柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
前回に引き続き、法科大学編入時及び在学中の教師を紹介する。 ○英吉利法律 助教授、法学士 土方寧: 1859年1月10日(安政6年2月12日)、土佐国佐川の山内家家老深尾氏(一万石)の家臣・土方直行(佐平)の長男として生まれる。 幼少時は、郷校・名教館に学び、東京大学法学部を卒業、英国に留学して、法廷弁護士(バリスター)の資格を取り、東京大学が帝大に改変された年、法科大学助教授、その後、法科大学長になる。 この時、総長だったのが、山川健次郎なのだから、会津と土佐、奇縁を感じる。 因みに、父親の直行は、佐川の同士11名と、武市瑞山の土佐勤皇党に参加、吉田東洋の暗殺事件に関わったか否かは不明だが、東洋暗殺後、蟄居させられていた佐川・深尾家の重先(鼎)が赦免、重先に従い各地の勤皇と交流した。 直行は、晩年、四条畷神社宮司、明治41年に退官、対象1年没、享年91歳だった。 子息・寧は、その後、位階を上り、大正14年には、「正三位」、これも因縁なのだろうが、時の文部大臣は、一木喜徳郎の兄・岡田良平だった。 大正7年、東京帝国大学名誉教授、同11年、貴族院議員に勅撰される。 また、明治18年開校の中央大学の前身である英吉利法律学校の創始者の一人である。 昭和14年5月18日、日中戦争の慰問の途上、乗船にて病没、享年81歳だった。 女優・小沢真珠(まじゅ)は、玄孫である。 ところで、高知県の佐川には個人的な思い出がある。 佐川には、山内一豊以来の銘酒「司牡丹」がある。 社会調査時代、上司に連れられて有楽町の「よさこい」という十人も入れば満席になる居酒屋があった。 女将一人が切り盛りする、その居酒屋でる酒が「司牡丹」だった。 口当たりの好い呑み易い酒だ。 しかし、この店にはルールがあって、平膳にままごとの器のような趣味のよい小皿や鉢に、一口程度のつまみや惣菜が出される。 その酒の肴が一巡すると、打ち止めなのだ。 客は皆顔見知り、「梶君、今日はこれで終わり」と、話も尽きないのに、追い出されてしまう。 暮になると、恒例で、佐川から「司牡丹」の新酒が届く。 何と言っても、圧巻なのは、新酒の鏡開きだ。 杉の香が店内に満ち、何とも云えない心地になる。 この「よさこい」の女将は、歌人としても有名で、婦人公論の選者でもあった。 気が向くと、歌を詠み、返歌を求められる。 拙歌、しこたま講評され、その上、秀作と駄作が店内に貼られ、しばらくは、皆から「イジメ」を受ける。 そんなこともあった所為か、佐川の司牡丹まで訪ねてしまった。 それだけではないのだが、四国を数回も廻ってしまった。 高知人は酒が強い。 「酒は飲むかね」と聞かれ、「少々」とでも言おうものなら、「ほう、二升はいけるか」と、大変な事になる。 高知では、夏祭りで、一升の早飲み大会がある。 大抵、女性が優勝する。 これが大変なのだ。 安芸市辺りを訪ねた頃、畑仕事の婦人に道を尋ねた。 暑い真夏の盛りである。 「学生さんかね」と問われ、「歴史を」というと、「それはご苦労さん。 この暑さじゃ喉も渇くだろう」と大薬缶から湯飲み茶碗にお茶を注がれた(と思った)。 ところがこれが酒なのである。 ご婦人が言われるには、高知では、「暑避酒」といって、畑仕事に出るときも、お茶ではなく冷酒なのだそうだ。 どうりで酒が強いはずだ。 嘘か本当か知らないが、高知の男は怠け者とか、きつい仕事は皆女にやらせる。 酒でも飲まなきゃ仕事にならん、と。 もう40年も昔の事だが、佐川という地名が出て、そんな事を思い出した。 余談。 Best regards 梶谷恭巨 前回に引き続き、法科大学編入時及び在学中の教師を紹介する。 ○理財学 文学士 和田垣謙三: 1860年8月30日(万延元年7月14日、但馬国豊岡(現、兵庫県豊岡市)に、豊岡藩(京極家)の札場奉行・産物奉行などを歴任した和田垣譲の次男として生まれた。幼少より読書を好み、初め藩校・稽古堂学頭の久保田精一に学び、廃藩置県後、一時期、地元の医師についてドイツ語を学んだ。その後、上京し、ドイツ語の習得に努めたが、東京外国語学校を経て、開成学校に入学、ドイツ語と鉱山学を専攻した。明治10年、開成学校と医学校が統合され東京大学にが創設されると、文学部第一科(史学哲学及び政治学科)に進学、周辺の薦めもあり、1880年、東京大学文学部を理財学・哲学専攻で、8名中首席で卒業、英国のロンドン大学、ケンブリッジ大学キングス・カレッジ(正式な入学ではなく聴講生であったようだ)で経済学を学んだが、納得がいかず、1883年、ドイツ・ベルリン大学に入学し、改めて経済学を専攻した。1884年(明治17年)、帰国、東京大学文学部第二科(政治学及び理財学)で理財学講師、翌年末、学部改変に伴い、法学部政治学科講師、明治19年(1886)帝国大学令により、法学部は法科大学となり、教授、明治31年、農科大学へ移った。経済学草創期の経済学者である。1919年(大正8年)7月19日、没。 和田垣謙三に関しては、三島憲之氏の論文『和田垣謙三と明治・大正期の経済学界』という労作がある。上記、略歴も、氏の論文を参照した。 興味深いのは、理財学(経済学)が、初め文学部の一学科であったことと、その最初の教師が、フェノロサであったことだ。 また、前回紹介した田尻稲次郎は、フェノロサと伴に、初期経済学の指導的教官であり、三島氏によると「フェノロサ=田尻時代」と称された。 和田垣帰国後、フェノロサは理財学担任を退き、田尻は理財学の講義を和田垣に譲り財政学を担当した。 三島氏によれば、それ以降を「田尻=和田垣時代」と云う。 尚、関心のある方は、三島氏の『和田垣謙三と明治・大正期の経済学界』が、PDFでダウンロード可能なので参照されたい。 Best regards 梶谷恭巨 前回に引き続き、法科大学編入時及び在学中のの教師を紹介する。 ○財政学 バツチェラル・オフ・アーツ(エール大学) 田尻稲次郎: 1850年8月6日(嘉永6年6月29日)、薩摩藩士・京都留守居役・田尻次兵衛の三男に生まれた。 初め藩の開成所英語科に学び、海軍軍人を目指したが、上京し、慶応義塾、開成所、海軍操練所を経て、法律を志し、大学南校に編入、1871年(明治4年)、刑部省から留学を命ぜられ、アメリカに留学、イェール大学に入学、文科を経て、大学院に進み、経済学・財政学を専攻した。 この間、第27代米国大統領になるタフトと親交を持った。 1879年、卒業、帰国後、福沢諭吉の推薦で大蔵省に入省、国債、銀行、主税局長、大蔵次官を務めた。 1901年(明治34年)、会計監査院院長(~1918年)、1918年(大正7年)、東京市長。 また、専修学校(現、専修大学)の創設に参加、帝国大学教授、1907年(明治40年)、子爵を叙爵。 1923年(大正12年)8月15日、没。 田尻稲次郎に関する資料が、イェール大学に残っていた。 1878年及び1905年撮影の写真である。 「Quarter century record of the class of 1878」、URLは、下記の通り。 http://digitalcollections.library.yale.edu/562/1780612.jpg また、1918年10月2日付けのメリーランド州ボルチモア、「Sun」紙に、イェール大学出身の東京市長という記事があった。 尚、イェール大学の一部資料には、名前「Inajiro」を「Inajireo」という記載があった。 ○国際法 ドクトル・オフ・シビルロー(エール大学) 鳩山和夫: 1856年5月6日(安政3年4月3日)、美作勝山藩(現、岡山県真庭市)江戸留守居役・鳩山十右衛門博房の四男として、江戸虎ノ門の勝山藩邸で生まれた。 1862年の文久の改革により、6歳の時、勝山に移住するが、5年後、江戸に戻り、1870年(明治3年)10月、大学南校に入学、1875年、卒業後、第一回留学生に選ばれ、コロンビア大学に入学、1877年5月、B.L.(法学士)を取得し、イェール大学に移り、1878年6月、M.L.(法修士)、1880年7月、D.C.L.(法学博士)を授与される。 同年8月、東京大学法学部講師、1881年12月、代言人(弁護士)試験に合格、1882年2月、東京府議会議員(トップ当選)、同年3月、代言人組合長、同7月、東京府議会郡部会議長、1884年(明治17年)、東京大学法学部講師に再任、1885年4月、外務省権大書記官、同5月、取調局長、1886年(明治19年)4月、帝国大学法科大学教授(兼務)、1890年7月、東京専門学校(現、早稲田大学、~1907年)校長、1894年3月、衆議院議員、1896年12月、衆議院議長、1991年(明治44年)10月3日、没。 いずれにしても、現在に続く華麗なる一族の始まりの人である。 資料も多いこと故、詳細を省く。 先回から、イェール大学に関係する三人の人物が登場した。 イェール大学関係資料は、意外に閲覧し易い状況にある。 いずれ、イェール大学を始めとする米国の大学留学経験者について、調べようと考えている。 この年、米国留学経験のあるのは、他に、ハーバード大学に留学した金子堅太郎がいる。 金子堅太郎については、福岡修猷館(羽石重雄の出身校)を取材した際、かなり資料を集めているので、機会を見て、併せ紹介したいと考えている。 次回、に続く。 Best regards 梶谷恭巨 前回に引き続き、法科大学編入当時の教授及び教員について紹介する。 ○フランス民法、治罪法担当(現在の刑事訴訟法と裁判所の構成などについて定めた法典) 評議官、図書館管理、教授 リサンシェー・アン・ドロアー(巴里大学) 木下広次: 1851年2月25日(嘉永4年1月25日)、肥後熊本藩儒・木下犀潭の四男に生まれる。 1870年(明治3年)3月11日、熊本藩貢進生として東大南校に入学、1872年、明法寮(後の司法省法学校)に転入、1875年8月、フランス留学、同11月、パリ法科大学入学、1879年11月、同校卒業、法学士受領、1882年3月、文部省御用掛、1883年5月、東京大学法学部教授、(1886年3月より、帝国大学法科大学教授)、1888年8月、第一高等中学校教頭(兼、法科大学教授)、1889年5月、法科大学教授(兼、第一高等中学校校長)、1891年8月、第一高等中学校長(兼、法科大学教授)、同年12月、貴族院議員(~1910年8月)、1893年6月、文部省専門学務局長、1897年6月、京都帝国大学総長(~1907年6月)、1910年8月22日、死去。 木下所蔵の文献資料は、京都大学に寄贈され、現在、「木下広次関係資料」として公開されている。 この項も、それを参照した。 ○フランス民法、刑法 ドクトル・アン・ドロアー(リヲン大学) 富井政章: 1858年10月16日(安政5年9月10日)、京都、聖護院の寺侍・富井政恒の長男に生まれる。 1874年(明治7年)、京都中学校、官立京都仏学校を経て、東京外国語学校仏語科に入学、1877年、フランスに私費留学、リヨン法科大学に入学、優秀さ成績で卒業、法学博士号を授与され、1883年、東京法学校(現、法政大学)講師、1885年、東京大学教授、1886年(明治19年)、学生改変により、帝国大学法科大学教授、1891年、貴族院勅撰議員、1892年、民法商法施行取調委員、1893年、法典調査会起草委員、1895年、帝国大学法科大学長、1900年、京都法政学校(現、立命館大学)初代校長(~1904年)、和仏法律学校(現、法政大学)校長(同年10月~1902年10月)、1905年、立命館大学初代学長(~1927年)、1906年、帝国学士院会員、1916年(大正5年)、宮内省御用掛、1917年、内大臣府御用掛、1918年、枢密顧問官、常設仲裁裁判所裁判官、1919年、勲一等瑞宝章、1926年(大正15年、この年12月25日に昭和に改元)、男爵に叙爵、1928年、民法改正調査委員長、1934年、日仏会館理事長、1935年9月14日、没す。 この項、「ウィキペヂア」参照。 ○英吉利法律 バチェラル・オフ・オース(エール大学) バチェラル・オフ・アルツ(コロンビア大学) チャーレス・ビゲロー・ストールス(Storrs, Charles Bigelaw): 1859年生まれの米国人教師。 在任期間は、1886年~1881年。 以上、竹内博氏のブログを参照。 尚、同氏には、『ガイドブック横浜外人墓地』、『日本洋学者人名事典』(柏書房)、『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ)などの著書がある。 ところで、この人物について更に調べてみると、コロンビア大学の『The Columbia Jurist』第二巻(1885-1886)122ページに記載があった。 余り長くないので原文を引用する。 Mr. Charles Bigelow Storrs, of Orange, N.J., has accepted the professonship of Law in the Imperial University of Japan, at Tokio. We congratulate Mr. Storrs upon the distinguished honor conferred upon him, which is somewhat remarkable for so young a man, but his talents and training undoubtedly qualify him to fulfil the duties of the poisition. Mr. Storrs is a graduate of Yale, and of the Columbia Law School, Class of '84. Japan is now modelling its system of juris-prudence upon a plan which will combines the best elements of the American and English systems, except in the real estate taransactions, where peculiar national customs stil prevail. The text-books used are the same asa are used by the best American Law schools, and students are required to take a four years' course in English before beginning the study of law, in which there is also a four years' course. Mr. Storrs will sail for Japan on the 14th inst. この文面からも判るように、Storrsは、ニュージャージ州オレンジ市の出身で、イェール大学とコロンビア法科大学を1884年に卒業したばかりの優秀な人物だったようだ。 最後に、本月14日に日本へ出発とあるが、書誌情報に『Columbia Jurist』の発刊日あるいは記事の日付がないので、何月なのか不明。 また、同窓会誌『Yale Banner』(エール大学校旗)に、二年生(ソフォーモア)の時、二階に亘り「コンポジション(作文)」で、一等賞(10ドル)を受けている。 体育の成績もよかったようで、フットボールのチームの82年のレギュラーに選ばれているようだ。 尚、当時の住所として、ニューヨーク市、チャペルストリート458が記載されていた。 調べてみると、米国のサイトで結構ヒットする。 若かったが、かなり有能な人物であった事がうかがえる。 残念なのは、日本の文献に登場しない事だ。 恐らく、若いということが原因であったのではないだろうか。 新たな記事が発見できれば、機会を見て紹介する。 以上、続きは次回に紹介する。 Best regards 梶谷恭巨 一木喜徳郎の学生時代、特に、明治19年、東京大学が、帝国大学に改変され、文科大学から法科大学政治学科に編入した頃について調べてみた。 以下は、『帝国大学一覧(明治19年~同20年)』による。 尚、青字の部分は、肩書きとして記載された字句で、原文のまま掲載した。 法科大学(第五章)職員: ◎法科大学学長(帝国大学総長兼務) ○法科大学教頭(ローマ法、法理学担当)
○フランス法律担当 ジョルジュ・アッペール(または、アペール、Georges Victor Appert): (1850-1934)、フランス人教師。 1879年(明治12年)、司法省法学校の講師として来日、1889年、帰国。 また、東京法学校(法政大学の前身)で、行政法、民法のほか、理財学を講義したとの記事がある。 ○国法学、統計学、行政学担当 尚、このカール・ラートゲンについては、出自、帰国後の経歴等、また、マックス・ヴェーバーとの関係など極めて関心のある人物なので、もう少し調べて、紹介したい。 調べていくと可也長くなりそうなので、次回に続きを書く。 Best
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1947/05/18
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