠平が『理化学示教』の著者と柏崎高女の校長が同一人物である事は間違いあるまい。

 さて、昨日、柏崎市立図書館から回答があった。 これもまた驚きである。 以下の事が判った。

 明治38年(1905)4月8日、柏崎高等女学校第二代校長として、長岡高等女学校教諭から栄転。
 大正9年(1920)4月30日、15年2ヶ月の永きに亘り校長を務めた柏崎高女を退職。
 その後、新潟県の社会主事を務め、
 昭和15年(1940)2月23日、柏崎市四谷三丁目の自宅で没した。 享年78歳。
  この死亡記事は、『柏崎日報』に掲載されたそうだ。

 以上の事から、澤吹忠平は、文久2年(1862)生まれということが判る。 羽石重雄の9歳年長ということになる。 大阪府立二中に、羽石重雄が赴任した時期(明治31年、1898)が重なる可能性も十分に考えられるのだ。 また、羽石重雄が、柏崎中学第四代校長として着任するのが、大正4年(1915)であるから、この時期も重なるのである。

 もし、大阪府立二中で同僚であった時期があるとすれば、柏崎で旧交を温めたであろう事も想像に難くない。

 さて、問題なのは、出身地・村上から長岡高女までの経緯である。 村上に生まれた澤吹忠平は、何処で中等教育を受けたのであろう。 先ず、考えられるのは、新発田中学ではないかと考えた。 幸い「近代デジタルライブラリー」に、珍しく「中学校一覧」が収録されていた。  これは発見である。

 しかし、新発田中学の第一回卒業生は、明治33年だった。 ただ、この資料から今まで未調査だった柏崎中学の校長のことが判明した。

 柏崎中学初代校長・渡辺文敏は、
   新発田中学第五代校長(明治41年~同43年)、山形県士族

 同   第二代校長・高宮乾一は、
  新発田中学第四代校長(明治37年~同41年)、京都府平民

 とある。
 (尚、士族云々を記載するのは、調査の時に重要なヒントになる為。)

 そうなると、足で稼ぐというか、それぞれの学校を遡って調べなければならない。 問合せも、メールで出来るところはよいのだが、どういう訳か、問合せにメールを使っている学校が意外に少ないのである。

 まあ、それは措くとしよう。 しかし、どういう経緯で、澤吹忠平は、福岡県尋常中学(修猷館?)の教諭になったのであろうか。 また、どこで理化学を学んだのであろう。

 『理化学示教』を著したとき、彼は働き盛りの33歳である。 しかし、理学士・石川弥太郎に校閲を依頼しなければならなかった。 すなわち、大学(当時は、東京帝国大学のみ)を卒業していない。 これは、大きな意味を持つ。 勿論、その後のキャリアにも影響するだろう。

 因みに、「近代デジタルライヴラリー」で「明治」と「理化学」をクロス検索すると、21件のヒットしかないのである。 しかも、「理化学示教」に絞り込むと、ヒットは5件、その最も古いのが、澤吹忠平著の『理化学示教』なのである。 前回紹介した「いるか書房別館」の調べによると、明治33年までに出版された「理化学示教」と題した教科書は、22冊であり、最古のものは明治25年のもので、澤吹忠平著は、二番目に古いのだそうだ。 この事実だけでも、澤吹忠平の人物像に興味が湧く。 人生の終の棲家が柏崎市四谷三丁目であったことも。

 次回は、『理化学示教』の自序を紹介しようと考えている。
 
Best regards
梶谷恭巨



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